エレベーターの鏡に映った自分の顔を見て、
由奈はそっと視線を下げた。
化粧はちゃんとしてきたはずなのに、
どこか自信のない横顔に見える。
(……今日は、笑えるかな)
会社の扉を開けると、
人のざわめきとパソコンの音が一斉に耳へ流れ込んだ。
いつもと変わらない朝のはずなのに、
どこか落ち着かない。
「おはようございます」
小さな声で挨拶をしながら自分の席へ向かっていると、
ふいに女性の澄んだ声が聞こえた。
「隼人、本当にありがとう。
昨日も助かったわ」
その声が誰のものか、
由奈にはすぐ分かった。
――西園寺麗華。
足が止まりそうになるのを必死にこらえ、
振り返ることはしない。
ただ、耳が勝手にそちらへ向かってしまう。
隼人はいつもの穏やかな声で返していた。
「気にするな。困った時は言えよ。幼馴染だろ」
その言い方が、いつもより少しだけ優しかった。
(……どうして)
胸の奥が、じわりと痛む。
隼人と麗華は、幼い頃から家族同然の付き合いだ。
大人になった今でも、仕事の場でよく顔を合わせる。
それは知っていたし、理解もしていた。
けれど――
由奈に向けられない“柔らかい笑み”が、
麗華には簡単に向けられる。
隼人の横を通りかかった時、
由奈は小さく「おはようございます」と言った。
隼人は一瞬こちらを見たが、
その表情はいつもの無意識なものだった。
「おはよう。今日は早いな」
以前は一緒に出ていたのに――そんな日もいつの間にか減っていた。
淡く微笑むだけで、
どこか“距離のある夫の笑顔”。
由奈はその違いに気づき、
胸の奥でひどく切なくなる。
「この前の資料の件、手伝ってくれてありがとうね、隼人」
麗華がまた嬉しそうに笑う。
その横顔には、見慣れた自信と余裕がある。
隼人も自然に笑い返していた。
(……私には、そんな顔しないのに)
席に着いた瞬間、
由奈は指先に力を入れてデスクの端を握った。
指先が白くなるほどぎゅっと握らないと、
涙が溢れそうだった。
「片岡さん、今日の会議の資料……」
同僚の声で現実に引き戻される。
由奈は慌てて笑顔を作った。
「す、すみません。すぐ対応します」
笑ってみたけれど、
胸の奥はずっと冷たかった。
モニターの向こうで、隼人と麗華が話している気配がする。
目を向けることはできない。
向けたら、きっと泣きそうになるから。
(隼人は、私より麗華さんのほうが……話しやすいのかな)
そんな考えが頭をよぎった瞬間、
息を吸うのが苦しくなる。
昼休み。
休憩室でひとりになった由奈は、
紙コップを両手で包みながら、
ポツリとつぶやいた。
「……私、何がいけないんだろう」
そんな答えの出ない問いばかりが、
静かに胸を締めつけてゆく。
そこへ、休憩室のドアが開いた。
入ってきたのは――麗華。
「あら、由奈さんも休憩?」
柔らかい笑顔。
けれどその瞳の奥に、冷たい光が一瞬だけ走る。
「隼人、今日も忙しそうね。
……でも大丈夫よ。私が支えてあげるから」
その言い方は、
あたかも“妻である由奈にはできないことを、私が代わりにしている”――
そんな意味を含んでいるように聞こえた。
由奈は笑えなかった。
紙コップを持つ手が、かすかに震えた。
「……そうですか」
それだけ言うのが精いっぱいだった。
麗華は気づかないふりをして、
軽やかな足取りで部屋を出ていった。
由奈はしばらく動けなかった。
隼人の笑顔が麗華に向けられるたび、
心が削られていく。
(私、隼人の“妻”なのに)
視界がじんわりと滲んだ。
誰にも見られないように、
由奈はそっと俯いた。
――隼人の笑顔が、自分だけに向けられない朝。
それは、三年目にして初めて経験する“痛み”だった。
