ヴィラでの騒動から数日後。
優里は「体調不良」を理由に会社を休んでいたが、父である社長の強い説得もあり、ようやく出社していた。
(……仕事だけは、ちゃんとしなきゃ)
美優のことも。
拓真のことも。
考えないように、心に蓋をする。
そう自分に言い聞かせながら、郵便物の束を抱えて役員フロアの廊下を曲がった――その瞬間だった。
廊下の突き当たり。
人影のほとんどない非常階段の踊り場。
そこに、二人がいた。
神々しいほどの存在感を放つ拓真と、
彼の胸元に縋りつくように身を寄せている美優。
角度が、悪すぎた。
拓真が美優の腰を引き寄せ、
深く、唇を重ねている――
そうとしか見えない光景。
「……あ」
声にならない声が漏れ、
抱えていた封筒が、床に散らばる。
その音に気づき、二人が離れた。
美優は頬を赤らめ、
拓真は一瞬で血の気を失った顔で、優里を見つめる。
「優里!? ちがう、これは――」
拓真が駆け寄ろうとした、その一歩。
優里は、反射的に後ずさった。
(……やっぱり)
胸の奥で、何かが静かに壊れる音がした。
(ヴィラで言っていた“ストーカー”なんて、
私を惑わせるための残酷な冗談だったんだ)
(本当の居場所は、いつだって――妹のところ)
「……失礼しました」
優里は、感情を殺した声で言った。
「どうぞ、お幸せに」
「待て! 優里、話を聞け!!」
拓真の叫びを背に、
優里は走り出した。
振り返らなかった。
振り返ったら、もう立っていられない気がしたから。
――この時、実際には
美優の目にゴミが入っただけだったのかもしれない。
あるいは、美優自身が、わざと誤解を招く距離を取ったのかもしれない。
だが、
長年「比較される側」として生きてきた優里に、
それを冷静に判断する余裕など、残っていなかった。
◇
その日の昼休み。
社内カフェテリアの隅。
優里は一人、テーブルに肘をつき、俯いていた。
そこへ――
まるで用意されていたかのように、
西園寺勝利が現れた。
「優里さん、顔色が良くない」
静かで、気遣う声。
「……無理をして出社されたんでしょう。心配です」
勝利は自然な動作で隣に座り、
そっと、優里の肩に手を回した。
拒否する気力も、もう残っていない。
「……勝利さん」
「私は、いつでもあなたの味方ですよ」
耳元で、低く囁く。
「あの暴君から、あなたを守るためなら、何だってする」
一瞬、間を置いて。
「……ねえ、優里さん。いっそ、僕と一緒に、遠くへ行きませんか」
その距離が、近い。
だが、優里は逃げなかった。
逃げる理由が、もう見つからなかった。
その時――
「――離れろ」
地鳴りのような声。
空気が、凍りついた。
いつの間にか背後に立っていた拓真が、
勝利の手首を、骨が軋むほどの力で掴み上げていた。
「公共の場で乱暴はやめてください」
勝利は余裕の笑みを浮かべる。
「彼女が怖がっていますよ、片桐課長」
拓真の目は、完全に据わっていた。
「……優里」
震える声。
「こいつから、離れろ。頼む……これ以上、俺を狂わせるな」
美優との誤解。
説明できていない焦り。
目の前で、愛する女が他の男に抱かれようとしている現実。
すべてが混ざり合い、
「神系上司」の仮面は、完全に剥がれ落ちていた。
「……私を狂わせているのは、あなたです」
優里は、勝利の腕の中へ、さらに深く身を寄せた。
そして、冷たく言い放つ。
「美優さんとキスをしたその口で、私に命令しないでください」
一拍。
「……汚らわしい」
「キス……? 何を言ってる……!?」
拓真は愕然とする。
「俺がしたのは、ゴミを――」
「もう、結構です」
優里は遮った。
「勝利さん、行きましょう」
その背中を、
拓真は、呆然と見送ることしかできなかった。
周囲の社員たちが、
初めて見る「神系上司」の崩れ落ちた姿に、ざわめく。
(……ゴミだ)
(ゴミを取っていただけなんだ……)
(どうしていつも、一番見られたくない瞬間を、
一番最悪な形で見られるんだ……)
拓真は、乾いた笑いを漏らした。
「……ああ、もういい」
低く、呟く。
「なりふり構っていられるか」
これまで、
嫌われないように。
傷つけないように。
ヘタレな配慮を重ねてきた。
――その結果が、これだ。
ならば。
もう、
優しくするのは、やめる。
拓真の瞳に、暗く、重い情熱が灯った。
力ずくでも。
嫌われても。
自分の領域に、引き戻す。
そう決めた男の顔は、
もはや「神系イケメン」ではなかった。
