黄昏の校庭は、体育館の白い壁に橙の影を長く落としていた。部活の掛け声が遠のき、風がネットの金具を一度だけ鳴らす。渡り廊下の端で、豪一郎が短く息を吐き、道場とは違う緊張を肩の内側へ押し戻した。
  豪一郎「…………悪い。五分だけ、時間をもらってもいいか」
  豪一郎「うん」
  文乃は肩の力を抜き、二拍半の“間”を胸に置いてから頷いた。体育館裏の壁はあたたかく、落書き一つない白が静かに夕方を映している。
  その二人から二十歩ほど離れたツツジの茂みの陰で、圭佑は自分の呼吸を数え損ねていた。竜頭に触れないように両手を太腿に沿わせ、足元の砂利の形まで覚え込もうとして、それでも指先が微かに浮く。
  (言わせたくない――じゃない。言わせる場所を、整えたい。…………いや、違う)
  言い換えを何度も作り直すうち、「違う」の方だけが濃くなる。袖口の影に潜む小さな銀色が、夕光を裂いて一瞬だけ冷たく光った。
  ――ピ、ピ、ピ。
  体育館の内側でモップを絞る音が止まり、どこかの教室の窓が一枚だけ閉まる。豪一郎が一歩前に出る。
  豪一郎「俺は、君の――」
  圭佑の指が、意志より速く、竜頭の縁に触れた。
  瞬き一つぶん、光が反転する。
  校庭の遠景がほんの少しだけ後ろへ滑り、バスケットボールが転がる位置が三歩ぶん戻る。夕焼けの濃度も、声の重なり方も、たった三分前の同じ場所へ吸い込まれる。
  豪一郎「…………悪い。五分だけ、時間をもらってもいいか」
  同じ角度、同じ言い回し。同じ風。
  文乃は頷いた。胸の奥で、指の届かない箇所に薄い既視感が灯る。
  (いま、カラスが鳴く。…………鳴いた。次に、風でポスターが一枚、剥がれかける)
  廊下の掲示は、剥がれかけない。代わりに、誰かが通ってスニーカーの靴底がキュッと鳴った。既視感が半歩ずれた。
  ツツジの陰で圭佑は、竜頭から手を離したまま目を閉じる。
  (これで、豪一郎は“もう一度、呼吸を整える”。それから、俺は――)
  何も足さない、と決めたはずなのに、全身の筋肉は“足す”準備を勝手に始めている。
  (俺のせいで、言葉が“うまくいく”なら、それは“介入”じゃない)
  言い訳は、薄い紙の層のように増えていく。増えるたびに、紙の中の繊維が音を立てる。
  豪一郎「俺は、君の――」
  豪一郎が再び口を開く。その声は、道場で受け身の導線をつくる時と同じ、無理のない高さだった。
  圭佑の腹の底で、何かが小さく跳ねる。
  ――ピ。
  竜頭に、もう一度、指が触れた。
  光が、もう一度、裏返る。
  今度は、空の雲が一枚だけ薄くなって戻ってくる。砂利の配置は同じだが、端に落ちた杉の小さな葉がなぜか無くなっている。
  豪一郎「…………悪い。五分だけ、時間をもらってもいいか」
  豪一郎「うん」
  文乃は、頷く前に二拍半の“間”をいつもより丁寧に広げた。
  (本当は“同じ”じゃない。さっきの雲はもっと厚かった。風の向きも、半歩ちがう。…………なのに、言葉の位置だけが、定規で引いたみたいに戻る)
  胸の内側に、糸の節のような違和感が引っかかる。指の腹で、そっと触れて場所を確かめる。
  視聴覚室の窓辺では、秋徳が白いボードの前に立っていた。
  《差分ログ(仮)》
  ――購買のメロンパン、残数表示:さっき“2”、今“3”。
  ――廊下の掲示板、上段右端のピンの角度が“水平→斜め”。
  ――体育館裏、風向“SSW→SW”。
  (同じ会話が繰り返されているのに、周囲の状態が微細に入れ替わっている。三分単位。誰かが、巻いている)
  ペン先が止まる。「誰か」はたぶん一人。圭佑。感情が表には出ないまま、足許の空気がひとつ強くなる。「止めに行く」は拙速。「見える化」して、本人が気づくための線をまず引く。
  秋徳はスマホを開き、短い文を打つ。
  《世界線の差分、観測。逃げると深くなる。深呼吸、二拍半》
  送信の青が消え、窓の外の雲がほんの僅か薄くなった。
  三回目。
  豪一郎「…………悪い。五分だけ、時間を――」
  豪一郎の声に、文乃がそっと右手を上げた。
  豪一郎「待って。――ごめん、座って話さない?」
  白い壁の根元、落ち葉が溜まったところに、彼女はハンカチを二枚敷いた。立ったままの告白は、風に攫われやすい。座れば、呼吸がそろいやすい。
  豪一郎「ありがとう」
  豪一郎は、体重をゆっくり下ろした。道場で人を受け止めるときと同じ速度で。
  ツツジの陰で、圭佑の胸がひとつ痛む。竜頭から離した指先に、別の衝動が忍び寄る。
