温泉旅行から数日後。
町の空気はさらに冷え、夜には吐く息が白くなるようになった。
そして、その冷たい風の中でも、店は穏やかに日常を取り戻しつつあった。
……が、静けさは長くは続かなかった。
「なあナナミ、ちょっと……これ見て」
と、スマホを見せてきたのは翔太だった。
そこには、とあるカフェの広告バナーが。
《Silk Drip 冬の新作ラテアート祭り》
「……あっちの店、なんか本格的に仕掛けてきたかも」
白を基調にした、シンプルで高級感のあるカフェ。
『シルクドリップ』は、駅前に新しくできたばかりのカフェでありながら、オシャレさと清潔感、SNS映えを全面に押し出して、じわじわと人気を集めていた。
そして、そこにいるのが。
「いらっしゃいませ。こちらのお席へどうぞ」
桐生、19歳。
色素の薄い髪に、やや鋭い目元。でも接客は丁寧で、言葉もやわらかい。
そのギャップがSNSで「やばい」と話題になり、Silk Dripの顔として人気が急上昇していた。
3.イオリの、恋の芽
その桐生と、いま密かに交際しているのが──
『ほっと一息』の最年少、イオリ(18)。
内気で、泣き虫で、でも誰よりも真っ直ぐな心を持っている彼女。
きっかけは偶然の会話からだった。
そして、初めてのデート。温泉旅行直後に少しの時間を作って、ふたりだけの遊園地へ行った。
その後も、忙しい合間を縫って会っていたが──
「……最近、あんまり会えてないの」
ある日、イオリはぽつりとそうつぶやいた。
「桐生さん……冬に向けて、店の仕事がすごく増えたって」
ナナミが紅茶を注ぎながら言う。
「そっか……でも、連絡は来てるんでしょ?」
「うん……優しいよ。何も変わってない。でも、なんか……」
どこか、不安そうな表情。
付き合うことの難しさ。それを、彼女は今、静かに学んでいた。
「来月、ほっと一息の隣の空きテナントで、期間限定のポップアップカフェ開くって話、聞いた?」
その夜、マコとキリコ、リカの三人は、まかないを囲みながら静かに話していた。
「え、それマジで?潰しに来てない……?」
「もしかしたら……桐生くんも、巻き込まれてるかも」
マコが口をつぐんだ。
Silk Dripのオーナーは、少し強引なところがあると、業界でも噂されている。
「イオリには……言えないな、これ」
キリコが深くため息をついた。
その翌日、桐生からイオリに、あるメッセージが届く。
《来月から、期間限定であの店の隣に出店するって聞いた。俺、やりたくなかった。でも……断れなかった》
イオリはその場で、スマホをぎゅっと握りしめた。
「なんで……そんなの……」
マスターのいるカウンターの裏で、イオリは声を抑えて泣いた。
その涙は、悔しさとも、悲しさともつかない、複雑な感情だった。
マスターは、黙ってそばにいた。
何も言わず、ただ、彼女が泣き終わるまで。
その夜。
ほっと一息の仲間たちは、話し合っていた。
「Silk Dripが来るってことは……正直、うちも影響出るよね」
「でも、誰かを責めるのは違う」
「わかってるよ。イオリちゃんのこともあるし……」
祐介がぽつりと言った。
「戦いじゃなくて、こっちの良さを改めて見せればいいんじゃないか」
「……うちの良さ、かぁ」
ナナミが呟く。
「それって、なに?」
アヤネが聞いた。
その問いに、少しの沈黙のあと。;
マコが笑った。
「あったかさでしょ、やっぱ」
「うちらの、しょうもないけど必死で、ちょっと泣けて、めっちゃ笑えるこの感じ」
「……ああ、わかる気がする」
キリコも、ようやく静かに頷いた。
マスターが提案する。
「だったら、今年のクリスマス。うちらも全力でやってみよう」
「イベント……?」
「なにやんの?」
「本気でふざけるのも、本気で伝えるのも、どっちもいい。全部、うちら流で」
そのとき、まだ明かされていないもう一つの仕掛けが、水面下で進んでいた。
看板娘たちの、冬の奇跡企画。
Silk Dripとの戦いではない。
自分たちの物語を、届けるための、ほんとうの一歩だった。
12月に入った。
ほっと一息の入口には、ささやかなクリスマスリースと手作りのポップアップカード。
「クリスマス仕様……ちょっと地味?」
ナナミがツリーの飾りつけを眺めながら言った。
「いや、これがいいんじゃない?」
とアヤネ。
「うちの店ってさ、あえて昭和レトロっぽいがテーマだったじゃん」
「そっちの方が、映え狙いのSilk Dripとは逆でいいかも」
「うん……やっぱ、落ち着くって言われたいよね」
キリコが黙ってリースの位置を微調整していた。
その横で、ナギサはニコニコしながらマグカップにクッキーを立てていた。
「クリスマスブレンド、完成〜ナギサ特製〜」
「また謎アレンジしてないよね?」
とリカ。
「ちょっとだけ……ミント!」
「……お腹壊さなきゃいいけど」
「……で、本気でやるんですか。隣に、期間限定店」
桐生蒼真は、店の奥の控室でオーナーと対峙していた。
「話題性は十分。イオリちゃんとの関係も、むしろスパイスになるってわけさ」
「……俺は、そういう形で彼女を巻き込みたくない」
「でも、君はSilk Dripの顔だ。わかるね?」
……黙ってうなずくしかなかった。
誰よりも繊細で、誰よりも優しい蒼真は、反発することができなかった。
その夜。ほっと一息の閉店後。
イオリは、マスターにだけ呼ばれて、店の奥で話していた。
「……蒼真くんのこと、まだ好きかい?」
小さなうなずき。
「でも、今のSilk Dripは、君が信じた彼のままじゃないかもしれないよ?」
それでも。
「……それでも、もう一回、ちゃんと話したいです」
「逃げないんだね」
イオリは、少しだけ泣き笑いして言った。
「うちの看板娘は、泣き虫だけど……逃げないんです」
数日後。
キリコが、みんなの前でホワイトボードを使ってプレゼンを始めた。
「Silk Dripが隣に来るのは、もう既定路線みたい。だからこっちも、なにか仕掛けよう」
「イベント?」
「うん。ただのイベントじゃない。うちららしさを全面に出す企画」
白板に、マコが書き足した。
『ホットで一息プロジェクト』
「あのカフェには真似できない、手作り感とあたたかさで勝負しようって話」
「おぉ……地味にかっこいい……」
「期間限定ドリンク、看板娘のセレクトメニュー、推しブレンドの復活。あと、日替わりミニライブとか、読み聞かせとか」
「うちって何屋なん?」
「なんでもありカフェだよ、もう」
祐介が笑った。
12月中旬。
その日は雪がちらつく寒い日だった。
ほっと一息のドアが開き。
「……こんにちは」
そこに立っていたのは、コート姿の蒼真だった。
「……」
イオリは一瞬だけ戸惑ったが、すぐに微笑んで言った。
「いらっしゃいませ。おひとりですか?」
「うん。イオリちゃん……話せるかな。少しだけ」
イオリは店内の目を見渡し、そっと頷いた。
マスターが目配せして、小さなテーブル席へ通す。
「……いろいろ、ごめん」
蒼真のその一言で、イオリは少し泣きそうになった。
「でも、謝らなくていいよ。私も、勝手に落ち込んでただけだから」
少しだけ、沈黙が流れる。
「Silk Drip、たぶんあの場所で、いろいろあると思う。でも……」
蒼真が、ゆっくりと続けた。
「……期間が終わったら、辞めようと思ってる」
「え……」
「ほんとうにやりたいカフェは、違うんだって思ったから」
「……」
「それに、またどこかで、君とちゃんと並んで立てるように……なりたい」
イオリは、その言葉の意味を、何度も何度も胸の中で噛み締めた。
12月24日。クリスマスイブ。
ほっと一息では、日替わりライブが始まり、マスターがピアノを弾き、ナギサがウクレレを奏で、マコとナナミが踊っていた。
客席は満員。
子どもから大人まで、笑い声と拍手で満ちていた。
イオリは、カウンターの奥からその光景を見つめながら、深く息を吸った。
ここが、わたしの場所。
どんな形でも、わたしはここで、笑っていたい。
蒼真との未来は、まだ未確定。
でも、それでいい。
小さく、強く、そう思った。
そして年明け目前。
Silk Dripとの本当の勝負は……年明けに始まる。
元旦の朝。
店は正月三が日限定でお休み……にもかかわらず、看板娘たちはなぜか連れ立って近くの神社へと初詣に向かっていた。
「さっむ……!ナナミ、マフラー二重巻きにしたら?」
「いや、これ以上巻いたら顔なくなるって!てか、リカさんそのコートどこで買ったんですか。鬼オシャなんだけど」
「ネット。セール。即ポチ」
「……人多いですね……」
と、イオリがモジモジしながら手を合わせる。
その隣でナギサはというと、おみくじを引いたあとで本気泣きしていた。
「凶って……初日からこれはメンタルきます……」
「大丈夫、ナギサさん。凶は上がるしかないって意味ですから」
「フォローがうまいなアヤネ……!」
マコはというと、くじ運だけは妙に強く、なぜか大吉を2枚を引いていた。
「こっちは仕事運、こっちは恋愛運で分けた」
「ズルじゃん!!」
「いや、選ばれし者は2回引いても良いって昔の漫画で言ってた」
キリコは黙って神様にだけ祈っていた。
願いごとは、誰にも言わなかった。
けれどそのまなざしは、どこか遠くを見ていた。
1月4日。ほっと一息は年始の営業を開始した。
「新年限定!ほっと一服セットどうぞ〜」
「きな粉モチワッフル……うますぎて正月太り不可避……」
「店長、体重計の電池抜いときましょう」
「やめろ、現実から逃げるな」
営業再開初日にもかかわらず、店は満席だった。
そして、出入り口には貼り紙が。
《お知らせ》
キンタマーニCAFE 冬の陣開催!
