営業フロアを飛び出した優里は、逃げ込むように給湯室のドアを押し開けた。
静かな空間に、ドアの閉まる音だけが小さく響く。
ステンレスのシンクに両手をつき、蛇口をひねると、冷たい水が勢いよく流れ落ちた。
その冷たさが指先を刺しても、胸の奥に広がる熱は、まるで引く気配がない。
「……っ」
喉の奥が、きゅっと詰まる。
「分かってたはずなのに……」
ぽつりと零れた声は、誰に聞かせるでもない独り言だった。
彼が美優を見る時の、あの表情。
無意識に口元が緩み、視線が柔らかくほどける、特別な眼差し。
そして――
『お前はもう戻っていい』
その一言。
まるで、
「君はここにいらない」
そう宣告されたようで。
二十四年間、何度も想像してきた光景だ。
自分は脇役で、妹がヒロイン。
そうやって、心に予防線を張って生きてきたはずなのに。
いざ現実を突きつけられると、
息の吸い方さえ分からなくなるほど、苦しい。
「優里!」
勢いよくドアが開き、紗季が飛び込んできた。
「ちょっと、どこまで一人で突っ走る気!?」
ドアを閉めると、彼女は優里の背中を見て、ふっと息を吐く。
震える肩。
水に濡れた指先。
紗季は何も言わず、隣に立って、そっと肩を叩いた。
「……泣かなくていいわよ」
低く、優しい声。
「あんな言葉しか選べない男、こっちから願い下げでしょ」
「……泣いてない」
優里は首を横に振った。
「ただ……自分が、あまりにも惨めで……」
紗季は即座に言い切った。
「惨めじゃない。全然」
少し強めに。
「あんたはね、ちゃんと大事にされる価値がある」
「でも……」
優里は濡れた手を拭きながら、力なく笑った。
「あんなふうに、美優を見るのよ。……あんな顔、私には一度も向けられたことない」
視線が、床に落ちる。
「私なんて、視界に入ってても……ただの背景でしょ」
「……はぁ」
紗季は天を仰いだ。
「あんたのその“妹コンプレックス・フィルター”、ほんと害悪」
そして、真剣な目で優里を見る。
「ねえ。あの男が、誰よりもあんたを目で追ってること、気づいてないのは――世界であんただけよ」
一方、営業二課・課長デスク。
拓真は、ペンを握ったまま、完全にフリーズしていた。
(……終わった)
頭の中で、優里の背中が何度も再生される。
震える声。
伏せられた瞳。
(今の……完全にトドメだ)
追いかけたい。
違う、と叫びたい。
「一番大事なのはお前だ」って、今すぐ伝えたい。
――なのに。
「拓真さーん?」
明るい声に、現実へ引き戻される。
目の前には、美優がにこにこと座っていた。
(……なんで、ここにいるんだよ……)
「聞いてます?」
「……あ、あぁ。どうした?」
「ねえ、もしかして」
少し首を傾げて、
「お姉ちゃんのお見合いの話、もう知ってます?」
「………………は?」
世界が、止まった。
「お父さんがね、取引先の銀行の御曹司がいい人だって」
美優は悪気なく続ける。
「お姉ちゃんも『私なんかには勿体ない話』って言いながら、前向きに考えようかなって」
――ドン。
胸の奥で、何かが崩れ落ちる音がした。
「……お見合い……?」
声が掠れる。
「優里が……?」
「はい。再来週の週末だって」
そして無邪気に、
「拓真さんも応援してあげてくださいね? お姉ちゃんが、早く幸せになれるように――」
ガタンッ!
