小天文台のドームは、校舎から坂を七分上った先にある。丸い屋根の切れ目が夜空の黒に細く開き、白い筒がそこから星の筋を覗いていた。吐く息は白くなるほどではないけれど、手すりの金属は指先の汗を薄く奪う。江莉奈が鍵束を胸の前で鳴らし、「二十二時で完全施錠。飲食は外。暗順応を壊すライトはオフ」と淡々と線を引く。啓は胸の“かわいい検出器”を、今日は素直に鞄の奥へしまった。
レンズのそばで、秋徳が方位を確かめる。豪一郎はドームの回転ハンドルを、力を入れすぎない角度で回す。文乃はその背中越しに、夜の布の目を指でなぞるみたいに空を見た。雲は少ない。街の明かりは遠い。
文乃「…………天頂、いいね」
豪一郎がハンドルを止め、圭佑が接眼部を覗く。腕時計のガラスに細い白い線が一筋、星の光で浮き上がっては消えた。竜頭に行きかけた指は、今日も触れない。代わりに、ピントリングを“普通の速さ”で回す。
圭佑「順番にどうぞ」
江莉奈が列を作るよう手で示し、啓が「星座アプリはオフ!」と自分に言い聞かせる。
江莉奈「こんなに暗いの、久しぶりかも」
文乃は目を細める。暗さに頼る場所では、言葉の角も丸くなる。それでも、言うべきことだけは残る。
視野の端で、古い掲示板の端に細い紙片が一枚。茶色くなった糊の上に、滲んだ文字。
――《隕石片展示 昭和××年》。
ドームのガラスケースに、白い欠片がひとつ。月の代わりに蛍光灯に照らされて、ほんの少しだけ緑を孕んでいる。
江莉奈「それ、正式名称は“コンドライト”。だけど昔の地元の人は“ムーンジェイド”って呼んだらしい」
啓が小声で解説する。
チャーリー啓「“ムーンジェイド”」
文乃は、声にしてから掌をひらく。掴めば曇り、離せば光る――その法則が、ここではずっと昔から展示という形で続いていたのだと思う。
文乃「…………昔話、していい?」
ガラスケースの前で圭佑がぽつりと言った。視線は欠片に落として、言葉は空に置くみたいに。
圭佑「祖母が、ここに来るのが好きでさ。小学生の頃、夏休みに何度か連れて来られた。ドームを回すときの音が“宇宙のドア”みたいって笑ってて…………。――震災のあと、一度だけ、祖母が“失くしたものは全部戻らないよ”って言った」
言いながら、彼は竜頭を見ない。
圭佑「俺、あの時、何かを元に戻す方法があるはずって、ずっと考えてた。物を元に、時間を元に、人の気持ちを元に。で、最短で“自分の手で”やろうとする癖が、たぶんそこで固まった」
圭佑「“自分の手”で、ね」
文乃は、接眼部から目を外した。「私、手放す話をしたい。…………手放すのは、投げ捨てることとは違うよ。掴む強さが十分にある人ほど、丁寧に置ける」
ドームの外で風鈴のような金属音が一度鳴る。誰かの鍵束が、手袋に当たっただけだ。圭佑はそこに“合図”を見ようとした癖を、すぐに棚に戻すように胸の奥で整理した。
圭佑「手放すのが上手な人は、自分の拍を数えるのが上手い」
文乃は言葉を続ける。「二拍。二拍半。吸って、置いて、吐いて。――“戻す”よりも先に、“受け止める”」
文乃「練習、する」
文乃「“了解”の方が好き」
彼は短く笑った。笑いは小さく、湿りすぎない。
交代で接眼部を覗き、星の群れが滲むたびに誰かの「おお」が小さく重なる。啓は口を固く結んで“かわいい音”を封じ、秋徳はレンズの端を柔らかい布で一拭きするたびに「今ここ」を確認するようにうなずいた。豪一郎はドームの回転を必要以上に速めず、江莉奈は時計を確認しつつ「あと二十分」を合図する。
豪一郎「…………祖母の話、続けていい?」
圭佑は空の深さを手で測るみたいに両手を開いて、指をゆっくり閉じた。「震災の夜、停電して真っ暗で、祖母の庭だけ星が異常に近く見えた。怖さより先に、星がきれいだって思って、それを思った自分に罪悪感が出てきた。祖母は“いいよ”って言った。『怖いの中にきれいが混ざるのは、人の正常。どっちもあるのが普通』って。…………その夜から、俺、消えたものを数えるより、数え終わって残ったものを集める練習を、したことに、今はしてる」
圭佑「“今はしてる”」
文乃はその時点で、彼の言い回しに小さく頷いた。過去形にしないで、現在進行にする。変わり続ける余地を置く。
ドームの隅、ガラスケースの前に二人で立つ。文乃は腰をかがめ、ケースの縁に指を置かないように距離を測る。
文乃「この欠片、触れないけど、触れ方は想像できる。掴めば曇る、離せば光る。…………ねえ、もし“願いを食べる石”がほんとにあるなら、私たちは何を差し出す?」
圭佑「俺は願いを差し出さない」
文乃「うん。じゃあ、別のもの。――“執着の使い方”は、差し出してもいい?」
圭佑は、時間を巻き戻す代わりに、言葉を少し前へ押し出す。
圭佑「練習の仕方、差し出す」
圭佑「了解」
夜は、ゆっくり進む。ドームの切れ目から覗く黒の濃度が、少しだけ変わる。
圭佑「そろそろ片付け」
江莉奈の合図で、啓が鞄から“怖くない光”の小さいランプを出す。赤に近い温度の光が、床の足元だけを薄く照らす。秋徳はレンズの蓋を閉め、豪一郎がドームの隙間を静かに塞ぐ。
階段へ向かいかけた時、圭佑の腕に、微かな“始まりの振動”が触れた。
――ピッ、ピッ、ピッ…………。
