共同生活が始まって数日。
だが、状況は好転するどころか、確実に悪化していた。
執念深く「清掃員」として潜り込む勝利。
そして、隙あらば拓真に抱きつき、無邪気に優里の心をかき乱す美優。
拓真の精神は、嫉妬と焦燥にすり減り、限界寸前だった。
「……優里。少し、座ってくれ」
ある夜。
美優が隣室で眠りにつき、ようやく訪れた二人きりの時間。
拓真は深く息を吸い、まるで人生最大の契約に臨むような顔で、一枚の書類をテーブルに置いた。
「……何ですか、それ」
優里の声は冷えている。
その距離感に胸を痛めながら、拓真は“上司の仮面”を被った。
「今後の生活についての、根本的な解決策だ」
「……また新しい契約書ですか?」
自嘲気味な優里の言葉に、拓真は一瞬だけ視線を逸らし、それから決意したように言った。
「俺と――偽装結婚しろ」
「…………はい?」
優里は驚き、手にしていたマグカップを落としそうになる。
「ぎ、偽装……結婚……?
課長、冗談ですよね?」
「冗談で、こんな書類は用意しない」
拓真は低く、しかし震えを抑えた声で続ける。
「いいか。西園寺の執着は異常だ。
あの男からお前を守るには、法的にも、社会的にも“俺の妻”になるのが一番早い」
優里は息を呑む。
「それに……片桐グループの次期総帥としての俺の立場も、盤石になる。
これは、お互いにとって合理的な――戦略的提携だ」
(――お願いだ、優里。
偽装でいい。形だけでいい。
俺の隣にいてくれ。奪われるくらいなら、嘘でもいいから……)
だが、優里の胸に落ちた言葉は、全く別の形をしていた。
(……そういうことか)
(美優と結婚したい。でも、名門の跡取りが庶民の娘と結婚するのは都合が悪い)
(だから……私を“ダミーの妻”にするんだ)
優里は、小さく息を吐き、苦笑する。
「……なるほど」
拓真が顔を上げる。
「美優との愛を守るための、隠れ蓑が必要なんですね」
「……は?」
「大丈夫です」
優里は、ゆっくりと頷いた。
「お受けします。
私みたいな人間でも、お二人の幸せの役に立てるなら」
拓真の胸が、鈍く痛んだ。
「……どうせ、私には“本当の幸せ”なんて、来ませんから」
その瞳に浮かぶのは、諦めと自己否定。
拓真は思わず、拳を握り締める。
「……その代わり、条件があります」
優里は淡々と言った。
「偽装結婚なんですから、私には一切触れないこと。
それと……美優を、絶対に悲しませないこと」
「……それでいいのか」
「はい。約束してください」
「……ああ」
拓真は、苦しそうに頷いた。
「触れない。誓う」
(――嘘だ。
触れたい。抱きしめたい。
でも、そう言えばお前は壊れてしまう。
だから、俺は耐える)
震える手で万年筆を取り、婚姻届の“夫”の欄に署名する。
それは、愛する人を守るために課した、
**「一生、自分から触れられない」**という地獄の制約だった。
「……これで、お前は俺の妻だ」
拓真は、できるだけ優しい声で言う。
「今日から、主寝室を使え」
「いいえ」
優里は首を振った。
「ダミーの妻ですから。私は、ソファで十分です」
「……駄目だ」
拓真の声が、思わず強くなる。
「……主寝室を使え」
(お前には、一番いい場所で眠ってほしいんだ……!)
