看板娘の名前の頭文字を並べたらキンタマーニになった件

「……ねえ、就活って、みんな始めてる?」



閉店後のほっと一息。

テーブル席に集まった看板娘たちの間に、ふと落ちた一言が、思いのほか重く響いた。



口にしたのはナナミ。

教育学部の四年生、そろそろ卒業も見えてくる時期だった。



「えっ、ナナミちゃんもう面接受けたん?」



「いや、まだ。でも周りが焦り始めててさ……このままここにいていいのかな、って」



その言葉に、マコがカップを手にして小さく笑った。



「就活ねぇ……あたしはもう、やらんわ。ここに骨うずめる覚悟してるし」



「おっ、出た専属料理人宣言」



「マスターに給料あげてって交渉しといて」



「聞こえてるぞー」



奥の洗い物から、マスターのぼやきが飛んでくる。

笑いが起きたけどそれはどこか、寂しさを含んだものだった。



「イオリちゃんは?」



静かに聞いたのはリカ。



「えっ、わたし……?」



「うん。彼氏、まだ向こうのお店で働いてるんでしょ?卒業したら、一緒に……とか考えてる?」



イオリはしばらく沈黙して、それから小さく首を振った。



「……ううん。付き合ってるけど、わたし、こっちを離れるつもりは今のところないの。あの人は……あっちのお店が好きみたいだし、わたしは……こっちが好きだから」



その言葉に、一瞬静まる空気。



でもそれは、誰も否定しなかった。

恋も、夢も、選べるのはその人自身だけ。



「イツカは?」



ナギサがそっと聞いた。

この場で未来の話題を一番聞きたくなかった子の名前を。



イツカは少しだけ目を伏せて、それから正面を見た。



「……わたしは、マスターと話してる。たぶん、いずれ表に出るかもしれないって」



「えっ、えっ、それって……!」



「つまり、看板娘の幻の9人目として公式化するかもってこと?」



ざわつく一同に、イツカは照れくさそうに笑った。



「まだわかんないけど……でも、わたし、自分の名前で胸を張って働きたいって、思うようになったんだ」



アヤネがぽつりと呟いた。



「……変わったね、イツカさん」



「うん。……でもね、変えてくれたのは、みんなだよ」




その日、雨が静かに降る中、店には珍しくお客が少なかった。



キリコがカウンターで帳簿を見ていると、ナナミがそっと隣に座った。



「……なんか、最近ずっと不安で」



「就活?」



「うん。先生になるって、自分で決めてたけど、正直ちょっと揺れてる。この店にいるとね……なんか、他の道もあるんじゃないかって思えて」



キリコは少し考えて、それから言った。



「揺れるのは、悪いことじゃない。でも選んだ道の理由だけは、自分で決めな。迷った末にここにしたって言えるなら、それでいいと思う」



「……うん」



ナナミの目に、光がにじむ。



「ありがとう、キリコさん……なんか、泣きそう」



「泣いていいけど、タオル貸すのはマスターの役目な」



「そっち!?」





季節は秋の終わり。

風が強くなり、店の風鈴が久しぶりに高く鳴った。



「カランコロン……」



扉が開く。



そこに現れたのは見知らぬ若い女性。

しかし、どこか既視感がある。



「すみません……ここ、キンタマーニカフェって、合ってますか?」



ナナミが思わず吹き出す。



「たしかにそう呼ばれてますけど、正式には、ほっと一息です」



女性はホッと笑って、言った。



「……SNSで見て、ずっと来たかったんです。ちょっと、疲れてて……なんか、ほっとしたくて」



イオリが、温かい声で迎える。



「ようこそ。カウンター席、空いてますよ」



その瞬間。

看板娘たちの目に、一つの想いが共通して浮かぶ。



ああ、またひとりの誰かが、この場所に救われた。



それがどんなに小さなことでも。

この店の灯は、たしかに誰かの夜を照らしている。



そしてまた、静かに時間は流れていく。




風が冬の匂いを運び始めたある日。

ほっと一息……通称キンタマーニカフェは、相変わらず穏やかに賑わっていた。



窓際の席では、イオリが常連の小さな子どもに絵本を読んであげている。

カウンターではキリコとリカが無言で珈琲を淹れ合い、テーブル席ではナナミとアヤネがメニューの新案について意見を交わしていた。



誰もが、それぞれの場所で呼吸をしていた。

それがこの店の日常であり、何よりの誇りだった。



けれど、その日だけは、ひとつだけいつもと違う空気が、奥の休憩室に流れていた。



マスターの机の上に、一枚の書類が置かれていた。

それは、法人登記の修正案。

店名を、正式に変更するかどうかの最終判断の時が、ついに訪れたのだった。



「……ついに来たね」



ナギサが、少し緊張した面持ちで言う。



「書類って、これ……」



「うん。キンタマーニカフェを、正式名称にするかどうかの申請書」



「つけちゃうんだ……そのまんま……」



マコが笑いをこらえながら言うと、アヤネがいつになく真面目な声で返す。



「でも、名前って、意味を持ちすぎるくらいには重いよ」



「私たちの名前をそうやって、遊ばれて……笑われて……最初は、悔しかった」



ふと、イオリが小さくつぶやいた。



「でも……」



その声を、イツカが継いだ。



「今じゃ、この名前が、私たちを繋げてる。忘れられない名前。恥ずかしくて、誇らしくて……でも、一番、私たちらしい名前」



キリコが、短く息を吐いた。



「……マスター、あんたが決めなよ。でも私たち、どっちでもいいって、そう言えるくらいには、ちゃんとこの名前を歩いてきたよ」



マスターは、みんなの視線を受けながら、ゆっくりと言った。