坂の下の公園から、整備された時報の電子音が、夜気の中で薄く伝わってくる。二十二時、ちょうど。
腕時計のガラスの白い線が、星の逆光でまぶしい刃物みたいに一瞬だけ光った。
秒針が、勝手に、十二の位置へ走った。
長針と短針も、追いかけるみたいに一拍遅れて――“本来の位置”へ揃う。
圭佑の指は竜頭に触れない。触れないのに、針は動く。
誰も何も押していないのに、時報だけが、時計の意志に見えた。
文乃は、息を吸って、二拍半を置く。
文乃「…………今、触ってないよね」
文乃「触ってない」
圭佑の声は、低くない。ぶつけてもいない。けれど、芯はあった。
啓が無意識に胸の筒を抱え、江莉奈が一歩だけ近づく。豪一郎はドームのハンドルから手を離し、秋徳は視線を文字盤に固定した。
秋徳「“時報同期”」
秋徳の口から、感情の少ない語が落ちる。「――意図せず。要経過観察」
秒針は、そこから先へ進まなかった。
十二で止まったまま、星の光を拾って静かに光る。
掴めば曇り、手放せば光る――の、どちらでもない色で。
圭佑は、竜頭に行きかけた手を、ポケットの内側で握って、開いた。
圭佑「…………了解。今日は、何もしない」
圭佑「“何もしない”を選ぶの、上手くなった」
文乃は微笑む。笑いは小さく、湿っていない。
文乃「下りよう。階段、暗いから一列で」
江莉奈が段取りを置くと、豪一郎が先頭に立ち、啓が最後尾で“怖くない光”を足元に落とした。
ドームの扉が閉まる直前、ガラスケースの白い欠片が、ほんのわずかに明るさを増したように見えた。
――気のせい、で片づけるには、少しだけ胸に残る。
階段の踊り場で一度、全員が黙った。耳が夜の温度に慣れて、遠い犬の声と、落ち葉が一枚だけ滑る音が聞こえる。江莉奈が時計を見て、短く合図した。
江莉奈「観測ログ、置く。二十二時ちょうど、外部の時報と同時に、圭佑の腕時計が“自動で整時”。当人の操作なし。以後、秒針は十二で停止。――要経過観察」
江莉奈「“怖がらせないで”運用にのっとり、今日は“何もしない”で帰る」
豪一郎が言い、ドームの鍵を確認する。「転倒注意。下りは一列、三歩間隔」
豪一郎「了解」
返事の重なりは小さいが、足音のリズムはそろった。啓は鞄の中のランプを両手で抱え、秋徳は段差の色の薄いところだけを静かに指差す。文乃は二拍半の“間”を胸の奥に置き直し、最後尾で息をそろえた。
坂を下りきると、学校のフェンスの向こうに自販機の白い灯りが二つ。啓が財布を出しかけて、即座に首を振った。「カフェインは寝つきの敵。今日は湯冷まし」
チャーリー啓「健康オタクの宣言は“かわいい”に分類」
秋徳が手帳に一行足し、啓は胸を張る。緊張は、その分だけ解けた。
校門の前でいったん解散。江莉奈は「ログは私が預かる。時計は本人管理で」と改めて線を引き、豪一郎は「明日の朝、脚立の固定をもう一度見る」と言って帰路を示す。四方へ分かれる足音のなか、文乃と圭佑だけが二秒ほど並んだ。
圭佑「…………送ろうか」
圭佑「いらない。偶然で会えるなら、それで」
圭佑「了解」
それだけで離れるつもりだったのに、圭佑はポケットの内側で指を握って、開いた。「さっきの、時計。俺、触ってない」
圭佑「うん。見てた」
圭佑「触ってないのに“合ってしまう”時刻って、あるんだな」
圭佑「合ってしまう、ね」
文乃は少しだけ笑って、首をかしげた。「私、今日、ひとつだけ時間を“合わせ直した”よ。怖くなりそうなときは、吸って、置いて、吐く。二拍半。――“何もしない”を選ぶ時間」
文乃「…………了解」
圭佑は短く返し、竜頭から視線を外した。
家に着くと、文乃は窓の桟の白い欠片を掌にのせた。掴めば曇り、離せば光る。今日は、離す。机の右上には置かない。台本の余白に二行だけ書いて、灯りを落とした。“触らないのに、合う時刻がある”。“触れないから、見える光がある”。
翌朝。
朝礼前の視聴覚室は、まだ冷える。豪一郎が脚立の脚を確かめ、クランプをもう一段きつく締めた。「よし」
啓は返却箱のランプを“昼モード”に切り替えてから、昨日の観測ログを覗き込む。「“時報同期・観測1”。次に起きたら“かわいい”の定義を足していい?」
チャーリー啓「定義?」
チャーリー啓「“怖がらせない説明”。起きたことを短い言葉にするって意味」
チャーリー啓「採用」
江莉奈が即答し、白板の隅に小さく“説明=怖がらせない言葉”と書いた。
ホームルーム後、理科室。圭佑は秒針の止まった腕時計を外し、机の真ん中に置いた。竜頭に指は置かない。置かない代わりに、紙の上に書く。“二十二時〇〇分〇〇秒 同期/停止”。ペン先の乾いた音だけが、時間のかわりに進む。
圭佑「――貸して」
文乃が椅子を引き、時計のガラスを手の甲の柔らかい部分で息を曇らせ、すぐに離した。曇りは白く、すぐに退く。
文乃「掴むと曇る、離すと光る。…………ね、光る」
文乃「うん」
圭佑は、息に色があるなら今は透明だと思った。竜頭へ行きかけた手は、机の角で止まる。
午前中の授業は淡々と過ぎた。噂好きの一年が廊下で「時計が勝手に動いたらしい」と囁いたのを、江莉奈がいつもの透明な声でほどく。「勝手じゃない。『同期』。恐怖を煽らない言葉に置き換えるのが、学校のやり方」
