開店前のほっと一息。
まだ暖簾もかかっていない時間帯。
店内では、マスターがカウンターの奥で郵便物を整理していた。
その中に、ひとつだけ国際郵便の封筒が混じっていた。
宛先は、カフェの住所。
差出人は、インドネシア・バリ島。
そしてその下に記されていた文字は「Kintamani Café」
「……本当にあるのか、あっちにも」
マスターは、封筒を開けた。
中には、便箋数枚と、1枚の写真。
写真には、小さなカフェの前で、スタッフたちがTシャツを着て笑っている。
それはどこか懐かしいデザイン。
背中には、Team KINTAMANIのロゴ。
でもその下に書かれているのは……インドネシアの名前たちだった。
手紙の内容。
日本の皆さんへ
インターネットで偶然あなたたちのカフェの話を見ました。
とても驚きました。
そして、嬉しくなりました。
わたしたちの町の名前、キンタマーニが、遠い国で笑われながらも、愛されていると知って。
わたしたちも、同じように始めてみました。
小さな町の、小さなカフェに、想いを込めて。
あなたたちの物語に、勇気をもらいました。
本当にありがとう。
もしよければ、いつか来てください。
本物のキンタマーニにも、きっと何かがあります。
敬意と感謝を込めて
Kintamani Café スタッフ一同より
「……なにそれ。エモ」
開店準備で入ってきたマコが、思わず声を漏らした。
「世界に広がるキンタマーニ。やばくない?」
「やばいのは名前だよ」
キリコが冷静に突っ込むが、顔はどこか誇らしげだった。
昼のひととき。
店は相変わらずの賑わいだった。
常連も、新規も、推しTシャツを着ている客もいれば、
メニュー名に笑って写真を撮る観光客もいる。
「キンタマブレンドください!」
「はい、おひとつキンタマ入りまーす!」
「マコ、やめて!!言い方ァ!!」
「ごめんごめん、テンション上がってさ~!」
そんな日常。
何度目かの笑いが巻き起こるたび、この店がただの喫茶店ではないことを、改めて誰もが実感していた。
閉店準備をしているとき、ナナミがふと口を開いた。
「ねぇ……わたしたちの名前ってさ。最初はネタだったじゃん?」
「うん。並べたらキンタマーニってね」
イオリが小さく笑う。
「でも、今はなんか……ちゃんと意味がある気がする」
「うん」
ナギサがこくりと頷いた。
「わたしたち、ここで名前を持ってるって感じがするんだよね」
それぞれの名前に、物語があった。
強がりのリカ。元ヤンのマコ。泣き虫のイオリ。文学少女アヤネ。そして、過去を抱えていたキリコ。未来を夢見るナナミ。包容力のナギサ。芯のあるタマエ。
それらが集まり、重なって、キンタマーニという、
ふざけてるようで、もう変えようのない名前ができていた。
そしてその名前は、今、海の向こうで誰かを勇気づけている。
マスターは最後のカップを洗いながら、呟いた。
「この名前……思いつきで笑ったのに、こんなに大事なものになるとは、思わなかったな」
そして、壁のメニュー表の下。
ひとつだけ、新しく貼られた写真。
それは、バリ島のカフェスタッフからの集合写真だった。
「本物のキンタマーニ。いつかみんなで行けたら、面白いかもな」
その言葉を、誰が聞いていたわけでもない。
でもたしかに、ここから次の物語が始まる予感だけは。
カップの中の、最後の一滴のように、静かに満ちていた。
朝日が、店の窓にゆっくりと差し込んでいた。
ほっと一息はまだ開店前。
しかし、すでに厨房からはコーヒー豆を挽く音がしていた。
「……キリコさん、早いですね」
イオリがそっと顔を出した。
制服のシャツのボタンを留めながら、まだ少し眠そう。
「たまには早番にしてみたの。今日の朝焼け、綺麗だったし」
「……うん。なんか、いい日になりそう」
イオリはいつの間にか、泣かなくなっていた。
笑顔の数が少しずつ増えて、コーヒーの味も覚えて、
常連さんに癒し系だねと言われて、本気で喜んでいた。
キリコはそんなイオリに、静かにコーヒーを一杯差し出す。
「……飲んでから動きな」
「ありがとう、キリコさん。えへへ、今日もがんばります!」
すっかり定着した推しアンケートは、
形式こそエンタメだったが、看板娘たちの中にある想いに火をつけていた。
「私は何者として見られてる?」
「何を伝えたい?」
「この名前で、この場所で、どう生きたい?」
ナナミは、大学のゼミでこの店を研究テーマにしていた。
地域と若者の共生空間として、今や論文の題材になりかけている。
「まさか、キンタマーニカフェってワードを教授に説明する日が来るとは……」
「教授どんな顔してた?」
「ひとこと、センスあるねって言われた……死ぬかと思った」