「正直な話をするとさ……名前がバズったのは偶然だ。でも、この店が人を惹きつけて、ここまで愛されてきたのは……偶然じゃない」



静かな沈黙の中、彼は笑って言った。



「正式名称、変えるつもりはない。ほっと一息のままいこう」



皆が目を見開いた。



「え?」



「キンタマーニカフェは、あくまで通称だ。けど、通称ってのは人が呼びたくなる名前のことだろ?だったら、好きに呼ばれればいい。中身で勝負すればいい」



誰かが小さく拍手をした。

それが伝染し、少しずつ控えめな、でも確かな拍手になって広がっていった。




翌日。



「いらっしゃいませ〜!」



「今日も元気だな、ナナミちゃん」



「へへっ、まあね!」



カウンターでは、マコが新作の冬ブレンドを試作している。

チョコとベリーの香りが、店内をほんのり甘くする。



「キリコさん、これ味見してみて!」



「……チョコ系か。……悪くない、けど少し甘すぎ。男客にはウケないかも」



「えー!そっち系の男子が甘党なの、最近知ったんだけど!?」



笑い声が溶け込む。

そこに、久々の顔が現れた。



「……おひさ」



現れたのは、翔太だった。

配送の仕事が忙しく、ここ数週間顔を出せていなかった常連の一人。



「翔太くん!?やっと来たじゃん!」



「ごめんごめん、繁忙期でさ……でも、SNSではしっかり見てたよ。キンタマーニ推しランキング、イオリちゃん1位だったんだって?」



「や、やめてください〜〜!」



イオリが真っ赤になって、ナナミの背後に隠れる。

だが、その顔には笑顔が宿っていた。



翔太はカウンターに座ると、静かに言った。



「やっぱ、ここが落ち着くなぁ。俺の居場所って感じ」



キリコが、無言でアイスブレンドを出す。



「はいよ。たぶん、それが言いたかったんでしょ?」



「……バレてる」




夕暮れ時、風が店の前を通り過ぎていく。



「チリン……」



その音に、ナナミがふと外を見る。



通りの向こうには、新しくできたおしゃれなカフェがある。

でも、そこに人影はまばらだ。



「キンタマーニ、強いねぇ……」



マコがそう呟くと、リカが苦笑した。



「違うって。ほっと一息が、強いの」



誰かが名前を笑ってもいい。

大事なのは、その中身が笑っていられるかどうか。



彼女たちは、それを知っていた。



そして今日もまた、扉が開く。



「いらっしゃいませ!」



「……ここが、キンタマーニカフェってとこ?」



初めての来店客。

でも、誰も動じない。



「はい。どうぞ、ほっとしてってくださいね」




朝の陽が、静かに差し込んでいる。



ほっと一息では、開店準備の最中だった。

けれど、いつもと少し違ったのは。

マスターの手元に、一通の手紙が届いていたことだった。



それは、数年前にこの店を一緒に立ち上げた、かつての共同経営者からだった。



手紙の中身



「あの頃は、ただの夢だった。だけどお前は、夢を現実にしたな。久しぶりに帰る。あの灯が、まだ消えていないことを願って」



マスターは無言のまま手紙をたたんだ。



そして静かに言った。



「……今日は、ちょっと特別な日になるかもな」




午後。



カフェにはひときわ渋いスーツ姿の男性が現れた。

年齢はマスターと同じくらいの50代前半。

落ち着いた物腰のその男に、ナナミが対応する。



「いらっしゃいませ、カウンターですか?」



「いや……君はナナミちゃんか」



「え、なんで──あっ!あの、もしかして……!」



ナナミがパッとマスターを見た。



「……ジンさん、だよな?」



マスターが立ち上がる。



「久しぶりだな、ヒロ」



そう、彼の名前はヒロ。

マスターと共にこの喫茶店の立ち上げを夢見た、もう一人の創業者だった。




二人は学生時代の友人であり、いつか人が帰って来たくなる店をやりたいと夢を語り合った仲だった。



だが……ヒロは早々に別の道へと進んだ。

経営の才能を活かし、大手飲食チェーンの幹部としてのし上がった。



一方、マスターは理想を追いかけ、地元で小さな喫茶店を続けた。



「……お前は、すごいよ」



ヒロはコーヒーを啜りながら、素直に言った。



「俺は、大きな会社のトップに立てた。でも、人の顔が見えなくなった」



「……ヒロ」



「それに比べて、お前の作ったこの店には……灯がある。人の顔と名前がある」



キリコ、ナナミ、イオリ、マコ、アヤネ、リカ、ナギサ、イツカ。

みんなのことを、彼は知っていた。



「SNSも、ニュースも見たよ。あの名前も、最初は笑ったけど……今じゃ忘れられない名前だ」



「……笑っていいさ。俺も吹いた」



二人は、静かに笑い合った。




その夜、ヒロはみんなを集めて言った。



「実は……会社を辞めてきた。これからは、もっと人と向き合う場所に戻りたいと思ってな」



「え?えぇっ!?マスター、どゆこと!?」



「彼は……この店の最初の仲間なんだよ。今は、少し疲れたってだけさ」



ヒロは、ゆっくり頭を下げた。



「この店の第二の灯になりたい。もし、まだ空いてるなら俺に、洗い場からやらせてくれないか?」



キリコが驚きの表情を見せた。



「……幹部だったんじゃないの?」



「だからこそ。洗い場から始めたいんだよ」



マスターは苦笑いしながら、静かに言った。



「いいよ。お前も、家族だ」



その日の夜。



イオリがぽつりと呟いた。



「なんか……灯が増えたって感じ、します」



イツカが言った。



「うん。誰かが照らしてくれた火って、ちゃんと次の誰かに届いていくんだね」