江莉奈「“かわいいの定義=怖がらせない説明”、活用例」
啓が嬉しそうにメモし、秋徳が「言い回しの統一、効用大」と横に線を引く。
昼休み、購買帰りの廊下で、圭佑が立ち止まった。掲示板の端に、昨日の謝罪文の隣――新しい紙が一枚。
――《“巻き戻し”を求めないでください。私たちは“普通の速さ”で失敗して、学びます》
――《責任:演劇班》
言葉は、柔らかい。けれど芯がある。
観客A「…………俺に向けても、あるんだろうな」
独り言に、文乃は頷きもしない。かわりに、紙の角を四つ押さえ直した。「観客に向けて、だよ。君も“観客”。――自分の衝動の観客になる練習」
観客A「了解」
圭佑は短く返し、ポケットの内側を握って、開いた。
放課後の読み合わせは、声がよく響いた。二拍半の“間”で空気が整い、豪一郎の肩の角度が観客の“行きと帰り”の道を作る。啓は銀の筒を“オフ”のまま抱え、秋徳は「今の“食べないで”、半拍戻し」とペン先で指示する。
通し終わり、休憩の紙コップが配られると、視聴覚室の外に人影が一つ立った。短い爪、癖のない所作――二年四組。昨日、謝罪文を書いた生徒だ。
二年生「これ、返す先…………」
差し出されたのは、ポラロイドが一枚。祭りの屋台“流れ星チョコ”の透かしがかすかに見える。
二年生「預かる。個人情報、非公開で保管」
江莉奈が透明な音でクリップを留める。「――『怖がらせないで、話したかっただけ』。その一行、ほんとに効いてる」
生徒は小さく会釈し、今度は名前の代わりに“責任:二年四組”とだけメモを残して去った。
夕方、撤収。鍵を回す直前、圭佑のスマホが震えた。豪一郎からだ。
《明日、練習後、時間くれ。――話がある》
胸の奥で、なにかが一度だけ跳ねる。竜頭に行きかけた指が、机の角で止まる。
二年生「…………了解」
独り言は短く、湿りすぎない。
昇降口の影で、二人分の影が二秒重なる。
二年生「送ろうか」
二年生「いらない。偶然で会えるなら、それで」
二年生「了解」
それでも、帰り道の同じ角で、同じタイミングで信号が青に変わる。“触らないのに、合ってしまう”時刻みたいに。
夜。
窓の桟の欠片を掌にのせて、文乃は二拍半を胸で数える。掴めば曇る、離せば光る。今日は、離す。
机の右上には置かない。置かないことで、胸の音が落ち着く。
布団にもぐる直前、スマホがまた短く震えた。
《明日、晴れ。開場導線、朝いちで最終》江莉奈
《了解。二拍半=呼吸一回分》と返す。
送信の青が消え、部屋がゆっくり夜の目盛りへ傾く。
そのとき、枕元の腕時計――秒針は、まだ十二で止まったまま――が、かすかに鳴った。
――カチ。
針は動かない。けれど、音だけが一つ。
気のせい、にして眠るには、少しだけ胸に残る。
朝の渡り廊下は、冷たい光が板の目にまっすぐ落ちていた。視聴覚室の扉の前で、江莉奈が鍵束を鳴らし、「開場前チェック、五分で行くよ」と短く段取りを置く。返却箱の“怖がらせない光”は、啓が磨いたばかりで薄く呼吸している。掲示板には、昨日貼られた「“巻き戻し”を求めないでください」の紙が、角を四つ、透明ピンで留まっていた。
圭佑の腕時計は、相変わらず秒針が十二で止まったままだ。竜頭に触れないかわりに、彼はキャップの溝を“普通の速さ”で噛ませて水を飲む。文乃は二拍半を胸で数えて、喉にぬるい水を通した。掴めば曇り、離せば光る――今日は、離したまま声の支度をする。
一次チェックが終わると、豪一郎からメッセージの主が現れた。柔道着の上に学ランの上着を羽織り、道場の鍵を指先で軽く回す。「十分だけ、時間くれ」。文乃は「いってらっしゃい」と目だけで送り、啓は胸の前で筒を抱きしめて「“かわいい”は留守番」と自分に言い聞かせた。
道場の畳は、朝いちばんの稽古の匂いが薄く残っている。窓から差す光がすりガラスで四角に砕け、壁際の木棚に柔らかな影を作っていた。豪一郎は畳の中央で正座し、圭佑に手で合図する。「受け身、三本。――速さは“普通”で」
一本目。畳の匂いに体を預け、肩から斜めに転がる。
二年生「いまの、過去の自分を“助けに行く”速さだ」
豪一郎は淡々と評する。「次。――“いまの自分の拍”で」
二本目。呼吸の途中で焦りが顔を出しかけ、圭佑は竜頭にいきかけた視線を畳の目に落とした。
圭佑「三本目」
豪一郎は間合いを半歩詰め、「“誰かの二拍半”を支える速さで」と付け加える。
三本目。畳が一瞬だけやわらかくなり、圭佑は“落ちない角度”で床を捉えた。手のひらと肩が小さく鳴り、音より先に呼吸が着地する。
圭佑「――いまのが、たぶん、お前の“普通”だ」
豪一郎は微笑み、言葉の角を丸めないまま置いた。「重いのは悪くない。重さを“押しつける”と執着、重さで“支える”と愛情。違いは、相手の拍に合わせられるかどうか」
圭佑は、竜頭に触れない手を畳の上で握って、開いた。「…………了解」
圭佑「もうひとつ。昨日の天文台――“触ってないのに合う時刻”の話、俺は信じるよ。けど、舞台の上では“説明しない”。怖がらせない言葉に置き換える。そのために、お前は今日、“何もしない”ことを選べ」
圭佑「了解」
