窓を開けたら

 土曜日の朝、とある別荘での話。
 私は葵。高校二年。自由がいちばん好きで、でも決めるときは妙に冷静だと自分でも思う。
 なのに――。


 昨夜、母から「祖母の別荘、窓を少し開けて換気してきて。管理人さんが風邪で来られないの」と頼まれて、同じクラスの亮太が「手伝うよ」と乗ってきた。


 今、私たちは別荘の客間にいる。暖房は点検のため電源が落ちていて、寒さが骨に刺さる。


 亮太はリュックからメモ帳を取り出し、テーブルに置いた。
「今日やること、五つ。終わったらご褒美。どう?」
「ご褒美って?」
「俺の持ってきた“あったかい系”を解放する」
「……あったかい系?」
 亮太は得意げに、保温ボトルと、携帯コンロ用の小さなガス缶、そして袋いっぱいのマシュマロを並べた。
「ホットココア、焼きマシュマロ、あったかいスープ。別荘ってさ、寒いのにテンション上がるんだよね」
「生活を楽しむ才能が、憎い」
「憎まれるほど伸びる才能」

「五つって具体的に」
「一、換気。二、雨漏りチェック。三、床の簡単な拭き掃除。四、電気と水道の確認。五、ゴミを持ち帰る」
「結構ある……」
「だからゲーム化。終わるたびに“あったかい系”を一つ開ける」
「……それなら、まあ」

 亮太は笑いながらカーテンへ向かった。そこで、動きが止まる。
「……ねえ、葵。これ、見て」
「なに」
「窓のとこ。影」

 障子の向こう、朝の光がうっすら差し込んでいる。
 その白い面に、黒い影が映っていた。
 腕みたいな形が、ゆっくり、ゆっくり揺れている。

 ……手を振る影。

「やだ、なにそれ」
 私は反射的に布団をつかみ直した。
「幽霊って、寒いところ好きなの?」
「好きっていうか……」
「亮太、怖がってる?」
「俺は怖がってない。怖がってないけど、すごく丁寧に距離を取ってるだけ」

 影は、まるでこちらに「おはよう」とでも言うみたいに、左右にふわりと揺れた。
 亮太の喉がごくりと鳴る。
「……手、振ってるよね」
「振ってる。優しい。逆に怖い」
「優しい幽霊、いる?」
「いるかもしれないけど、今はいなくていい!」

 私は深呼吸して、頭の中の“冷静な私”を引っ張り出す。
「原因を探す。影は光があるから映る。つまり、外に何かある」
「論理が強い。助かる」
「亮太、開けるよ。いきなり叫ばないで」
「叫ばない。うん。たぶん」

 障子をすっと開けると、冷気がどっと入ってきた。
 窓の外、デッキの手すりに何かが立っている。
 小さな木の板に、白い手袋が縫い付けられたような、不思議な飾り。

「……なに、あれ」
「手袋、風見みたいに揺れてる」
 亮太が近づいて、顔を近づける。
「これ、作り物だ。針金で固定してある」
「誰がこんなの」
「いや、これさ……」

 亮太はデッキの柱に括り付けられたタグを指さした。
 そこには丸い字で、こう書いてあった。

『かぜを いれたら てをふろう
 あおいへ ばあばより』

 胸の奥が、きゅっとなる。
 祖母――“ばあば”は、去年の春に亡くなった。私は葬式の日、泣けなかった。泣いたら、何かが決まってしまう気がして。
「……ばあば」
 声が小さく震えた。

 亮太がそっと私を見る。
「葵のおばあちゃん、こういうの作る人だったんだ」
「うん。変なもの、いっぱい作ってた。庭の木に小さい鈴つけたり、窓辺に紙で鳥を吊るしたり」
「別荘の守り神だね」
「守り神、手袋なの」
「手袋、万能。握手できるし、手を振れるし」

 私は笑いそうになって、笑えなくて、でも結局ちょっと笑ってしまった。
 涙が出そうな目をごまかすみたいに、私はタグを指でなぞった。
「換気したら手を振ろう、って……」
「ばあば、葵がここに来るの、わかってたのかな」
「……どうだろ」

 でも、わかってた気がした。
 私が決めきれないまま、いろんなことを先延ばしにする癖も。
 自分の“好き”を守るくせに、人の目を気にする弱さも。

 亮太が、窓を大きく開けた。
 風が部屋を抜ける。ほこりの匂いの奥から、木と日差しの匂いが戻ってくる。
「よし、一つ目、換気クリア。ご褒美、解放していい?」
「……待って。先に、手を振る」
 私はデッキに出て、手袋の飾りに向かって小さく手を振った。
 すると風で、手袋が同じように揺れた。
 手を振る影が、障子の上でまた踊る。

