カエデが入ってからというもの、ほっと一息の空気は微妙に変わった。
ピリついてるわけじゃない。
でも、全員がどこか彼女を意識していた。
「カエデさんってさ、なんか完成されてるっていうか……すでに出来上がってるよね」
マコが、まかないの時間につぶやいた。
「逆に、何か崩れたとこ見たくなるんだよね〜、わかる?」
「いや、わからん……」
「でも、そういう人間味、見えないよね。なんか、ずっとマニュアル完璧な感じ」
「でもイオリには優しいよね?」
そう、カエデは特にイオリに対して、自然な優しさを見せていた。
泣きそうな時にすっと寄り添い、目を見て話す。
それがまた、イオリの懐にスッと入り込んでいく。
「もしかして、イオリちゃんのこと……狙ってない……?」
「え、そっち!?」
「それはそれで尊い……」
「やめなさい真面目な話してるのに」
と、キリコが真顔で割り込んだ。
「……てか、気づいてる? カエデさん、マスターの手の動き、完全に覚えてる」
「え?」
「朝の開店準備、ラストオーダー、レジ締め……私が教えたわけでもないのに、全部一発で把握してる」
「それって……」
「つまり」
アヤネが小さく言った。
「……この店の過去を、知ってるってこと」
そう、その時点で全員、なんとなく感づいていた。
カエデは、この店の歴史の一部だったんだと。
数日後、夜。
マスターが珍しく、全員にコーヒーを淹れた。
「今日は、ちょっと話そうと思ってな」
全員が静かに耳を傾ける。
カエデ本人は、休憩室の掃除中で不在だった。
マスターは言った。
「……カエデは、姪じゃない」
「……え?」
「じゃあ、誰なんですか」
「元カノ!?」
「ちがうちがう、ややこしくなるな」
マスターは笑いながら、そして真顔に戻った。
「カエデは、昔この店を一緒に作った共同オーナーの娘だ」
「……え?」
「まだ俺が若い頃。バリバリでやってた時代。カフェを一緒にやろうって、志した友人がいてな。けどそいつ、病気で亡くなっちまった」
静まる空間。
「その娘が、カエデだったってこと……?」
「ああ。でも、当時はまだ中学生だったし、すぐにこの場所から離れて暮らすことになった。けど、カエデはずっと……ここを継ぎたいって言っててな」
リカが息をのんだ。
「だから、今戻ってきたんですか」
マスターは静かに頷く。
「……でも、まだ全部を任せる気はない。だから今は、俺の下で修業中。もちろん、お前らと同じ立場でな」
キリコが苦笑いで言った。
「じゃあ、ある意味、最もガチな看板娘ってことか」
「……うん。だから、今さらだけど、よろしくな」
誰も、否定はしなかった。
むしろ全員が、少しずつ、カエデという存在を受け入れる準備をしていた。
そのとき。
扉の向こうから、カエデがひょこっと顔を出した。
「すみません、掃除終わりました。あの……コーヒー、もらってもいいですか?」
その声に、イオリが小さく笑って言った。
「……カエデさん、もう少しでチームに正式加入ですね」
カエデは少しだけ驚いたように、でも、すぐにやわらかく笑った。
「……はい。よろしくお願いします」
その笑顔は、どこか少し泣きそうだった。
「……おはようございます」
朝の開店準備。まだシャッターが半分しか開いていない時間。
カエデの声は、いつもより少しだけ、トーンが柔らかかった。
「あ、おはようっす!」
ナナミが返す。黒髪ポニテの彼女は、今日は少しだけ寝癖がひどい。
「わ、ごめん!鏡も見てない!」
「似合ってますよ……ちょっと、猫みたいで」
「……え?」
ナナミは目を丸くしたあと、ちょっとだけ笑った。
「猫か……ありがと、カエデさん」
最初の一言が、誰かの一日を柔らかくする。
それが、今日の最初の奇跡だった。
「コーヒー豆、今日はこのローストでいきますね」
キリコが差し出した袋を、カエデは黙って受け取った。
そこに、ふと。
「……好きな豆、あるの?」
「え……?」
「プライベートで飲むなら、どんなコーヒー?」
キリコの目は、意外にも優しかった。
「私はね、モカが好き。甘い香りと、ちょっとだけ酸味があるやつ……気分が整うの」
「……私は、あまり飲めなかったんです。昔は、苦くて。でも最近は、飲めるようになってきました」
「そっか。なら、ゆっくり覚えていけばいい」
キリコがふっと笑った。
「あなたがカエデで良かった。ちょっとだけ、私も救われた気がする」
「え?」
「8人目のK。待ってたのかもしれない、ずっとね」
カエデは、返事の代わりに、ほんのわずかに口角を上げた。
それが、彼女の精一杯の笑顔だった。
「ほら、カエデちゃん、まかない一緒に作ろっか〜!」
マコは容赦ない。
「とりあえず包丁持って、キャベツ千切りね!制限時間は5分!終わらなかったら食器洗い2倍ッ!」
「えぇ……」
そう言いつつも、カエデは黙々と包丁を動かす。リズムはまだ硬いが、姿勢は正しく、目はまっすぐ。
「よしよし、その調子!でもね〜、この店はただ作ればいいってもんじゃないのよ」
「……美味しそうに見えること?」
「正解!あと、推し活に使える映え!」
「え、それも料理で……?」
「そりゃそうよ!#今日のまかない で毎日500いいね取ってた時代の私ナメんな♡」
カエデは小さく笑った。
「……私、勉強します」
「よろしい!!今夜はフレンチトースト祭りで鍛えるから覚悟してね〜〜〜!!」
「フレンチトーストで祭りって何……」
「カエデちゃん……ごめん、ちょっとだけ……寝てもいい……?」
閉店間際の掃除中、ナギサは床に座り込んで、スヤァ……と寝落ちていた。
「……ナギサさん?」
声をかけても起きない。
カエデはふと、制服のブレザーを脱いで、そっとナギサの肩にかけた。
そのまま、掃除機を音を立てないようにかけながら、テーブルを一つ一つ磨いていく。
10分後、ナギサがふと目を覚ましたとき、テーブルはぴかぴかで、カエデはまだ黙々と作業していた。
「……ありがと、カエデちゃん」
「いえ、大丈夫です。明日はナギサさんの分も早めに終わらせておきますから」
「……やさしいね、あんた」
「そうでしょうか?」
「うん……うちの店に、来てくれてありがとね」
