神系御曹司の初恋は難攻不落 〜「お前じゃない」と言われ続けて十余年〜

営業フロアを飛び出した優里は、逃げ込むように給湯室のドアを押し開けた。

静かな空間に、ドアの閉まる音だけが小さく響く。
ステンレスのシンクに両手をつき、蛇口をひねると、冷たい水が勢いよく流れ落ちた。
その冷たさが指先を刺しても、胸の奥に広がる熱は、まるで引く気配がない。

「……っ」

喉の奥が、きゅっと詰まる。

「分かってたはずなのに……」

ぽつりと零れた声は、誰に聞かせるでもない独り言だった。

彼が美優を見る時の、あの表情。
無意識に口元が緩み、視線が柔らかくほどける、特別な眼差し。

そして――
『お前はもう戻っていい』

その一言。

まるで、
「君はここにいらない」
そう宣告されたようで。

二十四年間、何度も想像してきた光景だ。
自分は脇役で、妹がヒロイン。
そうやって、心に予防線を張って生きてきたはずなのに。

いざ現実を突きつけられると、
息の吸い方さえ分からなくなるほど、苦しい。

「優里!」

勢いよくドアが開き、紗季が飛び込んできた。

「ちょっと、どこまで一人で突っ走る気!?」

ドアを閉めると、彼女は優里の背中を見て、ふっと息を吐く。
震える肩。
水に濡れた指先。

紗季は何も言わず、隣に立って、そっと肩を叩いた。

「……泣かなくていいわよ」
低く、優しい声。
「あんな言葉しか選べない男、こっちから願い下げでしょ」

「……泣いてない」
優里は首を横に振った。
「ただ……自分が、あまりにも惨めで……」

紗季は即座に言い切った。

「惨めじゃない。全然」
少し強めに。
「あんたはね、ちゃんと大事にされる価値がある」

「でも……」
優里は濡れた手を拭きながら、力なく笑った。
「あんなふうに、美優を見るのよ。……あんな顔、私には一度も向けられたことない」

視線が、床に落ちる。

「私なんて、視界に入ってても……ただの背景でしょ」

「……はぁ」
紗季は天を仰いだ。
「あんたのその“妹コンプレックス・フィルター”、ほんと害悪」

そして、真剣な目で優里を見る。

「ねえ。あの男が、誰よりもあんたを目で追ってること、気づいてないのは――世界であんただけよ」



一方、営業二課・課長デスク。

拓真は、ペンを握ったまま、完全にフリーズしていた。

(……終わった)

頭の中で、優里の背中が何度も再生される。
震える声。
伏せられた瞳。

(今の……完全にトドメだ)

追いかけたい。
違う、と叫びたい。
「一番大事なのはお前だ」って、今すぐ伝えたい。

――なのに。

「拓真さーん?」

明るい声に、現実へ引き戻される。

目の前には、美優がにこにこと座っていた。

(……なんで、ここにいるんだよ……)

「聞いてます?」
「……あ、あぁ。どうした?」

「ねえ、もしかして」
少し首を傾げて、
「お姉ちゃんのお見合いの話、もう知ってます?」

「………………は?」

世界が、止まった。

「お父さんがね、取引先の銀行の御曹司がいい人だって」
美優は悪気なく続ける。
「お姉ちゃんも『私なんかには勿体ない話』って言いながら、前向きに考えようかなって」

――ドン。

胸の奥で、何かが崩れ落ちる音がした。

「……お見合い……?」
声が掠れる。
「優里が……?」

「はい。再来週の週末だって」
そして無邪気に、
「拓真さんも応援してあげてくださいね? お姉ちゃんが、早く幸せになれるように――」

ガタンッ!

拓真は、勢いよく立ち上がった。

「し、幸せ……?」
目が揺れる。
「……他の男と?」

「た、拓真さん……?」
美優が一歩引く。

拓真の顔から、理性が消えていた。

「無理だ」
低く、震える声。
「……絶対に、無理だ」

「え……?」
「優里が、他の男と笑うなんて」
拳が、きつく握られる。
「そんなの、俺が……」

震える手で、電話を掴む。

二十四年間。
胸の奥で守り続けてきた想いが、
今、限界を超えて暴れ出そうとしていた。

――もう、待っていられない。

ヘタレ御曹司の「純情」は、
ついに本気の溺愛へと変わろうとしていた。