・看板娘冬コーデ投票
・あったかブレンド試飲会
・新春・即興朗読バトル?!
1月15日よりスタート!
「即興朗読バトルって誰の案?」
「アヤネでしょ絶対」
「……推理小説の一節とか読みたかっただけです……」
SNSでは、すでに 冬のキンタマーニ というハッシュタグがトレンド入りしており、客層はますます混沌としてきていた。
1月10日。
ついにSilk Dripの期間限定・別館がほっと一息の斜向かいにオープンした。
内装は白とアイアンを基調にした、シンプルモダン。
メニューも洗練されており、なにより看板には。
蒼真 × カフェラボラトリーの文字が。
イオリは、それを見た瞬間、少しだけ複雑な表情を浮かべた。
「……あんなに、大きく名前が出るなんて」
「彼、もう顔ってことだな」
「でも……負けたくないです、私」
イオリの小さな拳が、ぎゅっと握られる。
「って言いながら泣きそうな顔してるの、もはや才能」
「だれが上手いこと言えと……!」
その頃、Silk Drip別館の中でも、静かな動きがあった。
「あの娘、イオリって子でしょ?蒼真くん、あっちに未練あるんじゃない?」
「てかさ、うちらもこっちの推しランキング作っちゃおーよ」
「蒼真様以外いないけどな……」
そんな会話が聞こえたかどうかはわからないが。
ほっと一息でも、どこか空気がピリつき始めていた。
ある日、キリコが冷静に言った。
「このままだと、ランキングとか恋愛とかに、みんな振り回される」
「……でも、うちら看板娘って、そういう商売じゃないの?」
ナナミが、少し強く言い返した。
「あたし、本気で教師目指してんの。だから、これ以上、キンタマーニのセンターとか、笑えない」
空気が一気に凍りつく。
「……ごめん、ちょっと感情的になった」
「いや、いい。ナナミの言ってること、正論だと思う」
キリコが、落ち着いた声で続けた。
「だからこそ私たちの本当の姿を、ちゃんと届けるべきじゃない?」
その夜。マスターは、店内でぼんやりとピアノを弾いていた。
そこへ、アヤネがそっと近づいてくる。
「……マスター、なんか悩んでます?」
「悩んでない人間なんていないよ」
「でも、マスターの悩みって……いつも、誰かのためのやつですよね」
マスターは、少しだけ笑って言った。
「この店は、もともと逃げ場を作りたくて始めたんだ」
「逃げ場、ですか」
「でも、今はみんな、居場所にしてくれてる。それが、うれしくもあり……こわくもある」
アヤネは静かにうなずいた。
「……この店は、変わらなくていいですよ」
「そうだな。変わらないために、俺たちが変わるんだな」
1月14日。
冬のキンタマーニ陣、前日。
スタッフ控え室で、看板娘たちが円になって座っていた。
「……バラバラになりそうだった時もあったけど、今、こうやって座れてることが、うれしい」
ナナミが言う。
「あの名前があったから、つながれたっていうのも、否定できないですね……」
アヤネが苦笑する。
「だからこそ、胸張っていこう。うちら、全員でキンタマーニだって」
リカが真顔で言って、笑いが起こる。
「まじで語感バグってんの、いつ聞いてもウケる」
「でも、いいよね。チームって感じで」
「じゃあ明日、いこっか」
「……最強の、おもてなしで!」
1月15日、午前10時。
冬の澄んだ空気が町を包み、陽射しはあっても凛とした冷たさが肌を刺す。
けれど、ほっと一息の店頭には、すでに行列ができていた。
「え、なにこれ……コミケ?」
「ちがうちがう、こっちキンタマーニ列!隣はSilk Drip!」
そう。
この日、同時開催となったほっと一息・冬の陣とSilk Drip 別館・新春特別営業の二つのイベントは、まさに商店街の中央にて正面衝突していたのだった。
SNS上ではすでに盛り上がりが加熱しており、
#冬のキンタマーニ陣
#推し娘勝負
#カフェ戦争2025
などのタグがトレンド入り。
「どっち行くか迷うわ……キンタマーニのアヤネ推しだけど、Silk Dripの限定マカロンも気になる……」
「今の流行、地元で二極化してんのすごいな」
「むしろ両方行くのが、礼儀ってもんでしょ?」
熱気は冷たい空気すら押しのけ、商店街はまるで文化祭のような賑わいに包まれていた。
「いい?今日のうちらのミッションは、過剰じゃない温かさで勝つこと」
キリコがメンバーを見渡しながら言った。
「え、もう勝ちに行くって前提?」
ナナミがちょっと笑う。
「いや、正面から勝負なんてつけられない。でも……この店らしさだけは、絶対負けないようにしよう」
マスターが用意した冬限定メニューは、どれも素朴で優しい味わい。
ほっとココアブレンド
焼き芋タルトと焦がしバターソース
推し娘チョイスブレンド(その子のイメージで作った限定コーヒー)
しかも、客が注文の際、誰のブレンドかを指名するシステム。
「アヤネさんのが一番ビターで好みだった」
「イオリちゃんブレンド甘っ……でもなんか優しくて好き」
「キリコさんのブラックはマジでガチすぎるwww」
推しと味覚がリンクする、ちょっと新しい形のファンサ。
イートインスペースには、冬限定の装飾。雪の結晶モチーフのモビールと、こたつ席が設けられ、コーヒーの香りと共に、笑顔が広がっていた。
「ようこそ、Silk Dripへ」
そこに立つのは蒼真。
冬の風に映えるネイビーのロングコート、指先にはシルバーの指輪。
白い手袋で、丁寧に客を案内していた。
別館の中には、まるで美術館のような静謐な空気が流れており、
高級感あるティラミスと、最新のドリップ技術で淹れられるコーヒーが、まさに対極の世界を演出していた。
「イオリちゃん、今日来ると思う?」
「来ないでしょ……あの子はあの子で、戦ってるはずだから」
蒼真は、客が途切れた瞬間、ふと外を見た。
そこには、ほんの一瞬だけ……イオリの後ろ姿が見えた気がした。
午後3時過ぎ。
ほっと一息の裏口で、イオリはこっそりと手紙を差し出した。
それは、蒼真に宛てた手紙。
「直接は……言えない。でも、届けたいんです」
マスターはそれを黙って受け取り、ポケットにしまった。
数時間後、Silk Dripの控え室。
休憩に入った蒼真に、突然スタッフのひとりが声をかける。
「さっき、誰かからこれ……預かりました。マスターって人が」
封を開けると、そこには、イオリの繊細な筆跡でこう綴られていた。
お互いがんばろうね。
あなたの珈琲が、わたしの原点だったこと、今でも変わりません。
蒼真は、静かに目を閉じた。
そして、その手紙を上着の内ポケットにしまうと、小さく呟いた。
「……ありがとう、イオリ」
17:00。
商店街に夕暮れの色が差し込む頃、いよいよイベントは最終投票タイムに突入する。
ほっと一息の中では、客たちがQRコードを読み込んで、スマホで一票を投じていく。
それぞれの推し娘に対する熱いコメントが飛び交い、笑いと感動が入り混じる。
「イオリちゃんの泣き笑いに毎回やられてます。応援してます」
「ナナミちゃんのツッコミ、日々の癒やし。センター希望!」
「アヤネさん、これからも小説の話して!おれも読み始めました」
SNSではリアルタイムで票が伸び続け、今日のセンターは誰だ?というタグが爆伸びしていた。
店内が暗くなり、最後のコーヒーが提供されるころ。
看板娘たちは、疲れた表情の中にも、どこか充足した面持ちで、
それぞれの席に座っていた。
「終わったね」
「いや、まだ発表がある」
「……怖いです」
「泣くの禁止な」
「それイオリに言ってるでしょ」
「ばれたか」
笑いがこぼれる。
そして。
マスターが、一枚のボードを手に、静かにカウンターに立った。
照明が少し落とされ、店内の空気が静まり返る。
店内のプロジェクターに、いつの間にか繋がれたマスターのノートPCから、スライドショーのように推し娘アンケート結果が映し出された。
ざわ……っと客席の空気が波打つ。
看板娘たちはカウンター横のソファ席に揃って座っていたが、その顔には緊張と期待と、少しの笑いが混じっていた。
「……どうしよう。手汗がすごい」
「ナナミさん、ツッコミの余裕どこいったんです?」
「うるさい、リカさん」
「いやー、ワンチャン祐介が1万票くらい水増ししてくれてないかな」
「してません」
マスターが咳払いし、発表を始めた。
「じゃ、まずは……第8位から」
第8位 リカ
「えー!!やっぱり?!」
「おいちょっと待てよ、リカ姐が8位っておかしくね?!」
「コメントの一部を紹介します。姐さん感強くてかっこいいけど、たまに怖い……だそうだ」
