あれから、二年半。
海沿いの静かな町にある、小さなベーカリー。
萌香はここで名前を変え、過去を切り捨てるようにして生きていた。
「ママ、おなかすいた!」
「ふふ、もうすぐ焼き上がるわよ。蓮(れん)、お行儀よくして待っててね」
勇気によく似た、意志の強さを宿す瞳を持つ息子・蓮。
あの日、地獄から連れ出したこの子は、萌香にとって生きる理由そのものだった。
だが――
その穏やかな日常は、あまりにも唐突に終わりを告げる。
カランカラン、と軽やかなドアベルの音。
昼下がりの客を迎えようと、いつものように柔らかな微笑みを浮かべて顔を上げた、その瞬間。
「……見つけたぞ」
低く、深く、地を這うような声。
店内を満たしていた小麦の甘い香りが、一瞬で凍りついた。
入口に立っていたのは、端正な三つ揃えのスーツを完璧に着こなす男。
かつてよりも鋭さを増した、冷徹な美貌。
――高畑、勇気。
萌香の手から、トングが音を立てて床に落ちた。
「ゆ……勇気、さん……」
「二年六ヶ月と十五日」
勇気は淡々と告げる。
「……随分と長いかくれんぼだったな、萌香」
獲物を追い詰めるような歩調で、彼はゆっくりと近づいてくる。
その周囲だけ空気が薄くなるような、圧倒的な威圧感。
萌香は恐怖に足を縫い止められ、呼吸の仕方すら忘れていた。
「なぜ……ここに……っ」
「言ったはずだ。俺についてこいと」
低く、断定的な声。
「……契約を途中で放り出すのは、感心しないな」
カウンター越しに、勇気は強引に萌香の顎を指先で掬い上げ、逃げ道を塞ぐ。
その瞳に、かつての偽りの優しさはない。あるのは、狂おしいほどの独占欲と、底冷えする執着の炎。
その時。
「……ママ?」
カウンターの下から、不安そうに蓮が顔を出した。
勇気の視線が、ゆっくりと足元の幼い子どもへと向けられる。
――まずい。
萌香の心臓が、これまでで一番激しく脈打った。
この子の父親が、目の前の男だと気づかれてしまったら。
勇気は蓮を見つめたまま、わずかに眉を寄せる。
自分と生き写しの顔立ち。
だが彼は、冷酷な笑みを浮かべて吐き捨てた。
「……ほう。男を作って、ガキまでこさえたか」
氷のような声。
「俺から逃げて、ずいぶんと奔放にやっていたらしい」
勇気は、蓮が自分の息子である可能性など微塵も考えていない。
ただ、自分のものであったはずの萌香に“他人の印”がついている――その事実(という誤解)に、どす黒い嫉妬を滾らせているだけだった。
「いいだろう。その子が誰の子供だろうと、今の俺には関係ない」
勇気は萌香の耳元に顔を寄せ、熱を帯びた吐息とともに、冷酷な宣告を突きつける。
「今から君を連れて帰る。今日から君は、再び俺の『妻』だ」
そして、囁くように続けた。
「……二度と逃げられないように。今度は、本物の手錠が必要か?」
二年半の歳月を経て。
偽りの愛は、もはや逃げ場のない――執愛へと変貌していた。
海沿いの静かな町にある、小さなベーカリー。
萌香はここで名前を変え、過去を切り捨てるようにして生きていた。
「ママ、おなかすいた!」
「ふふ、もうすぐ焼き上がるわよ。蓮(れん)、お行儀よくして待っててね」
勇気によく似た、意志の強さを宿す瞳を持つ息子・蓮。
あの日、地獄から連れ出したこの子は、萌香にとって生きる理由そのものだった。
だが――
その穏やかな日常は、あまりにも唐突に終わりを告げる。
カランカラン、と軽やかなドアベルの音。
昼下がりの客を迎えようと、いつものように柔らかな微笑みを浮かべて顔を上げた、その瞬間。
「……見つけたぞ」
低く、深く、地を這うような声。
店内を満たしていた小麦の甘い香りが、一瞬で凍りついた。
入口に立っていたのは、端正な三つ揃えのスーツを完璧に着こなす男。
かつてよりも鋭さを増した、冷徹な美貌。
――高畑、勇気。
萌香の手から、トングが音を立てて床に落ちた。
「ゆ……勇気、さん……」
「二年六ヶ月と十五日」
勇気は淡々と告げる。
「……随分と長いかくれんぼだったな、萌香」
獲物を追い詰めるような歩調で、彼はゆっくりと近づいてくる。
その周囲だけ空気が薄くなるような、圧倒的な威圧感。
萌香は恐怖に足を縫い止められ、呼吸の仕方すら忘れていた。
「なぜ……ここに……っ」
「言ったはずだ。俺についてこいと」
低く、断定的な声。
「……契約を途中で放り出すのは、感心しないな」
カウンター越しに、勇気は強引に萌香の顎を指先で掬い上げ、逃げ道を塞ぐ。
その瞳に、かつての偽りの優しさはない。あるのは、狂おしいほどの独占欲と、底冷えする執着の炎。
その時。
「……ママ?」
カウンターの下から、不安そうに蓮が顔を出した。
勇気の視線が、ゆっくりと足元の幼い子どもへと向けられる。
――まずい。
萌香の心臓が、これまでで一番激しく脈打った。
この子の父親が、目の前の男だと気づかれてしまったら。
勇気は蓮を見つめたまま、わずかに眉を寄せる。
自分と生き写しの顔立ち。
だが彼は、冷酷な笑みを浮かべて吐き捨てた。
「……ほう。男を作って、ガキまでこさえたか」
氷のような声。
「俺から逃げて、ずいぶんと奔放にやっていたらしい」
勇気は、蓮が自分の息子である可能性など微塵も考えていない。
ただ、自分のものであったはずの萌香に“他人の印”がついている――その事実(という誤解)に、どす黒い嫉妬を滾らせているだけだった。
「いいだろう。その子が誰の子供だろうと、今の俺には関係ない」
勇気は萌香の耳元に顔を寄せ、熱を帯びた吐息とともに、冷酷な宣告を突きつける。
「今から君を連れて帰る。今日から君は、再び俺の『妻』だ」
そして、囁くように続けた。
「……二度と逃げられないように。今度は、本物の手錠が必要か?」
二年半の歳月を経て。
偽りの愛は、もはや逃げ場のない――執愛へと変貌していた。