豪一郎は立ち上がり、道場の戸を半分だけ開けると、道場の前を走り抜けようとした一年の肩を、速度を奪わず方向だけ変えてやった。「廊下は試合会場じゃない」
豪一郎「は、はい!」
ぶつからない。怒鳴らない。けれど、伝わる。
視聴覚室に戻ると、準備は次の段へ進んでいた。秋徳が“誘導テープ、曲がり角二重貼り”にチェックを入れ、江莉奈は「返却箱の回収は十七時。運用は私」と確認する。啓はランプのタイマーを指で弾き、「かわいいの定義=“怖がらせない説明”」と小声で復唱した。
秋徳「定義、暫定採用」
秋徳が短く言い、文乃は笑いを喉の奥で止めた。
通し稽古が始まる。出の足は“いち、に”の声で揃い、袖の小道具は台の上で“掴めば曇り、離せば光る”を反復する。圭佑は照明の角度を三度上げ、竜頭に触れない代わりに、いまある光を一段だけ柔らかくした。
秋徳「――『巻き戻しは、優しさの顔をする。でも、私たちの“失敗する権利”まで食べないで』」
文乃が二拍半を置くと、空気がゆっくり沈んでから戻ってくる。豪一郎の肩は観客の“行きと帰り”を自然に作り、秋徳はメモに「“食べないで”半拍戻し→確定」と書いた。
小休止。紙コップが配られ、掲示板の前が少しざわつく。二年四組の謝罪文の下に、新しい紙が一枚。
――《返す先はこちら。怖がらせないで、話したかっただけ》
――《責任:二年四組》
二年生「いい線」
江莉奈が角を四つ押さえ、透明ピンを一つ足す。「“名札みたいに”貼ってくれると、呼吸が揃う」
そのとき、視聴覚室の脇を走っていた一年が、巻き取り不足のコードの“浮き”につまづきかけた。
一年生「止め」
豪一郎の声と同時に、圭佑の身体が“普通の速さ”で動く。走らない。跳ばない。浮いたコードを手の甲でそっと押さえ、足が踏む前に位置を直す。
豪一郎「ナイス」
豪一郎が一言だけ置き、秋徳は「固定用クリップ追加」とボードに書く。
豪一郎「――ありがとう」
文乃は、彼の横顔にだけ届く声で言った。「私の“失敗する権利”まで食べないでくれて」
豪一郎「俺は、“君の二拍半”を支える練習をしてる」
圭佑は乾いた笑いも足さずに、ただ言葉だけを置いた。
午後の二本目の通しが終わるころ、生徒会室前の返却箱に小さな封筒が落ちた。啓が「光は添えるだけ」と言いながら回収を見守り、江莉奈が鍵を回して透明な音を鳴らす。
中には、薄い名刺大の紙。
――《“視聴覚室”札の印字サンプル。共用PCプリセット/トンボあり。責任:情報委員》
豪一郎「対話の線、広がってる」
江莉奈はうなずき、クリアファイルのポケットを一枚増やした。
夕暮れ前、豪一郎が圭佑を廊下に呼び出した。窓の外は白い雲が低く、校庭の砂が薄く光る。
豪一郎「――重たい話をする」
豪一郎は腕を組まず、ただ窓枠に背をあずける。「お前の“重さ”は、たぶん、強さだ。だけど、強さは“相手の速度を上げるため”じゃなく、“相手の速度に踏ん張るため”に使え。…………お前が押し上げてしまうと、文乃は“やり直さない権利”を奪われる」
圭佑は、竜頭に触れない手でポケットの中の空っぽを握り、開いた。「了解。――俺は、下で支える」
圭佑「下も横も、時々は後ろも。重さは、置きどころ」
豪一郎はそう言って、窓の鍵を一度だけ確かめた。「じゃ、戻るぞ。二本目の“行きと帰り”、お前の照明で変わる」
終礼のチャイムが遠く鳴り、視聴覚室の鍵が回る段になる。啓が胸の筒をケースにしまい、秋徳は議事録の最後に“本日:無事故”と書き加える。江莉奈は「返却箱、消灯タイマー二十一時」を指差し確認し、豪一郎が「明朝、誘導テープのはがれ点検」を自分に課した。
廊下の曲がり角の足音は、今日も速い。
圭佑「すみませーん!」
豪一郎の手が先に出て、速度を奪わず進路だけ変える。
豪一郎「廊下は試合会場じゃない」
豪一郎「は、はい!」
ぶつからない。怒鳴らない。けれど、伝わる。
圭佑は半歩だけ位置をずらし、道を空ける。竜頭には触れない。触れない代わりに、“いまここ”をまっすぐ直す。
昇降口の影で、二人分の影が二秒だけ重なった。
豪一郎「送ろうか」
豪一郎「いらない。偶然で会えるなら、それで」
豪一郎「了解」
それでも、圭佑は言葉を一つだけ足した。
圭佑「…………俺の願いは、差し出さない。けど、“執着の使い方”は差し出す。君の二拍半の下で、踏ん張る」
圭佑「守らないで、支えて」
圭佑「了解」
笑いは小さく、湿りすぎない。文乃は頷き、同じ方向へ歩き出す角で、わざと別の道を選んだ。偶然で会えるなら、それでいい。
夜。
窓の桟の白い欠片を掌にのせ、文乃は二拍半を胸で数える。掴めば曇り、離せば光る。今日は、離す。机の右上には置かない。
枕元の腕時計――秒針はまだ十二で止まったまま――が、かすかに鳴った。
――カチ。
針は動かない。けれど、音だけが一つ。
“触らないのに合う時刻”があるように、“触れないから見える光”もある。
目を閉じる直前、スマホが震えた。
《明朝、開場導線最終点検。返却箱回収は十七時。観客へのお願い掲示、角四点留め確認。》江莉奈
《了解。二拍半=呼吸一回ぶん》と返す。
送信の青が消え、窓の桟の小さな光が夜の布の目にそっと馴染む。
ムーンジェイドは願いを食う――そのコピーは、もう掲示板にはない。代わりにあるのは、名札みたいな“お願い”と、“怖がらせない光”。
