昼休み一分、マイクの向こうで

 昼休み。高校二年の廊下は、パンの匂いと走る足音と恋バナの声で渋滞する。
 俺——暖人(はると)は渋滞が嫌いだ。歩数が増える。時間が溶ける。合理性がない。
 だから今日も、購買の列は眺めるだけ。俺の昼食は家から持参の、おにぎり二個と味噌汁の粉末。揺るぎない。

「……暖人くん、今日も同じ」

 背中から、小さな声がした。
 振り向くと、美優(みゆ)が、いつもの位置——俺の斜め後ろ、一歩離れたところに立っている。教室の空気に溶け込みたい人の立ち方だ。

「同じが最適解だろ。味も量も把握済み。失敗しない」
「失敗……」

 美優の肩が、きゅっと縮む。そこに触れた瞬間、俺は昨日の担任の宣告を思い出した。

『昼休み放送、二年二組から一分コーナーを出すぞ。担当は——暖人と美優で』

 教室が「えー」と騒いだあと、俺はすぐ頷いた。放送室で原稿を読めば終わる。簡単だ。そう判断した。
 だが、美優の顔だけは、青白くなった。

 胸に刻まれた忘れられない記憶——たぶん美優には、そういうのがある。
 知らないことを避ける、問題を避ける。避け方が、ただの面倒くさがりとは違う。身体が先に逃げる感じ。

「美優、原稿は作った。読むだけだ。大丈夫」
「……読む、だけ……」

 美優は「だけ」という言葉に、負けそうな顔をする。
 俺は鞄からA4を出した。フォントは大きめ、行間は広め、息継ぎの箇所にはスラッシュ。読み間違い防止のため、難しい漢字はひらがなにした。実用性は十分。

「ここ。最初の挨拶は短く。次、文化祭のクラス出し物の紹介。最後は『以上、二年二組でした』。一分に収まる」
「文化祭……」

 美優の目が、放送室の方角じゃなく過去を見た。俺は一歩、距離を詰めた。

「なにが怖い?」
「……人の前で、声が、出なくなるのが」

 やっぱりだ。俺の推測は当たってしまった。

「いつから?」
「中一の……合唱。伴奏の子が止まって、私も止まって。みんながこっちを見て……笑われたって、思って……」
 美優は胸の辺りを押さえた。「ここに、残ってる」

 合理的な対処法なら、練習回数を増やす、読み上げを録音して確認する、最悪は俺が読む——いくらでもある。
 でも、美優の手が胸を押さえた瞬間、俺の中で別の答えが鳴った。
 対処すべきは原稿じゃなくて——

「美優。昨日、担任に指名されたとき、俺すぐ頷いた」
「……うん」
「そのとき、お前の顔を見なかった。俺の過ちだ」
「え……」

 自分の過ちを認める。口にすると、胸の奥が少し軽くなる。
 美優の目が、瞬きで潤んだ。

「俺のせいで、余計に逃げたくなったなら、謝る。ごめん」
「……暖人くんが謝るの、ずるい」

 ずるい? 謝罪は必要条件だが、十分条件じゃないらしい。恋愛は仕様書がない。

「じゃあ、追加でやる。放送室で一回も練習しない。まず、教室で」
「教室……?」
「今。昼休み。聴衆は——俺だけ」

 美優は逃げ道を探すみたいに窓の外を見た。だが、昼休みの校庭は賑やかで、隠れ場所はない。俺は机を二つ動かし、簡易の「放送席」を作った。

「ここをマイクだと思って。ペンでいい」
「……ペンがマイク……」

 美優が小さく笑った。笑った。今のは確実に笑った。
 俺は心の中でチェックを入れる。笑い、発生。

「はい、リハーサル一回目。カウントする。三、二、一」
「えっ、待っ——」
「開始」

 美優は原稿を握りしめ、深呼吸する。俺は机の上にスマホを置き、ストップウォッチを起動した。時間管理は俺の担当だ。

「……えっと……お、お昼の放送、二年二組の……」
 声が震える。だが、出ている。

「いい。続けろ」
「……文化祭で、私たちは……『迷子にならないお化け屋敷』を……」
「そこで噛むな」
「噛んでないっ」

 美優が少し怒る。怒れるなら、心が動いている。逃げるだけじゃない。

「じゃあ言い直し。迷子にならない、を強調。だって矛盾してる。そこが笑いどころだ」
「笑いどころ……?」
「そう。お化け屋敷は普通、迷う。でも迷わない。導線が完璧。俺が設計した」
「暖人くんらしい……」

 美優がまた笑う。二回目。

 二回目の練習。美優は最初の挨拶を、少しだけ明るくした。三回目で、俺が指を立てて合図すると、噛まずに言えるようになった。
 四回目——そこで、教室の扉が勢いよく開いた。

