翌朝、雅子は再び早い列車に乗って工場へ向かった。
忠範に会わないためだった。自分の気持ちが揺らいでいる今、彼の顔を見たら、涙が溢れてしまいそうだった。
だが、工場に着くと、いつもと様子が違った。
正門の前に、女工たちが集まっている。皆、不安そうな顔をしていた。
「どうしたの?」
雅子が志津に尋ねると、志津は震える声で答えた。
「機械が……また壊されたんです」
「壊された?」
「はい。昨夜、誰かが工場に忍び込んで、織機を三台も」
雅子は、息を呑んだ。
正門の向こうでは、工場主の中津川と監督たちが、険しい顔で話し込んでいる。警察も来ているようだった。
「誰が、そんなことを」
「分かりません。でも、工場主は……」
志津は、声を落とした。
「女工の誰かだと疑っているそうです」
やがて、女工たちは作業場へ呼び出された。
中津川工場主が、壇上に立っている。五十代半ばの、厳格な顔つきの男だ。
「諸君」
工場主の声が、作業場に響いた。
「昨夜、この工場で破壊行為があった。織機三台が、故意に壊された」
女工たちの間に、ざわめきが広がった。
「犯人は、まだ捕まっていない。だが、内部の者の仕業である可能性が高い」
工場主の目が、女工たちを睨みつけた。
「もし、この中に犯人がいるなら、今すぐ名乗り出なさい。さもなくば、全員を対象に調査を行う」
沈黙が、作業場を支配した。
誰も、声を上げない。
「……そうか」
工場主は、冷たく笑った。
「なら、今月の給金は全員減額する。犯人が判明するまで、この措置は継続する」
「そんな!」
女工の一人が、声を上げた。
「私たちは何もしていません!」
「黙れ!」
監督が、怒鳴った。
「お前たちの中に、犯人がいるかもしれないんだ。不満があるなら、出て行け」
女工たちは、黙り込んだ。
雅子も、拳を握りしめた。
理不尽だ。
何もしていない者まで、罰せられる。
だが、声を上げれば、さらに厳しい処分が待っている。
その日、作業場は重苦しい空気に包まれていた。
女工たちは、黙々と織機を動かしている。だが、その目には、怒りと絶望が混じっていた。
雅子は、志津の隣で作業をしながら、考えていた。
誰が、機械を壊したのだろう。
女工の中に、犯人がいるのだろうか。
それとも──。
雅子の脳裏に、田村新吉の顔が浮かんだ。
彼なら、やりかねない。
工場主への不満を、何度も口にしていた。
そして──鉄道を狙うとも言っていた。
雅子は、不安に駆られた。
昼休み。
雅子は、工場の中庭で一人座っていた。
握り飯を食べる気にもなれず、ただぼんやりと空を見上げていた。
「小野」
声がして、振り返ると、田村が立っていた。
「……何ですか」
「さっきの話、聞いたか」
「ええ」
「酷い話だ。俺たちは何もしていないのに、給金を減らされる」
田村は、憤っている様子だった。
「でも、仕方ないでしょう。犯人が分からないんだから」
「仕方ない?お前、それで納得できるのか」
「納得はできません。でも──」
「だったら、声を上げるべきだ」
田村は、雅子の肩を掴んだ。
「お前には、女工たちの信頼がある。お前が動けば、みんなも動く」
「私に、何をしろと」
「工場主に、抗議するんだ。正当な待遇を求める」
「そんなこと、できません」
雅子は、田村の手を振り払った。
「もしそんなことをしたら、私たちは全員クビになります」
「だったら、それでいい」
「何を言っているの!」
雅子は、声を荒げた。
「私たちには、家族がいるの。ここで働かなければ、生きていけない人もいるの」
「だからといって、黙って搾取されろというのか」
「私は──」
雅子は、言葉に詰まった。
田村の言うことも、分かる。
だが、現実は厳しい。
「小野、お前は臆病者だ」
田村は、吐き捨てるように言った。
「駅員に甘い言葉をかけられて、浮かれているから、現実が見えないんだ」
「黙ってください」
「俺は、お前のために言っているんだ。あの駅員は、お前を利用しているだけだ」
「そんなこと──」
「そうじゃないと言えるのか? お前と、あいつは違う世界の人間だ。分かっているだろう」
雅子は、黙り込んだ。
田村の言葉が、胸に突き刺さる。
「……考えておけ」
田村は、そう言って去って行った。
雅子は、その場に座り込んだ。
涙が、溢れた。
その日の夕方。
忠範は、駅で線路の点検をしていた。
