神系御曹司の初恋は難攻不落 〜「お前じゃない」と言われ続けて十余年〜

三浦半島の海岸線を、黒い高級スポーツカーが切り裂くように走り抜けていく。
陽光を弾く海面と、断続的に現れる断崖。白い飛沫が、風に砕けて舞い上がる。

助手席の優里は、シートベルトを両手で握りしめていた。
指先が白くなるほど力を込めているのに、心臓の鼓動は一向に収まらない。

隣の拓真から立ち上る空気が――
あまりにも張りつめていた。

「……課長」
優里は慎重に声をかける。
「もう、誰も追ってきませんから……少し、スピードを落としてください」

「……いや、まだだ」
拓真の視線は、バックミラーから一瞬も離れない。
「あの『敗北』男、目が笑っていなかった。執念深いタイプだ」

その予感は、的中していた。

バックミラーの遥か後方。
一台の実用的な国産セダンが、必死に距離を詰めてくる。
ハンドルを握る西園寺勝利の顔は、もはや穏やかさの欠片もなく、焦燥と執念に歪んでいた。

「……追ってきてる……」
優里の声が震える。

「チッ……」
拓真は低く舌打ちし、アクセルを踏み込む。



辿り着いたのは、断崖の上に佇む白亜のヴィラだった。
蒼い海と空を背景に、まるで現実から切り離されたような孤島。

「……ここが、研修場所……?」
優里は息を呑む。

「そうだ」
拓真は車を降り、周囲を一瞥する。
「この施設の……その、ホスピタリティを、庶務の視点から調査する」

言いながら、指先が微かに震えている。

ヴィラの扉が開くと、広々としたリビングが姿を現した。
床から天井まで続くガラス窓。その向こうには、どこまでも広がる青い海。

テーブルの上には、冷えた最高級シャンパンと、
――優里が幼い頃から好きだった、あのチョコレート。

「……課長」
優里は立ち止まった。
「これ……本当に、仕事なんですか?」

「し、仕事だ」
拓真は視線を逸らす。
「まずは、その……リラックスして、顧客の心理を――」

その瞬間。

――ピンポン、ピンポン、ピンポン!!

インターホンが、壊れそうな勢いで鳴り響いた。

「開けてください!! 桜田優里さん!! 西園寺です!!」
外から、切羽詰まった声。
「警察に通報しましたよ!!」

「……っ!」
拓真の顔が、見る見るうちに青ざめる。

窓の外。
門の前には、髪を振り乱した勝利が立っていた。
眼鏡は曇り、手には録画中のスマートフォン。

「片桐さん! これは拉致監禁です!」
勝利の声が、ヴィラに反響する。
「あなたのような特権階級の横暴、世間が許しません! 優里さん、今助けます!」

「誰が拉致だ!!」
拓真は叫び、咄嗟に優里の前へ立ちはだかった。

「……待ってください!」
優里が慌てて声を上げる。
「勝利さん、これは会社の仕事で……!」

だが、勝利は止まらない。

「優里さん、騙されないでください!」
鋭い声。
「彼の本性は、美優さんから聞いています! あなたを疎ましく思い、美優さんとの関係を邪魔されないように追い詰めている――違いますか!?」

その言葉に、優里の動きが止まった。

(……やっぱり)

胸が、冷たく沈む。

(勝利さんも、知ってる。
拓真さんが、私を嫌っていて……美優を愛していること)

部屋に、重たい沈黙が落ちた。

その沈黙の中で――
拓真は、勝利の言葉ではなく。

それを聞いた優里の瞳に、息を奪われていた。

諦めたようで、傷ついた色を帯びたその瞳。

「……違う」

拓真の声が、低く、震えた。

「違う……っ。そんな理由じゃない……!」

彼は振り返り、優里の肩を掴む。

「美優ちゃんのためなんて、一秒も思ったことはない!」
必死に。
「勝利、適当なことを言うな! 俺が……俺がどれだけ……!」

言葉が、詰まる。

喉まで込み上げた想いが、うまく形にならない。

「俺が……二十四年間も……」
声が掠れる。
「お前の後ろを、影みたいについて回って……どれだけ……」

「……え?」
優里の目が、見開かれる。
「ストーカー……?」

「違う!!」
拓真は叫んだ。
「ち、違わないけど違う!!」

――その時。

門を越えようとする勝利。
それを止める警備員。
そして、遠くから近づいてくるパトカーのサイレン。

蒼い海を背景に、ヴィラは完全な修羅場と化していった。

だが、その喧騒の中で。

拓真は、優里の手を、そっと握った。

震えながら、逃がさないように。

「……優里」
囁く声は、かすれている。
「頼むから……俺以外の男に、そんな顔を向けないでくれ」

その言葉が――
甘さと、痛みと、独占欲を孕んで、優里の胸に深く落ちていった。