「ちょっとぉおおお!?優しさを!見てよ!」
「でも一番リアルに結婚したい感あるってコメントもあったよ」
「……そっちはもっと言ってくれ!!」
第7位 マコ
「まぁ、私がセンターになったら、企画が炎上するしな〜」
「いやいや、料理部門は一位だよ。特設の食べ物だけ投票だと圧勝」
「マスター、それ全然フォローになってない」
第6位 ナギサ
「……6位かぁ。まあ、まったり組代表としては妥当かなぁ」
「寝てたら票が逃げるって言われてました」
「それは事実」
「むぅ……次は寝ながら票をもらう方向で……!」
第5位 アヤネ
「……意外と上位」
「語彙力の彼女としてファン層が地味に熱かったです」
「しかも、意外と料理もできることがバレてから嫁にしたい度が急上昇」
「なんで文芸担当から家庭的キャラに……?」
第4位 キリコ
店内が「おお〜」とどよめく。
「ん。まぁ……それなりにやってたし」
「やってた、の中に何が含まれてるんですかね」
「泣いてたイオリに夜中付き添ったり、BGM調整したり、みんなのドリンクの味のバランスも管理してた」
「裏MVPすぎて笑えない」
第3位 イオリ
「えええっ!?」
「もっと上行くと思ったけど、逆にベストポジションだよ」
「センターじゃなくてよかったの?」
「はい……センターなんて、目立ちすぎて……緊張で泣きます」
「そこがいいって言われてたのに」
第2位 ナナミ
「え!?まじ?!」
「常に明るくて一番話しかけやすいリアクションが神という意見多数」
「でも……センターじゃなかったかぁ」
「……ま、私の本業は教師なんで」
「やめないでね?」
沈黙が店内を包み、プロジェクターの画面に。
第1位:タマエ
……が、浮かび上がった。
一同「!?」
タマエは何も言わず、ただほんの少しだけ、口元を緩めた。
「え……」
「うそ……タマエさん……」
コメントにはこうあった。
「一番謎が多くて、一番、心を惹かれる」
「あの笑わなさが逆にクセになる」
「でもたまに見せる小さな表情が、ずっと頭から離れない」
「センターで、無言を貫くアイドル……めっちゃ見たい」
無言の強さが、まさかのトップに。
キリコがぽつりと呟く。
「……あれは、出すつもりなかったけど」
「……たまには、わかりにくい感情が、ちゃんと伝わるときもあるんだね」
タマエは静かに、皆を見回したあと、たった一言だけ呟いた。
「……ありがとう」
その声は、どこかで泣きそうなほど、あたたかかった。
イベント終了後、控室でナナミが唐突に口を開いた。
「……ごめん、みんなに話さなきゃいけないことがあるの」
ざわっと空気が変わる。
ナナミは、スマホを握りしめたまま、少し唇を噛んでから。
「……教師の内定、決まりました」
「えっ」
「春から、赴任が決まりました。引っ越します」
静寂。
一瞬、誰も言葉が出なかった。
「……やったじゃん」
最初に口を開いたのはマコだった。
「ずっと目指してたんでしょ?……泣くなよ、もう」
「う、泣いてない……」
「いや泣いてる」
イオリも、アヤネも、ナギサも、それぞれ表情を崩した。
「……ナナミさんがいなくなると、店のツッコミいなくなる……」
「そっち!?」
キリコがぼそっと笑った。
「でもさ、卒業、っていい言葉じゃん」
「うん……うちら、アイドルじゃないけどさ」
「でも、看板娘って意味では、確かにセンターだったよね」
マスターが、黙ってコーヒーを置いた。
それは、特別な味のブレンド。
「最後の日には、これを出そうと思ってた。卒業ブレンド、だ」
ナナミは、それを見てまた泣いた。
その日、皆はそれぞれ別々の方向へ帰っていった。
寒い夜風が吹く。
だが、空を見上げると、春の星が少しずつ瞬いていた。
その空の下、ナナミはぽつりと呟いた。
「……キンタマーニ、かぁ。わたしの人生で、きっと一番しょうもなくて、一番愛おしい言葉だわ」
次の春に向かって。
看板娘たちは、それぞれの道を歩き始める。
けれど、ほっと一息は、今日も変わらずそこにある。
三月最後の日曜日。
春の風が、喫茶店ほっと一息の看板を優しく揺らしていた。
店は通常営業。けれど、今日だけは、常連たちにもナナミの卒業式があることが知らされていた。
オープン直後から、カウンター席は埋まり、テーブル席も順番待ち。
まるで人気アーティストのラストステージのような盛況ぶりだった。
「……混んでるな」
キリコがエプロンを結びながら呟くと、マコが笑った。
「当たり前じゃん。ナナミの卒業だよ?最後の推し活でみんな来てんの」
ナギサは、ちょっと泣きそうな顔でミルクを泡立てていた。
「……今日も、変わらず笑っててほしいな」
アヤネは棚から取り出したノートを胸に抱え、そっと頷いた。
「……この日のこと、書き残しておきたいから」
午後3時。
マスターがカウンターの中央で、両手を広げた。
「では、本日限定の卒業ブレンド、解禁します」
その言葉に、店内から拍手が起きる。
ナナミは、すでに涙目だった。
「ちょ……はやくない!?まだ普通に営業中なのに……」
「だって、もうずっと主役でしょ?」
「ナナミさん、泣くタイミング分かんなくなるくらいのイベントだから」
「ありがた迷惑っぽい言い方やめて!」
マスターが手渡した卒業ブレンドは、香ばしさとほのかな甘さが広がる、どこか“春”を感じさせる味だった。
「わたし、こういう味、好きかも」
「ナナミの味、って感じだね」
「お、おい!味で表現すんな!」
営業終了後。
看板娘たちと常連数名、そしてマスターだけが残った店内で。
ナナミの前に、一冊の封筒が差し出された。
「……ん?」
「中、見てみなよ」
と、イオリがそっと笑った。
封を開けると、中から出てきたのは、8枚の便箋。
一通目には、マスターの字があった。
ナナミへ
教師になるって言ってたな。
俺も昔、教師になりたかったことがあったんだ。
でも、こっちの世界で、人と人が交差する場所を作りたくなってな。
お前が店に来た日を、今でも覚えてる。
あのまっすぐな目と、素直すぎる言葉。
店の空気を、毎日ちょっとだけ明るくしてくれた。
ありがとう。
そして行ってこい。堂々と。
お前なら、大丈夫だ。
マスター
ナナミはすでに声も出ないくらい、涙を流していた。
「ちょ、まっ、まだ他のある……?」
次に読まれたのは、キリコからの手紙。
ナナミへ
あんたの声が店に響くと、なんか救われてた。
私は昔、言葉の使い方を間違えて、たくさんのものを失ったことがある。
でも、あんたは違った。
不器用で、まっすぐで、正直すぎて。
そんなあんたが、どんな大人になるのか、正直、ちょっと楽しみでもある。
次、帰ってきたときは、私の新作カクテルでも飲ませてやる。
元気でなー。
キリコ
そして、一通、また一通と読み進めるたびに、
ナナミは泣き、笑い、また泣いた。
ナギサの便箋には、パステルカラーの絵が添えられていた。
アヤネは万年筆で書かれた、文芸誌のような詩。
マコは文字が雑なのに、内容はやたらと熱かった。
リカはお節介すぎるほどの生活アドバイスを詰め込み、
イオリは、拙いけれど一番まっすぐな言葉で結んでいた。
「ナナミさんがいてくれたから、私はここで笑えました」
「私も、教師になりたいって思えるようになりました」
「……ずっと、憧れです」
ナナミは、便箋を抱きしめた。
「……もう、こんなの……一生分泣いた……!」
翌朝。
駅前に、看板娘たち全員が集合していた。
ナナミはスーツケースを片手に、制服姿のままだった。
「……ほんとに、行くの?」
「うん。決めたから」
「もうちょっとだけ、一息ついていってもいいのに」
「……それは、帰ってきたときに、またね」
ナギサが泣き、イオリも泣いた。
マコとリカは目を赤くしていた。
キリコは最後に、そっと肩を叩いて言った。
「……センター、お疲れさま」
ナナミは笑った。
「ありがとう」
改札を通り抜け、列車に乗るその瞬間、
ナナミは、ふとバッグからあの便箋を取り出して見つめた。
ちゃんと名前で呼んでくれる人たちがいる。
ちゃんと場所を残してくれた人たちがいる。
だから、進める。
列車がゆっくりと走り出した。
春の街のなかを。
新しい日々へ。
春の陽射しが、やわらかく店内に差し込んでいた。
ほっと一息は変わらず、レンガ造りの壁にツタを絡ませ、木の香りとコーヒーの匂いをまとう小さな喫茶店であり続けていた。
けれど。
「ナナミがいないと、やっぱ静かね」
キリコが呟いた声に、誰も反論しなかった。
「それ、悪い意味で言ってない?」
とマコが笑って返す。
「ちがうよ。ただ……空気の音が聞こえるくらい静かって感じ?」
