朝の生徒会室前は、返却箱の“怖がらせない光”が薄く息をしていた。鍵束の透明な音を鳴らしながら、江莉奈がホワイトボードに三行だけ置く。
  江莉奈「①“同期事件”は申告制を継続。②危険時以外は“腕時計に触れない”運用。③封印タグは“本人管理”、没収しない」
  チャーリー啓が胸の前で小さくガッツポーズを作る。「かわいいの定義=“怖がらせない道具”。今日はこれ!」
  秋徳が机に置かれた小箱を開けた。出てきたのは細い布タグ。赤ではなく、目立ちすぎない“亜麻色”。角は丸く、鈴は付いていない。
  秋徳「消音。視認性だけ。文字は“TIMELINE SAFE”」
  秋徳「採用」
  江莉奈は頷き、圭佑の前にタグを差し出した。「――“没収”はしない。君の“選び直す練習”を、可視化するだけ」
  圭佑は竜頭に行きかけた視線を机の木目で止め、タグを自分の手で腕時計に通した。
  圭佑「…………了解」
  朝練終わり、体育館脇。
  圭佑「挨拶、だけ」
  豪一郎は、道場のときと同じ速度で言葉を置く。「昨日のつづきは、返事が“失敗してもいい権利”の上に乗るまで待つ。――それだけ」
  文乃は二拍半の“間”を胸に作り、短く頷いた。「預かった」
  ツツジの影の外で、圭佑は封印タグの結び目を指で確かめる。ほどけない。ほどけるとしても、自分でほどく。――それが、今日の線。
  ホームルーム後、視聴覚室。
  圭佑「ゲネプロ一回目、十五時。導線テープ増し貼り。返却箱の回収は十七時」
  江莉奈の段取りに合わせ、秋徳が「掲示“上演中の撮影を求めないでください”の角、四点留め確認」と書く。啓は“怖がらせない光”のタイマーをチェックし、「かわいいの定義=“怖がらせない説明”」と小声で復唱した。
  圭佑はムーンジェイドを掌で曇らせ、離して光らせ、照明の“飛び”を二度、三度確かめる。封印タグは薄い麻色で、袖口の影になじんだまま、何も言わない。
  昼休み。掲示板の前には“署名のあるお願い”がもう一枚増えていた。
  《舞台袖のロープに触らないでください。責任:舞台進行》
  圭佑「いい線」
  文乃が角を押さえ、透明ピンをひとつ足す。
  文乃「“いい線”の蓄積は、事故の“未遂”を減らす」
  秋徳が淡々と言い、豪一郎が「未遂で止めるのが現場監督」と短く重ねる。
  午後、ゲネプロ。暗転が落ち、明転、入退場、袖の動線。
  文乃「――『巻き戻しは、優しさの顔をする。でも、私たちの“失敗する権利”まで食べないで』」
  文乃が二拍半を置くと、空気が沈み、戻る。豪一郎の肩の角度が“行きと帰り”の道を作り、啓は胸の筒を“オフ”のまま抱えた。
  そのとき、袖の高い位置で小さく鳴った。
  ――キィ。
  ロープの滑車。摩擦の音。
  秋徳の視線が跳ね、豪一郎が「止め」と低く言うより、わずかに速く、圭佑の身体が“普通の速さ”で動いた。
  走らない。跳ばない。
  脚立の位置を半歩ずらし、滑車の真下に入る角度を避ける。ロープの“浮き”を手の甲で押さえ、結び目の向きだけを二センチ修正する。
  文乃「固定、足りてない」
  豪一郎が追いつき、クランプを増し締め。秋徳が「“ロープ:摩耗→交換注文”」とメモに書き足した。
  封印タグは、鳴らない。何もしない。――だから、いまの時間は誰のものでもない“いま”のまま、事故にならずに通り過ぎた。
  文乃「ナイス」
  豪一郎の短い評価に、圭佑は「たまたま」とだけ返す。竜頭には触れない。触れない代わりに、位置と角度をまっすぐ直す。