重たい愛は、形を変えて、支える力になる。
そして、「やり直さない練習」を選ぶ誰かの速度に合わせて、今日も、普通の速さで一日が閉じた。
レンズのそばで、秋徳が方位を確かめる。豪一郎はドームの回転ハンドルを、力を入れすぎない角度で回す。文乃はその背中越しに、夜の布の目を指でなぞるみたいに空を見た。雲は少ない。街の明かりは遠い。
文乃「…………天頂、いいね」
豪一郎がハンドルを止め、圭佑が接眼部を覗く。腕時計のガラスに細い白い線が一筋、星の光で浮き上がっては消えた。竜頭に行きかけた指は、今日も触れない。代わりに、ピントリングを“普通の速さ”で回す。
圭佑「順番にどうぞ」
江莉奈が列を作るよう手で示し、啓が「星座アプリはオフ!」と自分に言い聞かせる。
江莉奈「こんなに暗いの、久しぶりかも」
文乃は目を細める。暗さに頼る場所では、言葉の角も丸くなる。それでも、言うべきことだけは残る。
視野の端で、古い掲示板の端に細い紙片が一枚。茶色くなった糊の上に、滲んだ文字。
――《隕石片展示 昭和××年》。
ドームのガラスケースに、白い欠片がひとつ。月の代わりに蛍光灯に照らされて、ほんの少しだけ緑を孕んでいる。
江莉奈「それ、正式名称は“コンドライト”。だけど昔の地元の人は“ムーンジェイド”って呼んだらしい」
啓が小声で解説する。
チャーリー啓「“ムーンジェイド”」
文乃は、声にしてから掌をひらく。掴めば曇り、離せば光る――その法則が、ここではずっと昔から展示という形で続いていたのだと思う。
文乃「…………昔話、していい?」
ガラスケースの前で圭佑がぽつりと言った。視線は欠片に落として、言葉は空に置くみたいに。
圭佑「祖母が、ここに来るのが好きでさ。小学生の頃、夏休みに何度か連れて来られた。ドームを回すときの音が“宇宙のドア”みたいって笑ってて…………。――震災のあと、一度だけ、祖母が“失くしたものは全部戻らないよ”って言った」
言いながら、彼は竜頭を見ない。
圭佑「俺、あの時、何かを元に戻す方法があるはずって、ずっと考えてた。物を元に、時間を元に、人の気持ちを元に。で、最短で“自分の手で”やろうとする癖が、たぶんそこで固まった」
圭佑「“自分の手”で、ね」
文乃は、接眼部から目を外した。「私、手放す話をしたい。…………手放すのは、投げ捨てることとは違うよ。掴む強さが十分にある人ほど、丁寧に置ける」
ドームの外で風鈴のような金属音が一度鳴る。誰かの鍵束が、手袋に当たっただけだ。圭佑はそこに“合図”を見ようとした癖を、すぐに棚に戻すように胸の奥で整理した。
圭佑「手放すのが上手な人は、自分の拍を数えるのが上手い」
文乃は言葉を続ける。「二拍。二拍半。吸って、置いて、吐いて。――“戻す”よりも先に、“受け止める”」
文乃「練習、する」
文乃「“了解”の方が好き」
彼は短く笑った。笑いは小さく、湿りすぎない。
交代で接眼部を覗き、星の群れが滲むたびに誰かの「おお」が小さく重なる。啓は口を固く結んで“かわいい音”を封じ、秋徳はレンズの端を柔らかい布で一拭きするたびに「今ここ」を確認するようにうなずいた。豪一郎はドームの回転を必要以上に速めず、江莉奈は時計を確認しつつ「あと二十分」を合図する。
豪一郎「…………祖母の話、続けていい?」
圭佑は空の深さを手で測るみたいに両手を開いて、指をゆっくり閉じた。「震災の夜、停電して真っ暗で、祖母の庭だけ星が異常に近く見えた。怖さより先に、星がきれいだって思って、それを思った自分に罪悪感が出てきた。祖母は“いいよ”って言った。『怖いの中にきれいが混ざるのは、人の正常。どっちもあるのが普通』って。…………その夜から、俺、消えたものを数えるより、数え終わって残ったものを集める練習を、したことに、今はしてる」
圭佑「“今はしてる”」
文乃はその時点で、彼の言い回しに小さく頷いた。過去形にしないで、現在進行にする。変わり続ける余地を置く。
ドームの隅、ガラスケースの前に二人で立つ。文乃は腰をかがめ、ケースの縁に指を置かないように距離を測る。
文乃「この欠片、触れないけど、触れ方は想像できる。掴めば曇る、離せば光る。…………ねえ、もし“願いを食べる石”がほんとにあるなら、私たちは何を差し出す?」
圭佑「俺は願いを差し出さない」
文乃「うん。じゃあ、別のもの。――“執着の使い方”は、差し出してもいい?」
圭佑は、時間を巻き戻す代わりに、言葉を少し前へ押し出す。
圭佑「練習の仕方、差し出す」
圭佑「了解」
夜は、ゆっくり進む。ドームの切れ目から覗く黒の濃度が、少しだけ変わる。
圭佑「そろそろ片付け」
江莉奈の合図で、啓が鞄から“怖くない光”の小さいランプを出す。赤に近い温度の光が、床の足元だけを薄く照らす。秋徳はレンズの蓋を閉め、豪一郎がドームの隙間を静かに塞ぐ。
階段へ向かいかけた時、圭佑の腕に、微かな“始まりの振動”が触れた。
――ピッ、ピッ、ピッ…………。
坂の下の公園から、整備された時報の電子音が、夜気の中で薄く伝わってくる。二十二時、ちょうど。
腕時計のガラスの白い線が、星の逆光でまぶしい刃物みたいに一瞬だけ光った。
