〇生徒会室前・朝。
 対話の線。空間の端が視界に残り、中心が少し広い。
 置かれた道具が、この場の用事を物語る。
 朝一番、生徒会室前の返却箱に薄い紙が一枚、斜めに差し込まれていた。小窓の内側で啓の“怖くない光”がやわらかく灯り、紙の縁に明るさを置く。江莉奈が鍵束を鳴らして小窓を開け、紙をそっと引き出した。
  “対話の線、ひいて。――食べる前に、話したい
  二年四組”
  教卓に集まった四人の視線が、紙の二行で自然に揃った。豪一郎は腕を組まず、ただ立ち位置を半歩だけ引いて場の輪を広げる。秋徳はメモを開き、啓は銀の筒を抱え直してスイッチから指を外す。文乃は深呼吸を一つ、二拍半の“間”を胸に作った。
 文乃「段取り、置きます」
  江莉奈は迷いのない声で言った。「今日の放課後、生徒会室での面談を設定。参加は、私と豪一郎、秋徳。啓は“音を鳴らさない係”。文乃は、“主演の立場からの意見陳述者”として同席をお願いしたい」
 文乃「了解」
  文乃は短く頷いた。自分の“欠片”が絡む話でも、場の中心は“対話”だ。胸の内側で、手放すための呼吸を整える。
  昼休み、視聴覚室での自主練。台本の中の一行――“無署名の恐怖は読者を疲れさせる。札を貼るなら、責任の線も貼って”――を二拍半で置き、声の幅を確かめる。言葉の角を丸めすぎないように、けれど刺さらないように。
  窓の桟の上、昨夜のままの白い欠片は、触れなくてもそこにある。掴めば曇り、離せば光る。――今日は、離しておく日。
  放課後、生徒会室。壁の掲示は端が四つ、ピンで留め直され、机の上にはクリアファイル、議事録、紙コップ、水。江莉奈が鍵を胸の前に置き、開始時刻になったところでドアが控えめに叩かれた。
 江莉奈「失礼します」
  二年四組の生徒――白いマスク、短い爪、癖のない所作。制服の襟はきちんと正され、靴音は大きくない。名乗る前に、頭を下げた。
 二年生「今日の“対話”、お願いします」
 二年生「こちらこそ」
  江莉奈は椅子を示し、最初の線を引く。「ここでは“断罪”を目的にしない。事実、意図、影響、これから――四つに分けて話す。録音はしない。議事の要点だけ記録する。いい?」
 江莉奈「はい」
 江莉奈「では、まず事実」
  生徒はゆっくり言葉を置いた。
 江莉奈「“ピュアホワイト・ミッドナイト”の箱を、私が商店街の工房で受け取りました。等幅の“視聴覚室”札は、学校の共用PCで印刷して、持ち込みました。封筒の“ムーンジェイドは、願いを食う”の紙も、私です。掲示板の手書き二行も、私」
 江莉奈「“返します。食べる前に”の“返す”は、何を指す?」
  秋徳の問いに、生徒は一拍だけ迷い、はっきり答えた。
 秋徳「――“欠片”です。机の右上の、白い石。…………盗りました。ごめんなさい」
  空気が一段だけ重くなる――その前に、文乃は自分の呼吸で、胸の上下を一度整えた。
 文乃「どうして、だったの?」
 文乃「舞台の宣伝のつもりでした。怖くないはずの“怖い”で注目を集めたくて。『願いを食う石』というコピーを思いついたとき、机の上の白い欠片が目に入って…………“本物”に見えた」
  生徒は、言い訳を繕わなかった。「文化祭で“話題”を作るのは正義だと、変に思い込んでいました。『食べる前に返す』ならセーフだとも。…………セーフじゃなかった。ごめんなさい」
  啓が銀の筒を抱えたまま、声ではなく首だけを縦に振った。音は鳴らさない。かわいいの定義は今日は心の中。
  豪一郎は肘をつかず、背もたれにも預けない。相手の目線と同じ高さに視線を置く。叱らないのに、場の芯が立つ。
 豪一郎「意図は聞けた。次に“影響”」
  江莉奈は要点だけを示す。「あなたの行動で、“無署名の恐怖”が場をざわつかせた。『返す』の対象が“欠片”だとわかったのは、今日が初めて。――ここから、“これから”の話に移る。返却と、謝罪と、運用の線引き」
 江莉奈「返却は、今」
  生徒はトートから小さな布袋を出した。糸目の細い麻。紐を解く手は震えていない。布の中に、白い欠片が二つ。
 江莉奈「一つは、文乃先輩の。もう一つは、工房の“型取り用”に勝手に借りた理科準備室の石膏片。どちらも、返します」
  江莉奈が受け取り、番号つきの小袋に分ける。
 江莉奈「謝罪は、署名付きで掲示する。言い訳は書かない。“したこと/起きたこと/これからすること”の三点だけ。――できる?」
 江莉奈「できます。やります」
  文乃は、布袋から自分の欠片を受け取らなかった。受け取る前に、言葉が先だった。
 文乃「…………返してくれて、ありがとう。机の右上には、今日は戻さない。場所は、私が決める。――それから一つ、お願い。怖さじゃなくて、優しさで注目を集める宣伝を、手伝って」
  生徒の瞳の焦点が、ほんの少しだけ柔らかく動いた。
 文乃「はい」
  その瞬間だった。
  生徒の口から、思いがけない一言がこぼれる。
 文乃「“机の右上”のこと、気づいてるのは、先輩だけじゃないです」
  部屋の温度がわずかに揺れた。圭佑の指が、ほんの少しだけ竜頭の方向へ。