その言葉に、カエデは小さくまるで呟くように言った。
「……こちらこそ、です」
「カエデちゃん、今日も真面目すぎィ!」
「すみません、つい……」
「もっと適当に生きていいのよ?てかアンタ、敬語抜ける?」
「えと……あ、はい……いえ、ちが……う……」
「それだ!!今の顔かわいい!!いただきましたー!」
「やめてください、写真はダメです!!」
リカがケタケタ笑いながら逃げる。カエデは真っ赤な顔で追いかける。
「削除してください!!それ、公式アカウントに上げるつもりですよね!!」
「うわ〜〜バレた〜〜〜」
「やめてください!!」
後ろで見ていたイオリが、笑いをこらえながらポツリ。
「……なんか、家族みたいですね」
「……あなたって、本当は強い人なんですね」
休憩時間。アヤネが、小説のメモ帳を閉じながら言った。
「え……」
「誰にも甘えないで、何も頼らない。常に正確で、誰にも迷惑をかけないように、完璧でいようとしてる」
「……それは」
「でも、それって。ほんとは、すごく孤独で、苦しいことです」
カエデの目が、揺れる。
アヤネはそっと目を閉じた。
「私は、そんなあなたの強さを、尊敬しています。でも、たまには……弱くなってもいいんですよ」
「……私、ずっと……ここにいて、いいんでしょうか」
アヤネは、迷わず答えた。
「あなたがいなきゃ困る人が、もうここにいます」
その瞬間、カエデの胸の奥に何かが流れ込んだ。
それは。
ずっと求めていた言葉だった。
その日、閉店後。
マスターが、カエデのためだけにコーヒーを淹れてくれた。
「今日はどうだった?」
「……とても、優しい一日でした」
「少しは、溶け込めたか?」
「はい。でも……まだまだ、これからです」
マスターは、ゆっくり頷いた。
「そうだな。店ってのは、コーヒーと、空間と、人でできてる。どれが欠けても、成立しない」
「……はい」
「で、お前はその人の一人だ。これからも、頼むぞ」
「……はい。喜んで」
そうして、カエデは深くお辞儀した。
その目には微かに、光るものがあった。
朝早く、まだ夜明け前の薄暗い頃。
半分眠ったまま、看板娘たちはキャリーバッグや小さなリュックを抱えて店に集まっていた。
「本当に、行くんだね」
キリコがつぶやく。
「うん……なんか、名前の元になった場所、見てみたくて」
イオリの声は震えていたが、瞳は光を宿している。
ナギサがストローをくわえながらぼそり。
「標高が高い高原……寒くないかな」
マスターが手をかざして、店の額縁の光を確かめるように空を見上げた。
「天気は大丈夫そうだ。雲が厚くない」
その言葉に、一同、胸を撫でおろす。
「じゃあ、そろそろ出発しようか」
観光バスとレンタカーを混ぜて、メンバーは町を出た。
舗装された山道をぐんぐん登っていく。木々が低くなり、次第に高原の冷たい空気が流れ込んでくる。
窓の外には、雲海、深い谷、そして遠くに山の輪郭が見える。
バスがヘアピンを曲がるたび、景色が変わる。
コントラストの強い森、霧に包まれた峰、草地。
全部が、非日常の色を帯びていた。
マコが笑いながら窓に顔を近づける。
「すごい……空気が違う」
「肺が、生き返る感じ」
「カエデさん、寒くない?」
「いいえ、大丈夫、むしろ気持ちいいです」
リカはバッグからストールを取り出して、カエデにそっと渡した。
「これ、巻いた方がいいよ」
「ありがとうございます……」
そのさりげない気遣いが、ちょっと胸に暖かさを残す。
途中、峠の小さな展望休憩所に立ち寄る。
土産屋や展望台、ベンチがいくつかあって、そこからはカルデラの縁が見える。
「見て、あそこが……」
ナナミ(卒業後ビデオ通話で同行)とマスターが指差したその先には、湖と火山のシルエット。
「これが、キンタマーニ……」
イオリが息をのんで声を上げる。
休憩所の土産屋には、Kintamani Coffeeと書かれたパックが並んでいた。
マコがそれを手に取る。
「本物かどうか……味見してみよう」
マスターはニヤリとして言う。
「地域性の香りを持ってるはずだ。火山の土、標高、植生……全部が混ざってる」
コーヒーを少しだけ試飲し、皆で顔を見合わせた。
その香りが、どこか“名前の物語”の皮膚を一瞬触ったような気がした。
バスが最後の坂道を曲がると、小さな村が眼前に開ける。
石畳の道、赤瓦屋根、低い植生、霧が斜めに流れる。山の輪郭がくっきりと浮かぶ舞台だった。
村の入口には木の看板。「Kintamani Village」。
そこに、地元住民たちが笑顔で手を振る。
民宿、露天、カフェ、小さな市場。地元の装飾があちこちに。
「……なんか、夢に来たみたい」
ナギサがポツリ。
宿まで歩く道すがら、彼女たちは何度も立ち止まり、カメラを構え、空気を吸った。
木の葉のざわめき、風の匂い、向こうから来た野の鳥の声。
宿は小さなロッジ。窓からは火山が見える。
オーナーが出迎えてくれて、布団を用意し、地元のお茶とお菓子を差し出してくれた。
「ようこそ、Kintamaniへ」
その言葉に、看板娘たちの胸に、ひとつの確かな実感が生まれる。
「ここに、来てよかった」
翌朝。
目覚ましの代わりに耳へ届いたのは、鳥の声と、ゆるやかに流れる木々のざわめきだった。
標高1500メートルの空気は、肌を刺すように冷たい。だが、肺の奥が清められるような清々しさがあった。
「……うわぁ」
イオリが窓辺に立ち、ぼんやりと空を見上げていた。
濃い朝霧がゆるやかに晴れていくと、遠くにうっすらと見えたのは。
雲海の切れ間から浮かび上がる、アグン山のシルエット。
「まるで、空に浮かんでるみたい……」
小さくつぶやいたその言葉を、背後からナギサが聞きつけた。
「なにそれ、めっちゃ詩的」
「ナギサさん、起きてたんですか?」
「そりゃ、イオリの声で目覚めるのが旅の醍醐味でしょ」
ナギサは、寝癖のまま、コップ一杯の水をあおった。
食堂に集まると、地元の食材をふんだんに使った朝食がテーブルに並んでいた。
バナナの葉に包まれたナシチャンプル。山菜と豆腐のスープ。地元産の香り高いコーヒー。
「これが……本物のキンタマーニ・ブレンド……!」
マスターが目を細めて一口含むと、うっとりしたようなため息を漏らした。