笑いながら話すその声の裏に、ナナミは少しだけ、責任という言葉を感じ始めていた。
この店が好きだ。
ここで働くみんなも、来てくれる人たちも。
笑われたって構わない。この名前で、胸を張れるなら。
アヤネは文庫本を読みながら、ふと手を止めた。
ページの角に、何かメモ書きが挟んであった。
「……名前は、呪いにも翼にもなる……か」
ふと見上げた視線の先に、常連たちの笑顔があった。
推しとして見られることは、時に疲れる。
でも、向き合い方次第で、それはきっと羽になる。
アヤネは、読みかけのページを閉じた。
そして、メモの裏に、こう書いた。
「私はアヤネ。地味でも、誰かに届く言葉を探してる」
「やるのか、本当に……」
リカが呆れたように腕を組む。
目の前に並んでいるのは、数枚のチラシ。
《KINTAMANI FES 2025》
名前から生まれた、笑って泣ける一日だけの祭り。
「でも、なんかワクワクするっしょ?」
とマコが言えば、
「イベント好きな人間の目してるもんね」
とタマエが返す。
「ってかこれ、予算どうするの?」
とナギサが小声で突っ込むと、
「私、知り合いの市役所職員に企画書出してみる」
とナナミ。
「……ほんとにフェスやる気じゃん」
とキリコがため息交じりに笑う。
「やりたいなら、ちゃんとやろうよ」
イオリの言葉は、以前よりもしっかりしていた。
その瞳の奥には、好きな人がいて、仲間がいて、未来を見ようとしている意思があった。
「この名前で、どこまで行けるか見てみたい」
そう言ったのはタマエだった。
一番年上で、しっかり者の彼女は、最近、店のマネジメントまで引き受けている。
「ふざけて生まれた名前だけど、ここまで来たのは、ふざけてなかったからでしょ?」
誰かが、ふっと笑った。
その輪に、誰も違うとは言わなかった。
「名前って、不思議なもんだな」
マスターは、夜風を受けながら呟く。
隣に立つのは、遅れてシフトを終えたキリコ。
「……最初は、ただのジョークだったのに」
「そう。でも、ジョークって案外、真実に近かったりする」
「それ、どこかの誰かの受け売りですか?」
「バレたか」
ふたりは、静かに笑った。
ほっと一息の看板の下、風鈴がやさしく鳴った。
「これ、ほんとに明日やるの!?」
リカが叫ぶ。
カウンターの上には、ありえない量の紙コップ、缶バッジ、手作りフライヤーが山積みになっていた。
「ええ、やりますとも」
タマエが涼しい顔で答える。
ここ最近、半分くらいマネージャーになっている彼女は、市の後援を取ってきた上に、商店街全体を巻き込むことに成功していた。
「でもさ……もう祭りのスケールじゃなくない?」
ナギサが、ぼうっとしながらストローくわえてる。
「野外ステージもあるし、商店街全体を歩行者天国にしてるし……出店も、20店舗以上」
「ていうかさ、うちら看板娘っていうか、もう……アイドル……?」
マコが手元のスタッフTシャツを見て、小さく苦笑する。
「違うってわかってるけど、これはさすがにアイドルっぽいかもな……」
「……本気すぎる。やばい」
アヤネはいつもより2トーン高い声でつぶやいた。
でも、それは不安じゃなくてワクワクの裏返しだった。
「なにこれ、出店やばいじゃん。焼きそば、たこ焼き、喫茶店のドリップ体験、謎のキンタマーニ神社ってなんだよ」
「それ、ナナミちゃんがノリで作ったんだって。運気が上がるって書いてあるけど、どう見ても悪ふざけだよな」
翔太と祐介も、完全にスタッフの一員として動いていた。
「てかさ。見てみ、これ」
祐介がスマホを見せる。
『キンタマーニフェス、行くしかない』
『名前で笑ったけど、真面目に内容エモすぎて泣ける』
『看板娘たち、全員推せる』
『これが地方再生ってやつか…!』
SNS上ではすでに、バズの波が第2波を迎えていた。
看板娘8人とマスターは、営業終了後の店内で最後の確認をしていた。
「明日はもう、リハーサルも何もなし。ぶっつけ本番だ」
「やるだけだね」
「お客さん、めっちゃ来ると思うけど……やりきろうね」
「名前で始まったけど、今のうちらは、名前以上の何かになってる気がするし」
誰が言ったのかは、もはや覚えていなかった。
けれど、誰もが静かにうなずいていた。
この1年で、それぞれが少しずつ変わってきた。
ただの看板娘じゃない。
人生を背負って、ここで生きてきた仲間だ。
マスターは静かに言った。
「お前ら、今日だけはちゃんと自慢させてくれな」
朝10時。
商店街に人が集まりはじめる。
キンタマーニカフェのブース前は、すでに長蛇の列。
出迎えるのは、カフェオリジナルのエプロン姿に、推し色リボンをつけた看板娘たち。
写真ブースあり!