誰かがいなくなっても、誰かが増えても。

その火は、消えずに繋がっていく。



名前のことも、過去のことも。

全部、積み重ねて、ここに今がある。



それが、この店の強さだった。




秋の終わりが、すこしだけ足音を立てて近づいていた。



商店街の風は冷たくなり、ほっと一息の店先に吊るされた風鈴も、澄んだ音色ではなく、小さく乾いた金属音を立てて揺れていた。



「……あのね、マスター」



ナナミが静かに、しかしどこか決意のこもった声で言ったのは、いつもの閉店作業の途中だった。



「教育実習、正式に決まったの。来年の春から」



マスターはコーヒーフィルターを洗いながら、すこしだけ目を細めて彼女を見た。



「……そうか。おめでとう」



「ありがと。でも……すごく悩んでる」



「悩んだままで、いいさ。進みながら悩めばいい」



ナナミは目を伏せたまま、ゆっくりと頷いた。



その夜、裏手の喫煙所では、イツカとキリコが背中合わせに並んでいた。



イツカが、ぽつりと言った。



「キリコさんってさ……これからもここにいるんだよね?」



「さあ、どうだろ。私、未練の塊だからなあ。やり直したい気持ちも、ちゃんとある」



「芸能の世界……?」



「うん。あのとき、途中で逃げたの。全部自分のせいにして、誰のことも信じないで。……でもさ、今、ここの子たちを見てると……なんか、信じたいなって思える」



イツカは黙って、手すりに頬を乗せた。



「……わたしも、考えてる。大学行くべきか、ここに残るべきか。もともと中退だったし、親とはうまくいってないし……」



キリコは、そっと煙草を消しながら言った。



「答え出す必要なんかないよ。ただ、今いる場所を、大事にしとけばいい」



イツカは、少しだけ目を潤ませた。



「……キリコさんって、ずるいくらい大人だね」



「もうすぐ30だもん」



「……うわ、それ言っちゃうんだ」



二人の笑いが、秋の夜風に静かに流れていった。



翌日。



「あたし、やっぱり……料理の道、もう一度やってみたいと思って」



厨房でマコがそう言ったとき、店内はしんと静まり返った。



「調理師学校、出直してさ。ちゃんとした資格取って、本格的に自分の店をいつか持つ。あたし、夢だったんだよね、それ」



「そっか……」



イオリが、小さくつぶやいた。



マコは、彼女の頭をくしゃっと撫でた。



「イオリのこと、置いていくわけじゃないよ。いろんなところ行って、いろんな味覚えて、また戻ってくるから」



「……ずるいです、マコさん」



「えっ?」



「そんな言い方されたら、応援するしかないじゃないですか……!」



イオリはぽろぽろと泣きながら笑って、マコに抱きついた。



「もう、泣き虫は直ったと思ってたのに……」



「直ってません……一生たぶんこのままです……!」



マスターはその様子を遠くから眺めながら、何も言わず、深くコーヒーを淹れていた。



夜。



卒業……その言葉が、少しずつ現実味を帯びてきた。



キンタマーニカフェと呼ばれてからというもの、看板娘たちはキャラとして注目され、街でもちょっとした有名人になっていた。



だが、その一方で、誰もが本来の自分に少しずつ向き合うようになっていた。



ナナミは教育実習と、教師への道。



キリコはかつての夢と、もう一度向き合う覚悟。



イツカは自分の居場所と、未来の自立。



マコは料理人としてのキャリア再出発。



リカは家業を継ぐか否かの家族会議を控えていた。



アヤネは作家デビューのため、小説の新人賞に応募していた。



ナギサは保育士復帰か、別の形の子どもと関わる道を模索していた。



イオリだけが、唯一変わらず、迷っていた。



「……みんな、なんかすごいなぁ」



閉店後、カウンター席で一人ポツンとつぶやいたイオリに、マスターが声をかけた。



「イオリは、今のままでいいよ」



「……え?」



「この店は、君みたいな何者でもないけど誰かを癒やせる人が一番大切なんだ」



「……」



イオリの目が、じわりと赤くなる。



「そんな……言い方ずるいです……泣くに決まってるじゃないですか……!」



「泣いていいよ。泣いて、笑って、ここでみんなを迎えてやってくれ」



イオリはそのまま、カウンターに突っ伏して、しばらく肩を震わせていた。



その涙は、悲しみのものではなかった。

彼女の中で、ほんの少しだけ自信が芽吹いた瞬間だった。




年が明けて、商店街にはうっすらと白い雪が積もった。



ほっと一息の暖簾が風に揺れる。



この冬が終わる頃、いくつかの変化が、目に見える形でやってくることを、マスターは黙ってコーヒーを落としながら受け止めていた。



「ナナミ、こっちの角度、もっと優しく入れて。カップの口が汚れると、印象も変わるから」



「……あ、はいっ!」



ナナミは、バリスタとしての最後の仕込みをマスターから学んでいた。



彼女がこの春から本格的に教師の道へ進むことは、もう看板娘全員が知っていた。だが、誰もお別れ会の話を口に出そうとはしなかった。



まるで、今ある日常が当たり前のように続いていくかのように、誰も、あえて触れなかった。



ある夜。営業終了後。



イツカが、少し照れたように紙袋をカウンターの上に置いた。



「……あの、これ、みんなに」



「え、なにこれ?プレゼント?」



マコが袋を覗き込む。



「うん。全員分の、手作りブレスレット……色、バラバラだけど、それぞれのイメージで選んだ」



「マジかよ……女子力のかたまりじゃん……」



ナギサが軽く泣きそうな顔になる。