「酸味が柔らかく、でも輪郭ははっきりしている。深煎りのはずなのに、焦げの香りがない」
「マスター、ただの感想でCMになるのすごいですね……」
ナナミが、スマホ越しに笑っている。彼女は大学の用事で店を留守にしていたが、リモートで旅に参加していた。
キリコは黙って朝食をつつきながら、ふと隣に目をやる。
イオリの表情が、どこか浮ついている。
(……あの子、やっぱり、気になってるんだ)
キリコの視線の先には、あのライバル店のイケメン、ユウトがいた。
今回の旅のお目付け役として、マスターが同行を許した唯一の外部関係者。
彼は、地元文化と観光資源の研究のため、定期的に高原を訪れているのだという。
彼の知識と人懐こい態度が、イオリの心を少しずつ溶かしていた。
午前中、メンバーは高原の天然温泉へと向かった。
山腹に造られた露天風呂。湯けむりが立ちのぼり、地面からほのかに硫黄の匂いが漂う。
「きゃー、気持ちいい!」
マコが叫ぶ。
「肌、すべすべになるやつ……」
リカが真剣な顔で言う。
「お湯、深めですね……足つかない……」
イオリが少し焦りながら湯船の端につかまる。
キリコはその様子を眺めながら、湯の縁に腰かけていた。
「イオリ、無理しないでね。のぼせやすいんだから」
「は、はいっ……」
だが、その返事の後ろで、別の視線が動いた。
ナギサが、お湯の表面をなぞるようにして、ポツリとつぶやいた。
「ねぇ……最近、ちょっと雰囲気、変わってない?」
「誰の?」
マコが聞き返す。
「……イオリとさ、ユウトさん」
数秒の沈黙。
リカが口をすぼめる。
「まぁ、分かるけど……別に悪いことじゃないでしょ」
「でもさ」
ナギサが続ける。
「もし、あの子が選ぶとしたら、さ……私たちの居場所って、ちょっと揺らぐじゃん」
その言葉に、湯の温度とは違うぴりっとした気配が走る。
キリコは目を閉じたまま言った。
「……イオリがどこにいようと、あの子はほっと一息の一員よ」
「それでも、感情は切り替えられないよ」
ナギサの言葉は、どこか幼く、でも正直だった。
午後、分かれて行動することになった。
イオリはユウトと一緒に地域の祭りの展示館を見に行くと言い、
他のメンバーは地元の市場や、湖畔の散歩道をぶらぶらと歩いた。
「……はぐれた感じするね」
リカが苦笑いする。
「なんか……チーム感、崩れてない?」
マコもぽつり。
「わたし……イオリちゃんのこと、責めたくないのに……なんか、モヤっとする」
カエデが、珍しく本音を漏らした。
誰も、声を大にして責めたりはしない。
でも、静かに積もっていく不安と寂しさが、すぐそばにあった。
そして、夜が来た。
宿の中庭で焚き火が始まった。
地元の人が小さなライブ演奏をしてくれて、コーヒーと焼き菓子がふるまわれた。
空は晴れて、満天の星がきらめく。
遠くで、火山のシルエットがゆらゆらと見えていた。
そんな中、キリコがふと席を立ち、焚き火のそばに一人で座る。
やがて、その隣にイオリが来た。
少し距離を置いて、火を見つめる。
「……キリコさん」
「ん?」
「……あの、わたし、皆の気持ち、分かってます」
キリコは何も言わない。ただ、火がパチパチと音を立てる。
「でも、ユウトさんのこと、気になってるのも本当で……どうしたらいいか、分からないです」
キリコが静かに口を開く。
「……分かるよ。好きになることと、居場所を守ること。簡単に両立できるもんじゃない」
「でも、イオリ」
「あなたが、あなたでいてくれたら、それでいいよ」
イオリの目が、少し潤んだ。
「ありがとう……キリコさん」
そして、静かに火を見つめながら、二人の間にまた少しだけ風が吹いた。
キンタマーニ高原の午後は、気まぐれだった。
さっきまで晴れていた空が、まるで機嫌を変えるように、
ふいに曇り始め、気づけば細かい雨が降り始めていた。
湖畔の遊歩道。
空は白く霞み、世界の輪郭がぼやけていく。
「傘……持ってきてないんだけど」
「やば、私も。観光地あるある」
マコとナギサが笑いながら頭に手をかざし、小走りで木陰に逃げ込んだ。
「ちょっとカフェ入ろうよ。たしか近くに……」
リカがスマホを確認する。
その背後では、イオリとユウトが並んで歩いていた。
二人の肩に、ユウトが差し出した傘がかかっている。
「……あのさ、今日さ」
ユウトが言った。
「昼間、一緒に博物館見てて思ったんだけどイオリちゃんって、歴史好き?」
「うん、わたし、昔から本とか……なんか、過去のことを知るのって、安心するというか」
「安心?」
「うん、もう決まってることだから。変わらないものって、ほっとするんです」
その言葉に、ユウトは少し黙ってから微笑んだ。
「なるほどね……たしかに、イオリちゃんって、ちょっとふわっとしてるけど、芯があるんだなって思った」
イオリはその言葉に、真っ赤になってうつむいた。
その様子を、数メートル離れたカフェの窓から見ていたのはキリコだった。
他のメンバーはすでに店内の奥で席に着き、コーヒーを注文していたが、彼女だけは立ったまま、ガラス越しの世界を静かに見ていた。
「……あーこれはやばいやつだな」
そうつぶやいたのはマコ。椅子を回転させて、窓越しに様子を伺う。
「もう完全に付き合ってます感あるんだけど」
「いや、まだ片足くらいでしょ……あれは」
「問題はさ」
ナギサが眉をひそめる。
「これを、誰かが外に出したら……だよ」
その瞬間、店内の空気がピンと張りつめた。
「……まさか、祐介?」
キリコが小さくつぶやく。
SNSをこまめにチェックしていたリカが、スマホを見て呆然とした表情になる。
「……上がってる」
「なにが?」
「ほっと一息のイオリちゃん、ついに彼氏発覚!?っていう匿名投稿。写真付き」
「……っっ!!」
そこには、イオリがユウトと相合い傘で歩く写真が、バッチリと投稿されていた。
「ご、ごめんなさい……!」
夜の宿に戻ったあと、イオリは皆の前で頭を下げていた。
目は真っ赤。さっきまで泣いていたのが明らかだった。
「わたし……そんなつもりじゃ……!」
「イオリ、落ち着いて」
キリコが近づく。
