柚李の涙の跡が光る音楽室で、
 春斗はしばらく何も言わなかった。
 ただ、彼女の震える肩と、
 何かを堪えるような表情を静かに見つめていた。
 その沈黙が苦しいのに、
 逃げたくないと思わせるような温度をしていた。
「……柚李」
 春斗がやっと口を開いた。
 優しい声だった。
 けれどその奥に、固い決意のようなものがあった。
「ほんとは今日、言うつもりじゃなかったんだ」
 柚李は顔を上げる。
「でも……柚李の顔見てたら、もう我慢できなかった」
 春斗は視線を落とし、少しだけ笑った。
 その笑みは、どこか自分を追い込むように見えた。
「俺さ、覚悟決めたんだ」
「かくご……?」
「うん。
 柚李が誰を好きで、誰のことで泣いて、
 誰に心が向いてても——」
 春斗は拳をぎゅっと握る。
「それでも俺は、柚李の隣にいたい」
 息が止まるほど真っ直ぐな言葉。
 その一言に、
 柚李の胸の痛みが一気に溢れそうになる。
「……春斗……無理だよ。私、今……」
「わかってるよ」
 遮る声は優しいのに強かった。
「今すぐ答えなんて求めない。
 柚李が泣き止むまででも、答えを出せないままでも……
 俺は待てる」
 春斗は息を吸い、
 迷いのない目で柚李を見た。
「俺は、柚李を好きでいる覚悟をした」
 その言葉は重くて、暖かくて、
 柚李には受け止めきれないほどの誠実さを持っていた。
 
 ***
 
「……なんで……そんなの……」
 喉が震える。
 涙がまたこぼれそうになる。
「だって……私……誰も……傷つけたくないのに……
 春斗まで……こんな……」
「え?」
「私……春斗の気持ちにちゃんと向き合えないまま、
 それでも優しくされて……」
 柚李の声は涙で途切れた。
「……つらいよ……ほんとに……」
 春斗は驚いたように目を見開き、
 そして、そっと一歩近づいた。
 距離はあと少し。
 でも触れない。
「……柚李は、優しすぎるよ」
 春斗の声が、少し震えていた。
「そんなふうに自分のこと責めんなよ。
 俺が勝手に好きになって、勝手に待つって決めただけなのに」
 柚李は首をふる。
「でも……」
「でもじゃない」
 春斗はそっと柚李の手を取った。
 温かい。
 その温度が蒼士の残した温度に重なって、
 柚李は苦しくてたまらなくなる。
「俺は……君を泣かせたいんじゃないよ」
 春斗は静かに言う。
「でも、泣いてるときにそばにいたい。
 支えられるなら支えたい。
 それが“好き”ってことだと思ってる」
 そのあまりにも真っ直ぐな気持ちが、
 胸を締めつける。
「だから……柚李は無理しなくていい。
 俺の気持ちを重く感じる必要もない。
 逃げたくなれば逃げてもいい」
 そして、少し苦しそうに笑った。
「でも、俺は追うよ。
 柚李が逃げたって、きっと見つけに行く」
 その言葉は、宣言のようだった。
 
 ***
 
 音楽室の窓から、夕日が差し込む。
 春斗の横顔が赤く染まり、
 その影が柚李の足元まで伸びてくる。
「俺さ」
 沈みゆく光の中で、春斗は続けた。
「ずっと言えなかったんだ。
 柚李が誰かを見てるの、気づいてたから」
 柚李の胸が跳ねる。
「でも……その人が柚李を泣かせるくらい大事な人なら、
 俺はその人に絶対勝てるくらい、ちゃんと柚李を想す」
 静かな声だったのに、
 その強さは、蒼士の“優しい拒絶”とは真逆の熱を持っていた。
「だから……柚李。
 まだ終わったわけじゃないよ」
 柚李の心が揺れる。
 蒼士が手放したもの。
 春斗が掴もうとするもの。
 二つの想いが、柚李の胸の中でぶつかり合う。
 どちらの答えも出せないまま、
 ただ涙がこぼれた。
 春斗はその涙を見つめて、そっと微笑んだ。
「大丈夫。泣いていいから」
 その優しさに、柚李はもう声をあげて泣くことしかできなかった。
 春斗は最後まで触れず、ただ近くで待っていた。
 その距離のまま、
 柚李の心の痛みが、少しずつ形になっていくようだった。