拓真は、勢いよく立ち上がった。
「し、幸せ……?」
目が揺れる。
「……他の男と?」
「た、拓真さん……?」
美優が一歩引く。
拓真の顔から、理性が消えていた。
「無理だ」
低く、震える声。
「……絶対に、無理だ」
「え……?」
「優里が、他の男と笑うなんて」
拳が、きつく握られる。
「そんなの、俺が……」
震える手で、電話を掴む。
二十四年間。
胸の奥で守り続けてきた想いが、
今、限界を超えて暴れ出そうとしていた。
――もう、待っていられない。
ヘタレ御曹司の「純情」は、
ついに本気の溺愛へと変わろうとしていた。
静かな空間に、ドアの閉まる音だけが小さく響く。
ステンレスのシンクに両手をつき、蛇口をひねると、冷たい水が勢いよく流れ落ちた。
その冷たさが指先を刺しても、胸の奥に広がる熱は、まるで引く気配がない。
「……っ」
喉の奥が、きゅっと詰まる。
「分かってたはずなのに……」
ぽつりと零れた声は、誰に聞かせるでもない独り言だった。
彼が美優を見る時の、あの表情。
無意識に口元が緩み、視線が柔らかくほどける、特別な眼差し。
そして――
『お前はもう戻っていい』
その一言。
まるで、
「君はここにいらない」
そう宣告されたようで。
二十四年間、何度も想像してきた光景だ。
自分は脇役で、妹がヒロイン。
そうやって、心に予防線を張って生きてきたはずなのに。
いざ現実を突きつけられると、
息の吸い方さえ分からなくなるほど、苦しい。
「優里!」
勢いよくドアが開き、紗季が飛び込んできた。
「ちょっと、どこまで一人で突っ走る気!?」
ドアを閉めると、彼女は優里の背中を見て、ふっと息を吐く。
震える肩。
水に濡れた指先。
紗季は何も言わず、隣に立って、そっと肩を叩いた。
「……泣かなくていいわよ」
低く、優しい声。
「あんな言葉しか選べない男、こっちから願い下げでしょ」
「……泣いてない」
優里は首を横に振った。
「ただ……自分が、あまりにも惨めで……」
紗季は即座に言い切った。
「惨めじゃない。全然」
少し強めに。
「あんたはね、ちゃんと大事にされる価値がある」
「でも……」
優里は濡れた手を拭きながら、力なく笑った。
「あんなふうに、美優を見るのよ。……あんな顔、私には一度も向けられたことない」
視線が、床に落ちる。
「私なんて、視界に入ってても……ただの背景でしょ」
「……はぁ」
紗季は天を仰いだ。
「あんたのその“妹コンプレックス・フィルター”、ほんと害悪」
そして、真剣な目で優里を見る。
「ねえ。あの男が、誰よりもあんたを目で追ってること、気づいてないのは――世界であんただけよ」
一方、営業二課・課長デスク。
拓真は、ペンを握ったまま、完全にフリーズしていた。
(……終わった)
頭の中で、優里の背中が何度も再生される。
震える声。
伏せられた瞳。
(今の……完全にトドメだ)
追いかけたい。
違う、と叫びたい。
「一番大事なのはお前だ」って、今すぐ伝えたい。
――なのに。
「拓真さーん?」
明るい声に、現実へ引き戻される。
目の前には、美優がにこにこと座っていた。
(……なんで、ここにいるんだよ……)
「聞いてます?」
「……あ、あぁ。どうした?」
「ねえ、もしかして」
少し首を傾げて、
「お姉ちゃんのお見合いの話、もう知ってます?」
「………………は?」
世界が、止まった。
「お父さんがね、取引先の銀行の御曹司がいい人だって」
美優は悪気なく続ける。
「お姉ちゃんも『私なんかには勿体ない話』って言いながら、前向きに考えようかなって」
――ドン。
胸の奥で、何かが崩れ落ちる音がした。
「……お見合い……?」
声が掠れる。
「優里が……?」
「はい。再来週の週末だって」
そして無邪気に、
「拓真さんも応援してあげてくださいね? お姉ちゃんが、早く幸せになれるように――」
ガタンッ!
拓真は、勢いよく立ち上がった。
「し、幸せ……?」
目が揺れる。
「……他の男と?」
「た、拓真さん……?」
美優が一歩引く。
拓真の顔から、理性が消えていた。
「無理だ」
低く、震える声。
「……絶対に、無理だ」
「え……?」
「優里が、他の男と笑うなんて」
拳が、きつく握られる。
「そんなの、俺が……」
震える手で、電話を掴む。
二十四年間。
胸の奥で守り続けてきた想いが、
今、限界を超えて暴れ出そうとしていた。
――もう、待っていられない。
ヘタレ御曹司の「純情」は、
ついに本気の溺愛へと変わろうとしていた。