「この写真は、誰が撮ったのか分からない。でも……あなたを責めたい人なんて、ここにはいない」
「でも……!」
イオリは拳を握りしめる。
「私が悪いって、分かってます! 旅の間は、みんなと一緒にいるべきなのに……ユウトさんのことばっかり考えて……!」
リカがゆっくりと口を開いた。
「……それでも、イオリのこと、嫌いにはなれないよ。私たち、そんな薄っぺらな関係じゃないから」
「私も」
ナギサが言う。
「正直、ちょっと寂しかったけど……イオリが好きな人と笑ってるなら、それでいいって思いたい」
マコが頭をぽんと叩く。
「ていうかさ、イオリの彼氏がイケメンって、ちょっと自慢できるくない?」
笑いが少しだけ生まれた。
イオリの目からまた涙があふれたが、
その涙は、どこか温かかった。
その夜。
焚き火も消え、皆が眠りについた頃。
イオリは、一人ベランダに出た。
その横には、ひっそりとコーヒーを持ったキリコがいた。
「寝れない?」
「……はい。やっぱり、まだ不安で」
キリコは、持っていたマグをイオリに差し出す。
「あの人のこと、どれくらい本気なの?」
イオリは目を伏せて答えた。
「……すごく、好きです。でも、まだ全然知らない。だから、もっと知りたい。ちゃんと、向き合いたいです」
「ふーん」
キリコは少しだけ笑った。
「だったら、逃げなきゃいいよ。関係ってのは、築いていくもの。時間もかかるし傷つくこともある。でも……それでも進む価値があると思ったなら、歩くべき」
イオリは小さくうなずいた。
「はい……!」
キリコは立ち上がり、空を見上げた。
「……明日は、ちゃんと皆と話して。恋してるあなたも、チームのあなたも、全部がイオリなんだから」
翌朝。
小鳥の声と、やさしい霧が宿を包む中、
看板娘たちは朝食のテラスに静かに集まっていた。
前夜の出来事が、まだ心のどこかに影を落としていたが、
それでも、彼女たちの表情には不思議な落ち着きがあった。
「おはよう……」
最初に口を開いたのはイオリだった。
昨日の涙はすっかり乾き、彼女は小さく笑っていた。
「みんなに、ちゃんと伝えたいことがあります」
全員が、そっと顔を向けた。
イオリは深く息を吸い込む。
「私……恋をしています。ユウトさんのことが好きです。ここで出会って、話して、たくさん笑って……その気持ちは、本物です」
「でも」
彼女は目を閉じて、はっきりと続けた。
「だからこそ、私はわたしでいたい。ほっと一息の看板娘として、みんなと一緒に働きながら、恋もしたいんです。どっちも選びたい。わがままですけど……それが今の、私の答えです」
沈黙が、一瞬だけ場を支配する。
だが、最初に立ち上がったのはナナミだった。
「……じゃあさ」
手に持ったカトラリーでグラスをカンッと鳴らす。
「イオリの恋を、祝う会、開催しようよ!」
「え?」
「旅行の最後くらい、ハッピーエンドで締めようぜってこと!」
ナナミがウィンクしながら笑い、次にマコが指を鳴らす。
「異議なし! むしろ、わたしも現地の人にナンパされたし。めちゃイケメンだったし」
「えええ!? どさくさに紛れて爆弾発言!」
ナギサが口にしたパンを吹き出す。
リカも笑ってうなずく。
「やっぱさ……こういうのって、ちゃんと話し合えばなんとかなるんだよ。隠すからしんどくなる」
キリコも、ふっと目を細めて言った。
「仲間ってのはさ、正直にわがまま言える関係でいいのよ」
「そうそう、家族と似たようなもんだもんね」
アヤネが紅茶を口に運びながら静かに続けた。
「……でも、次からは報告よろしく」
「は、はいぃぃ……!!」
再びイオリの目に涙がにじんだが、それはもう、昨日までの涙とは違う。
温かくて、やさしくて、支え合える場所があると知った者だけが流せる、そんな涙だった。
その日の午後。
一行は、キンタマーニ高原を一望できる展望台に立っていた。
霧は晴れ、バトゥール山の雄大なシルエットがはっきりと見える。
眼下にはバトゥール湖の青が静かに広がっていた。
風が吹く。
静かな、神聖とも思える空気の中、
リカがポツリとつぶやいた。
「……ほんと、来てよかったかも」
「最初、こんな名前のせいでバズるとか、意味わかんないと思ってたけどさ」
「キンタマーニって地名が、こんなに綺麗な場所だとは……」
アヤネが小さく微笑む。
「逆に、もったいないって思ってた」
「ん?」
ナギサが振り向く。
「ふざけた名前って笑ってた自分が、ちょっと恥ずかしいって意味」
「……うん」
キリコがつぶやいた。
「でも、あたしたち、この名前で繋がった。変な偶然で、でもちゃんと意味があって」
マコが片手をポケットに突っ込みながら言う。
「名前ってさ、他人がどう言うかじゃなくて、自分たちがどう意味を込めるか、だよな」
「うん」
イオリが一歩前に出る。
「わたしたちは、キンタマーニでいい。だって、この名前をバカにされたとしても、その名前で、笑って、泣いて、支え合ったから」
「キンタマーニは」
ナナミが力強く言う。
「わたしたちの旗印!」
その言葉に、拍手と笑いが起きた。
誰もが、その名の奇抜さを、もう恥じてはいなかった。
「今さらさ」
マコがニヤリと笑う。
「ほっと一息?もう、キンタマーニカフェで定着しちゃったもんな」
「……むしろ逆にオシャ」
「もはや聖地」
「名前でこんなに人生動くこと、ある?笑」
笑い声が風に乗り、山にこだました。
帰国便の飛行機は、静かに夜空を滑る。
機内。灯りが落とされた中、ナナミが小声でささやいた。
「……次、どこ行こうか?」
「え?もう次の話してんの?」
「えー、絶対楽しかったじゃん。キリコさんも乗ってよ、ノってノって!」
「……ベトナムとか?」
「インドも気になる〜」
「行く気まんまんか」
イオリが笑いながら、ぽつりとつぶやいた。
「でも、どこに行っても、わたしたちはわたしたちですよね」
その言葉に、誰もがうなずいた。
この旅がくれたのは。
ただの観光や写真だけじゃない。
名前に込められた、笑いと誇り。
仲間でいるという、確かな絆。
それを胸に、彼女たちは、
またいつもの喫茶店に戻っていく。
看板娘8人と、1つの名。
キンタマーニ。
それはもう、奇跡じゃない。