秒針が、勝手に、十二の位置へ走った。
長針と短針も、追いかけるみたいに一拍遅れて――“本来の位置”へ揃う。
圭佑の指は竜頭に触れない。触れないのに、針は動く。
誰も何も押していないのに、時報だけが、時計の意志に見えた。
文乃は、息を吸って、二拍半を置く。
文乃「…………今、触ってないよね」
文乃「触ってない」
圭佑の声は、低くない。ぶつけてもいない。けれど、芯はあった。
啓が無意識に胸の筒を抱え、江莉奈が一歩だけ近づく。豪一郎はドームのハンドルから手を離し、秋徳は視線を文字盤に固定した。
秋徳「“時報同期”」
秋徳の口から、感情の少ない語が落ちる。「――意図せず。要経過観察」
秒針は、そこから先へ進まなかった。
十二で止まったまま、星の光を拾って静かに光る。
掴めば曇り、手放せば光る――の、どちらでもない色で。
圭佑は、竜頭に行きかけた手を、ポケットの内側で握って、開いた。
圭佑「…………了解。今日は、何もしない」
圭佑「“何もしない”を選ぶの、上手くなった」
文乃は微笑む。笑いは小さく、湿っていない。
文乃「下りよう。階段、暗いから一列で」
江莉奈が段取りを置くと、豪一郎が先頭に立ち、啓が最後尾で“怖くない光”を足元に落とした。
ドームの扉が閉まる直前、ガラスケースの白い欠片が、ほんのわずかに明るさを増したように見えた。
――気のせい、で片づけるには、少しだけ胸に残る。
階段の踊り場で一度、全員が黙った。耳が夜の温度に慣れて、遠い犬の声と、落ち葉が一枚だけ滑る音が聞こえる。江莉奈が時計を見て、短く合図した。
江莉奈「観測ログ、置く。二十二時ちょうど、外部の時報と同時に、圭佑の腕時計が“自動で整時”。当人の操作なし。以後、秒針は十二で停止。――要経過観察」
江莉奈「“怖がらせないで”運用にのっとり、今日は“何もしない”で帰る」
豪一郎が言い、ドームの鍵を確認する。「転倒注意。下りは一列、三歩間隔」
豪一郎「了解」
返事の重なりは小さいが、足音のリズムはそろった。啓は鞄の中のランプを両手で抱え、秋徳は段差の色の薄いところだけを静かに指差す。文乃は二拍半の“間”を胸の奥に置き直し、最後尾で息をそろえた。
坂を下りきると、学校のフェンスの向こうに自販機の白い灯りが二つ。啓が財布を出しかけて、即座に首を振った。「カフェインは寝つきの敵。今日は湯冷まし」
チャーリー啓「健康オタクの宣言は“かわいい”に分類」
秋徳が手帳に一行足し、啓は胸を張る。緊張は、その分だけ解けた。
校門の前でいったん解散。江莉奈は「ログは私が預かる。時計は本人管理で」と改めて線を引き、豪一郎は「明日の朝、脚立の固定をもう一度見る」と言って帰路を示す。四方へ分かれる足音のなか、文乃と圭佑だけが二秒ほど並んだ。
圭佑「…………送ろうか」
圭佑「いらない。偶然で会えるなら、それで」
圭佑「了解」
それだけで離れるつもりだったのに、圭佑はポケットの内側で指を握って、開いた。「さっきの、時計。俺、触ってない」
圭佑「うん。見てた」
圭佑「触ってないのに“合ってしまう”時刻って、あるんだな」
圭佑「合ってしまう、ね」
文乃は少しだけ笑って、首をかしげた。「私、今日、ひとつだけ時間を“合わせ直した”よ。怖くなりそうなときは、吸って、置いて、吐く。二拍半。――“何もしない”を選ぶ時間」
文乃「…………了解」
圭佑は短く返し、竜頭から視線を外した。
家に着くと、文乃は窓の桟の白い欠片を掌にのせた。掴めば曇り、離せば光る。今日は、離す。机の右上には置かない。台本の余白に二行だけ書いて、灯りを落とした。“触らないのに、合う時刻がある”。“触れないから、見える光がある”。
翌朝。
朝礼前の視聴覚室は、まだ冷える。豪一郎が脚立の脚を確かめ、クランプをもう一段きつく締めた。「よし」
啓は返却箱のランプを“昼モード”に切り替えてから、昨日の観測ログを覗き込む。「“時報同期・観測1”。次に起きたら“かわいい”の定義を足していい?」
チャーリー啓「定義?」
チャーリー啓「“怖がらせない説明”。起きたことを短い言葉にするって意味」
チャーリー啓「採用」
江莉奈が即答し、白板の隅に小さく“説明=怖がらせない言葉”と書いた。
ホームルーム後、理科室。圭佑は秒針の止まった腕時計を外し、机の真ん中に置いた。竜頭に指は置かない。置かない代わりに、紙の上に書く。“二十二時〇〇分〇〇秒 同期/停止”。ペン先の乾いた音だけが、時間のかわりに進む。
圭佑「――貸して」
文乃が椅子を引き、時計のガラスを手の甲の柔らかい部分で息を曇らせ、すぐに離した。曇りは白く、すぐに退く。
文乃「掴むと曇る、離すと光る。…………ね、光る」
文乃「うん」
圭佑は、息に色があるなら今は透明だと思った。竜頭へ行きかけた手は、机の角で止まる。
午前中の授業は淡々と過ぎた。噂好きの一年が廊下で「時計が勝手に動いたらしい」と囁いたのを、江莉奈がいつもの透明な声でほどく。「勝手じゃない。『同期』。恐怖を煽らない言葉に置き換えるのが、学校のやり方」
江莉奈「“かわいいの定義=怖がらせない説明”、活用例」
啓が嬉しそうにメモし、秋徳が「言い回しの統一、効用大」と横に線を引く。