  休憩。紙コップの水が配られ、掲示板の前にまた人が集まる。
  《“同期事件”の噂に寄せて――怖がらせない説明を心がけます。責任:放送部》
  文乃「採用」
  江莉奈が角を四つ留め直し、啓が胸の前で小さく拍手する。「“かわいい”って、こういうこと」
  文乃は笑わず、二拍半を胸に作る。「アンカー、続ける。舞台でも、今でも」
  二本目のゲネプロ。
  照明が熱を帯び、客席に見立てた空間の温度が一段上がる。文乃の台詞に、圭佑の光が重なり、白は飛ばず、緑は濁らない。
  ――カチ。
  舞台の上で、圭佑の腕時計が“音だけ”を一つ吐いた。針は動かない。封印タグの亜麻色が袖口で静かに呼吸する。
  (残響)
  彼は、ポケットの空っぽを握って、開いた。
  文乃「“同期”の残響だ」
  秋徳が短く言い、江莉奈は「説明、放送部と統一」とボードに線を引く。
  秋徳「了解」
  撤収。コードは巻かれ、レンチは箱に戻され、返却箱の“怖がらせない光”が夕方の目盛りで薄く明るい。
  秋徳「封印タグ、返す?」
  江莉奈の問いに、圭佑は小さく首を振った。
  圭佑「預けない。――“預けない”を選ぶ練習」
  圭佑「了解。申告は続けて」
  透明な音が一度、鳴る。
  昇降口の影で、二人分の影が二秒だけ重なる。
  圭佑「送ろうか」
  圭佑「いらない。偶然で会えるなら、それで」
  圭佑「了解」
  それだけで離れ、角でまた別れる。その角には、今日貼られたばかりの小さな紙が一枚。
  《“行きと帰り”の道を空けてください。責任:演劇班》
  誰の足音にも怒鳴らない、けれど確実に届く言い方。
  夜。
  窓の桟の欠片を掌にのせ、文乃は二拍半を胸で数える。掴めば曇り、離せば光る。今日は、離す。机の右上には置かない。
  枕元の腕時計は、秒針が十二で止まったまま、封印タグの亜麻色を薄く映していた。
  ――カチ。
  音が、一つ。針は動かない。
  次の瞬間、机の上のスマホが震えた。
  《明朝、劇タイトル看板“辺境開拓団×時間逆行”搬入。落下対策優先》江莉奈
  《了解。ロープ交換、僕が行く》豪一郎
  《“かわいいの定義”を“怖がらせない説明+落下しない看板”に更新》啓
  《残響ログ、縮小。アンカー継続》秋徳
  《了解。二拍半=呼吸》文乃
  送信の青が消え、封印タグが袖口の影で静かに呼吸した。
  同じころ、商店街の端の工房。
  閉店札の裏に、小さな付箋が増える。
  《学校関係は“生徒会室前の返却箱”と連携。恐怖ではなく説明で》
  癖のない字。指先が箱の角を一度だけ撫で、灯りが落ちる。
  “願いは食べさせない”。――その二行は今日も、誰かの胸で普通の速さで呼吸している。
 朝二限の終わり、視聴覚室の前に黒い大箱が二つ届いた。太いベルトで十字に縛られ、角はスポンジで保護されている。白いラベルには、太字で『上演タイトル看板/落下防止金具同梱』。ガムテープの端を豪一郎が一度なで、力を入れすぎない角度でカッターを入れた。
  箱の中から現れたのは、白地に紺の文字で《辺境開拓団×時間逆行》と染め抜かれた看板だった。枠は軽量アルミ、背面には落下防止のワイヤーとセーフティコード。秋徳が取説を開き、淡々と読み上げる。
  秋徳「固定点三カ所。ワイヤー荷重試験済み。…………“二段目の仮止めで手を放さないこと”。――重要」
  秋徳「了解」
