神系御曹司の初恋は難攻不落 〜「お前じゃない」と言われ続けて十余年〜

ヴィラでの騒動から数日後。
優里は「体調不良」を理由に会社を休んでいたが、父である社長の強い説得もあり、ようやく出社していた。

(……仕事だけは、ちゃんとしなきゃ)

美優のことも。
拓真のことも。
考えないように、心に蓋をする。

そう自分に言い聞かせながら、郵便物の束を抱えて役員フロアの廊下を曲がった――その瞬間だった。

廊下の突き当たり。
人影のほとんどない非常階段の踊り場。

そこに、二人がいた。

神々しいほどの存在感を放つ拓真と、
彼の胸元に縋りつくように身を寄せている美優。

角度が、悪すぎた。

拓真が美優の腰を引き寄せ、
深く、唇を重ねている――
そうとしか見えない光景。

「……あ」

声にならない声が漏れ、
抱えていた封筒が、床に散らばる。

その音に気づき、二人が離れた。

美優は頬を赤らめ、
拓真は一瞬で血の気を失った顔で、優里を見つめる。

「優里!? ちがう、これは――」

拓真が駆け寄ろうとした、その一歩。

優里は、反射的に後ずさった。

(……やっぱり)

胸の奥で、何かが静かに壊れる音がした。

(ヴィラで言っていた“ストーカー”なんて、
私を惑わせるための残酷な冗談だったんだ)

(本当の居場所は、いつだって――妹のところ)

「……失礼しました」

優里は、感情を殺した声で言った。

「どうぞ、お幸せに」

「待て! 優里、話を聞け!!」

拓真の叫びを背に、
優里は走り出した。

振り返らなかった。
振り返ったら、もう立っていられない気がしたから。

――この時、実際には
美優の目にゴミが入っただけだったのかもしれない。
あるいは、美優自身が、わざと誤解を招く距離を取ったのかもしれない。

だが、
長年「比較される側」として生きてきた優里に、
それを冷静に判断する余裕など、残っていなかった。



その日の昼休み。

社内カフェテリアの隅。
優里は一人、テーブルに肘をつき、俯いていた。

そこへ――
まるで用意されていたかのように、
西園寺勝利が現れた。

「優里さん、顔色が良くない」

静かで、気遣う声。

「……無理をして出社されたんでしょう。心配です」

勝利は自然な動作で隣に座り、
そっと、優里の肩に手を回した。

拒否する気力も、もう残っていない。

「……勝利さん」

「私は、いつでもあなたの味方ですよ」

耳元で、低く囁く。

「あの暴君から、あなたを守るためなら、何だってする」

一瞬、間を置いて。

「……ねえ、優里さん。いっそ、僕と一緒に、遠くへ行きませんか」

その距離が、近い。

だが、優里は逃げなかった。
逃げる理由が、もう見つからなかった。

その時――

「――離れろ」

地鳴りのような声。

空気が、凍りついた。

いつの間にか背後に立っていた拓真が、
勝利の手首を、骨が軋むほどの力で掴み上げていた。

「公共の場で乱暴はやめてください」

勝利は余裕の笑みを浮かべる。

「彼女が怖がっていますよ、片桐課長」

拓真の目は、完全に据わっていた。

「……優里」

震える声。

「こいつから、離れろ。頼む……これ以上、俺を狂わせるな」

美優との誤解。
説明できていない焦り。
目の前で、愛する女が他の男に抱かれようとしている現実。

すべてが混ざり合い、
「神系上司」の仮面は、完全に剥がれ落ちていた。

「……私を狂わせているのは、あなたです」

優里は、勝利の腕の中へ、さらに深く身を寄せた。

そして、冷たく言い放つ。

「美優さんとキスをしたその口で、私に命令しないでください」

一拍。

「……汚らわしい」

「キス……? 何を言ってる……!?」

拓真は愕然とする。

「俺がしたのは、ゴミを――」

「もう、結構です」

優里は遮った。

「勝利さん、行きましょう」

その背中を、
拓真は、呆然と見送ることしかできなかった。

周囲の社員たちが、
初めて見る「神系上司」の崩れ落ちた姿に、ざわめく。

(……ゴミだ)

(ゴミを取っていただけなんだ……)

(どうしていつも、一番見られたくない瞬間を、
一番最悪な形で見られるんだ……)

拓真は、乾いた笑いを漏らした。

「……ああ、もういい」

低く、呟く。

「なりふり構っていられるか」

これまで、
嫌われないように。
傷つけないように。
ヘタレな配慮を重ねてきた。

――その結果が、これだ。

ならば。

もう、
優しくするのは、やめる。

拓真の瞳に、暗く、重い情熱が灯った。

力ずくでも。
嫌われても。

自分の領域に、引き戻す。

そう決めた男の顔は、
もはや「神系イケメン」ではなかった。