最近、夜間巡回を強化しているが、異常は見つかっていない。だが、油断はできない。
点検を終えて駅舎に戻ろうとした時、町の巡査が訪ねてきた。
「伊藤さん、少しいいかね」
「はい、何でしょう」
「工場で、また事件があった」
巡査は、深刻な顔をしていた。
「昨夜、織機が壊されたんだ。犯人は、まだ分からない」
「それは……」
「工場主は、内部の犯行だと見ている。だが、俺は違うと思う」
「と言いますと?」
「最近、町で不穏な動きがある。工場の男工たちが、何かを企んでいるらしい」
忠範は、息を呑んだ。
「そして──鉄道も、標的にされる可能性がある」
「鉄道を?」
「ああ。工場の出荷は、すべて鉄道に頼っている。鉄道を止めれば、工場も困る。それを狙っているんじゃないかと」
忠範の胸に、不安が広がった。
「警戒を、強めてください」
巡査は、そう言って去って行った。
忠範は、線路の方を見た。
また、何かが起きようとしている。
そして──雅子は、大丈夫だろうか。
その夜。
工場の寮に、女工たちが集まっていた。
給金の減額に対する不満が、爆発寸前だった。
「こんなの、おかしいわ」
「私たち、何もしていないのに」
「どうすればいいの」
女工たちの声が、部屋に響く。
雅子は、隅で黙って聞いていた。
志津が、雅子の袖を引いた。
「雅子さん、何か言ってあげてください」
「私が?」
「はい。みんな、雅子さんの言葉を待っています」
雅子は、女工たちを見た。
皆、疲れ切った顔をしている。
だが、その目には、希望の光がわずかに残っていた。
雅子は、立ち上がった。
「みんな、聞いて」
女工たちが、静かになった。
「私たちは、何も悪いことをしていない。それは、みんな分かっている」
「でも、どうすれば」
「今は、耐えるしかないわ」
雅子の言葉に、失望の声が上がった。
「耐えるだけ?」
「それじゃ、何も変わらない」
「いいえ」
雅子は、首を振った。
「犯人が捕まれば、この措置は終わる。それまで、私たちは真面目に働き続けるの」
「でも──」
「それが、私たちにできる、唯一の抵抗よ」
雅子は、女工たちを見つめた。
「私たちは、負けない。どんなに苦しくても、家族のために、自分のために、働き続ける」
女工たちは、黙って頷いた。
雅子の言葉が、少しだけ彼女たちの心を支えた。
しかし、その夜。
工場の倉庫で、田村新吉が仲間たちと集まっていた。
「小野雅子は、使えない」
田村は、苛立った様子で言った。
「あいつは、駅員に心を奪われている」
「どうする?」
「雅子を諦めるしかない。だが──」
田村は、不敵に笑った。
「あの駅員を、潰してやる」
「どうやって」
「簡単だ。鉄道で事故を起こす。そうすれば、あいつは責任を問われる」
「だが、それは──」
「心配するな。大した事故にはしない。ただ、あいつの立場を悪くするだけだ」
田村の目に、狂気の光が宿った。
「そうすれば、雅子も目が覚める。あの駅員が、どれだけ無能か、分かるだろう」
男工たちは、黙って頷いた。
しかしながら、その計画が──やがて取り返しのつかない事態を招くことになる。
翌朝。
雅子は、意を決して、いつもの列車に乗った。
忠範に、会おう。
ちゃんと話そう。
そして──自分の気持ちを、伝えよう。
列車が駅に到着すると、忠範の姿が見えた。
彼は、ホームで待っていた。
雅子が降りると、忠範は駆け寄ってきた。
「小野さん!」
「伊藤さん……」
二人は、見つめ合った。
「会いたかった」
忠範の声が、震えていた。
「昨日も、その前も、会えなくて……心配しました」
「ごめんなさい」
雅子の目から、涙が溢れた。
「私……逃げていました」
「小野さん」
「でも、もう逃げません」
雅子は、忠範の目を見つめた。
「伊藤さん。私も……あなたのことが、好きです」
忠範の目が、大きく見開かれた。
「本当……ですか」
「はい」
雅子は、微笑んだ。
涙を流しながら、でも確かに微笑んだ。
忠範は、雅子の手を取った。
「小野さん……ありがとうございます」
二人の手が、温かく触れ合った。
その瞬間──。
遠くから、汽笛が鳴り響いた。
工場の、始業の合図。
「行かなければ」
「はい。でも、また」
「また、明日」
雅子は、改札へ向かった。
だが、何度も振り返った。
忠範も、手を振っていた。
二人の恋は、ようやく始まった。
──その行く手には、大きな試練が待ち受けていた。
