「……庶務課から、営業二課課長付秘書への異動?」
週明けの月曜日。
蛍光灯の白い光が均等に降り注ぐ庶務課の会議室で、優里は一枚の辞令を見つめていた。
紙切れ一枚のはずなのに、指先が白くなるほど力が入り、震えが止まらない。
向かいに座る庶務課長は、困り切った表情で目を伏せ、やがて観念したように口を開いた。
「……本当に、申し訳ない。優里ちゃん」
声が、いつもより低い。
「これは片桐課長個人の意向というより……その後ろにいる『片桐グループ』全体の判断だ。断れば、この会社そのものが立ち行かなくなる可能性がある」
空調の音が、やけに大きく耳に残る。
(……逃げ場は、ない)
優里の脳裏に浮かんだのは、先週の非常階段。
美優の腰を抱き寄せ、唇を重ねている――そう見えた、あの光景。
自分を「ゴミ」のように扱い、精神的に追い詰め、最後には「ストーカー」とまで口走った男。
そんな男の、最も近くにいろという命令。
(……嫌がらせだ)
胸の奥が、冷たく固まる。
(美優と付き合う邪魔にならないように、私を縛って、目の届く場所に閉じ込めて……監視するつもりなんだ)
優里の中の「拗らせフィルター」は、もはや修復不能なほど強固だった。
◇
営業二課フロア。
中央に君臨する課長デスクの、すぐ横。
そこに、まるで“檻”のように設えられた小さな机があった。
――課長付秘書席。
優里が静かに椅子へ腰を下ろした、その瞬間。
気配もなく、背後に影が落ちる。
「……今日からだ」
低い声。
振り返らなくても分かる。
拓真だった。
「俺の許可なく、このフロアから一歩も出るな。ランチ、外出、帰宅――すべて俺に報告しろ」
命令口調。
冷たく、突き放すような声音。
だが、彼の胸の内では、心臓が壊れそうなほど激しく鳴っていた。
(……ここにいる。隣にいる。手を伸ばせば触れられる距離だ)
(嫌われてもいい。軽蔑されてもいい。でも――)
(西園寺の元へ行かせるくらいなら、俺が閉じ込める)
(朝から晩まで、俺だけを見ろ……)
「……かしこまりました」
優里は感情を完全に殺した声で答えた。
「監視、ご苦労様です」
その瞳は、生気を失った魚のようだった。
その一瞬の表情に、拓真の胸が鋭く痛む。
だが、その痛みさえ――
彼は「耐えるべき代償」だと思い込んでいた。
◇
その時、机の上に置かれた優里のスマートフォンが、小さく震えた。
画面に表示された名前。
――勝利
『優里さん、今日もお疲れ様。
週末のデート、楽しみにしています。
守ってあげられなくて、ごめん』
胸が、きゅっと締めつけられる。
その画面を見つめていた瞬間、
横から伸びてきた大きな手が、容赦なくスマートフォンを奪い取った。
「あ……っ、返してください!」
「仕事中だと言ったはずだ」
拓真の声が、低く硬い。
「西園寺との私的な連絡は、一切禁じる」
彼はそのまま、スマートフォンを自分のスーツのポケットへねじ込んだ。
そして、
優里のデスクを両手で囲うようにして、身を屈める。
距離は、息が触れるほど近い。
「言っておく」
拓真の瞳が、逃げ場を塞ぐ。
「お前には『拒否権』なんてない。二十四年前から――お前の行き先は、俺が決めることに決まっている」
「……最低です」
優里の声は、震えていた。
「どうして、美優だけで満足できないんですか」
視線を逸らさずに続ける。
「美優を愛しているなら……私を、解放してください」
「愛している……?」
拓真は、乾いた笑みを漏らした。
「俺が……美優ちゃんを?」
(……違う。お前だ)
(美優ちゃんに優しくしたのは、お前の話を聞き出すため)
(お前に意地悪をしたのは、他の男に向かせないため)
(全部、お前のせいだ。お前が好きすぎたせいだ)
だが、彼の口から零れた言葉は、またしても最悪だった。
「……フン。そう思っていればいい」
冷たく言い放つ。
「お前は俺の所有物だ。秘書としてな。美優に飽きるまで、せいぜい俺の傍で苦しめ」
(翻訳:お前しか愛せない。一生、俺の隣にいろ。苦しませたいんじゃない、俺を見てくれ……)
優里の頬を、静かに涙が伝った。
拓真は、その涙を拭いたい衝動を必死に抑え、拳を強く握りしめる。
「……午後から会議だ」
背を向けて、低く言った。
「資料を作っておけ。ミスは許さない」
二人の距離は、物理的には数センチ。
けれど――
心の距離は、宇宙の果てよりも遠かった。
優里は、この息苦しい束縛を
「愛」ではなく、「残酷な執念」だと信じ込むしかなかった。