  豪一郎は脚立の位置を半歩ずらし、周囲の動線をテープで囲う。啓は“怖がらせない光”の携帯版をポケットに入れ、「作業中」の小札を子ども向けのやわらかい字で書いた。
  豪一郎「かわいいの定義=“怖がらせない説明+落下しない看板”。今日の僕の全力」
  圭佑は袖口の封印タグを指で一度確かめ、竜頭から視線を外す。タグの亜麻色は、光を吸うというより、場の色に溶けて目立たない。「TIMELINE SAFE」の細い文字が、やや斜めに腕の骨格に沿っていた。
  (触らない。――触らない)
  掌でムーンジェイドの小道具を曇らせ、離して光らせる。白は飛ばず、緑は濁らない。今日の光は、昨日より少し柔らかい。
  放送部が取材に来た。細いマイク、クリップボード。
  豪一郎「“同期事件”について、放送で“怖がらせない説明”を流します。要点の確認を」
  江莉奈は白板を示し、言葉を揃える。
  江莉奈「用語は“巻き戻し”ではなく“同期”。“起きたことを短く説明する”が第一目的。“犯人探し”には使わない。――これで」
  江莉奈「了解。『同期は“時間を怖がらせない言い換え”。説明で薄まる』」
  放送部の二人は真面目に書き取り、角を四つ、ピンで留める仕草まで丁寧だった。啓が小声で「かわいい」と言い、秋徳が「定義、暫定採用」と一筆添える。
  昼休み、商店街の工房から小さな段ボールが届いた。中身は看板の角に貼る透明の衝撃吸収パッドと、安全ピン型の追加クリップ。付箋には、癖のない字。
  《恐怖ではなく説明で。角を丸く》
  江莉奈「角を丸く、いいね」
  文乃は、二拍半を胸に作ってからパッドを一枚貼った。透明なのに、見える。見えないのに、触れ方が変わる。
  文乃「“掴むと曇る、離すと光る”。角は、曇らせないで光らせたい」
  文乃「了解」
  午後、仮設ステージの上で看板の吊り込みが始まる。
  豪一郎「号令は俺。いち、に――」
  豪一郎の声に合わせ、四隅が持ち上がる。アルミ枠がわずかに鳴り、ワイヤーが“ギ”と低く応える。秋徳がワイヤーの撚りを目で数え、啓が脚立の足元に滑り止めを追加で差し込む。
  豪一郎「二段目、仮止め――“手を放さない”」
  豪一郎が繰り返す。
  豪一郎「了解」
  全員の手の温度が一段上がり、汗の湿り気がアルミに薄い曇りをつくる。
  そのとき、体育館の脇を抜けてきた風が、ステージの背面で抜けた。
  ――キィ。
  ロープの滑車が小さく鳴り、結び目が二センチ、悪い方向へねじれた。
  圭佑の腹の底で、衝動が跳ねる。
  (触れば、三分、戻る。戻して、角度を――)
  封印タグの布が、袖の内側で手首にそっと触れた。
  (“TIMELINE SAFE”。――触らない)
  彼は息を吸い、二拍半を置いて、吐いた。
  豪一郎「豪一郎、右上“反転トルク”。結び、時計回りに一つ、戻す」
  走らない。跳ばない。“今ここ”だけに手を入れる。
  豪一郎が「了解」と低く答え、結び目を時計回りに直す。秋徳は「負荷、分散」と短く言って左下を支え、啓が「あと三秒、保って!」と声の高さを落としてカウントする。
  豪一郎「――さん、に、いち」
  ワイヤーがまっすぐになり、看板は“落ちない”角度で止まった。
  豪一郎「固定、よし」
  豪一郎がクランプを増し締めし、レンチを箱に戻す。
  豪一郎「ナイス」
  江莉奈が要点だけ置く。
  圭佑は「たまたま」と口の中で言い、竜頭ではなく封印タグの結び目をそっと押さえた。布は鳴らない。鳴らない代わりに、“選ばなかった衝動”が体温へ吸い込まれていく。