「これ、なんで? 誕生日とかじゃないよね?」



リカがたずねると、イツカは少しだけ困ったように笑って言った。



「んー……なんとなく。終わりが近い気がしただけ」



誰も、それ以上言葉を継がなかった。



けれど、静かに、みんなはブレスレットを受け取り、それを腕に巻いた。



たとえば。



マコのは深いオレンジ色。

ナナミは空色、

キリコは艶のある黒、

イオリは真っ白で小さなチャームつき。

それぞれの色が、ささやかに、意味を持ってそこに存在していた。



次の日の昼下がり。



看板の下で、キリコとマスターが並んでタバコを吸っていた。



「なんだか……いろいろ、変わってくな」



「うん。でも、それでいいんじゃないか?」



「……マスター。私さ、あの頃の自分に、少しだけ会いたくなってきたんだ」



「会いに行けばいい。逃げた自分を、迎えに行くんだ」



「……怖いよ」



「それでも、前を見てる顔してる。キリコは強いよ」



キリコは黙ってうなずき、煙を長く吐いた。



そして、ひとつ深呼吸して言った。



「オーディション……受けてみようと思う。昔の事務所じゃないけど、新しい場所で、もう一回だけ」



マスターは微笑んだ。



「なら、コーヒー片手に応援してる」



数日後。



静かな営業日、誰ともなく卒業証書を作ろうという話になった。



本物じゃなくていい、

自分だけがわかる卒業証書。



それは、笑い話のように始まったはずだった。



「え、じゃあわたしは泣き虫からの卒業でいい?」



「マコは暴言キャラからの卒業だな」



「リカは……口の悪さから?」



「ナギサはお昼寝しながら働く女から……って、あれ、寝てる?」



「わたしは人見知りの文学少女から、かも」



誰も、泣いていなかった。



けれど、それはたしかに名前のない卒業式だった。



言葉にならない寂しさと、これまでの全てを祝福するような、静かな儀式。



イオリが、最後に小さな声で言った。



「……わたしは、“自分が何者かじゃなくてもいいって思える自分”になれたかもしれません」



みんなが、静かに彼女の言葉を受け止めていた。



その日の最後、

マスターは、1枚の写真をカウンターの下から取り出した。



8人の看板娘が写った集合写真。

あの日、キンタマーニカフェが始まった直後に、何気なく撮られた一枚。



「俺の卒業証書は、これかな」



そう言って、写真を大事そうに磨いた。



その夜。



イツカが店を出たあと、商店街の坂道を歩きながら、ふと立ち止まった。



誰かが呼んだ気がした。



振り返っても、誰もいなかった。



でも、心のどこかで誰かが言った気がした。



「おかえり、イツカ」



彼女は、夜の空気の中、にこりと笑った。



そして歩き出した。



誰にも見えない小さな一歩。

でも、それは未来へ向かう、確かな足音だった。




3月、終わりの空気が店内を包み込むようになった。



ほっと一息には、いつもと同じようにコーヒーの香りが流れていたけれど、看板娘たちの笑顔の奥には、少しずつ別れの予感が滲んでいた。



ある日曜日。



客の少ない昼下がり、ひとりの年配の女性が、店のドアを押して入ってきた。



ナナミが声をかけようとするよりも早く、女性はまっすぐカウンターに歩み寄り、静かに言った。



「ここに来るのは、たぶん最後になると思うの」



マスターはその顔を見て、すぐに思い出した。



「あ……以前、旦那さんとご一緒に」



「ええ。夫が亡くなってから、なんだかここに来るのが、こわくて。でも……もう一度、来てみたかった」



マスターはうなずき、黙ってコーヒーを淹れ始めた。

豆は、旦那さんがいつも頼んでいたブレンドNo.3。



一方、ナナミたちは、遠巻きにその様子を見守っていた。

店内の空気がいつもより澄んで、何か大事なものを運んでいるように思えた。



「マスター。あなたに聞きたかったことがあるの」



「はい」



「あなたのお店は……どうして、こんなに温かいの?」



その質問に、マスターは少しだけ笑って、こう答えた。



「人が、去っていくことに、慣れているから……かもしれませんね」



「……去る人のことを、ちゃんと大事にしてるってことね」



「去るからこそ、大事にしたいんです」



カップが女性の前に置かれる。

あたたかな湯気が、ゆっくりと立ち昇る。



一口飲んだ彼女は、目を閉じてこう言った。



「……ああ、やっぱり、来てよかった」



それが、彼女の最後の注文だった。



店を出ていく背中に、ナナミが声をかけた。



「また……いらしてくださいね」



女性は振り向いて、ほんの少しだけ目を潤ませながら、微笑んだ。



「ありがとう。きっと、またね」



その日の夜。



看板娘たちは、それぞれの最後を意識し始めていた。



キリコは、正式にオーディションを受けることを決め、週に1度、店を休むようになった。



ナナミは、教育実習の準備で忙しくなり、制服姿の時間が減っていった。



イツカも、少しずつではあるが、マスターと共にこれからの店を考えるようになっていた。



みんなが、同じ場所にいながら、少しずつ別々の未来に歩き出していた。



その夜、マコがみんなに言った。



「さ。そろそろ、最後のまかないやるか」



そう。彼女の提案で始まった月1の看板娘のまかないディナーも、次が最後だった。



「え、最後って言わないで〜」



イオリが涙目になる。



「いや、最後って言わなきゃ、ちゃんと美味しく作れないからさ」



マコは笑いながら、包丁を握った。



その日の料理は、みんなの好きなもの全部詰め込んだプレートだった。