ドリンク提供ブースあり!
ステージイベントあり!(←歌うの!?)
「やっぱり……私、歌うの?」
「うん、アヤネ。いけるって」
「……死んだらお墓に花植えてください」
「先に言わないで!」
会場は、笑い声と音楽と、コーヒーの香りでいっぱいだった。
アヤネ朗読劇&ピアノ演奏(祐介伴奏)
→ 泣いてる人続出。SNSで「文学派看板娘すげえ」がトレンド入り
マコ&リカの料理対決ステージ
→ 真面目すぎて勝負つかず。どっちも旨すぎた
イオリ×彼氏のカップルインタビュー(飛び入り)
→ ギャラリーの「尊い……」の声、数百件
タマエ&キリコの看板娘の裏側トークショー
→ 意外とリアルな話に笑いと涙が入り混じる
イベントの最後は、商店街の中央広場で打ち上げ花火。
この街では、珍しい。
イオリが、小さな声で呟いた。
「なんかさ……夢みたい」
キリコが横で静かに微笑む。
「夢は、自分で選べるもんだよ」
ナナミは、ステージから手を振る観客たちの中に、ゼミの教授を見つけて泣きそうになってた。
「……あの人がレポート読んだら、マジで教授人生変わるかも」
「変えてけ、未来をさ」
と、マコが笑う。
フェス終わり、貼り紙が一枚。
『KINTAMANI FES、ご来場ありがとうございました!私たちは、名前を笑われても、ここまで来ました。でも今は、この名前が、私たちの誇りです。また会えたら、今度はあなたの名前を聞かせてください。』
「……片付け、想像の20倍あったね」
マスターが片手で頭をかきながら、店内の紙コップやらガムテープの山を見てため息をついた。
「あのね、もうね、指先がガムテープでバッキバキなんだけど」
マコが言うと、リカが笑った。
「バキバキ言うな、バキバキ」
「ああ〜……でもなんか、終わったって感じ」
ナギサは、掃除機のコードを巻きながら座り込んだ。
昨日、あれだけの人が集まって、歓声が響いて、拍手と涙と笑顔で終わったフェス。
今日のほっと一息は、いつも通りの静けさが戻っていた。
それが、ちょっとだけ不思議で、
だけど、すごく、心地よかった。
キリコが、久々にゆっくりした動きでコーヒーを淹れていた。
誰もいないカウンター、静かな音楽。
カップの中に、香ばしい湯気が立ちのぼる。
「……終わったね」
そう言ったのは、イツカだった。
9人目の彼女がこの場所に座るのは、実は久しぶりだった。
「終わった、けど……なんか、始まったような気もするんだよな」
「うん」
イツカはゆっくりうなずいて、マスターの淹れたコーヒーをひとくち、すする。
「なんでかな。まだ何も決まってないのに、ちょっとだけ……未来が楽しみって思えた」
キリコは、ほんの少しだけ、笑った。
「それ、たぶんふつうになれたってことだと思うよ」
ナナミは、昨日の写真をスマホで整理してた。
「センターじゃないのにやたら映ってる……あっ、また教授からLINE来てる……レポート、なんで感動してるの!?」
タマエは、地元商工会から「来年も頼む」とメッセージを受けていた。
「さすがに来年の話は早すぎる」と言いながら、スプレッドシートを開いていた。
アヤネは、本を読んでいた。いつも通りの分厚い文学作品。
だけど、途中で顔をあげて、窓の外を見ていた。ちょっと気が散るって、嬉しそうに。
ナギサは、ストローをくわえながら、空っぽのカップにホットミルクを注ぎ足していた。
「ふつうがいちばんだね〜」
とニコニコ。
イオリは、彼氏と連絡を取りつつ、みんなの会話に全力でついていっていた。
「次、みんなで水族館とか行きたいですっ!」
祐介が珍しく、カウンターの中にいた。
マスターに頼まれて、ミルを回していたのだ。
「……どうだ?」
「うーん、やっぱり全然違うっす。音とか、手応えとか……」
「まあ、時間かけて覚えりゃいい。急ぐもんでもねぇし」
祐介は笑った。