選ばれた8人が意味を込めた、誇りの名前だ。
ピリついてるわけじゃない。
でも、全員がどこか彼女を意識していた。
「カエデさんってさ、なんか完成されてるっていうか……すでに出来上がってるよね」
マコが、まかないの時間につぶやいた。
「逆に、何か崩れたとこ見たくなるんだよね〜、わかる?」
「いや、わからん……」
「でも、そういう人間味、見えないよね。なんか、ずっとマニュアル完璧な感じ」
「でもイオリには優しいよね?」
そう、カエデは特にイオリに対して、自然な優しさを見せていた。
泣きそうな時にすっと寄り添い、目を見て話す。
それがまた、イオリの懐にスッと入り込んでいく。
「もしかして、イオリちゃんのこと……狙ってない……?」
「え、そっち!?」
「それはそれで尊い……」
「やめなさい真面目な話してるのに」
と、キリコが真顔で割り込んだ。
「……てか、気づいてる? カエデさん、マスターの手の動き、完全に覚えてる」
「え?」
「朝の開店準備、ラストオーダー、レジ締め……私が教えたわけでもないのに、全部一発で把握してる」
「それって……」
「つまり」
アヤネが小さく言った。
「……この店の過去を、知ってるってこと」
そう、その時点で全員、なんとなく感づいていた。
カエデは、この店の歴史の一部だったんだと。
数日後、夜。
マスターが珍しく、全員にコーヒーを淹れた。
「今日は、ちょっと話そうと思ってな」
全員が静かに耳を傾ける。
カエデ本人は、休憩室の掃除中で不在だった。
マスターは言った。
「……カエデは、姪じゃない」
「……え?」
「じゃあ、誰なんですか」
「元カノ!?」
「ちがうちがう、ややこしくなるな」
マスターは笑いながら、そして真顔に戻った。
「カエデは、昔この店を一緒に作った共同オーナーの娘だ」
「……え?」
「まだ俺が若い頃。バリバリでやってた時代。カフェを一緒にやろうって、志した友人がいてな。けどそいつ、病気で亡くなっちまった」
静まる空間。
「その娘が、カエデだったってこと……?」
「ああ。でも、当時はまだ中学生だったし、すぐにこの場所から離れて暮らすことになった。けど、カエデはずっと……ここを継ぎたいって言っててな」
リカが息をのんだ。
「だから、今戻ってきたんですか」
マスターは静かに頷く。
「……でも、まだ全部を任せる気はない。だから今は、俺の下で修業中。もちろん、お前らと同じ立場でな」
キリコが苦笑いで言った。
「じゃあ、ある意味、最もガチな看板娘ってことか」
「……うん。だから、今さらだけど、よろしくな」
誰も、否定はしなかった。
むしろ全員が、少しずつ、カエデという存在を受け入れる準備をしていた。
そのとき。
扉の向こうから、カエデがひょこっと顔を出した。
「すみません、掃除終わりました。あの……コーヒー、もらってもいいですか?」
その声に、イオリが小さく笑って言った。
「……カエデさん、もう少しでチームに正式加入ですね」
カエデは少しだけ驚いたように、でも、すぐにやわらかく笑った。
「……はい。よろしくお願いします」
その笑顔は、どこか少し泣きそうだった。
「……おはようございます」
朝の開店準備。まだシャッターが半分しか開いていない時間。
カエデの声は、いつもより少しだけ、トーンが柔らかかった。
「あ、おはようっす!」
ナナミが返す。黒髪ポニテの彼女は、今日は少しだけ寝癖がひどい。
「わ、ごめん!鏡も見てない!」
「似合ってますよ……ちょっと、猫みたいで」
「……え?」
ナナミは目を丸くしたあと、ちょっとだけ笑った。
「猫か……ありがと、カエデさん」
最初の一言が、誰かの一日を柔らかくする。
それが、今日の最初の奇跡だった。
「コーヒー豆、今日はこのローストでいきますね」
キリコが差し出した袋を、カエデは黙って受け取った。
そこに、ふと。
「……好きな豆、あるの?」
「え……?」
「プライベートで飲むなら、どんなコーヒー?」
キリコの目は、意外にも優しかった。
「私はね、モカが好き。甘い香りと、ちょっとだけ酸味があるやつ……気分が整うの」
「……私は、あまり飲めなかったんです。昔は、苦くて。でも最近は、飲めるようになってきました」
「そっか。なら、ゆっくり覚えていけばいい」
キリコがふっと笑った。
「あなたがカエデで良かった。ちょっとだけ、私も救われた気がする」
「え?」
「8人目のK。待ってたのかもしれない、ずっとね」
カエデは、返事の代わりに、ほんのわずかに口角を上げた。
それが、彼女の精一杯の笑顔だった。
「ほら、カエデちゃん、まかない一緒に作ろっか〜!」
マコは容赦ない。
「とりあえず包丁持って、キャベツ千切りね!制限時間は5分!終わらなかったら食器洗い2倍ッ!」
「えぇ……」
そう言いつつも、カエデは黙々と包丁を動かす。リズムはまだ硬いが、姿勢は正しく、目はまっすぐ。
「よしよし、その調子!でもね〜、この店はただ作ればいいってもんじゃないのよ」
「……美味しそうに見えること?」
「正解!あと、推し活に使える映え!」
「え、それも料理で……?」
「そりゃそうよ!#今日のまかない で毎日500いいね取ってた時代の私ナメんな♡」
カエデは小さく笑った。
「……私、勉強します」
「よろしい!!今夜はフレンチトースト祭りで鍛えるから覚悟してね〜〜〜!!」
「フレンチトーストで祭りって何……」
「カエデちゃん……ごめん、ちょっとだけ……寝てもいい……?」
閉店間際の掃除中、ナギサは床に座り込んで、スヤァ……と寝落ちていた。
「……ナギサさん?」
声をかけても起きない。
カエデはふと、制服のブレザーを脱いで、そっとナギサの肩にかけた。
そのまま、掃除機を音を立てないようにかけながら、テーブルを一つ一つ磨いていく。
10分後、ナギサがふと目を覚ましたとき、テーブルはぴかぴかで、カエデはまだ黙々と作業していた。
「……ありがと、カエデちゃん」
「いえ、大丈夫です。明日はナギサさんの分も早めに終わらせておきますから」
「……やさしいね、あんた」
「そうでしょうか?」
「うん……うちの店に、来てくれてありがとね」
その言葉に、カエデは小さくまるで呟くように言った。
