神系御曹司の初恋は難攻不落 〜「お前じゃない」と言われ続けて十余年〜

婚姻届を提出した、その夜。
広大な特別室の主寝室には、逃げ場のない沈黙が満ちていた。

キングサイズのベッドが一つ。
偽装結婚とはいえ、夫婦として同じ部屋で過ごすことは「契約」の一部だった。

「……お前は、ベッドを使え」

拓真は淡々とそう告げ、ベッドから最も遠いデスクへ向かう。

「俺は、そこで仕事をする」

背後で、優里がそっとシーツに潜り込む気配がした。
衣擦れの音。
そして、ふわりと漂う、彼女のシャンプーの香り。

それだけで、拓真の神経は悲鳴を上げる。

(――同じベッドに入ったら、もう理性がもたない。
 二十四年分の想いを、全部ぶつけてしまう。
 だから、ここで耐えるしかない……)

「……あの、課長。いえ……片桐さん」

毛布から、ほんの少しだけ顔を出した優里が、遠慮がちに声をかけた。

「そんなに無理をしなくても、大丈夫ですよ。
 美優の部屋に行っても……私は、その……」

言葉を選ぶように、一拍置く。

「『ダミー』ですから。
 寝ているフリ、しておきます」

拓真の指が、キーボードの上で止まった。

「……黙れ」

ぶっきらぼうな声。

「仕事に集中できない」

(――行くわけないだろ。
 お前と二人きりで、ようやく夫婦になれたこの夜に)

拓真は感情を押し殺すように、キーボードを強く叩き始めた。
だが、画面に並んでいるのは仕事のデータではない。

『優里 可愛い』
『優里 愛してる』
『触れたい』

自分でも嫌になるほど、幼稚で、切実な文字列だった。

深夜二時。

優里の規則正しい寝息が聞こえるたび、拓真の理性の壁が軋む。

(……ダメだ。
 座っているだけじゃ、気が狂う)

拓真は静かに立ち上がると、ジャケットを脱ぎ、ワイシャツ一枚で床に手をついた。

「……はっ、ふっ……」

低く、荒い呼吸。

「……はっ……」

静まり返った寝室に、床を打つ音が響く。

目を覚ました優里が見たのは、
月明かりの中、黙々と腕立て伏せを続ける夫の背中だった。

「……な、何をしてるんですか……?」

眠そうな声。

「……トレーニングだ」

拓真は息を整えながら答える。

「精神を鍛えるための……修行みたいなものだ」

(――体を酷使しないと、
 お前を抱きしめてしまいそうで……)

「……そうですか」

優里は、少しだけ唇を噛んだ。

「やっぱり……私と同じ部屋にいるの、苦痛なんですね」

その言葉に、拓真の動きが止まる。

「……」

優里は、毛布を胸元まで引き上げ、視線を伏せた。

(……そうよね)
(美優を愛している人にとって、愛していない女と一晩過ごすなんて)
(修行みたいなものよね)

毛布を頭まで被り、そっと背を向ける。

拓真は、床に額をついたまま、歯を食いしばった。

(――違う。
 逆だ。
 お前が大切すぎて、触れられないだけなんだ……)

翌朝。

寝不足で目の下に隈を作った拓真と、
泣き腫らした目の優里がリビングへ向かうと、
そこにはエプロン姿の美優が待っていた。

「おっはよー、新婚さん!」

明るい声。

「あれ? 二人とも、元気ないね?
 もしかして……ゆうべ、頑張りすぎちゃった?」

美優はくすっと笑い、拓真の腰に手を回す。

「ねえ拓真さん。
 お姉ちゃんに飽きたら、いつでも私が――」

「……やめろ」

拓真の低い声が、ぴたりと空気を切った。

一瞬、場が静まる。

だが、その前に優里が微笑んだ。

「いいんです」

優しく、諦めたように。

「どうぞ……お好きなように。
 私は、もう慣れましたから」

そう言って、キッチンへ背を向ける。

その背中に、
拓真の胸に、また一つ、深く、修復不能な亀裂が走った。