「マスター、ほんとに俺、ここで働いてもいいんですか?」
「いいもなにも、お前、昨日は店の外でずっと動いてたじゃねぇか。もう働いてるようなもんだろ」
「……確かに」
「それに、あの娘がいるだろ」
マスターが目線を向けると、カウンターの隅でアヤネが読書していた。
少しだけ、ページをめくる手が止まる。
「……なんでわかるんすか」
「店を見りゃ、だいたいのことはわかるよ」
照明が落とされた店内。
最後に残ったのは、看板娘たちとマスター。
「ねぇ」
ナナミが言った。
「わたしたち、これからもずっとここにいるのかな」
誰もすぐには答えなかった。
でも、やがて、キリコが小さく息を吐いて言った。
「……いつまでいるかは、わかんないけど」
「うん」
「でも、いたことは、きっとずっと、ここに残るよ」
イオリが、涙ぐみそうな顔で頷く。
「わたしも、ちゃんと、思い出になりたいです」
マスターが、最後のシャッターを閉めながら言った。
「……思い出になるのは勝手にされるもんだ」
「でもな。思い出にするかどうかは、自分で選べるんだよ」
午前9時。
シャッターが開く音。風鈴がチリンと鳴り、薄く冷たい空気が流れ込む。
「おはようございます〜」
ナナミが制服のジャケットを脱ぎながら、鼻歌まじりに入ってくる。
そのあとを追って、ナギサがのんびりと入店。
「……あれ?今日、キリコさん早番じゃない?」
「うん、なんかちょっと遅れて来るって。珍しいよね」
ナナミが言うと、奥からマコの声。
「昨日さ、夜にイオリちゃんと電話してたっぽいよ。悩み相談的なやつじゃないかな〜」
「へぇ〜。あの二人って、地味に仲良いよね」
ナギサは笑いながら言った。
「なんかさ……お姉ちゃんと妹って感じ。わたしも間に入りたい〜」
奥のカウンター席。
イツカが、マスターの淹れたコーヒーを片手に、なにか書き物をしていた。
「……なに書いてんの?」
マスターが聞くと、イツカは苦笑しながらメモを隠した。
「えっ、秘密です。だって恥ずかしいから」
「またポエムか?」
「日記ですよ!それに……ちょっとだけ、これからの話とか、まとめておきたくて」
イツカは静かに微笑んだ。
「なんか、今のわたしって、ちゃんと“ここ”にいるなって。そう思えるんです」
その日の昼。
ちょっとした時間の合間に、看板娘たちはカウンターに集まり、誰かがふと口にした。
「……さ。わたしたちのこと、キンタマーニの子たちって呼ぶ人、まだいるよね」
それは、アヤネの言葉だった。
「うん。でも、だんだん減ってきた気もする。最近は、あの喫茶店のあの子って感じ」
ナナミが言った。
「わたしも、ついにセンターじゃなくてナナミさんって呼ばれるようになってきたしね!」
「わたしなんか、あのストローの子で覚えられてるよ」
ナギサが言って、全員が笑った。
「でも、思うんだよね」
イオリが、少し恥ずかしそうに言った。
「名前って、最初はタグみたいなものだけど……だんだん、それに意味が宿っていくんだなって」
「キンタマーニだって、最初は笑われたけどさ、今は、なんか誇らしいよね」
リカのその言葉に、みんながゆっくりと頷いた。
キリコは、いつもより少し遅い時間に一人で歩いていた。
夕方に街を抜けるバスの窓から、赤く染まる空が見えた。
その静けさに、心がふっとほどける。
彼女はスマホを開くと、保存していたとあるメッセージを見返した。
「あなたがいたから、わたし、ここにいられました」
……from イオリ
小さく、深く息を吐いたあと、キリコはポケットに手を入れた。
彼女が歩くその足元には、街灯に照らされた長い影。
でもその影は、もはやひとりではなかった。
「……さ、行くか」
「どこに?」
「夜の公園。」
祐介はにやりと笑った。
「夜の公園って、小学生か」
「うるさい。星が見えるって言ってただろ?」
