「え、テレビ……来るの?」
ある日の午後、マスターの声で爆弾が落とされた。
「うん、なんかSNSで話題になってたのが新聞にも載って、そこから民放が食いついたらしいよ~。地元のテレビ局じゃなくて、全国ネットだって!」
「全国ネット!? わたし鼻ほじってるとこ映ったらどうすんの……」
ナナミが口元を押さえながら青ざめる。
「安心しろ、ナナミ。そのときはお前の人生が終わるだけだ」
キリコがコーヒーカップを磨きながら、軽やかにトドメを刺した。
「ひ、ひどい……!」
「でも、すごいですよね」
イオリは緊張した様子で両手をぎゅっと握っていた。
「わたしたち、ただの喫茶店だったのに……まさかテレビなんて……」
「いや、ただの喫茶店じゃないっしょ」
マコがテーブルに腰かけて、スマホをいじりながら言う。
「キンタマーニ、って名の看板娘8人が揃ってて、なおかつ人気爆発中。そこに旅行編で泣かせて、今さらただの喫茶店って言われても困るっつーか」
「言い方な!」
ナギサが突っ込む。
だが、たしかにマコの言うとおりだった。
キンタマーニという名で始まった悪ふざけは、いまや看板娘たちの絆と物語となり、全国のSNSやファンたちを惹きつけていた。
取材当日。
カメラが入った瞬間、
店内は緊張感で満ちた。
スタッフたちは丁寧に機材を設置し、看板娘たちは揃いの新制服に身を包み、
各自の推しカラーの小物をつけて対応に入る。
番組名は、「笑って、喫茶」
地方の面白カフェや名物店員を紹介する人気番組だった。
インタビューは和やかに、しかし鋭く進んでいく。
「皆さん、どうしてこの店で働こうと?」
「それぞれの過去がありまして……」
リカがうまくまとめると、アヤネが小声で「軽く伏線張りましたね」とささやき、
笑いが起きる。
「お名前の頭文字がキンタマーニになるって、本当なんですか?」
その質問には、もう8人全員が自信満々だった。
「はい!」
と、息の合った声。
「お客様の悪ノリから始まりましたが、いまではわたしたちの誇りです!」
司会者は感心しながらうなずく。
「素晴らしい!名前に笑いを込めて、それでも誠実に働いて……だからこそ、愛されるんですね」
放送は大きな反響を呼び、
放映翌日からほっと一息には地方客が殺到。
観光バスで団体がやって来る始末で、一時はナギサがメニュー読み上げ中に過呼吸になるほどだった。
その人気は全国へと広がり、やがて運命のイベントを呼び込む。
ある日、マスターが小さな封筒を開き、こうつぶやいた。
「……来たな」
「何がです?」
「招待状。全国カフェコレクション2025、通称カフェコレ。全国の個性派喫茶が集まり、各地の店の顔を披露し合う……いわば戦だよ」
「戦!!」
マコが爆笑し、ナナミが武者震いし、キリコは眉をしかめて言った。
「……どの店も、看板娘で勝負してくるんでしょ?」
「当然」
マスターはうなずく。
「しかも今回は、特別企画がある。最も推される看板娘チームはどこだってね」
一瞬、店内の空気が変わった。
それは、嬉しい驚きでも、不安でもない。
ただ覚悟の匂いだった。
「やるしかない」
リカが言った。
「キンタマーニが全国で通用するかどうか、試される舞台だ」
会場は名古屋。
東海最大級のイベントホール。
数々の喫茶、カフェ、コンセプト店、メイド、ギャル、男装、V系、純喫茶。
ありとあらゆるカフェの頂点が競い合う舞台に、キンタマーニが名乗りを上げる。
だが、そこには。
強大なライバル店の存在があった。
「……Cafe Vanite(カフェ・ヴァニテ)」
マスターが封筒からパンフレットを取り出す。
「名古屋の繁華街にある、超人気カフェだ。全員モデル級の美男美女、完璧な接客、完璧なルックス、そして……」
「そして?」
「……全員、名前の頭文字をARTEMISA(アルテミサ)で揃えている」
「やっっば」
マコが思わず口笛を吹いた。
「こっちがキンタマーニで、あっちがアルテミサ……」
「名前の印象勝負、完敗してんじゃん!」
「でも……負けない」
イオリが、まっすぐ前を見た。
「名前だけじゃない。想いも、絆も、わたしたちはキンタマーニでしか届けられないものがあるんです」
彼女の声は震えていない。
全国の注目を浴びる戦いに、この喫茶店の小さな火が燃えはじめていた。
ほっと一息の閉店後、店内は珍しく全員揃っていた。
テーブルの上には、大きなスーツケースとリュックサック、そして……マスターが用意したおにぎり(なぜか40個)。
「……マスター、これ……遠征ってより避難ですか?」
「名古屋って言っても国内だからね?」
マコがツッコむ。
「気合いだよ、気合い!」
マスターは腕を組み、満面の笑顔で答えた。
「お前らの名前が全国区になってんだ。こっちも魂を込めなきゃな!」
「おにぎりに、魂……」
アヤネがぼそっとつぶやき、隣でナナミが吹き出す。
その夜は泊まり込みで、翌朝の始発で出発。
店内の一角には、急ごしらえの「遠征用・作戦会議ボード」が設けられ、
マコが張り切って「作戦:NAGOYA DOMINATION」と赤字で書いていた。
「いったい何と戦う気……」
キリコが苦笑しながら、隣に立つ。
「でも、やるしかないわよね。正直、不安もあるけど」
「それでも行くって決めたの、あんたでしょ」
「……だね」
そのやりとりを背中で聞いていたイオリは、旅のしおり(ナギサ&リカ作)をぎゅっと握りしめながら、そっと呟いた。
「名前が怖かった。でもいまは、ちょっとだけ、誇りかも」
彼女の視線の先……ホワイトボードには、
しっかりと並んだ8人の名前。
KINTAMANI。
笑われて、驚かれて、愛されて。
やっと、ここまで来た。
明日。
名古屋で、真のキンタマーニが試される。
名古屋・中区某所、巨大なイベントホール。
開場前から、全国各地のファンたちが行列を作っていた。
そして、その中で圧倒的に目立っていたのが。
「Cafe ARTEMISA」のブース。