昼休み、購買帰りの廊下で、圭佑が立ち止まった。掲示板の端に、昨日の謝罪文の隣――新しい紙が一枚。
――《“巻き戻し”を求めないでください。私たちは“普通の速さ”で失敗して、学びます》
――《責任:演劇班》
言葉は、柔らかい。けれど芯がある。
観客A「…………俺に向けても、あるんだろうな」
独り言に、文乃は頷きもしない。かわりに、紙の角を四つ押さえ直した。「観客に向けて、だよ。君も“観客”。――自分の衝動の観客になる練習」
観客A「了解」
圭佑は短く返し、ポケットの内側を握って、開いた。
放課後の読み合わせは、声がよく響いた。二拍半の“間”で空気が整い、豪一郎の肩の角度が観客の“行きと帰り”の道を作る。啓は銀の筒を“オフ”のまま抱え、秋徳は「今の“食べないで”、半拍戻し」とペン先で指示する。
通し終わり、休憩の紙コップが配られると、視聴覚室の外に人影が一つ立った。短い爪、癖のない所作――二年四組。昨日、謝罪文を書いた生徒だ。
二年生「これ、返す先…………」
差し出されたのは、ポラロイドが一枚。祭りの屋台“流れ星チョコ”の透かしがかすかに見える。
二年生「預かる。個人情報、非公開で保管」
江莉奈が透明な音でクリップを留める。「――『怖がらせないで、話したかっただけ』。その一行、ほんとに効いてる」
生徒は小さく会釈し、今度は名前の代わりに“責任:二年四組”とだけメモを残して去った。
夕方、撤収。鍵を回す直前、圭佑のスマホが震えた。豪一郎からだ。
《明日、練習後、時間くれ。――話がある》
胸の奥で、なにかが一度だけ跳ねる。竜頭に行きかけた指が、机の角で止まる。
二年生「…………了解」
独り言は短く、湿りすぎない。
昇降口の影で、二人分の影が二秒重なる。
二年生「送ろうか」
二年生「いらない。偶然で会えるなら、それで」
二年生「了解」
それでも、帰り道の同じ角で、同じタイミングで信号が青に変わる。“触らないのに、合ってしまう”時刻みたいに。
夜。
窓の桟の欠片を掌にのせて、文乃は二拍半を胸で数える。掴めば曇る、離せば光る。今日は、離す。
机の右上には置かない。置かないことで、胸の音が落ち着く。
布団にもぐる直前、スマホがまた短く震えた。
《明日、晴れ。開場導線、朝いちで最終》江莉奈
《了解。二拍半=呼吸一回分》と返す。
送信の青が消え、部屋がゆっくり夜の目盛りへ傾く。
そのとき、枕元の腕時計――秒針は、まだ十二で止まったまま――が、かすかに鳴った。
――カチ。
針は動かない。けれど、音だけが一つ。
気のせい、にして眠るには、少しだけ胸に残る。
朝の渡り廊下は、冷たい光が板の目にまっすぐ落ちていた。視聴覚室の扉の前で、江莉奈が鍵束を鳴らし、「開場前チェック、五分で行くよ」と短く段取りを置く。返却箱の“怖がらせない光”は、啓が磨いたばかりで薄く呼吸している。掲示板には、昨日貼られた「“巻き戻し”を求めないでください」の紙が、角を四つ、透明ピンで留まっていた。
圭佑の腕時計は、相変わらず秒針が十二で止まったままだ。竜頭に触れないかわりに、彼はキャップの溝を“普通の速さ”で噛ませて水を飲む。文乃は二拍半を胸で数えて、喉にぬるい水を通した。掴めば曇り、離せば光る――今日は、離したまま声の支度をする。
一次チェックが終わると、豪一郎からメッセージの主が現れた。柔道着の上に学ランの上着を羽織り、道場の鍵を指先で軽く回す。「十分だけ、時間くれ」。文乃は「いってらっしゃい」と目だけで送り、啓は胸の前で筒を抱きしめて「“かわいい”は留守番」と自分に言い聞かせた。
道場の畳は、朝いちばんの稽古の匂いが薄く残っている。窓から差す光がすりガラスで四角に砕け、壁際の木棚に柔らかな影を作っていた。豪一郎は畳の中央で正座し、圭佑に手で合図する。「受け身、三本。――速さは“普通”で」
一本目。畳の匂いに体を預け、肩から斜めに転がる。
二年生「いまの、過去の自分を“助けに行く”速さだ」
豪一郎は淡々と評する。「次。――“いまの自分の拍”で」
二本目。呼吸の途中で焦りが顔を出しかけ、圭佑は竜頭にいきかけた視線を畳の目に落とした。
圭佑「三本目」
豪一郎は間合いを半歩詰め、「“誰かの二拍半”を支える速さで」と付け加える。
三本目。畳が一瞬だけやわらかくなり、圭佑は“落ちない角度”で床を捉えた。手のひらと肩が小さく鳴り、音より先に呼吸が着地する。
圭佑「――いまのが、たぶん、お前の“普通”だ」
豪一郎は微笑み、言葉の角を丸めないまま置いた。「重いのは悪くない。重さを“押しつける”と執着、重さで“支える”と愛情。違いは、相手の拍に合わせられるかどうか」
圭佑は、竜頭に触れない手を畳の上で握って、開いた。「…………了解」
圭佑「もうひとつ。昨日の天文台――“触ってないのに合う時刻”の話、俺は信じるよ。けど、舞台の上では“説明しない”。怖がらせない言葉に置き換える。そのために、お前は今日、“何もしない”ことを選べ」
圭佑「了解」
豪一郎は立ち上がり、道場の戸を半分だけ開けると、道場の前を走り抜けようとした一年の肩を、速度を奪わず方向だけ変えてやった。「廊下は試合会場じゃない」
豪一郎「は、はい!」
ぶつからない。怒鳴らない。けれど、伝わる。
