神系御曹司の初恋は難攻不落 〜「お前じゃない」と言われ続けて十余年〜

日曜日、午前八時。

優里は「研修」にふさわしい、無難なパンツスーツ姿で駅前に立っていた。
手にはメモ帳と筆記用具。
何度も自分に言い聞かせる――これは仕事、あくまで仕事。

(研修よ。デートじゃない)

その時。

低く、重厚なエンジン音が、空気を切り裂くように響いた。

振り向いた瞬間、思わず息を呑む。

漆黒の高級スポーツカー。
艶やかなボディが朝日を反射し、あまりにも場違いな存在感を放っている。

運転席から降りてきたのは――
完璧に整えられた私服姿の拓真だった。

シンプルなのに、異様に映える。
まるで「神」が日曜の街に降臨したかのよう。

「遅いぞ、優里」
腕時計を一瞥し、涼しい顔で言う。
「五分前行動は社会人の基本だ」

(翻訳:おはよう。会えて嬉しい。今日をどれだけ楽しみにしてたと思ってる?)

「……まだ七時五十五分です」
優里は呆然と車を見上げる。
「それより、その車は……」

「社用車だ」
一拍も置かずに。
「今日は移動距離が長い。さっさと乗れ」

(※大嘘)

半ば押し切られる形で助手席に乗ると、
車内はシトラス系の香水の香りで満ちていた。

密閉された空間。
否応なく近づく距離。

「……研修場所は、どちらなんですか?」

「三浦半島の先端だ」
平然と。
「我が社と提携予定のオーシャンビュー・リゾート施設で市場調査を行う」

(※提携予定は一切ない)

拓真がアクセルを踏み込もうとした、その時。

「優里さーん!」

柔らかく、穏やかで――
だが、妙に耳に残る声。

窓の外を見ると、
カジュアルなジャケット姿の西園寺勝利が、花束を手に立っていた。

「勝利さん!?」
優里は思わず声を上げる。
「どうしてここに……今日はお断りしたはずじゃ……」

窓を開けると、勝利は困ったように微笑んだ。

「急な仕事だと聞いて。よほど大変なんだと思って」
花束を少し差し出す。
「せめて、これだけでも受け取ってほしくて」

そして、ちらりと拓真を見る。

「……ずいぶん羽振りのいい“運転手”さんですね。会社の方ですか?」

――ピシッ。

車内の空気が、凍りついた。

「……運転手?」

拓真のこめかみに、青筋が浮かぶ。

彼はゆっくりサングラスをずらし、
鋭い視線で勝利を見据えた。

「西園寺さん、でしたね」
低く、静かな声。
「桜田優里は、現在、会社の最重要任務に就いている」

「休日まで部下を拘束するのは、労基法違反では?」
勝利も一歩も引かない。
「彼女、嫌がっているように見えますが」

「……嫌がってる?」

拓真が勢いよく優里を振り返る。

「優里」
声が、ほんの少し揺れる。
「……俺との研修、嫌か?」

その目は、
**「嫌だと言われたら即死する男」**のそれだった。

「え、えっと……」
優里は言葉に詰まる。
「嫌というか……その……」

その一瞬の迷いを、勝利は見逃さなかった。

「大丈夫ですよ」
優しく微笑み、窓越しに優里の手に触れようとする。
「予定通り、美術館へ行きましょう。チケットも、もう用意しています」

――パチン。

何かが、拓真の中で弾けた。

次の瞬間。

拓真は優里の肩を引き寄せ、
勝利の手を遮るようにドアロックをかけた。

「悪いが」
低く、鋭く。
「彼女の“今日”を、貴様に渡すつもりは1ミリもない」

優里の耳元で、言い切る。

「――行くぞ、優里」

「えっ、ちょ、課長!?」

キィィィッ!!

タイヤが悲鳴を上げ、車は勢いよく発進した。

バックミラーの向こうで、
呆然と立ち尽くす勝利と、地面に落ちた花束が小さくなっていく。

「……課長! 危ないです!」
優里はシートを握りしめる。
「それに、あんな追い払うみたいなこと……失礼です!」

「うるさい!」
拓真はハンドルを握りしめる。
「アイツが悪い! お前に触ろうとしたのが悪い!」
必死に言い聞かせるように。
「これは……研修だ。研修なんだ!!」

(……危なかった)
(あと一秒遅ければ、俺は社会的に死んでいた)
(優里、頼む……俺以外の男に、あんな顔を向けるな……)

荒い呼吸。
微かに震える指。

それを横目で見ながら、優里の胸に、別の疑念が生まれる。

(……どうして、こんなに必死なの?)
(私が嫌いなら、こんな顔する必要ないのに……)

だが、彼女はそう結論づけてしまう。

(きっと、私をこき使うため。
 お見合いを壊してまで、苦しめたいのよ……)

目的地は、
海を臨む豪奢なプライベートヴィラ。

「市場調査」という名目の――
二人きりの密着フィールドワーク。

不器用すぎる初デート(仮)は、
こうして、逃げ場のない形で始まったのだった。