  (場所を変えたなら、今度は“音”か“人”で)
  そして、また、触れる。
  四回目の黄昏は、さっきより赤い。
  圭佑は、息を吐き切れず、胸の奥で空気を噛んだ。腕時計のガラスに、髪の毛ほどの細い罅が一本、いつの間にか伸びている。
  (代償)
  頭の片隅で、文字が冷たく点灯する。視界の端で、体育館の扉が開きかけて――開かない。
  豪一郎は、言葉を重ねる準備を整え続けている。何度戻っても、呼吸の位置を狂わせない男。
  豪一郎「…………俺は、君の“二拍半”を、いいと思ってる」
  その第一声が、巻き戻しの揺れの上に、まっすぐ降りた。
  ツツジの陰から、圭佑が一歩、出た。
  出てしまったことに、出てから気づく。
  足音に、二人が振り向く。
  豪一郎「悪い。…………ここ、通るだけ」
  圭佑の声は、低くない。ぶつけてもいない。けれど、芯があった。竜頭から離した手のひらが、夕方の色でわずかに汗ばむ。
  豪一郎が黙って、半歩ずれる。道が、自然にできる。
  文乃は、その“半歩”の速度に、自分の既視感の正体を重ねた。
  (巻き戻しても、変わらない人は変わらない。変わるのは、私の胸の呼吸と、あなたのガラスの亀裂)
  彼女は、立ち上がらなかった。座ったまま、二拍半を置く。
  豪一郎「ねえ、圭佑」
  呼びかけは、小さくて、遠くまで届く。
  豪一郎「――もう、止めて」
  沈黙が、夕方の温度で一段沈む。
  圭佑は、竜頭に行きかけた手を、目に見えるところで握って、開いた。
  圭佑「…………了解」
  それでも、衝動は消えない。消えないものは、別の場所へ置くしかない。
  彼が息を整えようとした瞬間、腕時計の文字盤に、深い音のない罅が一本、斜めに走った。
  光を吸い、夕焼けを拒むような、暗い線。
  秋徳の通知が、文乃のポケットで震える。
  《世界線の差分、縮小。呼吸、維持》
  文乃は短く返す。
  《了解。二拍半=“今を選ぶ”》
  送信の青が消えるのと同時に、体育館の内側で誰かがモップを立てかけ、金具がチリ、と鳴った。四回目の黄昏は、そこで止まった。
  圭佑は、豪一郎の横を“普通の速さ”で通り過ぎ、体育館の角を曲がった。ツツジの葉を一枚、靴の先でそっと避ける。
  手首の重さは、変わらない。けれど、重さの意味が、少しだけ変わっていく。
 薄闇が校庭の端から滲みはじめ、白い壁に落ちる影がゆっくり形を変えた。ツツジの葉が一枚、風に裏返る音だけが小さく鳴る。
  文乃は、座ったまま二拍半を胸に置いた。豪一郎の視線は正面に、静かに据わっている。
 豪一郎「…………ありがとう。座らせてくれて」
 豪一郎「こちらこそ」
  豪一郎は、道場で構えるときと同じ速度で言葉を置いた。「俺は、君の“二拍半”が好きだ。速さを上げない決め方も。――だから、答えは今日はいらない。返事が“失敗してもいい権利”の上に乗るまで、持ち帰ってくれていい」
  文乃は、その言葉の上に自分の呼吸を重ねた。
 文乃「わかった。…………返事、預かる」
  それだけ言って立ち上がると、ハンカチを二枚、丁寧に畳んだ。立ったままの約束は風に攫われる。畳める約束は、胸の引き出しに入る。
  ツツジの影の外側、角の先で圭佑は足を止めた。竜頭から遠い手のひらに汗がにじみ、腕時計のガラスを斜めに走る罅が夕陽を吸う。
 (止めた。…………止められた)
  胸の奥で、悔しさではない熱が一度揺れて、静まった。
 文乃「圭佑」
  背にかかった声は乾いていないのに、過剰に湿ってもいない。振り返らずに、彼は片手だけ上げた。
 文乃「了解」
  視聴覚室へ戻る廊下の途中、秋徳が壁に新しいメモを貼ったところだった。
 《差分ログ(継続):世界線の微細ズレ、縮小傾向。三分逆行の“残響”は残る。――逃げるほど深くなる/可視化で薄まる》
  圭佑は立ち止まり、紙の端を指の腹で押さえる。
 圭佑「…………見えてきた?」
 圭佑「見えてきた。君が止めたから」
  秋徳はペン先で“可視化で薄まる”の下にもう一行足した。《呼吸=アンカー(文乃)》
 文乃「二拍半、だ」
 文乃「了解」
  生徒会室の前では、啓が返却箱を磨きながら小声で復唱している。
 チャーリー啓「“かわいいの定義=怖がらせない説明”。――今日の追加、“巻き戻し”は“同期事件”に言い換え」
 チャーリー啓「採用」
  江莉奈が鍵束を鳴らし、透明な音を一度だけ響かせた。「圭佑、申告制の件、今のうちに」