  ゲネプロ一回目。
  明転、入退場、袖の動線。看板は頭上で静かに呼吸し、光は飛ばず、文字はくっきりと見える。
  文乃「――『巻き戻しは、優しさの顔をする。でも、私たちの“失敗する権利”まで食べないで』」
  文乃が二拍半を置く。観客に見立てた席の空気がいったん沈み、やがて戻る。
  ――カチ。
  舞台の上で、圭佑の腕時計が“音だけ”を一つ吐いた。針は動かない。封印タグは亜麻色のまま、袖口で静かに呼吸する。
  (残響。――でも、今日は説明が先に立つ)
  圭佑はポケットの空っぽを握って、開いた。吊られた文字は、落ちない。言葉は、落ち着いて届く。
  休憩。紙コップの水。掲示板の前に人だかり。
  ――《“同期”は怖がらせない言い換え。犯人探しには使いません。責任:放送部》
  ――《行きと帰りの道を空けてください。責任:演劇班》
  文乃「いい線」
  文乃は角を四つ、透明ピンで留めなおし、笑いを喉の奥で止めた。笑いの代わりに、二拍半を胸に作る。
  啓は胸の筒を“オフ”のまま抱え、「かわいい」を口の中で一度だけ言ってから、「定義、維持」と自分にメモした。
  二回目のゲネ。
  照明の熱が上がる。袖の暗がりで、看板のワイヤーが“ギ”と低く鳴る。
  ――その音よりわずかに早く、二年四組の生徒が袖から顔を出した。短い爪、癖のない所作。
  豪一郎「…………結び目、僕が見ます。情報委員から“二番目のワイヤーが緩みやすい”って伝達が。責任:二年四組」
  二年生「助かる」
  豪一郎は脚立を支え、「速度は“普通”で」とだけ言う。生徒は頷き、結び目を一段だけ固くする。
  豪一郎「“謝罪で終わらない”人は、いい」
  秋徳が淡々と評し、江莉奈が「運用、共有」とクリップを増やした。
  ゲネ終盤。
  文乃の台詞の“食べないで”が半拍だけ戻され、客席に見立てた空間の呼吸が二回、揃う。
  (二回=行きと帰り)
  圭佑は白地の文字と照明の角度を重ね合わせ、“押さないで支える”を選び続ける。封印タグは袖口の影で静かに震え、鳴らない。
  圭佑「本番、行ける」
  豪一郎の声は大きくない。けれど芯があった。
  撤収前、生徒会室前の返却箱に封筒が一通。
  《“視聴覚室”札のフォント、共用プリセットに統一しました。責任:情報委員》
  圭佑「対話の線、広がってる」
  江莉奈は透明な音で鍵を回し、封筒をクリアファイルに収めた。
  夕暮れが夜に寄りかかるころ、視聴覚室の鍵が回る。
  圭佑「封印タグ、今日は自宅管理で」
  江莉奈の確認に、圭佑は小さく頷く。
  圭佑「預けない。――“預けない”を選ぶ練習、継続」
  圭佑「了解」
  昇降口の影で、二人分の影が二秒だけ重なる。
  圭佑「送ろうか」
  圭佑「いらない。偶然で会えるなら、それで」
  圭佑「了解」
  それだけで離れ、角でまた別れる。その角に、今日貼られたばかりの小さな紙が一枚。
  ――《“巻き戻し”を求めないでください。私たちは“普通の速さ”で失敗して、学びます。責任:演劇班》
  言葉はやわらかいのに、芯があった。
  文乃はその紙の角を四つ押さえ、胸で二拍半を数える。
  (私がアンカー。――君は、封印タグの向こうで“選び直す練習”)
  夜風が掲示の端をふわりと持ち上げ、透明ピンが光をひとつだけ跳ね返した。
  その夜。
  窓の桟の白い欠片を掌にのせ、文乃は二拍半を胸で数える。掴めば曇り、離せば光る。今日は、離す。机の右上には置かない。