「ちょ、なにこれ! 美優が放送の練習してる!」
「違っ、見ないで……!」

 美優が固まる。声が消える。目が、あの中一の頃みたいに遠くなる。

 やばい。ここで放置したら、昨日より悪化する。
 俺は立ち上がって扉の前に立った。

「見学は有料だ。パン一個」
「なにそれ」
「規則。教室内リハーサルへの無断侵入は、購買パンで罰金」
「どこに書いてあんの」
「今、俺が作った」

 女子が吹き出した。「うける。じゃあ明日メロンパン持ってくるわ」
「了解。帰れ」
「はーい」

 扉が閉まる。教室に静けさが戻る。
 美優はまだ硬いまま、原稿を胸に押し当てている。

「……ごめん。私、また……」
「違う。今の、俺の段取りが甘かった。扉に『練習中』札を付けるべきだった」
「……段取り……」

 美優が涙を落としそうな顔で笑った。泣き笑い。
 俺は少し焦った。こういう時の正解は、慰め? 励まし? それとも——いや、そこは早い。

「美優。さっき、固まったな。でも、止まらなかった」
「……ぁ。そうだね」
「うん。前は止まって終わったんだろ。今日は、止まったけど、戻れた。戻る手伝いを、俺がした。次は、お前自身で戻れるようにする」

 美優は目元を袖で拭いた。

「……暖人くんって、怖くない言い方、できるんだね」
「必要なら、できる。俺は実用性を重視する。人が壊れたら、予定が全部崩れる」
「それ、優しさを、合理化してるだけ……」

 その言い方は、ずるい。胸の奥が熱くなる。

「……なら、俺は、あるハイパープロデューサーの悩みを告白する」
「ハイパー……?」
「みんなが勝手にそう呼ぶだろ。『暖人に任せれば何とかなる』って」
「うん……言ってる」

 俺は原稿の余白を指でトントン叩いた。

「何とかするのは得意。でも、誰かが怖がってる理由が、数字じゃ出ない。そこが、俺の悩みだ」
「……」
「だから、今日は聞いた。合唱のこと。お前の胸に残ってること。……聞けてよかった」

 美優はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。

「……じゃあ、もう一回。今度は、私が『開始』って言う」
「よし」
「……三、二、一。開始」

 美優の声は、まだ震えている。でも、さっきより芯がある。

「こんにちは。お昼の放送、二年二組の美優です。私たちの文化祭の出し物は——迷子にならないお化け屋敷です。怖いのに、迷わない。だから、怖がりさんも来られます。……わ、私みたいな人も」

 最後の一言に、俺の胸が跳ねた。
 自分のことを、笑いにして、ちゃんと前に出した。

「……以上、二年二組でした」

 ストップウォッチを見る。五十七秒。完璧。

「合格」
「……ほんと?」
「本番も同じでいける。俺が横で合図する」
「……うん」

 そして本番。
 放送室のマイクは、ペンよりずっと冷たい。ガラス越しの廊下には、誰かの影が動く。
 美優の指先が小刻みに震えるのが、俺には見えた。

 俺は合図を出す指を少しだけ下げた。目立たないように。
 そして、口を動かして伝える。

(大丈夫。今は、俺だけに話せ)

 美優が息を吸う。
 赤いランプが点く。

『こんにちは。お昼の放送、二年二組の美優です——』

 声は、ちゃんとマイクに乗った。
 放送室の小さなスピーカーから、自分の声が返ってくる。怖いはずなのに、美優は止まらない。

 最後の「私みたいな人も」のところで、美優は一瞬、俺を見た。
 俺は頷いた。

『以上、二年二組でした』

 ランプが消える。俺は無意識に拍手しそうになって、慌てて拳を握った。放送室で拍手は迷惑だ。

「……終わった?」
「終わった。成功」
「……生きてる」
「うん。生きてる」

 美優は笑って、そして急に真面目な顔になった。

「暖人くん。さっきの合図……『俺だけに話せ』って、言った?」
「口パクだ。読唇できたのか」
「……できた。胸に、残った」

 胸に刻まれた忘れられない記憶。
 それが痛みだけじゃなくなる瞬間があるなら、今だ。

 教室へ戻る途中、美優が購買の前で立ち止まった。長い列を見て、いつもなら引き返すのに。

「……今日、知らないパン、買ってみたい」
「合理的じゃないぞ」
「うん。でも……今日だけは」

 俺は列の最後尾を確認した。残り時間は九分。計算上、間に合う可能性は五割。
 俺は頷いた。

「選ぶのは? 失敗しないやつにしろ」
「失敗してもいいやつ。……半分こ、してくれるなら」

 美優の頬が少し赤い。
 俺は咳払いで誤魔化した。

「……実用性はある。味のリスク分散」
「そういう言い方、やっぱりずるい」

 列に並ぶ。前の女子が振り向いて言った。

「ねー暖人。今日の放送、めっちゃよかった! 美優、声かわいかったよ!」
「……っ」

 美優が固まる。だが、今回は——

「……ありがとう」

 美優が言った。小さいけど、確かに。

 女子が目を丸くして、すぐ笑った。「やば、レア! じゃあ文化祭も行くわ!」

 美優は俺を見上げた。
 俺は親指を立てて合図した。

(戻れたな)

 美優は、こっそり親指を立て返した。

 ——俺の胸にも、今、忘れられない一分が刻まれた。