忠範に会わないためだった。自分の気持ちが揺らいでいる今、彼の顔を見たら、涙が溢れてしまいそうだった。
だが、工場に着くと、いつもと様子が違った。
正門の前に、女工たちが集まっている。皆、不安そうな顔をしていた。
「どうしたの?」
雅子が志津に尋ねると、志津は震える声で答えた。
「機械が……また壊されたんです」
「壊された?」
「はい。昨夜、誰かが工場に忍び込んで、織機を三台も」
雅子は、息を呑んだ。
正門の向こうでは、工場主の中津川と監督たちが、険しい顔で話し込んでいる。警察も来ているようだった。
「誰が、そんなことを」
「分かりません。でも、工場主は……」
志津は、声を落とした。
「女工の誰かだと疑っているそうです」
やがて、女工たちは作業場へ呼び出された。
中津川工場主が、壇上に立っている。五十代半ばの、厳格な顔つきの男だ。
「諸君」
工場主の声が、作業場に響いた。
「昨夜、この工場で破壊行為があった。織機三台が、故意に壊された」
女工たちの間に、ざわめきが広がった。
「犯人は、まだ捕まっていない。だが、内部の者の仕業である可能性が高い」
工場主の目が、女工たちを睨みつけた。
「もし、この中に犯人がいるなら、今すぐ名乗り出なさい。さもなくば、全員を対象に調査を行う」
沈黙が、作業場を支配した。
誰も、声を上げない。
「……そうか」
工場主は、冷たく笑った。
「なら、今月の給金は全員減額する。犯人が判明するまで、この措置は継続する」
「そんな!」
女工の一人が、声を上げた。
「私たちは何もしていません!」
「黙れ!」
監督が、怒鳴った。
「お前たちの中に、犯人がいるかもしれないんだ。不満があるなら、出て行け」
女工たちは、黙り込んだ。
雅子も、拳を握りしめた。
理不尽だ。
何もしていない者まで、罰せられる。
だが、声を上げれば、さらに厳しい処分が待っている。
その日、作業場は重苦しい空気に包まれていた。
女工たちは、黙々と織機を動かしている。だが、その目には、怒りと絶望が混じっていた。
雅子は、志津の隣で作業をしながら、考えていた。
誰が、機械を壊したのだろう。
女工の中に、犯人がいるのだろうか。
それとも──。
雅子の脳裏に、田村新吉の顔が浮かんだ。
彼なら、やりかねない。
工場主への不満を、何度も口にしていた。
そして──鉄道を狙うとも言っていた。
雅子は、不安に駆られた。
昼休み。
雅子は、工場の中庭で一人座っていた。
握り飯を食べる気にもなれず、ただぼんやりと空を見上げていた。
「小野」
声がして、振り返ると、田村が立っていた。
「……何ですか」
「さっきの話、聞いたか」
「ええ」
「酷い話だ。俺たちは何もしていないのに、給金を減らされる」
田村は、憤っている様子だった。
「でも、仕方ないでしょう。犯人が分からないんだから」
「仕方ない?お前、それで納得できるのか」
「納得はできません。でも──」
「だったら、声を上げるべきだ」
田村は、雅子の肩を掴んだ。
「お前には、女工たちの信頼がある。お前が動けば、みんなも動く」
「私に、何をしろと」
「工場主に、抗議するんだ。正当な待遇を求める」
「そんなこと、できません」
雅子は、田村の手を振り払った。
「もしそんなことをしたら、私たちは全員クビになります」
「だったら、それでいい」
「何を言っているの!」
雅子は、声を荒げた。
「私たちには、家族がいるの。ここで働かなければ、生きていけない人もいるの」
「だからといって、黙って搾取されろというのか」
「私は──」
雅子は、言葉に詰まった。
田村の言うことも、分かる。
だが、現実は厳しい。
「小野、お前は臆病者だ」
田村は、吐き捨てるように言った。
「駅員に甘い言葉をかけられて、浮かれているから、現実が見えないんだ」
「黙ってください」
「俺は、お前のために言っているんだ。あの駅員は、お前を利用しているだけだ」
「そんなこと──」
「そうじゃないと言えるのか? お前と、あいつは違う世界の人間だ。分かっているだろう」
雅子は、黙り込んだ。
田村の言葉が、胸に突き刺さる。
「……考えておけ」
田村は、そう言って去って行った。
雅子は、その場に座り込んだ。
涙が、溢れた。
その日の夕方。
忠範は、駅で線路の点検をしていた。
最近、夜間巡回を強化しているが、異常は見つかっていない。だが、油断はできない。