白を基調とした洗練されたステージ、整然と並ぶ8人の男女。
男装の麗人、長身モデル風、ゆるふわ天使、サブカル系、知的眼鏡、着物風美女、スポーティー系、ゴス系アイドル。
全員が、頭文字で「ARTEMISA」を構成している。
「美しすぎ……」
「推しが決められない……!」
観客の視線は釘付けだった。
「でも、あっちは本物じゃない」
そうつぶやいたのは、イオリだった。
背後にはほっと一息のブース。
温かい木材の質感を意識した造り、看板は手描き、メニューはホワイトボードにチョークで。
まるで店そのものを持ってきたかのような空間。
「見せよう。わたしたちのキンタマーニを」
リカがきっぱりと言い、7人がうなずいた。
そこへ、ある男が現れる。
「お久しぶりです」
柔らかく微笑むその男は。
カフェ・ヴァニテのマネージャー、セイジ。
そして、彼の隣に立っていたのは、アルテミサの中心人物であり、絶対的センター。
ミサだった。
ミサは、完璧な微笑みを浮かべて言った。
「……あなたたちが、キンタマーニ?ネタとしては面白いと思う。でも……本当に、それで勝てると思ってるの?」
彼女の言葉に、一瞬空気が張り詰めた。
キリコが一歩前に出る。
「勝つとか負けるとか、あんたたちが決めることじゃないでしょ」
「そうね。でも、お客さんがどう思うかは別よ」
そして、ミサは振り返りながら、
「また、ステージで会いましょう」
と、去っていった。
その背中に、ナナミがぽつりとつぶやく。
「……キンタマーニは、ネタじゃない。わたしたちの、全部だよ」
巨大なステージが点灯し、司会者が叫ぶ。
「ようこそ!全国のカフェの顔が集う夢の祭典、カフェ・コレクション2025!」
歓声が沸き上がる。
各店のチーム紹介、メニュー対決、接客パフォーマンス、そして最後に行われるのは、
「看板娘・(+息子)チームバトル」
ステージに立ち、3分間で店の魅力をプレゼンするという内容。
その順番、キンタマーニはラスト。
「緊張する……」
イオリが声を震わせる。
「大丈夫。だって、あんたは泣ける天使でしょ」
アヤネがにやりと笑う。
「泣かせてどうするんですか!!」
7人が笑い合う中、キリコは静かにステージ裏を見つめていた。
(次が、わたしたちの番)
ステージへ向かう階段。
そこを一歩ずつ、彼女たちは登っていく。
名前が、笑われようと。
過去が、どんなに複雑でも。
キンタマーニは、いまここにいる。
ステージの照明が、静かに落ちていく。
観客がざわつく中、ふわりと柔らかなピアノの音が流れはじめた。
それは店で流れていた、どこか懐かしいあのBGM。
スクリーンに映し出されたのは、8人の写真と、店内の日常風景。
「……ほっと一息、キンタマーニチームです」
最初にマイクを握ったのはナナミ。
けれど、いつもの元気な声じゃない。
少し震えて、少し迷って、それでも真っ直ぐに言葉を選んでいた。
「わたしたち、最初はネタでした。……名前が、変だって。笑われました」
観客の一部が笑う。けれどその笑いは、すぐに静かになった。
「でも……この名前は、全部、わたしたちの本名です。嘘じゃなくて、ふざけてもなくて。偶然だったけど、でも、それがわたしたちの始まりでした」
マイクを受け取ったのはマコ。
金髪ショートにサラッとした口調。けれど目の奥は、熱かった。
「キンタマーニ。意味を知らずに言えば、ただの異国の地名。下ネタにもキコルかもしれない。でも、わたしたちにとっては8人分の、生きてきた名前そのものです」
観客席に、少しずつ空気の変化が伝わっていく。
「推されること、バズること。SNSの言葉、ランキング、評価……ぜんぶ楽しかったです。でも、それだけじゃなかった」
タマエが、まっすぐに観客を見た。
「誰かの言葉で泣いた夜もあった。センターなのに芋くさいってDMが来たこともある。SNSで、ランキングの最下位になって、笑われたこともあった」
後ろのスクリーンに、タマエの笑顔の写真。
その下に表示された言葉
「#実家のような安心感タマエさん」
観客席から、微笑むような空気が漏れる。
そして次に前に出たのは、イオリ。
彼女の手は、ほんの少し震えていた。
けれど、彼女は止まらずに言った。
「わたし……この名前、ずっと、恥ずかしかったです。いじられて、からかわれて……泣き虫って言われて……」
客席が静かになる。
「でも、みんなが、泣いていいよって言ってくれた。そのままでいいって、笑ってくれた。……名前のせいで泣いてたのに、名前で、守ってもらえたんです」
涙をこらえながら、イオリがマイクを下ろすと、スクリーンには、店の写真……笑い合う看板娘たち。カウンターに立つマスターの横顔。そして、店の扉の上にかかる、風鈴が揺れるシーン。
最後に、前に出たのはキリコ。
無言でマイクを受け取り、しばらく目を閉じた。
深呼吸一つ。
「わたし、昔……芸能の裏方にいました。名前を作ることの、重さと軽さ、どっちも知ってます。だから正直、この名前がバズったとき、怖かった」
一拍置く。
「キンタマーニふざけてるって、言われた。本気じゃないって、言われた。でも……ふざけてないんですよ」
キリコの声が、静かに、強く響く。
「わたしたちは、バカみたいな名前に、本気で泣いて、本気で笑って、本気で働いて、本気で恋をして、看板娘として、店を守ってきました」
マイクを置いたキリコが、振り返る。
8人が横に並び、ステージの中心へ歩く。
「だから、もし……」
ナギサが、ぽつりと続けた。
「もし、笑われる名前の子がいたら。名前で傷ついてる子がいたら。言ってあげてください」
全員の声が、重なった。
「その名前で、きみはきっと誰かを救えるよ」
最後のBGMがフェードアウトし、スクリーンに大きく映る、ひとつの言葉。
KINTAMANI CAFE
名前を笑われた君へ。
そのままの君を、迎える席があります。
沈黙があった。
ほんの一瞬。けれど、永遠のような時間。
そして。
「……泣いた……」