イオリが、ナナミの定位置だったカウンターの一番端を見つめていた。
そこには、ナナミが使っていたマグカップが、花瓶代わりに使われていた。中には、リカが朝摘んできたマーガレットが一輪。
「……ナナミ、元気かなぁ」
「元気じゃなかったら、あの子じゃないよ」
とリカが笑った。
アヤネが小さな声で続ける。
「でも、いないことで、分かるものもありますよね……存在感とか、声とか、笑い方とか」
「あと音量な。とにかくうるさかった」
とキリコが少し寂しそうに言った。
静かに笑い合う彼女たち。
この春、一人が抜けた分、残された空白を大切にするように、みんなの距離はほんの少しだけ縮まっていた。
そして。
「おい、キンタマーニのセンター枠空いてるってマジか!?」
という噂が、常連客の間に流れ始める。
「つまり、ナナミちゃん卒業で、推し空席できたってことじゃん?」
「キリコさんがセンターでいいだろ」
「いやいや、最近アヤネさん、覚醒してきてない?」
「イオリちゃんの守ってあげたい感も根強いぞ!」
「てか、俺はずっとリカ姉推しなんだが?」
「知るか!」
混沌。
とんでもないことに、空席補充戦争がはじまっていた。
裏でこれを聞いたアヤネは、ため息をつきながらもまんざらでもなさそうな表情。
マコは
「戦争ってワード使うなってww」
と笑っていた。
ナギサはストローをかじりながらぽつりと。
「じゃあ、わたし……暫定センターってことで、昼寝してくるね……」
「そのセンター、速攻で炎上するからやめな?」
と、イオリが笑った。
だが、その空席は、ただのギャグで終わらなかった。
ある日、マスターが突然、こんなことを言い出したのだ。
「……ひとり、新しいスタッフを入れようと思ってる」
店内、シーン。
「え……誰?」
「女の子?」
「年齢は?」
「……顔面偏差値は?」
「いや、まず人間性で選べや」
とマコが突っ込んだが。
全員、どこかそわそわしていた。
この店に、新しい風が入る。
ナナミが去った春に、別の芽吹きがやってくる予感。
とはいえ、日々は続く。
奇跡の癒やし空間は、相変わらずの賑わいだった。
イオリがコーヒーをこぼして、リカにタオルで頭をゴシゴシ拭かれたり。
マコの焼き菓子が焦げて、キリコが「またお前か」と呆れてたり。
ナギサがポットの横で立ったまま寝て、アヤネが背中を小説で小突いたり。
何も変わっていないようで、確かに前へ進んでいる。
そんなある日、カウンターに座った祐介がポツリと呟いた。
「……ナナミ、元気かな」
「連絡来てるよ。昨日、イオリとテレビ電話してた」
「はやっ」
「てか、教師になったらしい。もう仮配属されてるって」
「生徒泣くわ、うるさくて」
「それな」
全員が笑った。
そして誰かが、ふと口にした。
「でもさ……この店、8人いないと、なんか落ち着かないね」
「KINTAMANIのK、抜けてるからね」
「じゃあそのKは、誰が入るんだろ」
「そもそも、新しい子、すぐ馴染めるかな……?」
「でも、ほっと一息ってさ、そういう場所でしょ」
とキリコが言った。
「人が流れて、入って、繋がって。そうやって、なんとなくずっとある店になるんだよ」
マスターが静かに微笑む。
「そろそろ紹介するかな」
「え?」
「新しいスタッフの子。もうすぐ来るから」
その瞬間、看板娘たちの間に一気に緊張が走った。
「こ、心の準備が……!」
「いやもうちょっと心の余白が欲しい……!」
「ナギサ、ストロー飲み込むな」
「ぶふっ」
そして、玄関の扉が、からん、と音を立てた。
「……失礼します」
扉の向こうに立っていたのは、スラリとした背丈に、淡いピンクのカーディガン、真っ白なブラウスと、タイトな黒のスカート。
どこか柔らかくて、けれど距離を感じさせる雰囲気をまとう女性だった。
「マスターに言われて来ました。今日から、勤務させていただく……カエデです」
その声に、静まる店内。
イオリが口元を押さえながら、「すごい……大人っぽい……」と小さく漏らす。
マコが小声でキリコに耳打ちした。
「年上……かな?」
「たぶん、同い年か、少し下……?」
カエデは、どこか慣れている感じがした。
おそらく、接客業の経験も長い。話し方も姿勢も、どこか洗練されている。
でも、それだけじゃなかった。
初めての場所に立っているはずなのに、彼女にはここにずっといたような空気がある。
それが逆に、他の看板娘たちにとっては、不思議な緊張感を生んでいた。
「今日からか……よろしく頼むよ」
マスターが笑いながら、カウンターの奥へカエデを誘導する。
彼女は軽く一礼して、「はい」と答えた。
その声の落ち着きが、イオリの胸をザワつかせた。
「あの……年齢って……?」
リカが聞くと、カエデはふっと微笑んだ。
「今年で……24になります」
それを聞いて、マコがホッとしたように言った。
「よかった、ギリ年下……ふふ、よくないなこれ」
キリコが冷静に言った。
「ってことは、私と1つ違いか……ま、様子見だね」
カエデは、誰に言われるでもなく、すっとカウンターに入り、手を洗い、タオルを整えた。
「メニューのこと、どこまで覚えておけば良いでしょうか?」
その言葉に、アヤネは思わず、「プロ」だとつぶやいた。
閉店後。
カウンター奥、店の照明がやわらかく落とされて、いつもの看板娘たちが集まっていた。
「……さすがに出来すぎじゃない?」
マコが腕を組んで言う。
「落ち着きすぎてる」
「雰囲気が……なんか、負けた感ある」
「てか、かわいいし……」
「お姉さん感つよい」
「しかも、あの声……声質……」
アヤネが小さく言った。
「落ち着く声って……正義ですよね……」
そこへ、マスターがやって来て、ポンとひと言。
「ちなみに、カエデの頭文字は、Kだよ」
「……うわ」
「出た!」
「そっちかぁ~~!」
「これで、またKINTAMANIコンプ?」
キリコが軽くため息をついた。
「またっていうか、もともと誰かだったわけでしょ?」
その言葉に、全員の視線がひとつに集まる。
マスターは、苦笑いで誤魔化すように、コーヒーを啜った。
「まあ、今さら気にすることでもないけどさ。偶然でもなんでも、結果的に揃ったなら、それでいいじゃない」
「……でもさ、あの人……なんか知ってる感じしない?」
アヤネがぽつりと言う。
「何を?」
「この店の空気……というか、私たちの動き……初日の対応じゃなかった」
誰も否定しなかった。
そしてキリコが、ふと思い出したように言った。
「……カエデって、たしか。昔……ここにいた、マスターの姪っ子さんじゃなかったっけ?」
その場の空気が止まる。
「マスターの……?」
「嘘でしょ、身内!?」
「それ、反則じゃん!」
「ズルすぎる……!」
「イオリ、泣かない!」
「ごめん、なんか悔しくて……!」
マスターは肩をすくめて言った。
「まあ、あいつにはちょっとだけ事情があるんだ。だから、少しずつ、話してやってくれよ」
その声に、キリコが静かに頷いた。
「了解……ま、ちょっと楽しみではあるよね」
マコが笑いながら言った。
「うちのカフェ、簡単に馴染めるとは思わないけどね」
ナギサは、いつのまにかストローをくわえながら、
「でも、全員そろったら、何が起きるんだろね」
と、不思議そうに言った。
「キンタマーニが完成して、バリ島行きのチケットでも出てくるとか?」
「そのフラグ、ある意味怖い」
「いや、まさか」
けれど、KINTAMANIが揃った日。
それはこの店にとって第二章のはじまりだった。
町の空気はさらに冷え、夜には吐く息が白くなるようになった。
そして、その冷たい風の中でも、店は穏やかに日常を取り戻しつつあった。
……が、静けさは長くは続かなかった。
「なあナナミ、ちょっと……これ見て」
と、スマホを見せてきたのは翔太だった。
そこには、とあるカフェの広告バナーが。
《Silk Drip 冬の新作ラテアート祭り》
「……あっちの店、なんか本格的に仕掛けてきたかも」
白を基調にした、シンプルで高級感のあるカフェ。
『シルクドリップ』は、駅前に新しくできたばかりのカフェでありながら、オシャレさと清潔感、SNS映えを全面に押し出して、じわじわと人気を集めていた。
そして、そこにいるのが。
「いらっしゃいませ。こちらのお席へどうぞ」
桐生、19歳。
色素の薄い髪に、やや鋭い目元。でも接客は丁寧で、言葉もやわらかい。
そのギャップがSNSで「やばい」と話題になり、Silk Dripの顔として人気が急上昇していた。
3.イオリの、恋の芽
その桐生と、いま密かに交際しているのが──
