さよならの代わりに授かった宝物

凍てつく北風が、古びた家屋の隙間をすり抜け、不気味な口笛のような音を鳴らしていた。
部屋の隅では、石油ストーブの上の薬缶が、コトコトと小さく揺れている。その音だけが、やけに大きく響いていた。

「……勇気さん」

萌香は、窓の外をじっと見張り続ける勇気の肩に、そっと毛布を掛けた。

「顔色、悪いわ。少しだけでも……眠ったら?」

勇気は視線を雪原に向けたまま、萌香の手を探し当て、静かに握りしめる。

「大丈夫だ。君の声が聞こえているだけで、目は冴える」

そして、少しだけ強く指を絡めた。

「それより……準備はできたか?
蓮を連れて、いつでも裏口から出られるように」

「……また、逃げるの?」

萌香の声が震える。

「私たち、ずっと……こうして逃げ続けるの?」

その問いに、勇気はようやく振り返った。
そこにあったのは、かつての冷徹な警視の顔ではない。
一人の女と子を、愛し抜こうとする男の、痛みを帯びた決意だった。

「違う」

静かに、しかしはっきりと。

「逃げるのは……今日で終わりだ」

勇気は懐から、小さなマイクロSDカードを取り出し、萌香の手のひらにそっと握らせる。
彼の体温が残るそれは、驚くほど重かった。

「これは……?」

「君の父親が、死の間際に俺へ託そうとしたものだ」

低い声で続ける。

「桐生建設を潰し、君の父を追い詰めた真犯人……
政界の黒幕たちの汚職データが、すべて入っている」

萌香の息が止まる。

勇気は両手で彼女の頬を包み、視線を逸らさせない。

「これがある限り、彼らは君たちを追い続ける。
だから……これを持って、明日の朝一番のバスで町へ行け」

「……勇気さんは?」

震える声。

「あなたは、どうするの……?」

勇気は答えず、ただ、穏やかに微笑んだ。
その優しさが、かえって萌香の胸を締めつける。

「佐倉には、もう連絡してある。
彼女なら……公安の規則を破ってでも、君と蓮を守る」

「じゃあ、あなたは……!」

「俺は」

勇気は、萌香の額にそっと額を寄せた。

「ここで、終止符を打つ」

萌香は首を振り、彼の胸に縋りつく。

「嫌よ……!
二年半も待って、やっと……やっと本物の家族になれたのに……!」

勇気は壊れ物を抱くように、萌香を強く、強く抱き寄せた。
何度も、その髪に唇を落とす。

「萌香……泣かないでくれ」

声が、わずかに震える。

「君を“便宜上の妻”だと言った、あの日から……
俺はずっと、君に謝りたかった」

彼女の耳元で、囁く。

「愛している。
この命を賭けても、足りないほどに」

その瞬間――
雪を踏みしめる、複数の足音が、闇の中から迫ってきた。

勇気の身体が、瞬時に硬直する。

彼は名残を断ち切るように、萌香をそっと離し、立ち上がった。
ホルスターから、銃を抜き放つ。

「パパ……?」

物音に目を覚ました蓮が、寝ぼけ眼で顔を出す。

勇気は一瞬で“父親の顔”に戻り、膝をついた。

「蓮」

優しく、真っ直ぐに。

「パパは、ちょっとだけ……悪い人たちとお話してくる」

小さな手を握る。

「ママのこと、守ってあげられるか?」

「……うん」

蓮はこくりと頷く。

「パパ、がんばって」

その言葉に、勇気は微笑んだ。

「ありがとう」

立ち上がり、最後に萌香を見つめる。

「萌香」

たった一言。
その中に、すべてを込めて。

「……俺たちの未来を、君に託す」

「勇気さん……!」

「行け。振り返るな」

玄関の扉が開き、冷たい雪が吹き込む。

「生きろ。
蓮と一緒に……幸せになれ」

扉が閉ざされる音が、胸を引き裂くように響いた。

暗闇と銀世界が溶け合う中――
一発の銃声が、夜の静寂を無惨に切り裂いた。