その必死さに、優里は肩を震わせた。
「……わかりました」
小さな返事。
こうして、
戸籍上は夫婦。
心は最悪にすれ違ったままの、新婚生活が始まった。
拓真の
「触れたいのに、触れられない」苦悩の日々。
優里の
「私は妹の身代わり」という、悲劇のヒロイン意識。
同じ屋根の下にいながら、
二人の距離は、宇宙の果てよりも遠ざかっていく。
だが、状況は好転するどころか、確実に悪化していた。
執念深く「清掃員」として潜り込む勝利。
そして、隙あらば拓真に抱きつき、無邪気に優里の心をかき乱す美優。
拓真の精神は、嫉妬と焦燥にすり減り、限界寸前だった。
「……優里。少し、座ってくれ」
ある夜。
美優が隣室で眠りにつき、ようやく訪れた二人きりの時間。
拓真は深く息を吸い、まるで人生最大の契約に臨むような顔で、一枚の書類をテーブルに置いた。
「……何ですか、それ」
優里の声は冷えている。
その距離感に胸を痛めながら、拓真は“上司の仮面”を被った。
「今後の生活についての、根本的な解決策だ」
「……また新しい契約書ですか?」
自嘲気味な優里の言葉に、拓真は一瞬だけ視線を逸らし、それから決意したように言った。
「俺と――偽装結婚しろ」
「…………はい?」
優里は驚き、手にしていたマグカップを落としそうになる。
「ぎ、偽装……結婚……?
課長、冗談ですよね?」
「冗談で、こんな書類は用意しない」
拓真は低く、しかし震えを抑えた声で続ける。
「いいか。西園寺の執着は異常だ。
あの男からお前を守るには、法的にも、社会的にも“俺の妻”になるのが一番早い」
優里は息を呑む。
「それに……片桐グループの次期総帥としての俺の立場も、盤石になる。
これは、お互いにとって合理的な――戦略的提携だ」
(――お願いだ、優里。
偽装でいい。形だけでいい。
俺の隣にいてくれ。奪われるくらいなら、嘘でもいいから……)
だが、優里の胸に落ちた言葉は、全く別の形をしていた。
(……そういうことか)
(美優と結婚したい。でも、名門の跡取りが庶民の娘と結婚するのは都合が悪い)
(だから……私を“ダミーの妻”にするんだ)
優里は、小さく息を吐き、苦笑する。
「……なるほど」
拓真が顔を上げる。
「美優との愛を守るための、隠れ蓑が必要なんですね」
「……は?」
「大丈夫です」
優里は、ゆっくりと頷いた。
「お受けします。
私みたいな人間でも、お二人の幸せの役に立てるなら」
拓真の胸が、鈍く痛んだ。
「……どうせ、私には“本当の幸せ”なんて、来ませんから」
その瞳に浮かぶのは、諦めと自己否定。
拓真は思わず、拳を握り締める。
「……その代わり、条件があります」
優里は淡々と言った。
「偽装結婚なんですから、私には一切触れないこと。
それと……美優を、絶対に悲しませないこと」
「……それでいいのか」
「はい。約束してください」
「……ああ」
拓真は、苦しそうに頷いた。
「触れない。誓う」
(――嘘だ。
触れたい。抱きしめたい。
でも、そう言えばお前は壊れてしまう。
だから、俺は耐える)
震える手で万年筆を取り、婚姻届の“夫”の欄に署名する。
それは、愛する人を守るために課した、
**「一生、自分から触れられない」**という地獄の制約だった。
「……これで、お前は俺の妻だ」
拓真は、できるだけ優しい声で言う。
「今日から、主寝室を使え」
「いいえ」
優里は首を振った。
「ダミーの妻ですから。私は、ソファで十分です」
「……駄目だ」
拓真の声が、思わず強くなる。
「……主寝室を使え」
(お前には、一番いい場所で眠ってほしいんだ……!)
その必死さに、優里は肩を震わせた。
「……わかりました」
小さな返事。
こうして、
戸籍上は夫婦。
心は最悪にすれ違ったままの、新婚生活が始まった。
拓真の
「触れたいのに、触れられない」苦悩の日々。
優里の
「私は妹の身代わり」という、悲劇のヒロイン意識。
同じ屋根の下にいながら、
二人の距離は、宇宙の果てよりも遠ざかっていく。