  枕元の腕時計は、秒針が十二で止まったまま、封印タグの亜麻色を薄く映している。
  ――カチ。
  音が、一つ。針は動かない。
  スマホが震えた。
  《明朝、本番前“落下対策”最終。看板角の透明パッド総点検。》江莉奈
  《ロープ交換完了。増し締め、俺が》豪一郎
 《放送原稿、“同期=怖がらせない言い換え”で提出》放送部
  《残響ログ、縮小。アンカー継続》秋徳
  《了解。二拍半=呼吸》文乃
  送信の青が消え、部屋が夜の目盛りに落ち着く。
  同じころ、圭佑の机の上。
  『封印タグの取り扱い説明書』という紙が、控えとして一枚。
  ――①タグは“預けない”を選ぶ練習の印。
  ――②タグは鳴らない。代わりに、自分の呼吸が鳴る。
 ――③“押す力”は、支える方向に使う。
  彼は竜頭ではなく、その紙の角を四つ、指の腹でゆっくり押さえた。
  (触らない。――触らないで、支える)
  封印タグは袖口の影で静かに呼吸し、秒針は十二で止まったまま、音だけをひとつだけ、未来のほうへ置いた。
 放課後が夜に傾くと、情報教室の蛍光灯は一段落として点いた。窓の外はガラスに自分の輪郭だけを返し、モニターの黒い面に白い文字が静かに浮かぶ。秋徳がホワイトボードの手前に立ち、太いペンで三行を置いた。
  秋徳「世界線の差分、可視化。――一、巻き戻しは“同期”と呼ぶ。二、“犯人探し”に使わない。三、申告と共有で薄める」
  秋徳「“かわいいの定義=怖がらせない説明”、維持」
  啓が胸の前で小さく拳を握り、江莉奈は鍵束を机の上で音の出ない位置に置く。豪一郎は腕を組まず、いちばん後ろの席の背もたれに軽く手を置いた。
  圭佑は、席に座らず、黒板の端に立った。袖口の“TIMELINE SAFE”は亜麻色で目立たない。竜頭に行きかけた視線を、木目へ落とす。
  圭佑「…………俺がやった。黄昏の“同期”も、何度も、だ。謝る。――言い訳はしない」
  それだけ言って、彼は深くは頭を下げなかった。深く下げると、衝動が頭のほうへ戻ってくるからだ。代わりに、手のひらを机の角で握って、開く。
  文乃は、二拍半の“間”を胸に置き、席を立ってから前へ二歩出た。
  文乃「ありがとう。…………“守る”と“縛る”の違いを、言葉にするね」
  教卓の上に透明ファイルを広げ、クリップの位置を丁寧にそろえる。
  文乃「“守る”は、私の速度をそのままにして、危ないところにだけ柵を置くこと。“縛る”は、私の速度をあなたの速度に変えること。――私は、守られたい。でも、縛られたくはない」
  啓が「めちゃくちゃ…………」と口を開きかけ、「“かわいい”に分類!」と自分で結んで頷いた。秋徳は「定義、採録」と一筆添える。
  江莉奈が透明な声で段取りを置いた。
  江莉奈「暫定の“執着の使い方メモ”を作る。――一、“同期”は申告。二、文乃の二拍半を最優先。三、腕時計には触れない。封印タグは本人管理」
  江莉奈「了解」
  圭佑は短く返し、袖口の布の結び目をそっと確かめた。鳴らない。鳴らないけれど、胸の奥で何かが小さく解ける。
  そのとき、情報教室のドアが二度だけ控えめに叩かれた。
  江莉奈「失礼します。舞台進行です。…………小道具の最終確認を」
  豪一郎が「行こう」と短く言い、全員で視聴覚室へ移動する。廊下の曲がり角には《行きと帰りの道を空けてください(責任:演劇班)》の紙。角を四つ、透明ピンで留め直してから、鍵が回る。