「……こちらこそ、です」
「カエデちゃん、今日も真面目すぎィ!」
「すみません、つい……」
「もっと適当に生きていいのよ?てかアンタ、敬語抜ける?」
「えと……あ、はい……いえ、ちが……う……」
「それだ!!今の顔かわいい!!いただきましたー!」
「やめてください、写真はダメです!!」
リカがケタケタ笑いながら逃げる。カエデは真っ赤な顔で追いかける。
「削除してください!!それ、公式アカウントに上げるつもりですよね!!」
「うわ〜〜バレた〜〜〜」
「やめてください!!」
後ろで見ていたイオリが、笑いをこらえながらポツリ。
「……なんか、家族みたいですね」
「……あなたって、本当は強い人なんですね」
休憩時間。アヤネが、小説のメモ帳を閉じながら言った。
「え……」
「誰にも甘えないで、何も頼らない。常に正確で、誰にも迷惑をかけないように、完璧でいようとしてる」
「……それは」
「でも、それって。ほんとは、すごく孤独で、苦しいことです」
カエデの目が、揺れる。
アヤネはそっと目を閉じた。
「私は、そんなあなたの強さを、尊敬しています。でも、たまには……弱くなってもいいんですよ」
「……私、ずっと……ここにいて、いいんでしょうか」
アヤネは、迷わず答えた。
「あなたがいなきゃ困る人が、もうここにいます」
その瞬間、カエデの胸の奥に何かが流れ込んだ。
それは。
ずっと求めていた言葉だった。
その日、閉店後。
マスターが、カエデのためだけにコーヒーを淹れてくれた。
「今日はどうだった?」
「……とても、優しい一日でした」
「少しは、溶け込めたか?」
「はい。でも……まだまだ、これからです」
マスターは、ゆっくり頷いた。
「そうだな。店ってのは、コーヒーと、空間と、人でできてる。どれが欠けても、成立しない」
「……はい」
「で、お前はその人の一人だ。これからも、頼むぞ」
「……はい。喜んで」
そうして、カエデは深くお辞儀した。
その目には微かに、光るものがあった。
朝早く、まだ夜明け前の薄暗い頃。
半分眠ったまま、看板娘たちはキャリーバッグや小さなリュックを抱えて店に集まっていた。
「本当に、行くんだね」
キリコがつぶやく。
「うん……なんか、名前の元になった場所、見てみたくて」
イオリの声は震えていたが、瞳は光を宿している。
ナギサがストローをくわえながらぼそり。
「標高が高い高原……寒くないかな」
マスターが手をかざして、店の額縁の光を確かめるように空を見上げた。
「天気は大丈夫そうだ。雲が厚くない」
その言葉に、一同、胸を撫でおろす。
「じゃあ、そろそろ出発しようか」
観光バスとレンタカーを混ぜて、メンバーは町を出た。
舗装された山道をぐんぐん登っていく。木々が低くなり、次第に高原の冷たい空気が流れ込んでくる。
窓の外には、雲海、深い谷、そして遠くに山の輪郭が見える。
バスがヘアピンを曲がるたび、景色が変わる。
コントラストの強い森、霧に包まれた峰、草地。
全部が、非日常の色を帯びていた。
マコが笑いながら窓に顔を近づける。
「すごい……空気が違う」
「肺が、生き返る感じ」
「カエデさん、寒くない?」
「いいえ、大丈夫、むしろ気持ちいいです」
リカはバッグからストールを取り出して、カエデにそっと渡した。
「これ、巻いた方がいいよ」
「ありがとうございます……」
そのさりげない気遣いが、ちょっと胸に暖かさを残す。
途中、峠の小さな展望休憩所に立ち寄る。
土産屋や展望台、ベンチがいくつかあって、そこからはカルデラの縁が見える。
「見て、あそこが……」
ナナミ(卒業後ビデオ通話で同行)とマスターが指差したその先には、湖と火山のシルエット。
「これが、キンタマーニ……」
イオリが息をのんで声を上げる。
休憩所の土産屋には、Kintamani Coffeeと書かれたパックが並んでいた。
マコがそれを手に取る。
「本物かどうか……味見してみよう」
マスターはニヤリとして言う。
「地域性の香りを持ってるはずだ。火山の土、標高、植生……全部が混ざってる」
コーヒーを少しだけ試飲し、皆で顔を見合わせた。
その香りが、どこか“名前の物語”の皮膚を一瞬触ったような気がした。
バスが最後の坂道を曲がると、小さな村が眼前に開ける。
石畳の道、赤瓦屋根、低い植生、霧が斜めに流れる。山の輪郭がくっきりと浮かぶ舞台だった。
村の入口には木の看板。「Kintamani Village」。
そこに、地元住民たちが笑顔で手を振る。
民宿、露天、カフェ、小さな市場。地元の装飾があちこちに。
「……なんか、夢に来たみたい」
ナギサがポツリ。
宿まで歩く道すがら、彼女たちは何度も立ち止まり、カメラを構え、空気を吸った。
木の葉のざわめき、風の匂い、向こうから来た野の鳥の声。
宿は小さなロッジ。窓からは火山が見える。
オーナーが出迎えてくれて、布団を用意し、地元のお茶とお菓子を差し出してくれた。
「ようこそ、Kintamaniへ」
その言葉に、看板娘たちの胸に、ひとつの確かな実感が生まれる。
「ここに、来てよかった」
翌朝。
目覚ましの代わりに耳へ届いたのは、鳥の声と、ゆるやかに流れる木々のざわめきだった。
標高1500メートルの空気は、肌を刺すように冷たい。だが、肺の奥が清められるような清々しさがあった。
「……うわぁ」
イオリが窓辺に立ち、ぼんやりと空を見上げていた。
濃い朝霧がゆるやかに晴れていくと、遠くにうっすらと見えたのは。
雲海の切れ間から浮かび上がる、アグン山のシルエット。
「まるで、空に浮かんでるみたい……」
小さくつぶやいたその言葉を、背後からナギサが聞きつけた。
「なにそれ、めっちゃ詩的」
「ナギサさん、起きてたんですか?」
「そりゃ、イオリの声で目覚めるのが旅の醍醐味でしょ」
ナギサは、寝癖のまま、コップ一杯の水をあおった。
食堂に集まると、地元の食材をふんだんに使った朝食がテーブルに並んでいた。
バナナの葉に包まれたナシチャンプル。山菜と豆腐のスープ。地元産の香り高いコーヒー。
「これが……本物のキンタマーニ・ブレンド……!」
マスターが目を細めて一口含むと、うっとりしたようなため息を漏らした。
