神系御曹司の初恋は難攻不落 〜「お前じゃない」と言われ続けて十余年〜

「……庶務課から、営業二課課長付秘書への異動?」

週明けの月曜日。
蛍光灯の白い光が均等に降り注ぐ庶務課の会議室で、優里は一枚の辞令を見つめていた。
紙切れ一枚のはずなのに、指先が白くなるほど力が入り、震えが止まらない。

向かいに座る庶務課長は、困り切った表情で目を伏せ、やがて観念したように口を開いた。

「……本当に、申し訳ない。優里ちゃん」
声が、いつもより低い。
「これは片桐課長個人の意向というより……その後ろにいる『片桐グループ』全体の判断だ。断れば、この会社そのものが立ち行かなくなる可能性がある」

空調の音が、やけに大きく耳に残る。

(……逃げ場は、ない)

優里の脳裏に浮かんだのは、先週の非常階段。
美優の腰を抱き寄せ、唇を重ねている――そう見えた、あの光景。

自分を「ゴミ」のように扱い、精神的に追い詰め、最後には「ストーカー」とまで口走った男。

そんな男の、最も近くにいろという命令。

(……嫌がらせだ)

胸の奥が、冷たく固まる。

(美優と付き合う邪魔にならないように、私を縛って、目の届く場所に閉じ込めて……監視するつもりなんだ)

優里の中の「拗らせフィルター」は、もはや修復不能なほど強固だった。



営業二課フロア。

中央に君臨する課長デスクの、すぐ横。
そこに、まるで“檻”のように設えられた小さな机があった。

――課長付秘書席。

優里が静かに椅子へ腰を下ろした、その瞬間。

気配もなく、背後に影が落ちる。

「……今日からだ」

低い声。
振り返らなくても分かる。

拓真だった。

「俺の許可なく、このフロアから一歩も出るな。ランチ、外出、帰宅――すべて俺に報告しろ」

命令口調。
冷たく、突き放すような声音。

だが、彼の胸の内では、心臓が壊れそうなほど激しく鳴っていた。

(……ここにいる。隣にいる。手を伸ばせば触れられる距離だ)

(嫌われてもいい。軽蔑されてもいい。でも――)

(西園寺の元へ行かせるくらいなら、俺が閉じ込める)

(朝から晩まで、俺だけを見ろ……)

「……かしこまりました」

優里は感情を完全に殺した声で答えた。

「監視、ご苦労様です」

その瞳は、生気を失った魚のようだった。
その一瞬の表情に、拓真の胸が鋭く痛む。

だが、その痛みさえ――
彼は「耐えるべき代償」だと思い込んでいた。



その時、机の上に置かれた優里のスマートフォンが、小さく震えた。

画面に表示された名前。

――勝利

『優里さん、今日もお疲れ様。
週末のデート、楽しみにしています。
守ってあげられなくて、ごめん』

胸が、きゅっと締めつけられる。

その画面を見つめていた瞬間、
横から伸びてきた大きな手が、容赦なくスマートフォンを奪い取った。

「あ……っ、返してください!」

「仕事中だと言ったはずだ」
拓真の声が、低く硬い。
「西園寺との私的な連絡は、一切禁じる」

彼はそのまま、スマートフォンを自分のスーツのポケットへねじ込んだ。

そして、
優里のデスクを両手で囲うようにして、身を屈める。

距離は、息が触れるほど近い。

「言っておく」
拓真の瞳が、逃げ場を塞ぐ。
「お前には『拒否権』なんてない。二十四年前から――お前の行き先は、俺が決めることに決まっている」

「……最低です」

優里の声は、震えていた。

「どうして、美優だけで満足できないんですか」
視線を逸らさずに続ける。
「美優を愛しているなら……私を、解放してください」

「愛している……?」

拓真は、乾いた笑みを漏らした。

「俺が……美優ちゃんを?」

(……違う。お前だ)

(美優ちゃんに優しくしたのは、お前の話を聞き出すため)
(お前に意地悪をしたのは、他の男に向かせないため)

(全部、お前のせいだ。お前が好きすぎたせいだ)

だが、彼の口から零れた言葉は、またしても最悪だった。

「……フン。そう思っていればいい」
冷たく言い放つ。
「お前は俺の所有物だ。秘書としてな。美優に飽きるまで、せいぜい俺の傍で苦しめ」

(翻訳:お前しか愛せない。一生、俺の隣にいろ。苦しませたいんじゃない、俺を見てくれ……)

優里の頬を、静かに涙が伝った。

拓真は、その涙を拭いたい衝動を必死に抑え、拳を強く握りしめる。

「……午後から会議だ」
背を向けて、低く言った。
「資料を作っておけ。ミスは許さない」

二人の距離は、物理的には数センチ。

けれど――
心の距離は、宇宙の果てよりも遠かった。

優里は、この息苦しい束縛を
「愛」ではなく、「残酷な執念」だと信じ込むしかなかった。