「ズルいって、こんなん……!」
「名前で守ってもらえたって……もう……!」
会場が拍手と嗚咽と、何かよくわからない感情で包まれた。
スタンディングオベーション。
SNSには、イベント最中にも関わらず「#キンタマーニカフェ」がトレンド入り。
「名前で泣いたことあるから、余計に刺さった」
「ただのふざけた名前だと思ってた……ごめん、ほんとにごめん」
「マジでこのチーム、推せる」
「明日、店行く。絶対行く」
「私の名前も、バカにされてきた。でも、誇っていいのかもしれない」
全てをひっくり返す、たった3分間のプレゼンだった。
イベント会場を出たのは、すっかり日が暮れたあとのことだった。
「は〜〜〜〜〜緊張したぁぁぁぁぁぁ!!!」
ナナミが全力で叫んだのは、名古屋のオフィス街にある小さな公園のど真ん中。
夜の風が髪を揺らし、ピアスがチリ、と鳴った。
「やめて、周囲にまだ取材の人いるかもしんない……」
「……声デカすぎ、恥ずかしい……」
「でも、私も……心臓ちぎれるかと思ったよ〜……!」
みんなが、ぐったりと芝生に座る。
その真ん中には、コンビニで買ったペットボトルのコーヒーと、おにぎり、サンドイッチ。
どれも高級なものじゃない。けれど、今は何よりのごちそうだった。
キリコが小さく、笑った。
「……なんか、修学旅行の夜みたい」
その一言に、マコが即座に反応する。
「いや、全員社会人な?」
「そうだけど……でも、こんなにバカ笑いして、泣いて、肩並べて……」
「うん、修学旅行感はある」
イオリが、ほのかに微笑みながら、サンドイッチを手で割った。
彼女はイベント中、一番泣いた。
でも今は、少しだけ、まぶしい顔をしていた。
「……私、今日、名前を言われても、泣かなかったな」
「言われた、の?」
ナギサが心配そうに顔を覗かせると、イオリは首を振った。
「違うの。近くに座ってた女の子が、私の写真見て、この子、名前キンタマーニのIなの?かわいくない?って言ってくれて……」
少しだけ目元がにじむ。
「それ聞いて、あ、私もう大丈夫かもって思った」
言葉に詰まり、黙ってしまったイオリの背中をタマエがそっとさすった。
「うちの泣き虫姫は、ほんまによう頑張ったなぁ〜」
「や、やめて、泣かせにくるのずるい……!」
みんなが笑った。優しい笑いだった。
イベントで見せた顔よりも、ずっと無防備で、ずっと本当の顔。
「てか、さ……」
マコが缶コーヒーをひとくち。
「ここに来るまで、いろいろあったよなぁ」
そうだ。
最初は、ただの地元の喫茶店だった。
看板娘がいて、たまたま名前の頭文字がキンタマーニだっただけの。
けれど。
SNSでバズったり、他のカフェと張り合ったり、泣いて、悩んで、ぶつかって、推されて、比べられて、それでも、8人で立ってきた。
タマエが言う。
「……名前って、生き物みたいやな」
「生き物?」
「うん。大事にすれば、強くなる。でも雑に扱ったら、すぐに腐る」
その言葉に、キリコが少し目を伏せた。
「……芸能界いた頃、誰かが勝手につけた名前で、何人も潰れてった。本名のまま、誰にも見つけられなかった子もいた。でも、今思えばどっちも、ほんとは名前のせいじゃないんだよね」
アヤネが静かに言う。
「その名前を、誰が、どんなふうに、呼んでくれるかだよね」
ナギサがぽつり。
「……私は、キンタマーニのNでよかったよ」
「ナギサとナナミ、かぶってるけどな」
「うん、でも、私はナギサでよかった。
ちゃんとここでナギサって呼んでくれる人がいるから」
リカがうなずいた。
「名前って、呼ばれなかったら、意味ないしな」
「たしかにね……」
そのとき。
背中から、ふわっと風が通り抜けた。
ビルの上、満天の星が、都会の空にうっすらと滲んでいた。
イベントから帰ってきた翌週。
喫茶店ほっと一息には、いつもと同じ風が吹いていた。
変わらない扉。
真鍮の取っ手。
チリン、と鳴る風鈴。
けれど。
どこか、ほんの少しだけ、空気が変わっていた。
「……ナナミ〜あの注文書、まだ〜?」
「まっ、待ってリカさん!いま打ち込み中〜!」
「はやくしないと次の入荷、また焼き菓子足りなくなるぞ〜〜?」
「やばい〜〜!間に合え〜〜〜〜!!」
パタパタと店内を走り回るナナミの背中。
それを追うリカの声は、以前より少しだけ柔らかかった。
その様子を、厨房からマコがにやにやしながら見ている。
「……相変わらずドタバタで笑う」
「うちらが落ち着いたらこの店、逆に回らん説あるよな」
タマエが、コーヒーのフィルターをゆっくり湯通ししながら言う。
「回らんやろなぁ。うちもナナミちゃんには、足向けて寝られへんわ」
カウンターには、翔太と祐介。
イベント後のキンタマーニ推しブームが落ち着きつつある今も、彼らは欠かさず通っていた。
「てかさぁ……なんか、久々にほっと一息って感じじゃね?」
「うん。バズってたときは、どこか戦場みたいだったよな……」
「でもそれでも、通ってたけどな!」
「お前は推し活しに来てただけだろ」
そんな会話に、キリコが静かにコーヒーを差し出す。
「ほい、アイスブレンド。今日のはちょっと深め」
「うわ、キリコさん、神対応!」
「うるさい。騒ぐな。耳が痛い」
それでも、その声には、とても優しい余韻があった。
昼休憩、スタッフスペースではイオリがそっと日記を開いていた。
「……イベントはとっても楽しかった。緊張したけど、泣かなかった。わたしは、もう、大丈夫」
そばで聞いていたナギサが、ふわっと笑った。
「なんか、イオリちゃん……大人っぽくなったね」
「え、そうですか……?」
「うん。前は、ちょっとしたことで泣いてたじゃん。今は、誰かの涙をそっと受け止める側って感じがする」
「……でも、ナギサさんが優しくしてくれたから、なんですよ?」
「いやいや、ナギサは未だにストローかじってるし」
「かじってないもん!」
ふたりでくすくすと笑い合ったその時、アヤネがひょこっと顔をのぞかせた。