週明けの月曜日。
蛍光灯の白い光が均等に降り注ぐ庶務課の会議室で、優里は一枚の辞令を見つめていた。
紙切れ一枚のはずなのに、指先が白くなるほど力が入り、震えが止まらない。
向かいに座る庶務課長は、困り切った表情で目を伏せ、やがて観念したように口を開いた。
「……本当に、申し訳ない。優里ちゃん」
声が、いつもより低い。
「これは片桐課長個人の意向というより……その後ろにいる『片桐グループ』全体の判断だ。断れば、この会社そのものが立ち行かなくなる可能性がある」
空調の音が、やけに大きく耳に残る。
(……逃げ場は、ない)
優里の脳裏に浮かんだのは、先週の非常階段。
美優の腰を抱き寄せ、唇を重ねている――そう見えた、あの光景。
自分を「ゴミ」のように扱い、精神的に追い詰め、最後には「ストーカー」とまで口走った男。
そんな男の、最も近くにいろという命令。
(……嫌がらせだ)
胸の奥が、冷たく固まる。
(美優と付き合う邪魔にならないように、私を縛って、目の届く場所に閉じ込めて……監視するつもりなんだ)
優里の中の「拗らせフィルター」は、もはや修復不能なほど強固だった。
◇
営業二課フロア。
中央に君臨する課長デスクの、すぐ横。
そこに、まるで“檻”のように設えられた小さな机があった。
――課長付秘書席。
優里が静かに椅子へ腰を下ろした、その瞬間。
気配もなく、背後に影が落ちる。
「……今日からだ」
低い声。
振り返らなくても分かる。
拓真だった。
「俺の許可なく、このフロアから一歩も出るな。ランチ、外出、帰宅――すべて俺に報告しろ」
命令口調。
冷たく、突き放すような声音。
だが、彼の胸の内では、心臓が壊れそうなほど激しく鳴っていた。
(……ここにいる。隣にいる。手を伸ばせば触れられる距離だ)
(嫌われてもいい。軽蔑されてもいい。でも――)
(西園寺の元へ行かせるくらいなら、俺が閉じ込める)
(朝から晩まで、俺だけを見ろ……)
「……かしこまりました」
優里は感情を完全に殺した声で答えた。
「監視、ご苦労様です」
その瞳は、生気を失った魚のようだった。
その一瞬の表情に、拓真の胸が鋭く痛む。
だが、その痛みさえ――
彼は「耐えるべき代償」だと思い込んでいた。
◇
その時、机の上に置かれた優里のスマートフォンが、小さく震えた。
画面に表示された名前。
――勝利
『優里さん、今日もお疲れ様。
週末のデート、楽しみにしています。
守ってあげられなくて、ごめん』
胸が、きゅっと締めつけられる。
その画面を見つめていた瞬間、
横から伸びてきた大きな手が、容赦なくスマートフォンを奪い取った。
「あ……っ、返してください!」
「仕事中だと言ったはずだ」
拓真の声が、低く硬い。
「西園寺との私的な連絡は、一切禁じる」
彼はそのまま、スマートフォンを自分のスーツのポケットへねじ込んだ。
そして、
優里のデスクを両手で囲うようにして、身を屈める。
距離は、息が触れるほど近い。
「言っておく」
拓真の瞳が、逃げ場を塞ぐ。
「お前には『拒否権』なんてない。二十四年前から――お前の行き先は、俺が決めることに決まっている」
「……最低です」
優里の声は、震えていた。
「どうして、美優だけで満足できないんですか」
視線を逸らさずに続ける。
「美優を愛しているなら……私を、解放してください」
「愛している……?」
拓真は、乾いた笑みを漏らした。
「俺が……美優ちゃんを?」
(……違う。お前だ)
(美優ちゃんに優しくしたのは、お前の話を聞き出すため)
(お前に意地悪をしたのは、他の男に向かせないため)
(全部、お前のせいだ。お前が好きすぎたせいだ)
だが、彼の口から零れた言葉は、またしても最悪だった。
「……フン。そう思っていればいい」
冷たく言い放つ。
「お前は俺の所有物だ。秘書としてな。美優に飽きるまで、せいぜい俺の傍で苦しめ」
(翻訳:お前しか愛せない。一生、俺の隣にいろ。苦しませたいんじゃない、俺を見てくれ……)
優里の頬を、静かに涙が伝った。
拓真は、その涙を拭いたい衝動を必死に抑え、拳を強く握りしめる。
「……午後から会議だ」
背を向けて、低く言った。
「資料を作っておけ。ミスは許さない」
二人の距離は、物理的には数センチ。
けれど――
心の距離は、宇宙の果てよりも遠かった。
優里は、この息苦しい束縛を
「愛」ではなく、「残酷な執念」だと信じ込むしかなかった。