優里は「体調不良」を理由に会社を休んでいたが、父である社長の強い説得もあり、ようやく出社していた。
(……仕事だけは、ちゃんとしなきゃ)
美優のことも。
拓真のことも。
考えないように、心に蓋をする。
そう自分に言い聞かせながら、郵便物の束を抱えて役員フロアの廊下を曲がった――その瞬間だった。
廊下の突き当たり。
人影のほとんどない非常階段の踊り場。
そこに、二人がいた。
神々しいほどの存在感を放つ拓真と、
彼の胸元に縋りつくように身を寄せている美優。
角度が、悪すぎた。
拓真が美優の腰を引き寄せ、
深く、唇を重ねている――
そうとしか見えない光景。
「……あ」
声にならない声が漏れ、
抱えていた封筒が、床に散らばる。
その音に気づき、二人が離れた。
美優は頬を赤らめ、
拓真は一瞬で血の気を失った顔で、優里を見つめる。
「優里!? ちがう、これは――」
拓真が駆け寄ろうとした、その一歩。
優里は、反射的に後ずさった。
(……やっぱり)
胸の奥で、何かが静かに壊れる音がした。
(ヴィラで言っていた“ストーカー”なんて、
私を惑わせるための残酷な冗談だったんだ)
(本当の居場所は、いつだって――妹のところ)
「……失礼しました」
優里は、感情を殺した声で言った。
「どうぞ、お幸せに」
「待て! 優里、話を聞け!!」
拓真の叫びを背に、
優里は走り出した。
振り返らなかった。
振り返ったら、もう立っていられない気がしたから。
――この時、実際には
美優の目にゴミが入っただけだったのかもしれない。
あるいは、美優自身が、わざと誤解を招く距離を取ったのかもしれない。
だが、
長年「比較される側」として生きてきた優里に、
それを冷静に判断する余裕など、残っていなかった。
◇
その日の昼休み。
社内カフェテリアの隅。
優里は一人、テーブルに肘をつき、俯いていた。
そこへ――
まるで用意されていたかのように、
西園寺勝利が現れた。
「優里さん、顔色が良くない」
静かで、気遣う声。
「……無理をして出社されたんでしょう。心配です」
勝利は自然な動作で隣に座り、
そっと、優里の肩に手を回した。
拒否する気力も、もう残っていない。
「……勝利さん」
「私は、いつでもあなたの味方ですよ」
耳元で、低く囁く。
「あの暴君から、あなたを守るためなら、何だってする」
一瞬、間を置いて。
「……ねえ、優里さん。いっそ、僕と一緒に、遠くへ行きませんか」
その距離が、近い。
だが、優里は逃げなかった。
逃げる理由が、もう見つからなかった。
その時――
「――離れろ」
地鳴りのような声。
空気が、凍りついた。
いつの間にか背後に立っていた拓真が、
勝利の手首を、骨が軋むほどの力で掴み上げていた。
「公共の場で乱暴はやめてください」
勝利は余裕の笑みを浮かべる。
「彼女が怖がっていますよ、片桐課長」
拓真の目は、完全に据わっていた。
「……優里」
震える声。
「こいつから、離れろ。頼む……これ以上、俺を狂わせるな」
美優との誤解。
説明できていない焦り。
目の前で、愛する女が他の男に抱かれようとしている現実。
すべてが混ざり合い、
「神系上司」の仮面は、完全に剥がれ落ちていた。
「……私を狂わせているのは、あなたです」
優里は、勝利の腕の中へ、さらに深く身を寄せた。
そして、冷たく言い放つ。
「美優さんとキスをしたその口で、私に命令しないでください」
一拍。
「……汚らわしい」
「キス……? 何を言ってる……!?」
拓真は愕然とする。
「俺がしたのは、ゴミを――」
「もう、結構です」
優里は遮った。
「勝利さん、行きましょう」
その背中を、
拓真は、呆然と見送ることしかできなかった。
周囲の社員たちが、
初めて見る「神系上司」の崩れ落ちた姿に、ざわめく。
(……ゴミだ)
(ゴミを取っていただけなんだ……)
(どうしていつも、一番見られたくない瞬間を、
一番最悪な形で見られるんだ……)
拓真は、乾いた笑いを漏らした。
「……ああ、もういい」
低く、呟く。
「なりふり構っていられるか」
これまで、
嫌われないように。
傷つけないように。
ヘタレな配慮を重ねてきた。
――その結果が、これだ。
ならば。
もう、
優しくするのは、やめる。
拓真の瞳に、暗く、重い情熱が灯った。
力ずくでも。
嫌われても。
自分の領域に、引き戻す。
そう決めた男の顔は、
もはや「神系イケメン」ではなかった。