「酸味が柔らかく、でも輪郭ははっきりしている。深煎りのはずなのに、焦げの香りがない」
「マスター、ただの感想でCMになるのすごいですね……」
ナナミが、スマホ越しに笑っている。彼女は大学の用事で店を留守にしていたが、リモートで旅に参加していた。
キリコは黙って朝食をつつきながら、ふと隣に目をやる。
イオリの表情が、どこか浮ついている。
(……あの子、やっぱり、気になってるんだ)
キリコの視線の先には、あのライバル店のイケメン、ユウトがいた。
今回の旅のお目付け役として、マスターが同行を許した唯一の外部関係者。
彼は、地元文化と観光資源の研究のため、定期的に高原を訪れているのだという。
彼の知識と人懐こい態度が、イオリの心を少しずつ溶かしていた。
午前中、メンバーは高原の天然温泉へと向かった。
山腹に造られた露天風呂。湯けむりが立ちのぼり、地面からほのかに硫黄の匂いが漂う。
「きゃー、気持ちいい!」
マコが叫ぶ。
「肌、すべすべになるやつ……」
リカが真剣な顔で言う。
「お湯、深めですね……足つかない……」
イオリが少し焦りながら湯船の端につかまる。
キリコはその様子を眺めながら、湯の縁に腰かけていた。
「イオリ、無理しないでね。のぼせやすいんだから」
「は、はいっ……」
だが、その返事の後ろで、別の視線が動いた。
ナギサが、お湯の表面をなぞるようにして、ポツリとつぶやいた。
「ねぇ……最近、ちょっと雰囲気、変わってない?」
「誰の?」
マコが聞き返す。
「……イオリとさ、ユウトさん」
数秒の沈黙。
リカが口をすぼめる。
「まぁ、分かるけど……別に悪いことじゃないでしょ」
「でもさ」
ナギサが続ける。
「もし、あの子が選ぶとしたら、さ……私たちの居場所って、ちょっと揺らぐじゃん」
その言葉に、湯の温度とは違うぴりっとした気配が走る。
キリコは目を閉じたまま言った。
「……イオリがどこにいようと、あの子はほっと一息の一員よ」
「それでも、感情は切り替えられないよ」
ナギサの言葉は、どこか幼く、でも正直だった。
午後、分かれて行動することになった。
イオリはユウトと一緒に地域の祭りの展示館を見に行くと言い、
他のメンバーは地元の市場や、湖畔の散歩道をぶらぶらと歩いた。
「……はぐれた感じするね」
リカが苦笑いする。
「なんか……チーム感、崩れてない?」
マコもぽつり。
「わたし……イオリちゃんのこと、責めたくないのに……なんか、モヤっとする」
カエデが、珍しく本音を漏らした。
誰も、声を大にして責めたりはしない。
でも、静かに積もっていく不安と寂しさが、すぐそばにあった。
そして、夜が来た。
宿の中庭で焚き火が始まった。
地元の人が小さなライブ演奏をしてくれて、コーヒーと焼き菓子がふるまわれた。
空は晴れて、満天の星がきらめく。
遠くで、火山のシルエットがゆらゆらと見えていた。
そんな中、キリコがふと席を立ち、焚き火のそばに一人で座る。
やがて、その隣にイオリが来た。
少し距離を置いて、火を見つめる。
「……キリコさん」
「ん?」
「……あの、わたし、皆の気持ち、分かってます」
キリコは何も言わない。ただ、火がパチパチと音を立てる。
「でも、ユウトさんのこと、気になってるのも本当で……どうしたらいいか、分からないです」
キリコが静かに口を開く。
「……分かるよ。好きになることと、居場所を守ること。簡単に両立できるもんじゃない」
「でも、イオリ」
「あなたが、あなたでいてくれたら、それでいいよ」
イオリの目が、少し潤んだ。
「ありがとう……キリコさん」
そして、静かに火を見つめながら、二人の間にまた少しだけ風が吹いた。
キンタマーニ高原の午後は、気まぐれだった。
さっきまで晴れていた空が、まるで機嫌を変えるように、
ふいに曇り始め、気づけば細かい雨が降り始めていた。
湖畔の遊歩道。
空は白く霞み、世界の輪郭がぼやけていく。
「傘……持ってきてないんだけど」
「やば、私も。観光地あるある」
マコとナギサが笑いながら頭に手をかざし、小走りで木陰に逃げ込んだ。
「ちょっとカフェ入ろうよ。たしか近くに……」
リカがスマホを確認する。
その背後では、イオリとユウトが並んで歩いていた。
二人の肩に、ユウトが差し出した傘がかかっている。
「……あのさ、今日さ」
ユウトが言った。
「昼間、一緒に博物館見てて思ったんだけどイオリちゃんって、歴史好き?」
「うん、わたし、昔から本とか……なんか、過去のことを知るのって、安心するというか」
「安心?」
「うん、もう決まってることだから。変わらないものって、ほっとするんです」
その言葉に、ユウトは少し黙ってから微笑んだ。
「なるほどね……たしかに、イオリちゃんって、ちょっとふわっとしてるけど、芯があるんだなって思った」
イオリはその言葉に、真っ赤になってうつむいた。
その様子を、数メートル離れたカフェの窓から見ていたのはキリコだった。
他のメンバーはすでに店内の奥で席に着き、コーヒーを注文していたが、彼女だけは立ったまま、ガラス越しの世界を静かに見ていた。
「……あーこれはやばいやつだな」
そうつぶやいたのはマコ。椅子を回転させて、窓越しに様子を伺う。
「もう完全に付き合ってます感あるんだけど」
「いや、まだ片足くらいでしょ……あれは」
「問題はさ」
ナギサが眉をひそめる。
「これを、誰かが外に出したら……だよ」
その瞬間、店内の空気がピンと張りつめた。
「……まさか、祐介?」
キリコが小さくつぶやく。
SNSをこまめにチェックしていたリカが、スマホを見て呆然とした表情になる。
「……上がってる」
「なにが?」
「ほっと一息のイオリちゃん、ついに彼氏発覚!?っていう匿名投稿。写真付き」
「……っっ!!」
そこには、イオリがユウトと相合い傘で歩く写真が、バッチリと投稿されていた。
「ご、ごめんなさい……!」
夜の宿に戻ったあと、イオリは皆の前で頭を下げていた。
目は真っ赤。さっきまで泣いていたのが明らかだった。
「わたし……そんなつもりじゃ……!」
「イオリ、落ち着いて」
キリコが近づく。
「この写真は、誰が撮ったのか分からない。でも……あなたを責めたい人なんて、ここにはいない」