  視聴覚室。
  棚の一段目――ラベル《ムーンジェイド(本番用)》の箱に、薄い埃だけが残っていた。
  江莉奈が呼吸を整え、箱の中の仕切りをそっと持ち上げる。成形フォームの窪みが、月の色でくっきり空いている。
  江莉奈「…………ない」
  啓の声が乾く。「僕の“かわいい”が…………」
  秋徳はすでに視線を走らせていた。棚の縁、足下、鍵穴。
  秋徳「開錠痕なし。…………棚の脚の下、“跡”が新しい。引き出されて戻された痕」
  豪一郎は走らない。跳ばない。棚の固定を確認し、視線を床のテープに落とす。
  豪一郎「さっきまで、あった?」
  豪一郎「夕方、看板の増し締め前に在庫チェック。“五”のはずが――“四”。その時は“予備の箱に回した”と記録」
  江莉奈の指が記録簿をなぞる。日付と時間の欄はきれいで、空欄が一つだけ白い。
  江莉奈「空欄は、“この時間帯”」
  文乃は吸って、二拍半を置き、吐いた。
  文乃「…………“犯人探し”に使わない。――でも、“返す先”は用意する」
  返却箱の鍵が、透明な音を一度だけ鳴らす。
  文乃「“返す先はこちら”。“怖がらせない説明”。角を四つ、署名と一緒に」
  啓が頷き、用紙に大きく清書する。
  《ムーンジェイド(本番用)を返してください。
  “巻き戻し”は求めません。返却は生徒会室前返却箱へ。
  責任:演劇班/生徒会》
  秋徳はその隣に小さく《監視は“見守り”。断罪ではない》と書き、豪一郎は「舞台袖の出入り、今日から“二名確認”」と運用を増やした。
  圭佑は、棚の前で立ち尽くしている自分に気づく。竜頭が、袖口の布の向こうで冷たい。
  (押せば、戻る。――押さない。押さない)
  掌でムーンジェイドの“在りか”を想像した。掴めば曇る、離せば光る。
  (離して――返ってこい)
  声にはしない。代わりに、封印タグの結び目をそっと押さえる。
  掲示板の前に、新しい紙が一枚増えた。
  《“巻き戻し”を求めないでください。私たちは“普通の速さ”で失敗して、学びます》
  言葉はやわらかいのに、芯がある。
  江莉奈が角を四つ留め直し、扉の鍵を一度だけ確かめた。
  江莉奈「今日はここまで。返却箱、二十一時で消灯。――“返す先”は灯しておく」
  昇降口へ向かう廊下で、曲がり角の足音が速い。
  江莉奈「すみませーん!」
  豪一郎の手が先に出て、速度を奪わず、進路だけ変える。
  豪一郎「廊下は試合会場じゃない」
  豪一郎「は、はい!」
  ぶつからない。怒鳴らない。けれど、伝わる。
  文乃は、二拍半を胸で数え、圭佑の横顔にだけ届く声で言った。
  文乃「“守る”でいて。――“縛る”に変わりそうな時は、私が言う」
  文乃「了解」
  彼は笑わなかった。けれど、目の奥の“やり直さない練習”の火は消えない。
  夜。
  窓の桟の白い欠片を掌にのせ、文乃は二拍半を胸で数える。掴めば曇る、離せば光る。今日は、離す。机の右上には置かない。
  枕元の腕時計は、秒針が十二で止まったまま、封印タグの亜麻色を薄く映している。
  ――カチ。
  音が、一つ。針は動かない。
  同時刻、生徒会室前の返却箱は、静かに光っていた。
  小窓の前に、影が一つ、二つ。封筒が一枚、差し込まれる。
  “返す先はこちら”の紙が、わずかに揺れて止まった。
  封筒は、軽い。
  ――中身は、空の成形フォームだけ。
  明日の予定表の下で、透明ピンが一つ、乾いた音を立てた。