  圭佑は頷き、用紙に短く書く。《事案名:黄昏時“同期”試行/回数:三→四/申告:本人》
  ペン先の乾いた音が、時間のかわりに進んだ。
  夕方の通風口から冷たい気配が降りてくる。文乃は視聴覚室の窓辺で台本を閉じ、窓の桟の欠片に目だけ送った。掴めば曇り、離せば光る。今日は、離す。
  豪一郎がドアに手を置き、短く告げる。
 豪一郎「“今日はいらない”って言ったから本当にいらない。けど、明日、稽古前にもう一度だけ、挨拶させて」
 豪一郎「うん。挨拶、なら」
  彼の言葉は押し出さずに置かれ、足元に道が自然にできる。
  読み合わせが再開された。
 秋徳「――『巻き戻しは、優しさの顔をする。でも、私たちの“失敗する権利”まで食べないで』」
  二拍半の“間”の底で、外気が薄く動く。豪一郎は受け、秋徳が「今の“食べないで”半拍戻し→確定」と書く。啓は胸の筒を“オフ”のまま抱え、江莉奈は返却箱の運用表に小さく印をつけた。
  休憩。紙コップの水が配られ、掲示板の前に小さな人だかりができる。
  ――《署名のあるお願い》の列に、新しい紙が一枚増えていた。
  《上演中、撮影を求めないでください。私たちは“普通の速さ”で失敗して、学びます。責任:演劇班》
 秋徳「“求めないでください”って、やっぱり効くね」
  啓がぽつりと言い、秋徳が「観客との対話として有効」と一筆添える。圭佑は半歩だけ位置をずらし、竜頭ではなくテープの端を指で押さえた。
  そのとき、腕時計が、音だけを一つ吐いた。
  ――カチ。
  秒針は十二の位置で止まったまま動かない。けれど、耳はその一音を聞き逃さない。
  圭佑は、ポケットの空っぽを握って、開いた。
 圭佑「…………“同期”の残響」
 圭佑「説明が上手くなった」
  文乃は笑わずに言う。笑わない代わりに、二拍半を胸で数えて、声の高さを整えた。「私、アンカーやるね。舞台でも、今でも」
 文乃「無理はしない」
 文乃「了解」
  夕暮れが夜に寄りかかるころ、窓の外に星の粒が一つだけ滲んだ。小天文台のドームの切れ目は閉じたまま、校庭の砂が白く薄く見える。
  撤収の合図で、コードが巻かれ、レンチが箱に戻る。江莉奈が鍵を回す直前、返却箱に紙が一枚滑り込んだ。
  《“視聴覚室”札の印字、共用PCプリセットで統一を。責任:情報委員》
 文乃「対話の線、広がってる」
  江莉奈はうなずき、透明ファイルのポケットを一つ増やした。
  昇降口へ向かう廊下で、曲がり角の足音が速かった。
 文乃「すみませーん!」
  豪一郎の手が先に出て、速度を奪わず、進路だけを変える。
 豪一郎「廊下は試合会場じゃない」
 豪一郎「は、はい!」
  ぶつからない。怒鳴らない。けれど、伝わる。
  圭佑は半歩だけ位置をずらし、道を空けた。竜頭には触れない。触れない代わりに、“今ここ”のほつれをまっすぐ直す。
  校門の影で、二人の影が二秒だけ重なった。
 豪一郎「送ろうか」
 豪一郎「いらない。偶然で会えるなら、それで」
 豪一郎「了解」
  それでも文乃は、ひとつだけ付け加えた。
 文乃「――“止めてくれて、ありがとう”は言わないね。止めるのは、あなた自身だから。私は“選び直すのを、一緒に数える”だけ」
 文乃「…………了解」
  圭佑は視線を上げ、乾いた笑いも足さずに言葉だけを置いた。「二拍半」
  夜。
  窓の桟の欠片を掌にのせ、文乃は二拍半を胸で数えた。掴めば曇り、離せば光る。今日は、離す。机の右上には置かない。
  枕元の腕時計は、秒針が十二で止まったまま、薄く星明かりを拾っている。
  ――カチ。
  音が、また一つ。針は動かない。罅は、ほんの気のせいほどに長く見える。
  スマホが震えた。
 《世界線残響、明朝まで監視。アンカー=二拍半、継続で》秋徳
 《了解。二拍半=呼吸》文乃
 《“かわいい”は“怖がらせない説明”。明日の放送、台本書き直す》啓
 《客席導線、朝いち増し貼り。廊下は試合会場じゃない》豪一郎
  送信の青が消え、部屋の温度が夜の目盛りに落ち着いた。
  同じころ、圭佑の部屋。
  机の上、申告用紙の控えが一枚だけ光を吸っている。
  ――事案名:黄昏時“同期”試行/回数:四/申告:本人
  彼は腕時計を外し、机の中央に置いた。竜頭に触れない。触れない代わりに、指先で紙の端を押さえ、声に出さずに言う。
 文乃「…………了解。今日は、何もしない」
  次の瞬間、秒針は動かなかった。けれど、罅が、ほんのわずかに音もなく伸びた。
  光を飲み、夜を拒むような暗い線。
  選び直す練習の、その上に。