「でも……!」
イオリは拳を握りしめる。
「私が悪いって、分かってます! 旅の間は、みんなと一緒にいるべきなのに……ユウトさんのことばっかり考えて……!」
リカがゆっくりと口を開いた。
「……それでも、イオリのこと、嫌いにはなれないよ。私たち、そんな薄っぺらな関係じゃないから」
「私も」
ナギサが言う。
「正直、ちょっと寂しかったけど……イオリが好きな人と笑ってるなら、それでいいって思いたい」
マコが頭をぽんと叩く。
「ていうかさ、イオリの彼氏がイケメンって、ちょっと自慢できるくない?」
笑いが少しだけ生まれた。
イオリの目からまた涙があふれたが、
その涙は、どこか温かかった。
その夜。
焚き火も消え、皆が眠りについた頃。
イオリは、一人ベランダに出た。
その横には、ひっそりとコーヒーを持ったキリコがいた。
「寝れない?」
「……はい。やっぱり、まだ不安で」
キリコは、持っていたマグをイオリに差し出す。
「あの人のこと、どれくらい本気なの?」
イオリは目を伏せて答えた。
「……すごく、好きです。でも、まだ全然知らない。だから、もっと知りたい。ちゃんと、向き合いたいです」
「ふーん」
キリコは少しだけ笑った。
「だったら、逃げなきゃいいよ。関係ってのは、築いていくもの。時間もかかるし傷つくこともある。でも……それでも進む価値があると思ったなら、歩くべき」
イオリは小さくうなずいた。
「はい……!」
キリコは立ち上がり、空を見上げた。
「……明日は、ちゃんと皆と話して。恋してるあなたも、チームのあなたも、全部がイオリなんだから」
翌朝。
小鳥の声と、やさしい霧が宿を包む中、
看板娘たちは朝食のテラスに静かに集まっていた。
前夜の出来事が、まだ心のどこかに影を落としていたが、
それでも、彼女たちの表情には不思議な落ち着きがあった。
「おはよう……」
最初に口を開いたのはイオリだった。
昨日の涙はすっかり乾き、彼女は小さく笑っていた。
「みんなに、ちゃんと伝えたいことがあります」
全員が、そっと顔を向けた。
イオリは深く息を吸い込む。
「私……恋をしています。ユウトさんのことが好きです。ここで出会って、話して、たくさん笑って……その気持ちは、本物です」
「でも」
彼女は目を閉じて、はっきりと続けた。
「だからこそ、私はわたしでいたい。ほっと一息の看板娘として、みんなと一緒に働きながら、恋もしたいんです。どっちも選びたい。わがままですけど……それが今の、私の答えです」
沈黙が、一瞬だけ場を支配する。
だが、最初に立ち上がったのはナナミだった。
「……じゃあさ」
手に持ったカトラリーでグラスをカンッと鳴らす。
「イオリの恋を、祝う会、開催しようよ!」
「え?」
「旅行の最後くらい、ハッピーエンドで締めようぜってこと!」
ナナミがウィンクしながら笑い、次にマコが指を鳴らす。
「異議なし! むしろ、わたしも現地の人にナンパされたし。めちゃイケメンだったし」
「えええ!? どさくさに紛れて爆弾発言!」
ナギサが口にしたパンを吹き出す。
リカも笑ってうなずく。
「やっぱさ……こういうのって、ちゃんと話し合えばなんとかなるんだよ。隠すからしんどくなる」
キリコも、ふっと目を細めて言った。
「仲間ってのはさ、正直にわがまま言える関係でいいのよ」
「そうそう、家族と似たようなもんだもんね」
アヤネが紅茶を口に運びながら静かに続けた。
「……でも、次からは報告よろしく」
「は、はいぃぃ……!!」
再びイオリの目に涙がにじんだが、それはもう、昨日までの涙とは違う。
温かくて、やさしくて、支え合える場所があると知った者だけが流せる、そんな涙だった。
その日の午後。
一行は、キンタマーニ高原を一望できる展望台に立っていた。
霧は晴れ、バトゥール山の雄大なシルエットがはっきりと見える。
眼下にはバトゥール湖の青が静かに広がっていた。
風が吹く。
静かな、神聖とも思える空気の中、
リカがポツリとつぶやいた。
「……ほんと、来てよかったかも」
「最初、こんな名前のせいでバズるとか、意味わかんないと思ってたけどさ」
「キンタマーニって地名が、こんなに綺麗な場所だとは……」
アヤネが小さく微笑む。
「逆に、もったいないって思ってた」
「ん?」
ナギサが振り向く。
「ふざけた名前って笑ってた自分が、ちょっと恥ずかしいって意味」
「……うん」
キリコがつぶやいた。
「でも、あたしたち、この名前で繋がった。変な偶然で、でもちゃんと意味があって」
マコが片手をポケットに突っ込みながら言う。
「名前ってさ、他人がどう言うかじゃなくて、自分たちがどう意味を込めるか、だよな」
「うん」
イオリが一歩前に出る。
「わたしたちは、キンタマーニでいい。だって、この名前をバカにされたとしても、その名前で、笑って、泣いて、支え合ったから」
「キンタマーニは」
ナナミが力強く言う。
「わたしたちの旗印!」
その言葉に、拍手と笑いが起きた。
誰もが、その名の奇抜さを、もう恥じてはいなかった。
「今さらさ」
マコがニヤリと笑う。
「ほっと一息?もう、キンタマーニカフェで定着しちゃったもんな」
「……むしろ逆にオシャ」
「もはや聖地」
「名前でこんなに人生動くこと、ある?笑」
笑い声が風に乗り、山にこだました。
帰国便の飛行機は、静かに夜空を滑る。
機内。灯りが落とされた中、ナナミが小声でささやいた。
「……次、どこ行こうか?」
「え?もう次の話してんの?」
「えー、絶対楽しかったじゃん。キリコさんも乗ってよ、ノってノって!」
「……ベトナムとか?」
「インドも気になる〜」
「行く気まんまんか」
イオリが笑いながら、ぽつりとつぶやいた。
「でも、どこに行っても、わたしたちはわたしたちですよね」
その言葉に、誰もがうなずいた。
この旅がくれたのは。
ただの観光や写真だけじゃない。
名前に込められた、笑いと誇り。
仲間でいるという、確かな絆。
それを胸に、彼女たちは、
またいつもの喫茶店に戻っていく。
看板娘8人と、1つの名。
キンタマーニ。
それはもう、奇跡じゃない。
選ばれた8人が意味を込めた、誇りの名前だ。