『ほっと一息』の最年少、イオリ(18)。
内気で、泣き虫で、でも誰よりも真っ直ぐな心を持っている彼女。
きっかけは偶然の会話からだった。
そして、初めてのデート。温泉旅行直後に少しの時間を作って、ふたりだけの遊園地へ行った。
その後も、忙しい合間を縫って会っていたが──
「……最近、あんまり会えてないの」
ある日、イオリはぽつりとそうつぶやいた。
「桐生さん……冬に向けて、店の仕事がすごく増えたって」
ナナミが紅茶を注ぎながら言う。
「そっか……でも、連絡は来てるんでしょ?」
「うん……優しいよ。何も変わってない。でも、なんか……」
どこか、不安そうな表情。
付き合うことの難しさ。それを、彼女は今、静かに学んでいた。
「来月、ほっと一息の隣の空きテナントで、期間限定のポップアップカフェ開くって話、聞いた?」
その夜、マコとキリコ、リカの三人は、まかないを囲みながら静かに話していた。
「え、それマジで?潰しに来てない……?」
「もしかしたら……桐生くんも、巻き込まれてるかも」
マコが口をつぐんだ。
Silk Dripのオーナーは、少し強引なところがあると、業界でも噂されている。
「イオリには……言えないな、これ」
キリコが深くため息をついた。
その翌日、桐生からイオリに、あるメッセージが届く。
《来月から、期間限定であの店の隣に出店するって聞いた。俺、やりたくなかった。でも……断れなかった》
イオリはその場で、スマホをぎゅっと握りしめた。
「なんで……そんなの……」
マスターのいるカウンターの裏で、イオリは声を抑えて泣いた。
その涙は、悔しさとも、悲しさともつかない、複雑な感情だった。
マスターは、黙ってそばにいた。
何も言わず、ただ、彼女が泣き終わるまで。
その夜。
ほっと一息の仲間たちは、話し合っていた。
「Silk Dripが来るってことは……正直、うちも影響出るよね」
「でも、誰かを責めるのは違う」
「わかってるよ。イオリちゃんのこともあるし……」
祐介がぽつりと言った。
「戦いじゃなくて、こっちの良さを改めて見せればいいんじゃないか」
「……うちの良さ、かぁ」
ナナミが呟く。
「それって、なに?」
アヤネが聞いた。
その問いに、少しの沈黙のあと。;
マコが笑った。
「あったかさでしょ、やっぱ」
「うちらの、しょうもないけど必死で、ちょっと泣けて、めっちゃ笑えるこの感じ」
「……ああ、わかる気がする」
キリコも、ようやく静かに頷いた。
マスターが提案する。
「だったら、今年のクリスマス。うちらも全力でやってみよう」
「イベント……?」
「なにやんの?」
「本気でふざけるのも、本気で伝えるのも、どっちもいい。全部、うちら流で」
そのとき、まだ明かされていないもう一つの仕掛けが、水面下で進んでいた。
看板娘たちの、冬の奇跡企画。
Silk Dripとの戦いではない。
自分たちの物語を、届けるための、ほんとうの一歩だった。
12月に入った。
ほっと一息の入口には、ささやかなクリスマスリースと手作りのポップアップカード。
「クリスマス仕様……ちょっと地味?」
ナナミがツリーの飾りつけを眺めながら言った。
「いや、これがいいんじゃない?」
とアヤネ。
「うちの店ってさ、あえて昭和レトロっぽいがテーマだったじゃん」
「そっちの方が、映え狙いのSilk Dripとは逆でいいかも」
「うん……やっぱ、落ち着くって言われたいよね」
キリコが黙ってリースの位置を微調整していた。
その横で、ナギサはニコニコしながらマグカップにクッキーを立てていた。
「クリスマスブレンド、完成〜ナギサ特製〜」
「また謎アレンジしてないよね?」
とリカ。
「ちょっとだけ……ミント!」
「……お腹壊さなきゃいいけど」
「……で、本気でやるんですか。隣に、期間限定店」
桐生蒼真は、店の奥の控室でオーナーと対峙していた。
「話題性は十分。イオリちゃんとの関係も、むしろスパイスになるってわけさ」
「……俺は、そういう形で彼女を巻き込みたくない」
「でも、君はSilk Dripの顔だ。わかるね?」
……黙ってうなずくしかなかった。
誰よりも繊細で、誰よりも優しい蒼真は、反発することができなかった。
その夜。ほっと一息の閉店後。
イオリは、マスターにだけ呼ばれて、店の奥で話していた。
「……蒼真くんのこと、まだ好きかい?」
小さなうなずき。
「でも、今のSilk Dripは、君が信じた彼のままじゃないかもしれないよ?」
それでも。
「……それでも、もう一回、ちゃんと話したいです」
「逃げないんだね」
イオリは、少しだけ泣き笑いして言った。
「うちの看板娘は、泣き虫だけど……逃げないんです」
数日後。
キリコが、みんなの前でホワイトボードを使ってプレゼンを始めた。
「Silk Dripが隣に来るのは、もう既定路線みたい。だからこっちも、なにか仕掛けよう」
「イベント?」
「うん。ただのイベントじゃない。うちららしさを全面に出す企画」
白板に、マコが書き足した。
『ホットで一息プロジェクト』
「あのカフェには真似できない、手作り感とあたたかさで勝負しようって話」
「おぉ……地味にかっこいい……」
「期間限定ドリンク、看板娘のセレクトメニュー、推しブレンドの復活。あと、日替わりミニライブとか、読み聞かせとか」
「うちって何屋なん?」
「なんでもありカフェだよ、もう」
祐介が笑った。
12月中旬。
その日は雪がちらつく寒い日だった。
ほっと一息のドアが開き。
「……こんにちは」
そこに立っていたのは、コート姿の蒼真だった。
「……」
イオリは一瞬だけ戸惑ったが、すぐに微笑んで言った。
「いらっしゃいませ。おひとりですか?」
「うん。イオリちゃん……話せるかな。少しだけ」
イオリは店内の目を見渡し、そっと頷いた。
マスターが目配せして、小さなテーブル席へ通す。
「……いろいろ、ごめん」
蒼真のその一言で、イオリは少し泣きそうになった。
「でも、謝らなくていいよ。私も、勝手に落ち込んでただけだから」
少しだけ、沈黙が流れる。
「Silk Drip、たぶんあの場所で、いろいろあると思う。でも……」
蒼真が、ゆっくりと続けた。
「……期間が終わったら、辞めようと思ってる」
「え……」
「ほんとうにやりたいカフェは、違うんだって思ったから」
「……」
「それに、またどこかで、君とちゃんと並んで立てるように……なりたい」
イオリは、その言葉の意味を、何度も何度も胸の中で噛み締めた。
12月24日。クリスマスイブ。
ほっと一息では、日替わりライブが始まり、マスターがピアノを弾き、ナギサがウクレレを奏で、マコとナナミが踊っていた。
客席は満員。
子どもから大人まで、笑い声と拍手で満ちていた。
イオリは、カウンターの奥からその光景を見つめながら、深く息を吸った。
ここが、わたしの場所。
どんな形でも、わたしはここで、笑っていたい。
蒼真との未来は、まだ未確定。
でも、それでいい。
小さく、強く、そう思った。
そして年明け目前。
Silk Dripとの本当の勝負は……年明けに始まる。
元旦の朝。
店は正月三が日限定でお休み……にもかかわらず、看板娘たちはなぜか連れ立って近くの神社へと初詣に向かっていた。
「さっむ……!ナナミ、マフラー二重巻きにしたら?」
「いや、これ以上巻いたら顔なくなるって!てか、リカさんそのコートどこで買ったんですか。鬼オシャなんだけど」
「ネット。セール。即ポチ」
「……人多いですね……」
と、イオリがモジモジしながら手を合わせる。
その隣でナギサはというと、おみくじを引いたあとで本気泣きしていた。
「凶って……初日からこれはメンタルきます……」
「大丈夫、ナギサさん。凶は上がるしかないって意味ですから」
「フォローがうまいなアヤネ……!」
マコはというと、くじ運だけは妙に強く、なぜか大吉を2枚を引いていた。
「こっちは仕事運、こっちは恋愛運で分けた」
「ズルじゃん!!」
「いや、選ばれし者は2回引いても良いって昔の漫画で言ってた」
キリコは黙って神様にだけ祈っていた。
願いごとは、誰にも言わなかった。
けれどそのまなざしは、どこか遠くを見ていた。
1月4日。ほっと一息は年始の営業を開始した。
「新年限定!ほっと一服セットどうぞ〜」
「きな粉モチワッフル……うますぎて正月太り不可避……」
「店長、体重計の電池抜いときましょう」
「やめろ、現実から逃げるな」
営業再開初日にもかかわらず、店は満席だった。
そして、出入り口には貼り紙が。
《お知らせ》
キンタマーニCAFE 冬の陣開催!
