桜田商社の広々としたエントランスに、午前十時を告げるチャイムが響いた。
優里は、その音に背中を押されるように、エレベーターホールへ向かう。
腕の中には、分厚いファイル。
表紙には無情にも記されている――
『営業戦略見直し資料』
(重い……物理的にも、精神的にも)
「……あ、優里! お疲れ!」
背後から明るい声が飛んできて、優里の肩がびくっと跳ねた。
振り返ると、そこにいたのは学生時代からの親友、中野紗季。
広報部所属。
トレンドど真ん中のオフィスカジュアルをさらりと着こなし、人生イージーモード代表みたいな女だ。
「紗季……おはよう」
「何その顔。完全に“お化け屋敷に入る五秒前”じゃない」
ちらっと優里の腕を見る。
「……はいはい、神様の使い走りね?」
「課長に十時までに届けろって言われちゃって。しかも“必ず私が”って……」
「うわ、ピンポイント指名。怖っ」
優里がファイルを抱え直すと、紗季は腕を組んでじっと睨んだ。
「ねえ優里。冷静に考えて」
「なに?」
「あんな超ハイスペ・神系イケメンが、庶務の個人を名指しで呼び出すって、どう考えても変じゃない?」
「変よ。私に直接文句言いたいだけ」
即答。
「性格悪いにも程があるわ」
「……そこまで来ると、あんたの恋愛アンテナ、撤去どころか焼却処分されてるわね」
紗季が額を押さえた、その瞬間。
「お姉ちゃーん! 見つけた!」
ロビーに、鈴を転がすような声が響いた。
一斉に集まる視線。
そこに立っていたのは、
パステルピンクのワンピースに身を包んだ、完璧な“ヒロイン”。
――桜田美優。
「美優!? どうしてここに……」
「お父さんに忘れ物届けに来たの!」
美優が駆け寄るたび、空気が一段明るくなる。
すれ違う男性社員が、分かりやすく振り返る。
「紗季さんもお久しぶりです!」
「相変わらず眩しいわね……目が潰れる」
美優はにこっと笑って、優里の腕のファイルを覗き込んだ。
「それ、拓真さんのところ?」
「え……うん」
「じゃあ、私も一緒に行っていい?」
「えっ。でも仕事中だし……」
「ちょっと顔出すだけ! この前、素敵なレストラン教えてもらったから、お礼言いたくて」
(……ああ、やっぱり)
優里の胸の奥が、きしりと音を立てた。
(私の知らないところで、ちゃんと“会話”してるんだ)
「……そうね」
優里は小さく笑った。
「美優が一緒なら、課長の機嫌もいいでしょうし。行きましょう」
その声は、自分でも驚くほど平坦だった。
紗季だけが、後ろで小さく舌打ちする。
「(拓真のバカ……地雷原でタップダンスしてんじゃないわよ……)」
三人――と、目に見えない不穏な空気を乗せて、エレベーターは最上階へ昇っていく。
営業部フロアは、戦場のような熱気に満ちていた。
だが、フロア奥――営業二課課長デスク周辺だけは、異様な緊張感が漂っている。
「失礼します、資料を――」
声をかけた瞬間。
拓真が、バッと顔を上げた。
「遅い。十時ちょうどだと言ったはずだ、優里」
「……申し訳ございません。エレベーターが混んでいて」
「言い訳は――」
そこまで言って、拓真の言葉が止まった。
優里の背後から、ひょいと顔が覗く。
「拓真さん! お仕事中にごめんなさい!」
「……美優ちゃん?」
眉間の皺が、秒で消える。
(……あ)
優里は視線を床に落とした。
(やっぱり。私の時と、顔が全然違う)
一方、拓真の脳内。
(なんで美優ちゃん!? なんで!?)
(今日は優里と二人きりで、資料の不備を口実に……いや違う、業務連絡を……!)
(ていうか、優里の顔、今までで一番暗くないか!? 俺!? 俺のせい!?)
「この前のお礼なんですけど――」
「あ、ああ……うん……それは……」
拓真は完全に挙動不審だった。
「……今は仕事中だ」
急に冷たい声。
「優里、その資料をそこに置け」
そして――
「美優ちゃんと話がある。お前は、もう戻っていい」
指まで差した。
(あっ)
遅かった。
優里の耳には、こう聞こえた。
――邪魔。消えろ。俺は美優と二人がいい。
「……かしこまりました」
声が、震えた。
優里は深く一礼すると、そのままフロアを駆け出した。
紗季が慌てて追いかける。
残されたのは、
困惑したままの美優と、
ペンを握ったまま石像のように固まる“神系イケメン”。
(……今の、ダメなやつだよな)
(というか、致命傷では……?)