アヤネは、マフラーを巻きなおしながら、やや不満そうに言った。
でもその顔には、ほんのり赤みがさしていた。
彼らの歩く道は、やわらかな光で照らされていた。
遠くで犬が鳴いて、街の音が少しずつ遠ざかる。
「アヤネ」
「……なに?」
「お前はさ。もう、地味な子じゃねえからな」
アヤネは黙って歩いた。
でもその手は、祐介の袖をちょっとだけ、引っ張っていた。
「おはようございまーす!」
カラン、とドアが鳴って、ナナミの元気な声が店に響く。
「……あれ? 今日は誰もいない?」
店内にはまだマスターも来ておらず、準備中の灯りだけがぼんやりとともっている。
「早番、わたしだけか〜。じゃ、ちょっと掃除でもしよっかな」
ナナミがほうきを手にしながら、鼻歌をうたいだす。
フツーがいちばん〜とか言って〜そのフツーがムズいんじゃ〜♪
「なんか今の、曲になりそうね」
背後から聞こえた声に、ナナミはぴょんと跳ねた。
「うわっ!びっくりした、アヤネさん!」
アヤネはめずらしくスウェット姿で、しかも髪をまとめていた。
「私も早く目が覚めちゃって。マスターに鍵もらってたから、開けとこうと思って」
「えっ、アヤネさんが早起き!?奇跡じゃん……!」
「ひどい」
二人は顔を見合わせて、笑った。
そして、気づけばコーヒーを淹れていたアヤネが、ふと口を開く。
「ねえ、ナナミちゃん。わたしたちって……いつまで看板娘でいられるのかな」
ナナミは手を止めて、真面目な顔をした。
「……わたし、ずっとでいたいけどな。教師になっても、ここには戻ってきたい。なんか……実家みたいな感じなんだよね」
アヤネは、湯気の立つカップを見つめながら、小さく笑った。
「そっか……。わたしも、もう少し、ここに甘えてもいいのかも」
「ちょっとアンタたち〜、朝ごはん食べた〜?」
マコが作ったまかない朝定食が、スタッフルームのテーブルに並べられていた。
卵焼き、鮭、味噌汁、漬物。
完全に旅館クオリティである。
「マコさん、何この本気……」
「ちょっと寝坊して、朝ごはん作れなかった罪悪感を、ここにぶつけました!」
「えぇ……」
ナギサが、味噌汁の湯気に鼻を近づけながらうっとりする。
「これ、朝から幸福度高すぎて、逆に泣くやつ」
「泣かないで、わたしが泣くから」
最近、店のSNSには変化があった。
かつては#キンタマーニカフェがバズっていたが、今は……。
#ほっと一息で会いましょう
#マコの朝ごはん
#イオリちゃんの癒やしボイス
#アヤネと本とコーヒー
#ナナミスマイル補給中
「……名前じゃなくて、個性で呼ばれてる」
イツカがスマホの画面を見ながら、こっそり呟いた。
キンタマーニの名前は、もう彼女たちの足かせではなかった。
むしろそれは、扉を開けるきっかけだったのだ。
「……あんたさ、よくやったよな」
「なにが」
キリコがタバコをくゆらせながら歩く横で、マスターが言う。
「こんな面倒なメンツ集めて、ずっと店にいてくれてさ。たぶん、みんなアンタに救われてるよ」
「やめてよ。泣かせにきてる?」
「泣いたら面白いじゃん」
「それ、クソガキの発想」
二人は笑った。
そして、信号の向こう側に見える喫茶店の灯りを見て、キリコがぽつりとつぶやいた。
「……でも、今までの人生でいちばん、自分のままでいられる場所かもしれないな」
イオリが、そっと日報を書きながら言った。
「……ねえ、みんな」
「ん?」
「わたし……イオリちゃんって名前で呼ばれるの、嬉しいなって思うようになってきました」
全員が手を止めて、彼女を見る。
「昔は、自分の名前に自信なかったけど。なんか、イオリちゃんって呼ばれるときって、ちゃんとわたしを見てくれてる気がして……」
ナナミがそっと、彼女の頭を撫でる。
「うんうん、それ、正解〜。名前ってさ、タグじゃなくて、贈り物なんだよね。呼ぶ側からの、あなただよっていう」