視聴覚室に戻ると、準備は次の段へ進んでいた。秋徳が“誘導テープ、曲がり角二重貼り”にチェックを入れ、江莉奈は「返却箱の回収は十七時。運用は私」と確認する。啓はランプのタイマーを指で弾き、「かわいいの定義=“怖がらせない説明”」と小声で復唱した。
秋徳「定義、暫定採用」
秋徳が短く言い、文乃は笑いを喉の奥で止めた。
通し稽古が始まる。出の足は“いち、に”の声で揃い、袖の小道具は台の上で“掴めば曇り、離せば光る”を反復する。圭佑は照明の角度を三度上げ、竜頭に触れない代わりに、いまある光を一段だけ柔らかくした。
秋徳「――『巻き戻しは、優しさの顔をする。でも、私たちの“失敗する権利”まで食べないで』」
文乃が二拍半を置くと、空気がゆっくり沈んでから戻ってくる。豪一郎の肩は観客の“行きと帰り”を自然に作り、秋徳はメモに「“食べないで”半拍戻し→確定」と書いた。
小休止。紙コップが配られ、掲示板の前が少しざわつく。二年四組の謝罪文の下に、新しい紙が一枚。
――《返す先はこちら。怖がらせないで、話したかっただけ》
――《責任:二年四組》
二年生「いい線」
江莉奈が角を四つ押さえ、透明ピンを一つ足す。「“名札みたいに”貼ってくれると、呼吸が揃う」
そのとき、視聴覚室の脇を走っていた一年が、巻き取り不足のコードの“浮き”につまづきかけた。
一年生「止め」
豪一郎の声と同時に、圭佑の身体が“普通の速さ”で動く。走らない。跳ばない。浮いたコードを手の甲でそっと押さえ、足が踏む前に位置を直す。
豪一郎「ナイス」
豪一郎が一言だけ置き、秋徳は「固定用クリップ追加」とボードに書く。
豪一郎「――ありがとう」
文乃は、彼の横顔にだけ届く声で言った。「私の“失敗する権利”まで食べないでくれて」
豪一郎「俺は、“君の二拍半”を支える練習をしてる」
圭佑は乾いた笑いも足さずに、ただ言葉だけを置いた。
午後の二本目の通しが終わるころ、生徒会室前の返却箱に小さな封筒が落ちた。啓が「光は添えるだけ」と言いながら回収を見守り、江莉奈が鍵を回して透明な音を鳴らす。
中には、薄い名刺大の紙。
――《“視聴覚室”札の印字サンプル。共用PCプリセット/トンボあり。責任:情報委員》
豪一郎「対話の線、広がってる」
江莉奈はうなずき、クリアファイルのポケットを一枚増やした。
夕暮れ前、豪一郎が圭佑を廊下に呼び出した。窓の外は白い雲が低く、校庭の砂が薄く光る。
豪一郎「――重たい話をする」
豪一郎は腕を組まず、ただ窓枠に背をあずける。「お前の“重さ”は、たぶん、強さだ。だけど、強さは“相手の速度を上げるため”じゃなく、“相手の速度に踏ん張るため”に使え。…………お前が押し上げてしまうと、文乃は“やり直さない権利”を奪われる」
圭佑は、竜頭に触れない手でポケットの中の空っぽを握り、開いた。「了解。――俺は、下で支える」
圭佑「下も横も、時々は後ろも。重さは、置きどころ」
豪一郎はそう言って、窓の鍵を一度だけ確かめた。「じゃ、戻るぞ。二本目の“行きと帰り”、お前の照明で変わる」
終礼のチャイムが遠く鳴り、視聴覚室の鍵が回る段になる。啓が胸の筒をケースにしまい、秋徳は議事録の最後に“本日:無事故”と書き加える。江莉奈は「返却箱、消灯タイマー二十一時」を指差し確認し、豪一郎が「明朝、誘導テープのはがれ点検」を自分に課した。
廊下の曲がり角の足音は、今日も速い。
圭佑「すみませーん!」
豪一郎の手が先に出て、速度を奪わず進路だけ変える。
豪一郎「廊下は試合会場じゃない」
豪一郎「は、はい!」
ぶつからない。怒鳴らない。けれど、伝わる。
圭佑は半歩だけ位置をずらし、道を空ける。竜頭には触れない。触れない代わりに、“いまここ”をまっすぐ直す。
昇降口の影で、二人分の影が二秒だけ重なった。
豪一郎「送ろうか」
豪一郎「いらない。偶然で会えるなら、それで」
豪一郎「了解」
それでも、圭佑は言葉を一つだけ足した。
圭佑「…………俺の願いは、差し出さない。けど、“執着の使い方”は差し出す。君の二拍半の下で、踏ん張る」
圭佑「守らないで、支えて」
圭佑「了解」
笑いは小さく、湿りすぎない。文乃は頷き、同じ方向へ歩き出す角で、わざと別の道を選んだ。偶然で会えるなら、それでいい。
夜。
窓の桟の白い欠片を掌にのせ、文乃は二拍半を胸で数える。掴めば曇り、離せば光る。今日は、離す。机の右上には置かない。
枕元の腕時計――秒針はまだ十二で止まったまま――が、かすかに鳴った。
――カチ。
針は動かない。けれど、音だけが一つ。
“触らないのに合う時刻”があるように、“触れないから見える光”もある。
目を閉じる直前、スマホが震えた。
《明朝、開場導線最終点検。返却箱回収は十七時。観客へのお願い掲示、角四点留め確認。》江莉奈
《了解。二拍半=呼吸一回ぶん》と返す。
送信の青が消え、窓の桟の小さな光が夜の布の目にそっと馴染む。
ムーンジェイドは願いを食う――そのコピーは、もう掲示板にはない。代わりにあるのは、名札みたいな“お願い”と、“怖がらせない光”。
重たい愛は、形を変えて、支える力になる。
そして、「やり直さない練習」を選ぶ誰かの速度に合わせて、今日も、普通の速さで一日が閉じた。