・看板娘冬コーデ投票
・あったかブレンド試飲会
・新春・即興朗読バトル?!
1月15日よりスタート!
「即興朗読バトルって誰の案?」
「アヤネでしょ絶対」
「……推理小説の一節とか読みたかっただけです……」
SNSでは、すでに 冬のキンタマーニ というハッシュタグがトレンド入りしており、客層はますます混沌としてきていた。
1月10日。
ついにSilk Dripの期間限定・別館がほっと一息の斜向かいにオープンした。
内装は白とアイアンを基調にした、シンプルモダン。
メニューも洗練されており、なにより看板には。
蒼真 × カフェラボラトリーの文字が。
イオリは、それを見た瞬間、少しだけ複雑な表情を浮かべた。
「……あんなに、大きく名前が出るなんて」
「彼、もう顔ってことだな」
「でも……負けたくないです、私」
イオリの小さな拳が、ぎゅっと握られる。
「って言いながら泣きそうな顔してるの、もはや才能」
「だれが上手いこと言えと……!」
その頃、Silk Drip別館の中でも、静かな動きがあった。
「あの娘、イオリって子でしょ?蒼真くん、あっちに未練あるんじゃない?」
「てかさ、うちらもこっちの推しランキング作っちゃおーよ」
「蒼真様以外いないけどな……」
そんな会話が聞こえたかどうかはわからないが。
ほっと一息でも、どこか空気がピリつき始めていた。
ある日、キリコが冷静に言った。
「このままだと、ランキングとか恋愛とかに、みんな振り回される」
「……でも、うちら看板娘って、そういう商売じゃないの?」
ナナミが、少し強く言い返した。
「あたし、本気で教師目指してんの。だから、これ以上、キンタマーニのセンターとか、笑えない」
空気が一気に凍りつく。
「……ごめん、ちょっと感情的になった」
「いや、いい。ナナミの言ってること、正論だと思う」
キリコが、落ち着いた声で続けた。
「だからこそ私たちの本当の姿を、ちゃんと届けるべきじゃない?」
その夜。マスターは、店内でぼんやりとピアノを弾いていた。
そこへ、アヤネがそっと近づいてくる。
「……マスター、なんか悩んでます?」
「悩んでない人間なんていないよ」
「でも、マスターの悩みって……いつも、誰かのためのやつですよね」
マスターは、少しだけ笑って言った。
「この店は、もともと逃げ場を作りたくて始めたんだ」
「逃げ場、ですか」
「でも、今はみんな、居場所にしてくれてる。それが、うれしくもあり……こわくもある」
アヤネは静かにうなずいた。
「……この店は、変わらなくていいですよ」
「そうだな。変わらないために、俺たちが変わるんだな」
1月14日。
冬のキンタマーニ陣、前日。
スタッフ控え室で、看板娘たちが円になって座っていた。
「……バラバラになりそうだった時もあったけど、今、こうやって座れてることが、うれしい」
ナナミが言う。
「あの名前があったから、つながれたっていうのも、否定できないですね……」
アヤネが苦笑する。
「だからこそ、胸張っていこう。うちら、全員でキンタマーニだって」
リカが真顔で言って、笑いが起こる。
「まじで語感バグってんの、いつ聞いてもウケる」
「でも、いいよね。チームって感じで」
「じゃあ明日、いこっか」
「……最強の、おもてなしで!」
1月15日、午前10時。
冬の澄んだ空気が町を包み、陽射しはあっても凛とした冷たさが肌を刺す。
けれど、ほっと一息の店頭には、すでに行列ができていた。
「え、なにこれ……コミケ?」
「ちがうちがう、こっちキンタマーニ列!隣はSilk Drip!」
そう。
この日、同時開催となったほっと一息・冬の陣とSilk Drip 別館・新春特別営業の二つのイベントは、まさに商店街の中央にて正面衝突していたのだった。
SNS上ではすでに盛り上がりが加熱しており、
#冬のキンタマーニ陣
#推し娘勝負
#カフェ戦争2025
などのタグがトレンド入り。
「どっち行くか迷うわ……キンタマーニのアヤネ推しだけど、Silk Dripの限定マカロンも気になる……」
「今の流行、地元で二極化してんのすごいな」
「むしろ両方行くのが、礼儀ってもんでしょ?」
熱気は冷たい空気すら押しのけ、商店街はまるで文化祭のような賑わいに包まれていた。
「いい?今日のうちらのミッションは、過剰じゃない温かさで勝つこと」
キリコがメンバーを見渡しながら言った。
「え、もう勝ちに行くって前提?」
ナナミがちょっと笑う。
「いや、正面から勝負なんてつけられない。でも……この店らしさだけは、絶対負けないようにしよう」
マスターが用意した冬限定メニューは、どれも素朴で優しい味わい。
ほっとココアブレンド
焼き芋タルトと焦がしバターソース
推し娘チョイスブレンド(その子のイメージで作った限定コーヒー)
しかも、客が注文の際、誰のブレンドかを指名するシステム。
「アヤネさんのが一番ビターで好みだった」
「イオリちゃんブレンド甘っ……でもなんか優しくて好き」
「キリコさんのブラックはマジでガチすぎるwww」
推しと味覚がリンクする、ちょっと新しい形のファンサ。
イートインスペースには、冬限定の装飾。雪の結晶モチーフのモビールと、こたつ席が設けられ、コーヒーの香りと共に、笑顔が広がっていた。
「ようこそ、Silk Dripへ」
そこに立つのは蒼真。
冬の風に映えるネイビーのロングコート、指先にはシルバーの指輪。
白い手袋で、丁寧に客を案内していた。
別館の中には、まるで美術館のような静謐な空気が流れており、
高級感あるティラミスと、最新のドリップ技術で淹れられるコーヒーが、まさに対極の世界を演出していた。
「イオリちゃん、今日来ると思う?」
「来ないでしょ……あの子はあの子で、戦ってるはずだから」
蒼真は、客が途切れた瞬間、ふと外を見た。
そこには、ほんの一瞬だけ……イオリの後ろ姿が見えた気がした。
午後3時過ぎ。
ほっと一息の裏口で、イオリはこっそりと手紙を差し出した。
それは、蒼真に宛てた手紙。
「直接は……言えない。でも、届けたいんです」
マスターはそれを黙って受け取り、ポケットにしまった。
数時間後、Silk Dripの控え室。
休憩に入った蒼真に、突然スタッフのひとりが声をかける。
「さっき、誰かからこれ……預かりました。マスターって人が」
封を開けると、そこには、イオリの繊細な筆跡でこう綴られていた。
お互いがんばろうね。
あなたの珈琲が、わたしの原点だったこと、今でも変わりません。
蒼真は、静かに目を閉じた。
そして、その手紙を上着の内ポケットにしまうと、小さく呟いた。
「……ありがとう、イオリ」
17:00。
商店街に夕暮れの色が差し込む頃、いよいよイベントは最終投票タイムに突入する。
ほっと一息の中では、客たちがQRコードを読み込んで、スマホで一票を投じていく。
それぞれの推し娘に対する熱いコメントが飛び交い、笑いと感動が入り混じる。
「イオリちゃんの泣き笑いに毎回やられてます。応援してます」
「ナナミちゃんのツッコミ、日々の癒やし。センター希望!」
「アヤネさん、これからも小説の話して!おれも読み始めました」
SNSではリアルタイムで票が伸び続け、今日のセンターは誰だ?というタグが爆伸びしていた。
店内が暗くなり、最後のコーヒーが提供されるころ。
看板娘たちは、疲れた表情の中にも、どこか充足した面持ちで、
それぞれの席に座っていた。
「終わったね」
「いや、まだ発表がある」
「……怖いです」
「泣くの禁止な」
「それイオリに言ってるでしょ」
「ばれたか」
笑いがこぼれる。
そして。
マスターが、一枚のボードを手に、静かにカウンターに立った。
照明が少し落とされ、店内の空気が静まり返る。
店内のプロジェクターに、いつの間にか繋がれたマスターのノートPCから、スライドショーのように推し娘アンケート結果が映し出された。
ざわ……っと客席の空気が波打つ。
看板娘たちはカウンター横のソファ席に揃って座っていたが、その顔には緊張と期待と、少しの笑いが混じっていた。
「……どうしよう。手汗がすごい」
「ナナミさん、ツッコミの余裕どこいったんです?」
「うるさい、リカさん」
「いやー、ワンチャン祐介が1万票くらい水増ししてくれてないかな」