点検を終えて駅舎に戻ろうとした時、町の巡査が訪ねてきた。
「伊藤さん、少しいいかね」
「はい、何でしょう」
「工場で、また事件があった」
巡査は、深刻な顔をしていた。
「昨夜、織機が壊されたんだ。犯人は、まだ分からない」
「それは……」
「工場主は、内部の犯行だと見ている。だが、俺は違うと思う」
「と言いますと?」
「最近、町で不穏な動きがある。工場の男工たちが、何かを企んでいるらしい」
忠範は、息を呑んだ。
「そして──鉄道も、標的にされる可能性がある」
「鉄道を?」
「ああ。工場の出荷は、すべて鉄道に頼っている。鉄道を止めれば、工場も困る。それを狙っているんじゃないかと」
忠範の胸に、不安が広がった。
「警戒を、強めてください」
巡査は、そう言って去って行った。
忠範は、線路の方を見た。
また、何かが起きようとしている。
そして──雅子は、大丈夫だろうか。
その夜。
工場の寮に、女工たちが集まっていた。
給金の減額に対する不満が、爆発寸前だった。
「こんなの、おかしいわ」
「私たち、何もしていないのに」
「どうすればいいの」
女工たちの声が、部屋に響く。
雅子は、隅で黙って聞いていた。
志津が、雅子の袖を引いた。
「雅子さん、何か言ってあげてください」
「私が?」
「はい。みんな、雅子さんの言葉を待っています」
雅子は、女工たちを見た。
皆、疲れ切った顔をしている。
だが、その目には、希望の光がわずかに残っていた。
雅子は、立ち上がった。
「みんな、聞いて」
女工たちが、静かになった。
「私たちは、何も悪いことをしていない。それは、みんな分かっている」
「でも、どうすれば」
「今は、耐えるしかないわ」
雅子の言葉に、失望の声が上がった。
「耐えるだけ?」
「それじゃ、何も変わらない」
「いいえ」
雅子は、首を振った。
「犯人が捕まれば、この措置は終わる。それまで、私たちは真面目に働き続けるの」
「でも──」
「それが、私たちにできる、唯一の抵抗よ」
雅子は、女工たちを見つめた。
「私たちは、負けない。どんなに苦しくても、家族のために、自分のために、働き続ける」
女工たちは、黙って頷いた。
雅子の言葉が、少しだけ彼女たちの心を支えた。
しかし、その夜。
工場の倉庫で、田村新吉が仲間たちと集まっていた。
「小野雅子は、使えない」
田村は、苛立った様子で言った。
「あいつは、駅員に心を奪われている」
「どうする?」
「雅子を諦めるしかない。だが──」
田村は、不敵に笑った。
「あの駅員を、潰してやる」
「どうやって」
「簡単だ。鉄道で事故を起こす。そうすれば、あいつは責任を問われる」
「だが、それは──」
「心配するな。大した事故にはしない。ただ、あいつの立場を悪くするだけだ」
田村の目に、狂気の光が宿った。
「そうすれば、雅子も目が覚める。あの駅員が、どれだけ無能か、分かるだろう」
男工たちは、黙って頷いた。
しかしながら、その計画が──やがて取り返しのつかない事態を招くことになる。
翌朝。
雅子は、意を決して、いつもの列車に乗った。
忠範に、会おう。
ちゃんと話そう。
そして──自分の気持ちを、伝えよう。
列車が駅に到着すると、忠範の姿が見えた。
彼は、ホームで待っていた。
雅子が降りると、忠範は駆け寄ってきた。
「小野さん!」
「伊藤さん……」
二人は、見つめ合った。
「会いたかった」
忠範の声が、震えていた。
「昨日も、その前も、会えなくて……心配しました」
「ごめんなさい」
雅子の目から、涙が溢れた。
「私……逃げていました」
「小野さん」
「でも、もう逃げません」
雅子は、忠範の目を見つめた。
「伊藤さん。私も……あなたのことが、好きです」
忠範の目が、大きく見開かれた。
「本当……ですか」
「はい」
雅子は、微笑んだ。
涙を流しながら、でも確かに微笑んだ。
忠範は、雅子の手を取った。
「小野さん……ありがとうございます」
二人の手が、温かく触れ合った。
その瞬間──。
遠くから、汽笛が鳴り響いた。
工場の、始業の合図。
「行かなければ」
「はい。でも、また」
「また、明日」
雅子は、改札へ向かった。
だが、何度も振り返った。
忠範も、手を振っていた。
二人の恋は、ようやく始まった。
──その行く手には、大きな試練が待ち受けていた。