「……ナギサさん、かじってたよ?さっきのジュースのストロー」
「それは反射です!」
「反射って何?」
和やかな笑いが、スタッフルームに広がった。
一方、マスターは。
カウンターの奥、パソコンを開いて何やらぽちぽちやっていた。
そこへ、キリコが顔を出す。
「何してんの」
「いや、みんなの推しTシャツの在庫、そろそろしまおうかと思って」
「……まだ売れてる?」
「いや、ちょっとだけ。でも、なんかもう売るためじゃなくて、残したくてって感じかな」
キリコは少し考えて、言った。
「……この店のこと、書籍化とか考えてる?」
「え?」
「アヤネがこっそり、なんか書いてたの見ちゃった。キンタマーニカフェ物語って、メモのタイトルだった」
マスターは目を丸くして、しばらく黙ったあと、ふっと笑った。
「……うん。面白いかもね。あの子たちの物語、ちゃんと残すって」
夕暮れ時。
閉店間際、静かになった店内。
祐介がカウンターでぼんやりしていると、
ふと、タマエが話しかけてきた。
「……キンタマーニってさ、面白いよな」
「名前のインパクト?」
「それもあるけど、なんかこう、わたしたちのお守りみたいな感じ」
「お守り?」
「バカにされたこともあるけど、その名前があったから繋がった縁もある。
こうして、店に来てくれる人が笑ってくれて……」
祐介は、ふっと笑った。
「それ、もう伝説じゃん」
「うちらの青春、って言ってもええかもな」
「青春、って歳でもないけどね」
「……そこはスルーしてくれてもええやん」
ふたりは笑い合い、外には夕焼けが染まりはじめていた。
夜のほっと一息。
閉店後、8人が揃ってコーヒーを片手にカウンターに並ぶ。
イベントで得たこと、日常に戻って気づいたこと、
そして、これからのこと。
誰が言い出すでもなく、自然と話し始めた。
「……やっぱ、ここが好きだな」
「うん。SNSとかより、ここで笑ってくれる人がいるのが、いちばん嬉しい」
「でも、たまにバズりたい」
「え、アクキー新作出す?」
「やるか〜!」
夜の喫茶店に笑い声が響く。
何も特別じゃない。
でも、何よりかけがえのない日常が、そこにあった。
静かな夜だった。
店の灯りは落とされ、シャッターは閉まっている。
だが、カウンター席にだけ、ランプがひとつ灯っていた。
集まっていたのは、看板娘たち8人。
マスターは既に帰宅し、今日は夜の女子会だった。
「……じゃ、そろそろ始めよっか」
ナナミがカップを両手で抱えながら、口を開いた。
「わたしの将来会議」
「うわ、真面目か……」
とマコが笑いながらも、みんなの視線はその言葉に自然と吸い寄せられていた。
「ねえ、リカさんはどうするの?これから」
「んー、うち?」
リカは椅子にふんぞり返って、少しだけ考えた。
「……多分、ここにおる。どっか行きたいって思ってた時期もあったけど、今はこの空気が、心地ええなって思えるようになったし」
ナナミがうんうん頷きながら言う。
「わたしも、就職どうしようか迷ってたけど……教育の道、やっぱり行こうかなって。子どもに教えるのもいいけど、ここで学んだこと、どこかで活かせそうな気がするから」
タマエが、ゆっくりと相槌を打った。
「うちら、意外と真面目だね」
「まぁ、アヤネは本出すんでしょ?」
そう言われて、アヤネはちょっと驚いた顔をした。
「……えっ、知ってたの?」
「そりゃバレるわ。キリコさんも言ってたし」
「わたし、ただ書いてるだけだから……別に、出すとか決まってないし……」
「でも、すごいと思う」
ぽつりと呟いたのは、イオリだった。
「アヤネさんの文章、すごく好きです。なんか、胸に沁みてくる」
「ありがとう……」
アヤネは少し照れながら、ノートの端をいじった。
窓の外には、秋の夜風。
木々の枝が揺れ、遠くでバイクの音がかすかに響く。
この静けさが、どこか懐かしくもあり、
これから訪れる別れの気配も含んでいるようだった。
キリコは黙っていた。
何も語らず、ただカップの中身を見つめている。
「……キリコさん?」
ナギサがそっと呼ぶと、キリコはゆっくり顔を上げた。
「……ん。あたし?あたしは……よくわかんない」
「わかんない?」
「ここが居心地いいのは、間違いないんだけど。
でも、ここにいることで止まってる気もするっていうか……」
それは、これまでのキリコなら言わなかった言葉だった。
「前は“過去”を見てたけど、今は“未来”が怖いんだ」
みんな、言葉を失った。
キリコは、マスターにも言ってないことを、今初めて話している。
「……でも、この場所があったから、
“止まってる”ってことに気づけたんだよね。
だから、もう一回動き出してもいいのかも」
沈黙のあと、ナギサが笑った。
「……わたし、今日もストローかじってたけど、
ちょっとくらい未来のこと考えようかなって思った」
「ナギサさん、それはストローから始めてください」
「え、イオリちゃん冷たい……!」
店内に笑いが広がった。
🌌 深夜。ひとり、またひとり。
少しずつ家路につく看板娘たち。
残ったのは、アヤネとキリコ。
アヤネがバッグからノートを取り出して言った。
「ねぇ、キリコさん」
「ん?」
「この物語……みんなの話を書きたいんだけど、最後の章、まだ決まってなくて」
「そりゃそうでしょ。まだ終わってないもん」
「うん。……でも、いつか終わるんだよ。いつか、バラバラになる日が来る。そのとき、どんな言葉を最後に置けばいいのか、わかんなくて……」
キリコは、アヤネのノートに視線を落とした。
「……あたしたち、バラバラになっても、繋がってるよ」
「どうして?」
「キンタマーニって名前が、笑えるから。笑った記憶って、忘れないからさ」
アヤネは笑った。
そして静かに、ノートを閉じた。
翌朝、開店前の店
マスターが、まだ誰もいないカウンターに座り、ふと思う。
この店は変わった。
騒がしくなった。
少し有名になった。
でも、彼女たちの笑い声が聞こえる限り、
この場所は、ちゃんとほっと一息であり続けるだろう。