「してません」
マスターが咳払いし、発表を始めた。
「じゃ、まずは……第8位から」
第8位 リカ
「えー!!やっぱり?!」
「おいちょっと待てよ、リカ姐が8位っておかしくね?!」
「コメントの一部を紹介します。姐さん感強くてかっこいいけど、たまに怖い……だそうだ」
「ちょっとぉおおお!?優しさを!見てよ!」
「でも一番リアルに結婚したい感あるってコメントもあったよ」
「……そっちはもっと言ってくれ!!」
第7位 マコ
「まぁ、私がセンターになったら、企画が炎上するしな〜」
「いやいや、料理部門は一位だよ。特設の食べ物だけ投票だと圧勝」
「マスター、それ全然フォローになってない」
第6位 ナギサ
「……6位かぁ。まあ、まったり組代表としては妥当かなぁ」
「寝てたら票が逃げるって言われてました」
「それは事実」
「むぅ……次は寝ながら票をもらう方向で……!」
第5位 アヤネ
「……意外と上位」
「語彙力の彼女としてファン層が地味に熱かったです」
「しかも、意外と料理もできることがバレてから嫁にしたい度が急上昇」
「なんで文芸担当から家庭的キャラに……?」
第4位 キリコ
店内が「おお〜」とどよめく。
「ん。まぁ……それなりにやってたし」
「やってた、の中に何が含まれてるんですかね」
「泣いてたイオリに夜中付き添ったり、BGM調整したり、みんなのドリンクの味のバランスも管理してた」
「裏MVPすぎて笑えない」
第3位 イオリ
「えええっ!?」
「もっと上行くと思ったけど、逆にベストポジションだよ」
「センターじゃなくてよかったの?」
「はい……センターなんて、目立ちすぎて……緊張で泣きます」
「そこがいいって言われてたのに」
第2位 ナナミ
「え!?まじ?!」
「常に明るくて一番話しかけやすいリアクションが神という意見多数」
「でも……センターじゃなかったかぁ」
「……ま、私の本業は教師なんで」
「やめないでね?」
沈黙が店内を包み、プロジェクターの画面に。
第1位:タマエ
……が、浮かび上がった。
一同「!?」
タマエは何も言わず、ただほんの少しだけ、口元を緩めた。
「え……」
「うそ……タマエさん……」
コメントにはこうあった。
「一番謎が多くて、一番、心を惹かれる」
「あの笑わなさが逆にクセになる」
「でもたまに見せる小さな表情が、ずっと頭から離れない」
「センターで、無言を貫くアイドル……めっちゃ見たい」
無言の強さが、まさかのトップに。
キリコがぽつりと呟く。
「……あれは、出すつもりなかったけど」
「……たまには、わかりにくい感情が、ちゃんと伝わるときもあるんだね」
タマエは静かに、皆を見回したあと、たった一言だけ呟いた。
「……ありがとう」
その声は、どこかで泣きそうなほど、あたたかかった。
イベント終了後、控室でナナミが唐突に口を開いた。
「……ごめん、みんなに話さなきゃいけないことがあるの」
ざわっと空気が変わる。
ナナミは、スマホを握りしめたまま、少し唇を噛んでから。
「……教師の内定、決まりました」
「えっ」
「春から、赴任が決まりました。引っ越します」
静寂。
一瞬、誰も言葉が出なかった。
「……やったじゃん」
最初に口を開いたのはマコだった。
「ずっと目指してたんでしょ?……泣くなよ、もう」
「う、泣いてない……」
「いや泣いてる」
イオリも、アヤネも、ナギサも、それぞれ表情を崩した。
「……ナナミさんがいなくなると、店のツッコミいなくなる……」
「そっち!?」
キリコがぼそっと笑った。
「でもさ、卒業、っていい言葉じゃん」
「うん……うちら、アイドルじゃないけどさ」
「でも、看板娘って意味では、確かにセンターだったよね」
マスターが、黙ってコーヒーを置いた。
それは、特別な味のブレンド。
「最後の日には、これを出そうと思ってた。卒業ブレンド、だ」
ナナミは、それを見てまた泣いた。
その日、皆はそれぞれ別々の方向へ帰っていった。
寒い夜風が吹く。
だが、空を見上げると、春の星が少しずつ瞬いていた。
その空の下、ナナミはぽつりと呟いた。
「……キンタマーニ、かぁ。わたしの人生で、きっと一番しょうもなくて、一番愛おしい言葉だわ」
次の春に向かって。
看板娘たちは、それぞれの道を歩き始める。
けれど、ほっと一息は、今日も変わらずそこにある。
三月最後の日曜日。
春の風が、喫茶店ほっと一息の看板を優しく揺らしていた。
店は通常営業。けれど、今日だけは、常連たちにもナナミの卒業式があることが知らされていた。
オープン直後から、カウンター席は埋まり、テーブル席も順番待ち。
まるで人気アーティストのラストステージのような盛況ぶりだった。
「……混んでるな」
キリコがエプロンを結びながら呟くと、マコが笑った。
「当たり前じゃん。ナナミの卒業だよ?最後の推し活でみんな来てんの」
ナギサは、ちょっと泣きそうな顔でミルクを泡立てていた。
「……今日も、変わらず笑っててほしいな」
アヤネは棚から取り出したノートを胸に抱え、そっと頷いた。
「……この日のこと、書き残しておきたいから」
午後3時。
マスターがカウンターの中央で、両手を広げた。
「では、本日限定の卒業ブレンド、解禁します」
その言葉に、店内から拍手が起きる。
ナナミは、すでに涙目だった。
「ちょ……はやくない!?まだ普通に営業中なのに……」
「だって、もうずっと主役でしょ?」
「ナナミさん、泣くタイミング分かんなくなるくらいのイベントだから」
「ありがた迷惑っぽい言い方やめて!」
マスターが手渡した卒業ブレンドは、香ばしさとほのかな甘さが広がる、どこか“春”を感じさせる味だった。
「わたし、こういう味、好きかも」
「ナナミの味、って感じだね」
「お、おい!味で表現すんな!」
営業終了後。
看板娘たちと常連数名、そしてマスターだけが残った店内で。
ナナミの前に、一冊の封筒が差し出された。
「……ん?」
「中、見てみなよ」
と、イオリがそっと笑った。
封を開けると、中から出てきたのは、8枚の便箋。
一通目には、マスターの字があった。
ナナミへ
教師になるって言ってたな。
俺も昔、教師になりたかったことがあったんだ。
でも、こっちの世界で、人と人が交差する場所を作りたくなってな。
お前が店に来た日を、今でも覚えてる。
あのまっすぐな目と、素直すぎる言葉。
店の空気を、毎日ちょっとだけ明るくしてくれた。
ありがとう。
そして行ってこい。堂々と。
お前なら、大丈夫だ。
マスター
ナナミはすでに声も出ないくらい、涙を流していた。
「ちょ、まっ、まだ他のある……?」
次に読まれたのは、キリコからの手紙。
ナナミへ
あんたの声が店に響くと、なんか救われてた。
私は昔、言葉の使い方を間違えて、たくさんのものを失ったことがある。
でも、あんたは違った。
不器用で、まっすぐで、正直すぎて。
そんなあんたが、どんな大人になるのか、正直、ちょっと楽しみでもある。
次、帰ってきたときは、私の新作カクテルでも飲ませてやる。
元気でなー。
キリコ
そして、一通、また一通と読み進めるたびに、
ナナミは泣き、笑い、また泣いた。
ナギサの便箋には、パステルカラーの絵が添えられていた。
アヤネは万年筆で書かれた、文芸誌のような詩。
マコは文字が雑なのに、内容はやたらと熱かった。
リカはお節介すぎるほどの生活アドバイスを詰め込み、
イオリは、拙いけれど一番まっすぐな言葉で結んでいた。
「ナナミさんがいてくれたから、私はここで笑えました」
「私も、教師になりたいって思えるようになりました」
「……ずっと、憧れです」
ナナミは、便箋を抱きしめた。
「……もう、こんなの……一生分泣いた……!」
翌朝。
駅前に、看板娘たち全員が集合していた。
ナナミはスーツケースを片手に、制服姿のままだった。
「……ほんとに、行くの?」
「うん。決めたから」
「もうちょっとだけ、一息ついていってもいいのに」
「……それは、帰ってきたときに、またね」
ナギサが泣き、イオリも泣いた。
マコとリカは目を赤くしていた。
キリコは最後に、そっと肩を叩いて言った。
「……センター、お疲れさま」
ナナミは笑った。
「ありがとう」
改札を通り抜け、列車に乗るその瞬間、