イオリの目に、ほんのり涙が浮かんでいた。
でも、彼女はもう泣いても、自分のことを嫌いにはならなかった。
午後二時半。
喫茶店ほっと一息の店内は、昼のピークが過ぎて、ゆるやかに揺れる日差しが窓辺を照らしていた。
「イオリ〜、そっちのテーブル片付け終わった?」
「あっ、はいっ……今、拭いてます!」
ちょっと慌てた声とともに、イオリの動く姿が見える。
その小さな背中を、イツカはカウンターの奥からぼんやりと見つめていた。
彼女の視線の先には、最近ちょくちょくほっと一息に現れるようになった、ある影。
シン。
あのライバル店「Roaster:01」で働く、あのイケメンバリスタの青年だ。
もちろん、イオリの彼氏。
だけど、ここ数日の彼には、どこか違和感があった。
「……あの人、最近よく来るようになったよね」
ナギサがコソっと言うと、キリコもグラスを拭きながら頷いた。
「うん。まぁ、あの子の恋人っていう意味では別にいいけど」
「けど?」
「……あたしの勘、最近あいつの目が少し、どっか遠くを見てる気がする」
「……あ、やっぱそう思う?」
ナギサもぽつりとこぼした。
その日、シンはイオリの笑顔を見ながら、どこか曖昧に笑っていた。
その横顔を見ていたイツカの胸の奥で、なにか小さく冷たいものが、カチンと鳴った。
「……あたし、ちょっと怖いかも」
イオリが、椅子に座ったまま、ポツリと漏らす。
話していたのは、アヤネとリカ。
「なにが?」
「シンさん……最近、すごく優しいんだけど、優しすぎて。なんか……あたしに言えないことあるのかなって、そういう時の優しさに感じちゃうんです」
アヤネは静かに、リカはちょっと眉をひそめて、目を合わせた。
「それ、ほんとに大事な感覚かもよ」
「言ってくれないのは、悪気がないからって信じたいんだけど……でも、ちょっとずつ、こわくなっちゃう」
「イオリ」
リカがやさしく言った。
「自分がちゃんと幸せかどうかってさ、相手の態度じゃなくて、自分の気持ちでわかるんだよ。大丈夫? ちゃんと好きって思える?」
イオリは少し考えて、でも──すぐに笑って見せた。
「はい……大丈夫です。ちゃんと、好きですよ。今は、まだ」
カウンターにイツカがひとりで立っていた。
すると、扉のベルが鳴って、シンが現れた。
「イオリちゃん、今日は……」
「まだ、裏にいます。呼んできます?」
「……いや、今日はいいや。ちょっと顔出しただけ」
イツカは黙って彼を見た。
その視線に、言葉のない刺があった。
「……何か言いたそうだね」
「別に。お客さんですから」
「でもさ」
シンは、ふっと苦笑した。
「イオリちゃんがあんなにまっすぐだから、こっちがちゃんと向き合えてないのが⋯⋯わかっちゃうんだよね。……俺って、思ってたよりずっとずるいかも」
イツカは目を伏せて、言った。
「……あの子は、本気であなたのことを想ってます。優しくするなら、最後まで優しくしてください」
「……うん」
シンは、一瞬だけ寂しそうな目をして、そして静かに店をあとにした。
その後ろ姿を見送りながら、イツカは小さくつぶやいた。
「……本当は、あたしが言いたいことじゃないのにな」
その日の閉店作業は、いつもよりゆっくり進んでいた。
誰かが言い出したわけじゃないけど、みんながなんとなく、今夜は黙っていたい空気だった。
だけど、ふとキリコが言った。
「……ねぇ、明日、みんなで何か作らない?」
「作る?」
「看板娘全員で作る、本日のおすすめみたいな、限定スイーツ。なんか……このところ、ちょっと空気が暗いし。うちららしく、明るくやろうよ」
「いいね……!」
「やろう!」
不思議なことに、だれかが前を向くと、全員も自然と顔をあげる。
この店は、そういう場所だった。
そして、イツカのメモ帳には、こんな文字が記されていた。
いつか、ここを出る日が来たら。