ある日の午後、マスターの声で爆弾が落とされた。
「うん、なんかSNSで話題になってたのが新聞にも載って、そこから民放が食いついたらしいよ~。地元のテレビ局じゃなくて、全国ネットだって!」
「全国ネット!? わたし鼻ほじってるとこ映ったらどうすんの……」
ナナミが口元を押さえながら青ざめる。
「安心しろ、ナナミ。そのときはお前の人生が終わるだけだ」
キリコがコーヒーカップを磨きながら、軽やかにトドメを刺した。
「ひ、ひどい……!」
「でも、すごいですよね」
イオリは緊張した様子で両手をぎゅっと握っていた。
「わたしたち、ただの喫茶店だったのに……まさかテレビなんて……」
「いや、ただの喫茶店じゃないっしょ」
マコがテーブルに腰かけて、スマホをいじりながら言う。
「キンタマーニ、って名の看板娘8人が揃ってて、なおかつ人気爆発中。そこに旅行編で泣かせて、今さらただの喫茶店って言われても困るっつーか」
「言い方な!」
ナギサが突っ込む。
だが、たしかにマコの言うとおりだった。
キンタマーニという名で始まった悪ふざけは、いまや看板娘たちの絆と物語となり、全国のSNSやファンたちを惹きつけていた。
取材当日。
カメラが入った瞬間、
店内は緊張感で満ちた。
スタッフたちは丁寧に機材を設置し、看板娘たちは揃いの新制服に身を包み、
各自の推しカラーの小物をつけて対応に入る。
番組名は、「笑って、喫茶」
地方の面白カフェや名物店員を紹介する人気番組だった。
インタビューは和やかに、しかし鋭く進んでいく。
「皆さん、どうしてこの店で働こうと?」
「それぞれの過去がありまして……」
リカがうまくまとめると、アヤネが小声で「軽く伏線張りましたね」とささやき、
笑いが起きる。
「お名前の頭文字がキンタマーニになるって、本当なんですか?」
その質問には、もう8人全員が自信満々だった。
「はい!」
と、息の合った声。
「お客様の悪ノリから始まりましたが、いまではわたしたちの誇りです!」
司会者は感心しながらうなずく。
「素晴らしい!名前に笑いを込めて、それでも誠実に働いて……だからこそ、愛されるんですね」
放送は大きな反響を呼び、
放映翌日からほっと一息には地方客が殺到。
観光バスで団体がやって来る始末で、一時はナギサがメニュー読み上げ中に過呼吸になるほどだった。
その人気は全国へと広がり、やがて運命のイベントを呼び込む。
ある日、マスターが小さな封筒を開き、こうつぶやいた。
「……来たな」
「何がです?」
「招待状。全国カフェコレクション2025、通称カフェコレ。全国の個性派喫茶が集まり、各地の店の顔を披露し合う……いわば戦だよ」
「戦!!」
マコが爆笑し、ナナミが武者震いし、キリコは眉をしかめて言った。
「……どの店も、看板娘で勝負してくるんでしょ?」
「当然」
マスターはうなずく。
「しかも今回は、特別企画がある。最も推される看板娘チームはどこだってね」
一瞬、店内の空気が変わった。
それは、嬉しい驚きでも、不安でもない。
ただ覚悟の匂いだった。
「やるしかない」
リカが言った。
「キンタマーニが全国で通用するかどうか、試される舞台だ」
会場は名古屋。
東海最大級のイベントホール。
数々の喫茶、カフェ、コンセプト店、メイド、ギャル、男装、V系、純喫茶。
ありとあらゆるカフェの頂点が競い合う舞台に、キンタマーニが名乗りを上げる。
だが、そこには。
強大なライバル店の存在があった。
「……Cafe Vanite(カフェ・ヴァニテ)」
マスターが封筒からパンフレットを取り出す。
「名古屋の繁華街にある、超人気カフェだ。全員モデル級の美男美女、完璧な接客、完璧なルックス、そして……」
「そして?」
「……全員、名前の頭文字をARTEMISA(アルテミサ)で揃えている」
「やっっば」
マコが思わず口笛を吹いた。
「こっちがキンタマーニで、あっちがアルテミサ……」
「名前の印象勝負、完敗してんじゃん!」
「でも……負けない」
イオリが、まっすぐ前を見た。
「名前だけじゃない。想いも、絆も、わたしたちはキンタマーニでしか届けられないものがあるんです」
彼女の声は震えていない。
全国の注目を浴びる戦いに、この喫茶店の小さな火が燃えはじめていた。
ほっと一息の閉店後、店内は珍しく全員揃っていた。
テーブルの上には、大きなスーツケースとリュックサック、そして……マスターが用意したおにぎり(なぜか40個)。
「……マスター、これ……遠征ってより避難ですか?」
「名古屋って言っても国内だからね?」
マコがツッコむ。
「気合いだよ、気合い!」
マスターは腕を組み、満面の笑顔で答えた。
「お前らの名前が全国区になってんだ。こっちも魂を込めなきゃな!」
「おにぎりに、魂……」
アヤネがぼそっとつぶやき、隣でナナミが吹き出す。
その夜は泊まり込みで、翌朝の始発で出発。
店内の一角には、急ごしらえの「遠征用・作戦会議ボード」が設けられ、
マコが張り切って「作戦:NAGOYA DOMINATION」と赤字で書いていた。
「いったい何と戦う気……」
キリコが苦笑しながら、隣に立つ。
「でも、やるしかないわよね。正直、不安もあるけど」
「それでも行くって決めたの、あんたでしょ」
「……だね」
そのやりとりを背中で聞いていたイオリは、旅のしおり(ナギサ&リカ作)をぎゅっと握りしめながら、そっと呟いた。
「名前が怖かった。でもいまは、ちょっとだけ、誇りかも」
彼女の視線の先……ホワイトボードには、
しっかりと並んだ8人の名前。
KINTAMANI。
笑われて、驚かれて、愛されて。
やっと、ここまで来た。
明日。
名古屋で、真のキンタマーニが試される。
名古屋・中区某所、巨大なイベントホール。
開場前から、全国各地のファンたちが行列を作っていた。
そして、その中で圧倒的に目立っていたのが。
「Cafe ARTEMISA」のブース。
白を基調とした洗練されたステージ、整然と並ぶ8人の男女。