由奈はそっと視線を下げた。
化粧はちゃんとしてきたはずなのに、
どこか自信のない横顔に見える。
(……今日は、笑えるかな)
会社の扉を開けると、
人のざわめきとパソコンの音が一斉に耳へ流れ込んだ。
いつもと変わらない朝のはずなのに、
どこか落ち着かない。
「おはようございます」
小さな声で挨拶をしながら自分の席へ向かっていると、
ふいに女性の澄んだ声が聞こえた。
「隼人、本当にありがとう。
昨日も助かったわ」
その声が誰のものか、
由奈にはすぐ分かった。
――西園寺麗華。
足が止まりそうになるのを必死にこらえ、
振り返ることはしない。
ただ、耳が勝手にそちらへ向かってしまう。
隼人はいつもの穏やかな声で返していた。
「気にするな。困った時は言えよ。幼馴染だろ」
その言い方が、いつもより少しだけ優しかった。
(……どうして)
胸の奥が、じわりと痛む。
隼人と麗華は、幼い頃から家族同然の付き合いだ。
大人になった今でも、仕事の場でよく顔を合わせる。
それは知っていたし、理解もしていた。
けれど――
由奈に向けられない“柔らかい笑み”が、
麗華には簡単に向けられる。
隼人の横を通りかかった時、
由奈は小さく「おはようございます」と言った。
隼人は一瞬こちらを見たが、
その表情はいつもの無意識なものだった。
「おはよう。今日は早いな」
以前は一緒に出ていたのに――そんな日もいつの間にか減っていた。
淡く微笑むだけで、
どこか“距離のある夫の笑顔”。
由奈はその違いに気づき、
胸の奥でひどく切なくなる。
「この前の資料の件、手伝ってくれてありがとうね、隼人」
麗華がまた嬉しそうに笑う。
その横顔には、見慣れた自信と余裕がある。
隼人も自然に笑い返していた。
(……私には、そんな顔しないのに)
席に着いた瞬間、
由奈は指先に力を入れてデスクの端を握った。
指先が白くなるほどぎゅっと握らないと、
涙が溢れそうだった。
「片岡さん、今日の会議の資料……」
同僚の声で現実に引き戻される。
由奈は慌てて笑顔を作った。
「す、すみません。すぐ対応します」
笑ってみたけれど、
胸の奥はずっと冷たかった。
モニターの向こうで、隼人と麗華が話している気配がする。
目を向けることはできない。
向けたら、きっと泣きそうになるから。
(隼人は、私より麗華さんのほうが……話しやすいのかな)
そんな考えが頭をよぎった瞬間、
息を吸うのが苦しくなる。
昼休み。
休憩室でひとりになった由奈は、
紙コップを両手で包みながら、
ポツリとつぶやいた。
「……私、何がいけないんだろう」
そんな答えの出ない問いばかりが、
静かに胸を締めつけてゆく。
そこへ、休憩室のドアが開いた。
入ってきたのは――麗華。
「あら、由奈さんも休憩?」
柔らかい笑顔。
けれどその瞳の奥に、冷たい光が一瞬だけ走る。
「隼人、今日も忙しそうね。
……でも大丈夫よ。私が支えてあげるから」
その言い方は、
あたかも“妻である由奈にはできないことを、私が代わりにしている”――
そんな意味を含んでいるように聞こえた。
由奈は笑えなかった。
紙コップを持つ手が、かすかに震えた。
「……そうですか」
それだけ言うのが精いっぱいだった。
麗華は気づかないふりをして、
軽やかな足取りで部屋を出ていった。
由奈はしばらく動けなかった。
隼人の笑顔が麗華に向けられるたび、
心が削られていく。
(私、隼人の“妻”なのに)
視界がじんわりと滲んだ。
誰にも見られないように、
由奈はそっと俯いた。
――隼人の笑顔が、自分だけに向けられない朝。
それは、三年目にして初めて経験する“痛み”だった。