オムライス、グラタン、唐揚げ、ポトフ、そして意味もなく豪華なプリンアラモード。



全部、めちゃくちゃで、統一感ゼロ。



でも、それがよかった。



「なんか、修学旅行の最後の晩みたいだな」



リカがつぶやく。



「……あたし、帰りたくない」



ナギサの声が小さくなる。



「帰らなくていいよ。だって、ここが帰る場所でしょ」



アヤネが静かに言った。



誰も、返せなかった。

胸が、苦しくなるほど、嬉しかったから。



深夜。



片付けも終わって、静まり返った店の中で、マスターがひとりで椅子に座っていた。



そこに、イツカがコーヒーを一杯、そっと差し出す。



「マスター。わたし、まだまだ全然ですけど……この場所、守っていきたいって、本気で思えるようになりました」



マスターは、イツカの顔をじっと見てから、ふっと微笑んだ。



「それが、名前を持つってことだよ」



「名前?」



「君は、まだこの店のどこにもいない空白だった。キンタマーニの、Iが2人いることに、誰も疑問を持たなかった。でも……君の頭文字は、本当はTなんだろう?」



イツカは、目を見開いてそっと、うなずいた。



「……はい。ツキノ イツカ。Tとして、いつか名前が並ぶように、胸を張れるように、がんばります」



マスターはコーヒーをひとくち飲んで、ぽつりと言った。



「いい名前だ」



その夜、誰にも気づかれず、店の奥の名札プレートに。



空白だったTの場所に、新しい名前が小さく刻まれた。



T ……ツキノ イツカ



ついに、全てのピースがそろった。



キンタマーニという、奇妙でふざけた名前の中に、8人の過去と未来がしっかりと収まっていた。




春の匂いが、店の前の通りにやってきた。



今年は桜が早い。

いつもより一週間ほど早く、商店街の坂の上にある桜並木が、淡く咲き始めていた。



ほっと一息の入口に吊るされた風鈴が、柔らかい音を鳴らす。

冬の名残をどこかに残しながらも、季節が切り替わる合図のようだった。



この頃になると、客の顔ぶれも変わってくる。



大学を卒業して引っ越す若者。

定年退職して夫婦で旅行を始めた常連。

あるいは、進学や就職で地元を離れる家族連れ。



「出会いと別れが交差するカフェだね、うちら」



そうナギサが言ったある日の昼下がり。



「うん。コーヒーの匂いって、なぜか別れに合うんだよ」



と、アヤネが相づちを打つ。



「そんな物悲しいこと言わないでー!」



と、イオリが思わず泣きかけて、



「まあでも、全部ひっくるめてまた来たくなる場所なんでしょ」



と、キリコがポツリと言った。



店は変わらず、にぎやかだった。



その日の夜



マスターが、店のカレンダーに小さな赤丸をつけた。



4月15日



その日を境に、いくつかの変化が始まる予定だった。



・ナナミの教育実習、本格始動。週3出勤になる。



・キリコのオーディション通過。一次審査突破の報告と、地方ロケが入るかもしれない。



・マコが、料理監修の依頼を受け、他店のキッチン立ち上げをサポート予定。



・アヤネの小説が、文芸賞で“次点”に選ばれた。ネットで話題になり、連載オファーが届く。



・ナギサは、保育園での週1ボランティアを始めた。



・イオリは、正式にイケメン彼氏とお付き合い半年を迎え、進路も悩み始めている。



・リカは、実家の家業を手伝うか、このまま就職するかで悩み中。



・そして……イツカは、マスターから受け継ぐように、店の経理や備品の発注など、裏方の仕事を任され始めた。



どこかに向かう足音が、はっきりと聞こえるようになった。



翌朝



「うぉいっす、店長候補〜」



と、朝イチでリカがイツカの頭をぽんと叩く。



「ちょっ……やめてくださいってば」



「なに照れてんのよ。あんたがいなかったら、ここ潰れてたかもね」



「そんな大それたことは……」



「じゃあ、もっと自信持ちなよ。あんたの名前、もうプレートにあるんだからさ」



カウンターの奥、少し目立たない場所にある名札。

そこには。



ツキノ イツカ



と、確かに記されていた。



まだ、誰にも言われていない。

でも、誰もが気づいている。



この店の未来を担うのは、きっと彼女なんだと。



夕方。



ちょうど日が傾きかけた頃。



カウンターに、ふたりの常連が並んで座っていた。



翔太と祐介だ。



最初にキンタマーニの元ネタを発見したあのふたり。



「なあ、俺たち、やべぇ伝説つくっちまったな」



「まさか、ここまで続くとは思ってなかったよ……」



「てか、もうすぐ終わっちゃう感じ、してるよな」



「……うん。なんか、そういう匂いするよな」



会話の向こうで、イオリが笑っている。



ナナミが常連に説教し、キリコが無表情でコーヒーを注ぎ、マコがトマトソースのパスタを焼きすぎて焦がし、アヤネが黙々と読書し、ナギサが眠そうにプリンを狙っている。



それぞれが、それぞれの場所で、今日という日を生きている。



これが、灯だと思った。



何気ないこの一日が、永遠ではないことを、誰よりも知っているからこそ。



「……あのとき、キンタマーニなんて言って悪かったな」



「今さらかよ。全員に謝れ」



「無理。怖すぎ」



二人の笑い声が、店内に小さく響く。



でも、それすらもこの場所らしさだ。




閉店後。



その夜、看板娘たちは、自然と一箇所に集まっていた。



カウンターの裏、キッチンの小さな丸テーブル。



「……あたしら、あと何回、こうやって集まれるんだろうね」



誰かが言った。