男装の麗人、長身モデル風、ゆるふわ天使、サブカル系、知的眼鏡、着物風美女、スポーティー系、ゴス系アイドル。
全員が、頭文字で「ARTEMISA」を構成している。
「美しすぎ……」
「推しが決められない……!」
観客の視線は釘付けだった。
「でも、あっちは本物じゃない」
そうつぶやいたのは、イオリだった。
背後にはほっと一息のブース。
温かい木材の質感を意識した造り、看板は手描き、メニューはホワイトボードにチョークで。
まるで店そのものを持ってきたかのような空間。
「見せよう。わたしたちのキンタマーニを」
リカがきっぱりと言い、7人がうなずいた。
そこへ、ある男が現れる。
「お久しぶりです」
柔らかく微笑むその男は。
カフェ・ヴァニテのマネージャー、セイジ。
そして、彼の隣に立っていたのは、アルテミサの中心人物であり、絶対的センター。
ミサだった。
ミサは、完璧な微笑みを浮かべて言った。
「……あなたたちが、キンタマーニ?ネタとしては面白いと思う。でも……本当に、それで勝てると思ってるの?」
彼女の言葉に、一瞬空気が張り詰めた。
キリコが一歩前に出る。
「勝つとか負けるとか、あんたたちが決めることじゃないでしょ」
「そうね。でも、お客さんがどう思うかは別よ」
そして、ミサは振り返りながら、
「また、ステージで会いましょう」
と、去っていった。
その背中に、ナナミがぽつりとつぶやく。
「……キンタマーニは、ネタじゃない。わたしたちの、全部だよ」
巨大なステージが点灯し、司会者が叫ぶ。
「ようこそ!全国のカフェの顔が集う夢の祭典、カフェ・コレクション2025!」
歓声が沸き上がる。
各店のチーム紹介、メニュー対決、接客パフォーマンス、そして最後に行われるのは、
「看板娘・(+息子)チームバトル」
ステージに立ち、3分間で店の魅力をプレゼンするという内容。
その順番、キンタマーニはラスト。
「緊張する……」
イオリが声を震わせる。
「大丈夫。だって、あんたは泣ける天使でしょ」
アヤネがにやりと笑う。
「泣かせてどうするんですか!!」
7人が笑い合う中、キリコは静かにステージ裏を見つめていた。
(次が、わたしたちの番)
ステージへ向かう階段。
そこを一歩ずつ、彼女たちは登っていく。
名前が、笑われようと。
過去が、どんなに複雑でも。
キンタマーニは、いまここにいる。
ステージの照明が、静かに落ちていく。
観客がざわつく中、ふわりと柔らかなピアノの音が流れはじめた。
それは店で流れていた、どこか懐かしいあのBGM。
スクリーンに映し出されたのは、8人の写真と、店内の日常風景。
「……ほっと一息、キンタマーニチームです」
最初にマイクを握ったのはナナミ。
けれど、いつもの元気な声じゃない。
少し震えて、少し迷って、それでも真っ直ぐに言葉を選んでいた。
「わたしたち、最初はネタでした。……名前が、変だって。笑われました」
観客の一部が笑う。けれどその笑いは、すぐに静かになった。
「でも……この名前は、全部、わたしたちの本名です。嘘じゃなくて、ふざけてもなくて。偶然だったけど、でも、それがわたしたちの始まりでした」
マイクを受け取ったのはマコ。
金髪ショートにサラッとした口調。けれど目の奥は、熱かった。
「キンタマーニ。意味を知らずに言えば、ただの異国の地名。下ネタにもキコルかもしれない。でも、わたしたちにとっては8人分の、生きてきた名前そのものです」
観客席に、少しずつ空気の変化が伝わっていく。
「推されること、バズること。SNSの言葉、ランキング、評価……ぜんぶ楽しかったです。でも、それだけじゃなかった」
タマエが、まっすぐに観客を見た。
「誰かの言葉で泣いた夜もあった。センターなのに芋くさいってDMが来たこともある。SNSで、ランキングの最下位になって、笑われたこともあった」
後ろのスクリーンに、タマエの笑顔の写真。
その下に表示された言葉
「#実家のような安心感タマエさん」
観客席から、微笑むような空気が漏れる。
そして次に前に出たのは、イオリ。
彼女の手は、ほんの少し震えていた。
けれど、彼女は止まらずに言った。
「わたし……この名前、ずっと、恥ずかしかったです。いじられて、からかわれて……泣き虫って言われて……」
客席が静かになる。
「でも、みんなが、泣いていいよって言ってくれた。そのままでいいって、笑ってくれた。……名前のせいで泣いてたのに、名前で、守ってもらえたんです」
涙をこらえながら、イオリがマイクを下ろすと、スクリーンには、店の写真……笑い合う看板娘たち。カウンターに立つマスターの横顔。そして、店の扉の上にかかる、風鈴が揺れるシーン。
最後に、前に出たのはキリコ。
無言でマイクを受け取り、しばらく目を閉じた。
深呼吸一つ。
「わたし、昔……芸能の裏方にいました。名前を作ることの、重さと軽さ、どっちも知ってます。だから正直、この名前がバズったとき、怖かった」
一拍置く。
「キンタマーニふざけてるって、言われた。本気じゃないって、言われた。でも……ふざけてないんですよ」
キリコの声が、静かに、強く響く。
「わたしたちは、バカみたいな名前に、本気で泣いて、本気で笑って、本気で働いて、本気で恋をして、看板娘として、店を守ってきました」
マイクを置いたキリコが、振り返る。
8人が横に並び、ステージの中心へ歩く。
「だから、もし……」
ナギサが、ぽつりと続けた。
「もし、笑われる名前の子がいたら。名前で傷ついてる子がいたら。言ってあげてください」
全員の声が、重なった。
「その名前で、きみはきっと誰かを救えるよ」
最後のBGMがフェードアウトし、スクリーンに大きく映る、ひとつの言葉。
KINTAMANI CAFE
名前を笑われた君へ。
そのままの君を、迎える席があります。
沈黙があった。
ほんの一瞬。けれど、永遠のような時間。
そして。
「……泣いた……」
「ズルいって、こんなん……!」