ナナミは、ふとバッグからあの便箋を取り出して見つめた。
ちゃんと名前で呼んでくれる人たちがいる。
ちゃんと場所を残してくれた人たちがいる。
だから、進める。
列車がゆっくりと走り出した。
春の街のなかを。
新しい日々へ。
春の陽射しが、やわらかく店内に差し込んでいた。
ほっと一息は変わらず、レンガ造りの壁にツタを絡ませ、木の香りとコーヒーの匂いをまとう小さな喫茶店であり続けていた。
けれど。
「ナナミがいないと、やっぱ静かね」
キリコが呟いた声に、誰も反論しなかった。
「それ、悪い意味で言ってない?」
とマコが笑って返す。
「ちがうよ。ただ……空気の音が聞こえるくらい静かって感じ?」
イオリが、ナナミの定位置だったカウンターの一番端を見つめていた。
そこには、ナナミが使っていたマグカップが、花瓶代わりに使われていた。中には、リカが朝摘んできたマーガレットが一輪。
「……ナナミ、元気かなぁ」
「元気じゃなかったら、あの子じゃないよ」
とリカが笑った。
アヤネが小さな声で続ける。
「でも、いないことで、分かるものもありますよね……存在感とか、声とか、笑い方とか」
「あと音量な。とにかくうるさかった」
とキリコが少し寂しそうに言った。
静かに笑い合う彼女たち。
この春、一人が抜けた分、残された空白を大切にするように、みんなの距離はほんの少しだけ縮まっていた。
そして。
「おい、キンタマーニのセンター枠空いてるってマジか!?」
という噂が、常連客の間に流れ始める。
「つまり、ナナミちゃん卒業で、推し空席できたってことじゃん?」
「キリコさんがセンターでいいだろ」
「いやいや、最近アヤネさん、覚醒してきてない?」
「イオリちゃんの守ってあげたい感も根強いぞ!」
「てか、俺はずっとリカ姉推しなんだが?」
「知るか!」
混沌。
とんでもないことに、空席補充戦争がはじまっていた。
裏でこれを聞いたアヤネは、ため息をつきながらもまんざらでもなさそうな表情。
マコは
「戦争ってワード使うなってww」
と笑っていた。
ナギサはストローをかじりながらぽつりと。
「じゃあ、わたし……暫定センターってことで、昼寝してくるね……」
「そのセンター、速攻で炎上するからやめな?」
と、イオリが笑った。
だが、その空席は、ただのギャグで終わらなかった。
ある日、マスターが突然、こんなことを言い出したのだ。
「……ひとり、新しいスタッフを入れようと思ってる」
店内、シーン。
「え……誰?」
「女の子?」
「年齢は?」
「……顔面偏差値は?」
「いや、まず人間性で選べや」
とマコが突っ込んだが。
全員、どこかそわそわしていた。
この店に、新しい風が入る。
ナナミが去った春に、別の芽吹きがやってくる予感。
とはいえ、日々は続く。
奇跡の癒やし空間は、相変わらずの賑わいだった。
イオリがコーヒーをこぼして、リカにタオルで頭をゴシゴシ拭かれたり。
マコの焼き菓子が焦げて、キリコが「またお前か」と呆れてたり。
ナギサがポットの横で立ったまま寝て、アヤネが背中を小説で小突いたり。
何も変わっていないようで、確かに前へ進んでいる。
そんなある日、カウンターに座った祐介がポツリと呟いた。
「……ナナミ、元気かな」
「連絡来てるよ。昨日、イオリとテレビ電話してた」
「はやっ」
「てか、教師になったらしい。もう仮配属されてるって」
「生徒泣くわ、うるさくて」
「それな」
全員が笑った。
そして誰かが、ふと口にした。
「でもさ……この店、8人いないと、なんか落ち着かないね」
「KINTAMANIのK、抜けてるからね」
「じゃあそのKは、誰が入るんだろ」
「そもそも、新しい子、すぐ馴染めるかな……?」
「でも、ほっと一息ってさ、そういう場所でしょ」
とキリコが言った。
「人が流れて、入って、繋がって。そうやって、なんとなくずっとある店になるんだよ」
マスターが静かに微笑む。
「そろそろ紹介するかな」
「え?」
「新しいスタッフの子。もうすぐ来るから」
その瞬間、看板娘たちの間に一気に緊張が走った。
「こ、心の準備が……!」
「いやもうちょっと心の余白が欲しい……!」
「ナギサ、ストロー飲み込むな」
「ぶふっ」
そして、玄関の扉が、からん、と音を立てた。
「……失礼します」
扉の向こうに立っていたのは、スラリとした背丈に、淡いピンクのカーディガン、真っ白なブラウスと、タイトな黒のスカート。
どこか柔らかくて、けれど距離を感じさせる雰囲気をまとう女性だった。
「マスターに言われて来ました。今日から、勤務させていただく……カエデです」
その声に、静まる店内。
イオリが口元を押さえながら、「すごい……大人っぽい……」と小さく漏らす。
マコが小声でキリコに耳打ちした。
「年上……かな?」
「たぶん、同い年か、少し下……?」
カエデは、どこか慣れている感じがした。
おそらく、接客業の経験も長い。話し方も姿勢も、どこか洗練されている。
でも、それだけじゃなかった。
初めての場所に立っているはずなのに、彼女にはここにずっといたような空気がある。
それが逆に、他の看板娘たちにとっては、不思議な緊張感を生んでいた。
「今日からか……よろしく頼むよ」
マスターが笑いながら、カウンターの奥へカエデを誘導する。
彼女は軽く一礼して、「はい」と答えた。
その声の落ち着きが、イオリの胸をザワつかせた。
「あの……年齢って……?」
リカが聞くと、カエデはふっと微笑んだ。
「今年で……24になります」
それを聞いて、マコがホッとしたように言った。
「よかった、ギリ年下……ふふ、よくないなこれ」
キリコが冷静に言った。
「ってことは、私と1つ違いか……ま、様子見だね」
カエデは、誰に言われるでもなく、すっとカウンターに入り、手を洗い、タオルを整えた。
「メニューのこと、どこまで覚えておけば良いでしょうか?」
その言葉に、アヤネは思わず、「プロ」だとつぶやいた。
閉店後。
カウンター奥、店の照明がやわらかく落とされて、いつもの看板娘たちが集まっていた。
「……さすがに出来すぎじゃない?」
マコが腕を組んで言う。
「落ち着きすぎてる」
「雰囲気が……なんか、負けた感ある」
「てか、かわいいし……」
「お姉さん感つよい」
「しかも、あの声……声質……」
アヤネが小さく言った。
「落ち着く声って……正義ですよね……」
そこへ、マスターがやって来て、ポンとひと言。
「ちなみに、カエデの頭文字は、Kだよ」
「……うわ」
「出た!」
「そっちかぁ~~!」
「これで、またKINTAMANIコンプ?」
キリコが軽くため息をついた。
「またっていうか、もともと誰かだったわけでしょ?」
その言葉に、全員の視線がひとつに集まる。
マスターは、苦笑いで誤魔化すように、コーヒーを啜った。
「まあ、今さら気にすることでもないけどさ。偶然でもなんでも、結果的に揃ったなら、それでいいじゃない」
「……でもさ、あの人……なんか知ってる感じしない?」
アヤネがぽつりと言う。
「何を?」
「この店の空気……というか、私たちの動き……初日の対応じゃなかった」
誰も否定しなかった。
そしてキリコが、ふと思い出したように言った。
「……カエデって、たしか。昔……ここにいた、マスターの姪っ子さんじゃなかったっけ?」
その場の空気が止まる。
「マスターの……?」
「嘘でしょ、身内!?」
「それ、反則じゃん!」
「ズルすぎる……!」
「イオリ、泣かない!」
「ごめん、なんか悔しくて……!」
マスターは肩をすくめて言った。
「まあ、あいつにはちょっとだけ事情があるんだ。だから、少しずつ、話してやってくれよ」
その声に、キリコが静かに頷いた。
「了解……ま、ちょっと楽しみではあるよね」
マコが笑いながら言った。
「うちのカフェ、簡単に馴染めるとは思わないけどね」
ナギサは、いつのまにかストローをくわえながら、
「でも、全員そろったら、何が起きるんだろね」
と、不思議そうに言った。
「キンタマーニが完成して、バリ島行きのチケットでも出てくるとか?」
「そのフラグ、ある意味怖い」
「いや、まさか」
けれど、KINTAMANIが揃った日。
それはこの店にとって第二章のはじまりだった。