誰も答えない。



静かな沈黙が落ちて、そして。



「じゃあさ」



マコが提案した。



「次のまかない、ラストにしよっか。全員、何か一品作って持ち寄って。最後の晩餐だ」



「うわ……それ泣くやつだ」



ナギサが早くもティッシュを構える。



「でも、ちゃんとしよう。ちゃんと、終わりをやろう」



アヤネの目が揺れない声で言う。



「わたし、プリンつくる」



イオリが小さく手を挙げる。



「じゃ、あたしグラタン」



ナナミが微笑む。



「そんじゃ、オムライス……でしょ、ナギサは」



「え、ばれた……」



キリコも、リカも、そしてイツカも、誰ひとりとして口に出さなかったけど。



その夜、みんなの心に火が灯っていた。



それは、これまでともに過ごしてきた時間が、ちゃんと意味だった証だった。




その日は、開店前から店の空気が少し違っていた。



カウンターの奥では、リカがエプロンを二重に結び直し、キリコがなぜか厨房の備品をピカピカに磨いていた。



マスターは「今日は任せるよ」とだけ言い残し、カフェの外のベンチで煙草をふかしている。



そう。

今日は、最後のまかない。



看板娘たち全員が、自分の料理を一品ずつ持ち寄り、これまでの思い出と、これからの別れに、小さなピリオドを打つための日だった。



「今日は料理人多すぎ問題」



「いや、ちょっと待って。キッチン、狭いから交代制でやろ?」



リカが手を挙げて、キッチン前にホワイトボードを立てた。



「ナナミ→ナギサ→アヤネ→イオリ→マコ→リカ→キリコ→イツカ、の順で行こうか」



「先生、ナギサが火に弱いでーす」



「反射で鍋つかみ落としただけだもん……」



ナギサはしょんぼりしながらも、隣のイオリと目を合わせて笑う。



「緊張するね、わたし」



「うん。でも、一緒に頑張ろ」



まるで文化祭の準備のような、妙な高揚感。

でもそれは、心の奥で分かっているから。



この日常が、いつまでも続くわけじゃないって。




「料理は、想い出になる」



ナナミのオムライスは、懐かしい味がした。



ケチャップでハートが描かれたそれは、彼女が新人の頃、間違えてご飯に砂糖を入れてしまった事件を思い出させた。



「ちゃんと塩使ったよっ!」



「そりゃもう最低ラインでしょ」



みんなの笑い声と一緒に、皿が空になっていく。



ナギサは、チーズ入りのグラタン。



「保育園でも出すやつなんだー。子どもたち、グラタン嫌いな子いないもん」



その一言に、全員が少し黙ってしまった。



彼女の目には、ちょっとだけ涙の気配。



アヤネは、なんと本の形をしたケーキ。



「レアチーズケーキなんだけど、上に食べられる紙印刷してあるの」



「なにこれ……本の味がする……!」



「それ褒めてるのか?」



イオリは、小さなガラスのカップに入ったプリン。



一つひとつ、手書きでThank Youの文字が描かれていた。



「緊張して、昨日3回失敗したの……でも、今日のはちゃんとできたよ!」



それだけで、なんか泣きそうだった。




「マコの味は、家庭の味」



マコが出したのは、豚の角煮。



「うち、父親が料理人でさ。あたし、あんまいい娘じゃなかったけど、この味だけは家の匂い思い出すんだよね」



リカが無言で、箸を伸ばしていた。



「やばい、これ……ご飯ほしい」



「これ、おにぎりにして持ち帰りたい」



リカは、がっつり系焼きそばを披露。



「今日がラストなら、腹に残るもん出さないとでしょ」



いつもの豪快な見た目とは裏腹に、具材がちゃんと細かく切られているのが、彼女らしかった。



「しれっと優しさ出してんじゃん」



「ばっか、黙って食いな」




「キリコのコーヒーには、何も混ざってない」



キリコは、いつものように無表情で言った。



「コーヒーしか作れないから、コーヒー出す」



でも、そのコーヒーには、全員が心を持っていかれた。



酸味と苦味のバランス、香り、余韻……。

いつものブレンドなのに、今日はちょっと違って感じた。



「味、変えた?」



「ううん。でも、あんたらの顔、今日は違うから」



そう言ったあと、キリコはカウンターに座り込んで、小さくつぶやいた。



「……たぶん、これが最後の、全員集合のまかないでしょ」




「イツカの皿には、未来が乗ってた」



イツカが最後に出したのは、小さな前菜の盛り合わせ。



「冷蔵庫に余った食材使って、でもちゃんと再構成したくて……バジルソースは初挑戦です」



料理としての完成度よりも、その姿勢が、みんなの心に響いた。



「あんた、やっぱすげーわ」



「ちゃんと店のこと考えてんの、イツカだけだよな」



「マスター、後継者決めて正解だったんじゃない?」



彼女は少しだけ照れながら、でも誇らしげにうなずいた。




「そして灯がともる」



全員が満腹になって、誰も立ち上がれなくなった頃。



マスターが静かに店に戻ってきた。



「おいしかったか?」



誰も答えなかった。



全員、同時に泣いていたから。



マスターは、それを見ても何も言わなかった。

ただ、電気を一つずつ消して、カウンターの奥に立った。



「……みんな、おつかれさん」



そして、最後にひとこと。



「ここはまた来たくなる場所でいような」



誰かが、小さく答えた。



「はい……」



その返事が、きっとこの店の未来の開店準備だった。




閉店の音は、あいかわらず静かだった。



カラン、とドアベルが鳴り、最後の客が帰る。

マスターがドアの鍵を閉め、看板に「CLOSED」を下げる。