「名前で守ってもらえたって……もう……!」
会場が拍手と嗚咽と、何かよくわからない感情で包まれた。
スタンディングオベーション。
SNSには、イベント最中にも関わらず「#キンタマーニカフェ」がトレンド入り。
「名前で泣いたことあるから、余計に刺さった」
「ただのふざけた名前だと思ってた……ごめん、ほんとにごめん」
「マジでこのチーム、推せる」
「明日、店行く。絶対行く」
「私の名前も、バカにされてきた。でも、誇っていいのかもしれない」
全てをひっくり返す、たった3分間のプレゼンだった。
イベント会場を出たのは、すっかり日が暮れたあとのことだった。
「は〜〜〜〜〜緊張したぁぁぁぁぁぁ!!!」
ナナミが全力で叫んだのは、名古屋のオフィス街にある小さな公園のど真ん中。
夜の風が髪を揺らし、ピアスがチリ、と鳴った。
「やめて、周囲にまだ取材の人いるかもしんない……」
「……声デカすぎ、恥ずかしい……」
「でも、私も……心臓ちぎれるかと思ったよ〜……!」
みんなが、ぐったりと芝生に座る。
その真ん中には、コンビニで買ったペットボトルのコーヒーと、おにぎり、サンドイッチ。
どれも高級なものじゃない。けれど、今は何よりのごちそうだった。
キリコが小さく、笑った。
「……なんか、修学旅行の夜みたい」
その一言に、マコが即座に反応する。
「いや、全員社会人な?」
「そうだけど……でも、こんなにバカ笑いして、泣いて、肩並べて……」
「うん、修学旅行感はある」
イオリが、ほのかに微笑みながら、サンドイッチを手で割った。
彼女はイベント中、一番泣いた。
でも今は、少しだけ、まぶしい顔をしていた。
「……私、今日、名前を言われても、泣かなかったな」
「言われた、の?」
ナギサが心配そうに顔を覗かせると、イオリは首を振った。
「違うの。近くに座ってた女の子が、私の写真見て、この子、名前キンタマーニのIなの?かわいくない?って言ってくれて……」
少しだけ目元がにじむ。
「それ聞いて、あ、私もう大丈夫かもって思った」
言葉に詰まり、黙ってしまったイオリの背中をタマエがそっとさすった。
「うちの泣き虫姫は、ほんまによう頑張ったなぁ〜」
「や、やめて、泣かせにくるのずるい……!」
みんなが笑った。優しい笑いだった。
イベントで見せた顔よりも、ずっと無防備で、ずっと本当の顔。
「てか、さ……」
マコが缶コーヒーをひとくち。
「ここに来るまで、いろいろあったよなぁ」
そうだ。
最初は、ただの地元の喫茶店だった。
看板娘がいて、たまたま名前の頭文字がキンタマーニだっただけの。
けれど。
SNSでバズったり、他のカフェと張り合ったり、泣いて、悩んで、ぶつかって、推されて、比べられて、それでも、8人で立ってきた。
タマエが言う。
「……名前って、生き物みたいやな」
「生き物?」
「うん。大事にすれば、強くなる。でも雑に扱ったら、すぐに腐る」
その言葉に、キリコが少し目を伏せた。
「……芸能界いた頃、誰かが勝手につけた名前で、何人も潰れてった。本名のまま、誰にも見つけられなかった子もいた。でも、今思えばどっちも、ほんとは名前のせいじゃないんだよね」
アヤネが静かに言う。
「その名前を、誰が、どんなふうに、呼んでくれるかだよね」
ナギサがぽつり。
「……私は、キンタマーニのNでよかったよ」
「ナギサとナナミ、かぶってるけどな」
「うん、でも、私はナギサでよかった。
ちゃんとここでナギサって呼んでくれる人がいるから」
リカがうなずいた。
「名前って、呼ばれなかったら、意味ないしな」
「たしかにね……」
そのとき。
背中から、ふわっと風が通り抜けた。
ビルの上、満天の星が、都会の空にうっすらと滲んでいた。
イベントから帰ってきた翌週。
喫茶店ほっと一息には、いつもと同じ風が吹いていた。
変わらない扉。
真鍮の取っ手。
チリン、と鳴る風鈴。
けれど。
どこか、ほんの少しだけ、空気が変わっていた。
「……ナナミ〜あの注文書、まだ〜?」
「まっ、待ってリカさん!いま打ち込み中〜!」
「はやくしないと次の入荷、また焼き菓子足りなくなるぞ〜〜?」
「やばい〜〜!間に合え〜〜〜〜!!」
パタパタと店内を走り回るナナミの背中。
それを追うリカの声は、以前より少しだけ柔らかかった。
その様子を、厨房からマコがにやにやしながら見ている。
「……相変わらずドタバタで笑う」
「うちらが落ち着いたらこの店、逆に回らん説あるよな」
タマエが、コーヒーのフィルターをゆっくり湯通ししながら言う。
「回らんやろなぁ。うちもナナミちゃんには、足向けて寝られへんわ」
カウンターには、翔太と祐介。
イベント後のキンタマーニ推しブームが落ち着きつつある今も、彼らは欠かさず通っていた。
「てかさぁ……なんか、久々にほっと一息って感じじゃね?」
「うん。バズってたときは、どこか戦場みたいだったよな……」
「でもそれでも、通ってたけどな!」
「お前は推し活しに来てただけだろ」
そんな会話に、キリコが静かにコーヒーを差し出す。
「ほい、アイスブレンド。今日のはちょっと深め」
「うわ、キリコさん、神対応!」
「うるさい。騒ぐな。耳が痛い」
それでも、その声には、とても優しい余韻があった。
昼休憩、スタッフスペースではイオリがそっと日記を開いていた。
「……イベントはとっても楽しかった。緊張したけど、泣かなかった。わたしは、もう、大丈夫」
そばで聞いていたナギサが、ふわっと笑った。
「なんか、イオリちゃん……大人っぽくなったね」
「え、そうですか……?」
「うん。前は、ちょっとしたことで泣いてたじゃん。今は、誰かの涙をそっと受け止める側って感じがする」
「……でも、ナギサさんが優しくしてくれたから、なんですよ?」
「いやいや、ナギサは未だにストローかじってるし」
「かじってないもん!」
ふたりでくすくすと笑い合ったその時、アヤネがひょこっと顔をのぞかせた。
「……ナギサさん、かじってたよ?さっきのジュースのストロー」