拓真の中で、
好感度マイナス二千から、さらに深い奈落へ落ちる音が、はっきりと鳴っていた。
優里は、その音に背中を押されるように、エレベーターホールへ向かう。
腕の中には、分厚いファイル。
表紙には無情にも記されている――
『営業戦略見直し資料』
(重い……物理的にも、精神的にも)
「……あ、優里! お疲れ!」
背後から明るい声が飛んできて、優里の肩がびくっと跳ねた。
振り返ると、そこにいたのは学生時代からの親友、中野紗季。
広報部所属。
トレンドど真ん中のオフィスカジュアルをさらりと着こなし、人生イージーモード代表みたいな女だ。
「紗季……おはよう」
「何その顔。完全に“お化け屋敷に入る五秒前”じゃない」
ちらっと優里の腕を見る。
「……はいはい、神様の使い走りね?」
「課長に十時までに届けろって言われちゃって。しかも“必ず私が”って……」
「うわ、ピンポイント指名。怖っ」
優里がファイルを抱え直すと、紗季は腕を組んでじっと睨んだ。
「ねえ優里。冷静に考えて」
「なに?」
「あんな超ハイスペ・神系イケメンが、庶務の個人を名指しで呼び出すって、どう考えても変じゃない?」
「変よ。私に直接文句言いたいだけ」
即答。
「性格悪いにも程があるわ」
「……そこまで来ると、あんたの恋愛アンテナ、撤去どころか焼却処分されてるわね」
紗季が額を押さえた、その瞬間。
「お姉ちゃーん! 見つけた!」
ロビーに、鈴を転がすような声が響いた。
一斉に集まる視線。
そこに立っていたのは、
パステルピンクのワンピースに身を包んだ、完璧な“ヒロイン”。
――桜田美優。
「美優!? どうしてここに……」
「お父さんに忘れ物届けに来たの!」
美優が駆け寄るたび、空気が一段明るくなる。
すれ違う男性社員が、分かりやすく振り返る。
「紗季さんもお久しぶりです!」
「相変わらず眩しいわね……目が潰れる」
美優はにこっと笑って、優里の腕のファイルを覗き込んだ。
「それ、拓真さんのところ?」
「え……うん」
「じゃあ、私も一緒に行っていい?」
「えっ。でも仕事中だし……」
「ちょっと顔出すだけ! この前、素敵なレストラン教えてもらったから、お礼言いたくて」
(……ああ、やっぱり)
優里の胸の奥が、きしりと音を立てた。
(私の知らないところで、ちゃんと“会話”してるんだ)
「……そうね」
優里は小さく笑った。
「美優が一緒なら、課長の機嫌もいいでしょうし。行きましょう」
その声は、自分でも驚くほど平坦だった。
紗季だけが、後ろで小さく舌打ちする。
「(拓真のバカ……地雷原でタップダンスしてんじゃないわよ……)」
三人――と、目に見えない不穏な空気を乗せて、エレベーターは最上階へ昇っていく。
営業部フロアは、戦場のような熱気に満ちていた。
だが、フロア奥――営業二課課長デスク周辺だけは、異様な緊張感が漂っている。
「失礼します、資料を――」
声をかけた瞬間。
拓真が、バッと顔を上げた。
「遅い。十時ちょうどだと言ったはずだ、優里」
「……申し訳ございません。エレベーターが混んでいて」
「言い訳は――」
そこまで言って、拓真の言葉が止まった。
優里の背後から、ひょいと顔が覗く。
「拓真さん! お仕事中にごめんなさい!」
「……美優ちゃん?」
眉間の皺が、秒で消える。
(……あ)
優里は視線を床に落とした。
(やっぱり。私の時と、顔が全然違う)
一方、拓真の脳内。
(なんで美優ちゃん!? なんで!?)
(今日は優里と二人きりで、資料の不備を口実に……いや違う、業務連絡を……!)
(ていうか、優里の顔、今までで一番暗くないか!? 俺!? 俺のせい!?)
「この前のお礼なんですけど――」
「あ、ああ……うん……それは……」
拓真は完全に挙動不審だった。
「……今は仕事中だ」
急に冷たい声。
「優里、その資料をそこに置け」
そして――
「美優ちゃんと話がある。お前は、もう戻っていい」
指まで差した。
(あっ)
遅かった。
優里の耳には、こう聞こえた。
――邪魔。消えろ。俺は美優と二人がいい。
「……かしこまりました」
声が、震えた。
優里は深く一礼すると、そのままフロアを駆け出した。
紗季が慌てて追いかける。
残されたのは、
困惑したままの美優と、
ペンを握ったまま石像のように固まる“神系イケメン”。
(……今の、ダメなやつだよな)
(というか、致命傷では……?)
拓真の中で、
好感度マイナス二千から、さらに深い奈落へ落ちる音が、はっきりと鳴っていた。

