神系御曹司の初恋は難攻不落 〜「お前じゃない」と言われ続けて十余年〜

「……西園寺、勝利(さいおんじ・かつとし)?」

営業二課の課長室。
拓真はデスクに叩きつけられた一枚の身上書を睨みつけ、喉の奥を擦るような低い声を漏らした。

分厚いカーテン越しの夕暮れが、室内を鈍く染めている。
空調の微かな音だけが響く中、対面のソファでは、桜田商社の社長――優里と美優の父が、穏やかに湯気の立つ茶を啜っていた。

「ああ。西園寺銀行の次男坊だよ。堅実で、誠実でね」
社長はにこやかに続ける。
「派手さはないが、地味な優里にはちょうどいい。本人も――」

一拍置いて、何気ない調子で言った。

「ようやく“自分を見てくれる人が現れた”って、喜んでいてね」

(……喜んでいる?)

その一言で、拓真の内側が音を立てて崩れた。

脳裏に浮かぶのは、
白いドレスに身を包み、柔らかく微笑む優里。
見知らぬ男――西園寺勝利の腕に手を取られ、こちらを振り返ることもなく歩いていく幻影。

胸が、ぎり、と軋む。

「――認めません!!」

思考より先に、声が飛び出した。

「……え?」
社長が目を丸くする。

しまった、と思った時には遅かった。
拓真は慌てて咳払いをし、背筋を正す。
完璧な「仕事の顔」を貼り付けるように。

「し、失礼しました」
低く、抑えた声で。
「しかし現在、我が社は重要なプロジェクトの最中です。庶務係の桜田君が私生活で浮足立つことは、業務に支障を来す恐れがあります」

社長の顔色をうかがいながら、慎重に言葉を選ぶ。

「そのお見合い……少なくとも今は、保留にすべきかと」

「ははは」
社長は朗らかに笑った。
「拓真君は相変わらず真面目だね。だが、これは親心だよ」

そう言って立ち上がり、ドアへ向かう。

「では、私はこれで」

ドアが閉まった瞬間。

拓真は、糸が切れたように椅子へ沈み込んだ。

西園寺勝利。
二十七歳。銀行員。趣味は読書。

いかにも、優里が「安心できそう」と思いそうな男。
隣に立てば、彼女が遠慮がちに微笑み、肩を預ける姿が容易に想像できてしまう。

「……勝利だか何だか知らんが」
拓真は低く呟いた。
「その名前、全力で負けさせてやる……」


その日の夕方。

給湯室で泣き腫らした目を紗季に冷やされ、
どうにか“事務員・桜田優里”に戻った頃。

パソコンに、一通の社内メールが届いた。

――至急、残業の命。

「……え?」

思わず声が漏れる。

『営業2課の緊急案件につき、庶務係1名の応援が必要。
 桜田優里を指名する。
 本日18時、課長席に出頭せよ。』

「……また、私?」

二度見、三度見しても、内容は変わらない。

「優里、それ絶対ヤバいやつ」
隣から紗季が画面を覗き込み、眉をひそめた。
「今日の昼の流れで、それは完全に“個人的案件”でしょ」

「でも、業務命令だもの……」
優里は小さく息を吐く。
「きっと、昼の態度が気に食わなかったのよ。居残りで説教する気なんだわ」

「……鈍感」
紗季は頭を抱えた。
「もう、ここまで来ると才能よ」



十八時。

定時を過ぎたフロアは、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
間引かれた照明。
キーボードの音も、足音も、ほとんどない。

拓真のデスクへ向かうと、彼は不自然なほど背筋を伸ばし、モニターを睨んでいた。

「……桜田優里、参りました」

「……来たか。座れ」

目は合わない。
声も、硬い。

指示された椅子に腰を下ろした瞬間、
拓真はバサリと一枚の紙をデスクに置いた。

――見合い相手のプロフィール。

「……なぜ、これを?」

「聞きたいことがある」

拓真は、ゆっくり顔を上げた。
血走った瞳。
そこに、余裕は一切ない。

「お前、本気か?」
低く、荒い声。
「この……“敗北”みたいな名前の男と、会うつもりか」

「勝利さんです!」
思わず声を荒げる。
「そんな言い方、失礼です!」

優里は胸を押さえ、続けた。

「私には、これくらいの方がお似合いなんです。美優みたいに華やかな人は……課長のような、素敵な方と釣り合いますけど」

視線を伏せる。

「私は……」

「……黙れ」

「え……?」

一瞬で距離が詰まった。

身を乗り出した拓真の顔が、近すぎる。
怒りと、焦燥と、今にも壊れそうな切実さが混ざった表情。

「勝手に、自分を下げるな」
掠れた声で。
「お似合いだ? ふざけるな」

拳が、震える。

「いいか、優里。お前のお見合いは――俺が、全面的に関与する」

「……関与?」
「監視だ」

「監視!? どうして課長が!」

「上司としてだ」
即答。
「変な男に騙されないか、チェックする義務がある」

――本音。
他の男に渡すくらいなら、嫌われ役でも何でもやる。

拓真の瞳の奥で、
二十四年間押さえ込まれてきた感情が、
独占欲という名の炎になって、静かに、だが確実に燃え上がっていた。