「影まで挨拶してる」
 亮太が言って、わざと大げさに手を振った。
 影も一緒に振れる。
 私は、今度はちゃんと笑った。

 それからは、亮太の“やること五つ”が案外サクサク進んだ。
 雨漏りはなし。床は雑巾がけをして、冷たい水で手が死にかけたけど、亮太が「はい、次のご褒美」とホットココアを出してくれた。
 ガスコンロで温めたココアは、甘くて、舌がほっとする。
「亮太、家でもこうやって生きてるの?」
「生きてる。というか、楽しんでる。面倒なことも、味付けで生きていけるタイプ」
「私、味付け下手かも」
「葵は、調味料使わない派だよね。素材で勝負、みたいな」
「なにそれ」
「褒め言葉。落ち着いて判断する人って、焦げても慌てない」

 床を拭き終えたころ、亮太が本棚から古いノートを見つけた。
 背表紙に『窓のノート』とある。
「これ、ばあばの?」
 開くと、文字と一緒に、雑な絵が並んでいた。窓、カーテン、手袋、そしてココアを飲む人。
 私は吹き出した。
「私、描かれてる……」
「かわいい。別荘の新しい住人」
「あはは」
 ページをめくると、最後の方に、少し丁寧な字があった。

『葵へ。
 布団から出たくない朝は、ある。
 それでも窓を開けたら、風が入って、心が少しだけ動く。
 自由は、逃げることじゃない。選ぶこと。
 選んだら、ちゃんと笑って、ちゃんと寝なさい。』

 私はノートを閉じた。
 胸の奥の固いものが、ほんの少しだけほどける。

「……私さ」
 言葉が勝手に出た。
「三年になったら、理系のコースに行けって母に言われてる。でも、写真が好き。美術の先生に、選択科目を増やしてみないかって言われて……」
 亮太は急かさない。ココアの湯気を見ながら、ただ聞いている。
「どっちも、間違えたくない。でも、どっちも選ぶのが怖い。自由が好きなのに、自由にすると、責任がくっついてくる」
「うん」
「……ばあばに、見透かされてた」

 亮太が、ぽつりと言った。
「俺はさ、将来、パン屋で働きたいんだ。派手じゃないけど、朝にいい匂いがする仕事。お客さんに『今日もいい日だ』って思ってもらえるやつ」
「亮太らしい」
「だから、葵が写真撮って、店の窓に飾ってよ。窓、好きでしょ」
 私は思わず笑って、目が熱くなった。
「勝手に人の将来に参加させないで」
「参加じゃないよ。お願い。葵の自由を、俺が勝手に応援してるだけ」
「……それ、ずるい」

 最後の“ゴミを持ち帰る”まで終わった頃、外はもう昼過ぎの光になっていた。
 私たちはデッキに出て、焼きマシュマロをかじった。表面だけ焦げて、中がとろりとしている。
「別荘、意外と好きかも」
 私が言うと、亮太が笑った。
「ココア星人、古巣を気に入った」
「古巣じゃない。居場所」

 帰り支度をして、玄関を出る前、私はもう一度寝室の窓を開けた。
 風が入る。
 手袋の飾りが揺れて、障子の上で影が手を振る。

「ばあば、行ってきます」
 私は小さく言って、手を振った。
 亮太も隣で、少し照れたみたいに手を振る。
 影が、二人分、揺れた。

 バス停までの雪道で、私はスマホを取り出し、母にメッセージを打った。
『理系コースの話、冬休みに相談したい。写真の授業も増やしたい』
 送信ボタンを押す指が、さっきより温かい。

「送った?」
 亮太が覗き込む。
「うん。窓、開けた」
「じゃあ、ご褒美もう一個。帰りのコンビニで肉まん」
「それ、最初に言ってよ。もっと早く動いたのに」
「人は肉まんで動く。学び」

 私は笑って、亮太の背中を軽く叩いた。
 夕日が雪に反射して、私たちの影が長く伸びる。
 その影が、歩きながら、ゆらりと手を振っているみたいに見えた。

 ――お布団から出たくない朝も、ある。
 でも、今日は出られた。
 手を振る影が、ちゃんと見送ってくれたから。