「それは反射です!」
「反射って何?」
和やかな笑いが、スタッフルームに広がった。
一方、マスターは。
カウンターの奥、パソコンを開いて何やらぽちぽちやっていた。
そこへ、キリコが顔を出す。
「何してんの」
「いや、みんなの推しTシャツの在庫、そろそろしまおうかと思って」
「……まだ売れてる?」
「いや、ちょっとだけ。でも、なんかもう売るためじゃなくて、残したくてって感じかな」
キリコは少し考えて、言った。
「……この店のこと、書籍化とか考えてる?」
「え?」
「アヤネがこっそり、なんか書いてたの見ちゃった。キンタマーニカフェ物語って、メモのタイトルだった」
マスターは目を丸くして、しばらく黙ったあと、ふっと笑った。
「……うん。面白いかもね。あの子たちの物語、ちゃんと残すって」
夕暮れ時。
閉店間際、静かになった店内。
祐介がカウンターでぼんやりしていると、
ふと、タマエが話しかけてきた。
「……キンタマーニってさ、面白いよな」
「名前のインパクト?」
「それもあるけど、なんかこう、わたしたちのお守りみたいな感じ」
「お守り?」
「バカにされたこともあるけど、その名前があったから繋がった縁もある。
こうして、店に来てくれる人が笑ってくれて……」
祐介は、ふっと笑った。
「それ、もう伝説じゃん」
「うちらの青春、って言ってもええかもな」
「青春、って歳でもないけどね」
「……そこはスルーしてくれてもええやん」
ふたりは笑い合い、外には夕焼けが染まりはじめていた。
夜のほっと一息。
閉店後、8人が揃ってコーヒーを片手にカウンターに並ぶ。
イベントで得たこと、日常に戻って気づいたこと、
そして、これからのこと。
誰が言い出すでもなく、自然と話し始めた。
「……やっぱ、ここが好きだな」
「うん。SNSとかより、ここで笑ってくれる人がいるのが、いちばん嬉しい」
「でも、たまにバズりたい」
「え、アクキー新作出す?」
「やるか〜!」
夜の喫茶店に笑い声が響く。
何も特別じゃない。
でも、何よりかけがえのない日常が、そこにあった。
静かな夜だった。
店の灯りは落とされ、シャッターは閉まっている。
だが、カウンター席にだけ、ランプがひとつ灯っていた。
集まっていたのは、看板娘たち8人。
マスターは既に帰宅し、今日は夜の女子会だった。
「……じゃ、そろそろ始めよっか」
ナナミがカップを両手で抱えながら、口を開いた。
「わたしの将来会議」
「うわ、真面目か……」
とマコが笑いながらも、みんなの視線はその言葉に自然と吸い寄せられていた。
「ねえ、リカさんはどうするの?これから」
「んー、うち?」
リカは椅子にふんぞり返って、少しだけ考えた。
「……多分、ここにおる。どっか行きたいって思ってた時期もあったけど、今はこの空気が、心地ええなって思えるようになったし」
ナナミがうんうん頷きながら言う。
「わたしも、就職どうしようか迷ってたけど……教育の道、やっぱり行こうかなって。子どもに教えるのもいいけど、ここで学んだこと、どこかで活かせそうな気がするから」
タマエが、ゆっくりと相槌を打った。
「うちら、意外と真面目だね」
「まぁ、アヤネは本出すんでしょ?」
そう言われて、アヤネはちょっと驚いた顔をした。
「……えっ、知ってたの?」
「そりゃバレるわ。キリコさんも言ってたし」
「わたし、ただ書いてるだけだから……別に、出すとか決まってないし……」
「でも、すごいと思う」
ぽつりと呟いたのは、イオリだった。
「アヤネさんの文章、すごく好きです。なんか、胸に沁みてくる」
「ありがとう……」
アヤネは少し照れながら、ノートの端をいじった。
窓の外には、秋の夜風。
木々の枝が揺れ、遠くでバイクの音がかすかに響く。
この静けさが、どこか懐かしくもあり、
これから訪れる別れの気配も含んでいるようだった。
キリコは黙っていた。
何も語らず、ただカップの中身を見つめている。
「……キリコさん?」
ナギサがそっと呼ぶと、キリコはゆっくり顔を上げた。
「……ん。あたし?あたしは……よくわかんない」
「わかんない?」
「ここが居心地いいのは、間違いないんだけど。
でも、ここにいることで止まってる気もするっていうか……」
それは、これまでのキリコなら言わなかった言葉だった。
「前は“過去”を見てたけど、今は“未来”が怖いんだ」
みんな、言葉を失った。
キリコは、マスターにも言ってないことを、今初めて話している。
「……でも、この場所があったから、
“止まってる”ってことに気づけたんだよね。
だから、もう一回動き出してもいいのかも」
沈黙のあと、ナギサが笑った。
「……わたし、今日もストローかじってたけど、
ちょっとくらい未来のこと考えようかなって思った」
「ナギサさん、それはストローから始めてください」
「え、イオリちゃん冷たい……!」
店内に笑いが広がった。
🌌 深夜。ひとり、またひとり。
少しずつ家路につく看板娘たち。
残ったのは、アヤネとキリコ。
アヤネがバッグからノートを取り出して言った。
「ねぇ、キリコさん」
「ん?」
「この物語……みんなの話を書きたいんだけど、最後の章、まだ決まってなくて」
「そりゃそうでしょ。まだ終わってないもん」
「うん。……でも、いつか終わるんだよ。いつか、バラバラになる日が来る。そのとき、どんな言葉を最後に置けばいいのか、わかんなくて……」
キリコは、アヤネのノートに視線を落とした。
「……あたしたち、バラバラになっても、繋がってるよ」
「どうして?」
「キンタマーニって名前が、笑えるから。笑った記憶って、忘れないからさ」
アヤネは笑った。
そして静かに、ノートを閉じた。
翌朝、開店前の店
マスターが、まだ誰もいないカウンターに座り、ふと思う。
この店は変わった。
騒がしくなった。
少し有名になった。
でも、彼女たちの笑い声が聞こえる限り、
この場所は、ちゃんとほっと一息であり続けるだろう。