ちゃんと、自分の名前で呼んでもらえるように。
今、できることを、やる。
「ほんで? なに作る気なん?」
マコが腕組みしながら、厨房の壁にもたれかかる。
その目の前では、カウンター席で8人の看板娘たちが半円状に集まり、真剣に、しかし笑いを混ぜながら明日出す限定スイーツの話し合いが行われていた。
「うーん、やっぱ秋だから……」
「さつまいも?」
「栗?」
「かぼちゃ?」
「それ全部入れたら、味が戦争になるよ」
「いや、逆にキンタマーニ秋の陣って名前にすれば……」
「戦うな」
ナギサのボケにアヤネが即ツッコミを入れる。
「でもさ、みんなで作るって、ちょっとわくわくしない?」
ナナミがふわっと笑って言うと、空気が少しやわらかくなる。
「どうせなら、それぞれの推し要素入れようよ!」
と、ノリノリで言い出したのはリカ。
「たとえば、ナギサのふんわり優しい感じを出すなら、ホイップクリームベースの……」
「や、なんか恥ずかしいなあそれ……」
「イオリちゃんはほろ苦抹茶+甘え上手な小豆トッピング!」
「キャラをデザートにすな……!」
爆笑の中、イツカはノートを開いて、それをじっと眺めていた。
「……看板娘の推しパフェ。全8種類を少しずつ味わえるプレートにしてみる?」
全員の視線が、一気にイツカに集まった。
「うわ、それいい……!」
「8人のひとくちが並ぶってこと?」
「見た目も映えそう!」
「えっ、逆に推しで悩むやつじゃん……!」
マスターもコーヒーを片手に覗き込みながら、にやっと笑った。
「やっぱお前ら、普通の喫茶店じゃないな」
「こちら、本日限定のキンタマーニ看板娘パフェプレートになりますっ」
ナナミの明るい声とともに運ばれてきたその一皿は、まさに小さな盛り合わせだった。
キリコ:濃厚エスプレッソのムース
ナナミ:キャラメルとアップルのクランブル
タマエ:抹茶と黒糖ゼリー
マコ:ピリッと効いたジンジャー&チョコレートソース
アヤネ:ラムレーズン入りの文系ババロア
リカ:ガツンと甘いストロベリーチーズ
ナギサ:ふわふわホイップのミルクプリン
イオリ:小豆とバニラの抹茶わらび餅
プレートの端には小さく、それぞれのネームプレート風チョコが添えられていた。
SNSでも写真が一斉にアップされ、推しで迷うスイーツ!、可愛いの暴力、8人全員味わえるとか神とバズり始める。
閉店後、誰もいない店内。
イツカはカウンターでひと息ついていた。
「……なんか、すごいね。ほんとに、ここが聖地になってきてる」
「最初はさ、こんなことになるなんて思ってなかったよ」
マスターが、いつものように苦笑いする。
「でも、名は体を表すってのは、案外本当かもしれないな。キンタマーニって名前で笑われたけどその一文字一文字に、今じゃ想いがこもってる」
「……うん」
イツカはその言葉に、そっと頷いた。
「わたしね、あのときマスターに拾ってもらって、ほんとに救われたんだと思う。名前も、過去も、全部置いて、ここで生き直すって……すごく、こわかった」
マスターはしばらく黙ってから、コーヒーをふたつ淹れた。
「でもさ、忘れるんじゃなくて、新しく重ねることなら、できるだろ?」
「……うん」
イツカは、目を細めて笑った。
「この店、みんなの居場所になったね」
「おう」
「わたしも、あの8人に……ちゃんと入ってると思っていいのかな」
「バカ言え。とっくにだよ」
マスターのその声に、イツカは目を伏せ、目元をぬぐいながら、小さく呟いた。
「……ありがと、マスター」
ある日、常連の誰かが見つけた。
客が自由に書ける推しノートの最後のページに、見覚えのない筆跡でこう綴られていた。
この場所が、誰かのほっと一息であり続けるように。
名前なんて、あとからついてくる。
でも……一緒に笑った時間は、ほんとうだ。
Team KINTAMANIは、今日も健在です。