それは、いつも通りのことだった。

でもこの日は、何かがちがっていた。



何かが、終わりに近づいている。



全員がそれをわかっていて、誰もそれを口にしなかった。



「いつも通りに閉める、それだけの夜」



キリコは、カウンターの中でグラスを拭いていた。

その横で、ナナミがストローを片付けている。



「なんか……しんみりするのって、逆にやだね」



「わかる。でも、こういうのって、無理に明るくしてもウソっぽくなる」



「うん……」



隣のナギサは、スタッフ用冷蔵庫を覗いて「まだプリン残ってる」と言った。



「イオリちゃんのやつ?」



「うん。これ、あしたも出していいよね?」



「……あしたも、か」



その言葉に、誰も返事をしなかった。



ナギサは、少しだけ寂しそうにプリンを閉まった。




「それでも明日はくる」



その日、アヤネは少しだけ遅くまで残っていた。



店の隅で、文庫本を開きながら、ずっと黙っていた。



「アヤネ?」



声をかけたのはイツカだった。



「なに読んでるの?」



「……読んでない。今日は、読む気分じゃないみたい」



イツカは隣に腰を下ろした。



「終わりが近づくと、人って勝手に思い出を整理しはじめるよね」



「うん。私は、読みかけの本を最後まで読みたくないのと同じ」



「……でも、それでも時間は進むんだ」



「そうだね。ページをめくらなくても、日付は変わるから」



沈黙が、少し心地よかった。



やがてアヤネが、ぼそっと言った。



「……わたし、あの子たちに手紙、書いてるんだ」



「えっ?」



「あの子たちって……お客さん。常連の、あの人とか。名前も知らない人もいるけど、顔は覚えてる。なんか、ひとこと残したくなって」



「それ、すごくいいと思う」



「……でも、なんて書けばいいんだろう。また来てねとも言えないし……」



「また、どこかででいいんじゃない?」



「……うん、それ、いいね」




「マスターの一日、イツカのこれから」



その夜、イツカは最後にマスターと2人きりになった。



カウンターの照明だけが灯る、薄暗い喫茶店。



「イツカ」



「はい」



「どうだ、あと少しで、この店も一区切りだな」



「……実感、ないです」



「そりゃそうだ」



マスターはカップに湯を注ぎ、静かに言った。



「俺がこの店を始めたとき、最初はほんとに逃げ場だったんだ」



「……逃げ場?」



「前職、ブラック企業でな。毎日終電、休みなし。心が先に潰れてな」



「……」



「この店を出したのは、たまたま。だけど……こうして、いろんな子たちが集まって、笑って、泣いて、誰かにコーヒー出して……気づいたら、俺が救われてた」



イツカは黙って聞いていた。



「だから、な。あんたがこの店を継ぐって言ってくれて、ほんとに嬉しかったよ」



「……私は、マスターみたいにはなれません」



「ならなくていい。自分のやり方で、自分の居場所を作れ。そうすりゃ、誰かがまた来る」



イツカは、ゆっくりとうなずいた。



マスターが、棚から1冊のノートを取り出す。



「これは?」



「店を開いてから、書いてたメモ帳だ。仕入れ先、客の好み、機材の癖、あと……俺の独り言」



「……もらっていいですか?」



「おう。お前に渡すつもりで残してたからな」



ノートは、少しだけ埃をかぶっていて、でも中は丁寧な文字でぎっしりと書かれていた。



それは、この喫茶店の心臓みたいだった。




帰り道、イツカはそのノートを胸に抱えて歩いた。



夜の空気は少し冷たくて、風が髪を揺らす。



信号待ちの間に、ノートを少しだけ開いた。



イオリはミルク多めが好き。



キリコはアイスコーヒーをあまり飲まない。



ナナミは風鈴の音を聞くとリラックスする。



ページをめくるごとに、そこには日常が詰まっていた。



この店が、どれだけ人の人生に触れてきたか。



この店が、どれだけ想われてきたか。



イツカは信号が青になったことに気づかず、そこで涙をこぼした。




そして、心の中で誓った。



「私は……この店を、終わらせない」



この物語が、一度幕を下ろすとしても。



また、新しい幕が上がるように。




……………………。




「その日、喫茶店ほっと一息は、最後の営業を迎えた」



カラン。



朝一番のドアベルが、いつも通りに鳴る。



「いらっしゃいませ!」



元気よく声を張るナナミは、少しだけ目元を赤くしていた。



イオリは今日もおっとり、でも少しだけ化粧が濃い。



ナギサは相変わらず眠そうに、それでも丁寧にカウンターを拭いている。



いつもと変わらない、でも確実に最後だとわかる日。



看板娘たちは、誰よりもいつも通りを守ろうとしていた。



それは、自分たちのためであり、来てくれる常連たちのためだった。




「ありがとうを込めて、コーヒーを」



朝から満席だった。



SNSでの告知は最低限しかしていない。



けれどこの日、顔なじみの常連たちが、次々と足を運んだ。



・いつもアイスブレンドを頼む翔太



・注文を迷いすぎて決められない老婦人



・「今日は誰が推しですか?」と毎回聞いてくる大学生



・黙ってカウンターに座り、ブラックだけを飲むサラリーマン



何も言わずに座って、いつも通りのコーヒーを飲むだけ。



でも、帰るときはみんな一言、残していく。




「……ありがとうな」



「いい時間だったよ」



「また、どこかで」



それを聞いて、笑顔で「ありがとうございました」と返す彼女たちの目は、どこか潤んでいた。




「マスター、いつまでいんの?」



キリコが声をかける。



「明日から、何してんですか?」



「まぁ、ちょっと旅でもしようかなと思ってる」



「らしいですね」



「でも店が終わるだけで、人生終わるわけじゃないしな」



「……かっこつけんな、ジジイ」



マスターは小さく笑って、静かに答える。



「お前らがこの店をここまでにしてくれたんだ。俺は、ただ居ただけだよ」




そして彼は、店の奥から一つの木箱を持ってくる。



「これをな」



中には、8人分のネームプレートが入っていた。



木製の板に、焼きごてで名前が彫られている。



キリコ

ナナミ

タマエ

マコ

アヤネ

リカ

ナギサ

イオリ



「……泣かすな」



ナギサが鼻をすすりながら、そっと手に取る。



「ずっと、ここにいた証だ」



「じゃあ、店終わっても、たまに飾ってくれていい?」



「おう。夢でな」



 

「退勤打刻、最後のピッ」



閉店時間が近づき、最後の一杯のコーヒーが運ばれる。



マスターが照明を少しずつ落とす。



そして、最後のカランという音ともに、ドアが閉まる。



中にいた全員が、静かに息をのんだ。



カウンターの奥で、タイムカードが並ぶ。



ナナミが、一番手でピッと打刻。



「じゃあ……私、教師がんばる」



タマエが続く。



「子ども食堂の手伝い、ちゃんと続けていきます」



キリコも。



「次、ちょっと撮影現場の仕事、久しぶりに戻ろうと思ってる」



そして、ひとり、またひとりと打刻していく。



リカ、ナギサ、マコ、アヤネ、イオリ。



最後に、イツカがカードを手にする。



でも、打刻機の前で、ふと手を止めた。



「私……まだ押しません」



「え?」



「私は、ここに残ります。マスターがくれたこの場所、次は私が守ります」



全員が、じっと彼女を見つめる。



「誰かが帰ってきたとき、灯りがついてる店にしたいんです」



マスターは静かに笑った。



「なら、看板はそのままにしておけ。ほっと一息、それがお前の店だ」



 

「最後のコーヒー、そして始まり」



夜、看板娘たちは全員でカウンターに座った。



マスターが一杯ずつ淹れる。



「これは、最後の……いや、始まりの一杯だな」



彼女たちは、コーヒーを飲みながら笑って、時々泣いた。



「……もうこのメンバーで働けないんだね」



「でも、ここで出会えたのは事実でしょ」



「また会おうよ、絶対。あの、推しアンケートのときみたいにさ」



「次集まるとき、誰が太ってるかチェックな」



「やめて、それはリアルにやめて」



笑い声が、静かな店内に響いた。



まるで何年分もの時間を、一晩で抱きしめるように。




イツカは、店内を見渡した。



いつか、この光景がまた見られますように。



でも、それまで。



「いってらっしゃい」



心の中で、そうつぶやいた。




エピローグ




レンガ造りの壁に絡まるツタは、春の陽を受けて、柔らかな新芽をつけていた。



変わらない外観の中にも、ほんの少しの季節の息吹がある。



その街角に、あの喫茶店は今もある。



『ほっと一息』



真鍮の取っ手、木の扉、そして風鈴の音。



チリン。



風が吹くたび、あの日と同じ音がする。

まるで、「おかえり」と誰かが囁いているような音色。




店内には、懐かしい空気が流れていた。



木の温もり、コーヒーの香り。



どこか懐かしい、テレビドラマのようなBGM。



そこには今も、人の暮らしと、物語が息づいている。



カウンターの奥では、一人の若い女性が、丁寧にコーヒーを淹れていた。



イツカ……あの看板娘たちの最後のひとり。



彼女は今、店を預かる人になっていた。



派手さはないが、笑顔には確かな灯りがある。

誰かが疲れて帰ってきたとき、そこにいてくれる人の笑顔だ。




扉が開く。



カラン。



その音とともに、ひとりの女性が店に入ってきた。

年季の入ったネームプレートを、そっとカウンターに置く。



「……ただいま」



イツカは、少し驚いたように目を見開き、それから、優しく笑う。



「おかえりなさい。コーヒー、ブラックでよかったですか?」



「変わってないんだね」



「はい。たぶん、ずっとこのままです」



そのやりとりに、店の空気が少し揺れた。

過去と今が、静かに再会したような……そんな音がした。




壁の一角には、8枚の写真が飾られている。

看板娘たちの笑顔。

あの喧騒と温もりに満ちた日々が、そこに閉じ込められている。



その下には、小さくこう書かれていた。



KINTAMANI CAFE。



その名に、想いを込めて。




思い出というのは、消えていくものじゃない。

思い出すたびに、また生まれ直すものだ。




今この瞬間も、どこかで誰かが、

少し泣いて、少し笑って、この店を思い出しているかもしれない。



たとえそれが、ほんの数分の物語だとしても。

この扉の向こうには、いつでも居場所がある。




ようこそ、喫茶店ほっと一息へ。



疲れたら、またここに帰ってきてください。



あなたのために、今日も一杯のコーヒーを淹れています。




そして、物語は終わらない。

風が鳴る限り、誰かがドアを開ける限り。

この店は、きっと今日も静かに、誰かの日常を支えている。




カラン。



終わりではなく、いつもの始まりの音が、響いた。








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