  ――押さない。
  指先は机の角で止まり、彼は“普通の速さ”で視線を上げた。
 文乃「誰が、見ていた?」
  声は低くない。ぶつけてもいない。けれど、芯はあった。
 文乃「…………ごめんなさい。名前は、出したくない。私の口からは。『見られている』ってことだけ、伝えたくて」
  生徒は卑怯ではなかった。自分で責任を引き受けながら、他人の線は越えない。
 文乃「情報としては十分」
  秋徳がメモに一行加え、ペン先を止めた。「“机の右上”という『場所の習慣』は、他者の視線を誘う。――運用提案。文乃の欠片は『上演当日まで非掲示』。本人管理」
 文乃「賛成」
  江莉奈が即決し、豪一郎が「運搬は俺が」ではなく「“運ぶ必要があるときだけ”俺が」と言葉を修正する。押し出す力をやさしく使う男は、約束の重さを測るのも上手い。
 江莉奈「最後に、“これから”の共同作業」
  江莉奈が紙を一枚差し出す。「謝罪文の草稿、いま作る。文言は私が骨を置く。優しさの肉は、みんなで足す。――文乃、台本から一行借りてもいい?」
 江莉奈「もちろん」
  文乃はペン先を受け取り、さらさらと書いた。“怖がらせないための線を、見えるように引き直します。掲示には名前を。箱には行き先を。返す先には、鍵と灯りを”。
  生徒は、そこに自分の学年と組を添えた。名前ではなく、線の重さと責任の位置を添える。
  面談が終わる頃、返却箱のランプが自動で一段明るくなった。タイマーの時間。啓の“かわいい”が、役目を果たす。
 チャーリー啓「今日はこれで閉会」
  江莉奈が鍵を回し、透明な音を一度だけ鳴らす。「掲示は私が。謝罪文は今から印刷室へ。文乃、欠片は?」
 文乃「…………今日は、窓の桟。月の来る方向」
  返る場所を“習慣”から“選択”へ。言葉にして自分に聞かせる。
  生徒会室を出ると、廊下の角から一年の足音。
 一年生「すみませーん!」
  豪一郎の手が、今日も自然に出る。速度を奪わず、進路だけを変える。
 豪一郎「廊下は試合会場じゃない」
 豪一郎「はい!」
  ぶつからない。怒鳴らない。けれど、伝わる。
  圭佑は半歩だけ位置をずらし、道を空けた。竜頭には触れない。触れない代わりに、手の中の空っぽを握って、開く。
  昇降口の影で、二人分の影が二秒だけ重なった。
 豪一郎「送ろうか」
 豪一郎「いらない。偶然で会えるなら、それで」
 豪一郎「了解」
  今日はそれだけでいい。
 豪一郎「…………ひとつだけ」
  文乃が自分の歩幅を変えずに言った。「“誰でもない”って言えるようにする、って言ってたよね。私は“私のこと、私の速度で話す人”が好き」
 文乃「努力する、じゃなくて」
 文乃「“了解”」
  圭佑は、短く笑った。笑いは小さく、過剰に湿っていない。
 圭佑「了解」
  その夜。
  窓の桟に欠片を置き、文乃は二拍半の“間”を胸で数える。掴めば曇り、離せば光る。――今日は、離す。
  スマホが小さく震えた。
 《謝罪文、掲示完了。“署名=学年組”運用とセット。》江莉奈
 《返却箱ランプ、21時で自動消灯。》啓
 《棚の固定、明日もう一回増し締め。》豪一郎
 《“無署名の恐怖”の台詞、観客の呼吸二回ぶん“間”に変更案。》秋徳
  文乃は短く返信した。
 《了解。二回=行きと帰り》
  送信の青が消え、部屋に夜の温度が満ちる。
  同じころ、商店街の端の工房。
  閉店札の裏側に、小さな付箋が一枚。
  “学校の人が来たら伝えて。――怖がらせないで、話したかっただけだって”
  付箋の字は、癖がない。若い。
  ノズル付きの絞り袋が置かれる音が、すりガラス越しに小さく響いた。
 掲示板の中央に、白い紙が一枚増えていた。角は四つ、透明ピンで丁寧に留まっている。
  ――《謝罪》
  ――《したこと/起きたこと/これからすること》
  ――《署名:二年四組》
  文は簡潔で、言い訳がない。読む人が途中で息切れしない長さに収まっていた。昼休みのざわつきの中で、誰かが「これで終わりじゃないけど、始まりにはなる」と呟く。文乃は、胸の奥で二拍半を置いてから、小さく頷いた。
  返却箱の小窓の“怖くない光”が、昼なお薄く灯っている。啓がケースの端を磨きながら、「手の跡がつきにくいアクリルなんだけど、ついても大丈夫。『いい触れ方の跡』は展示の一部だから」と誇らしげに言った。
 チャーリー啓「“かわいい”の定義は」
 チャーリー啓「“怖がらせない工夫”。それが、今日のかわいい!」
  秋徳が「定義、暫定採用」と一筆で書き、豪一郎は箱の足元に滑り止めの薄いシートを静かに差し込む。誰も頼まなくても、場の身体が、場のために動く。
  午後の読み合わせ。視聴覚室の暗幕は半分だけ下ろされ、スクリーンの白に声が柔らかく跳ね返る。
 文乃「――『巻き戻しは、優しさの顔をする。でも、私たちの“失敗する権利”まで食べないで』」
  文乃の台詞を受けた豪一郎は、肩の角度をほんの少し外に開く。観客の視線が“行き”と“帰り”を取りやすい道になる。
 文乃「今の“帰り”、ちょうど一呼吸」
 文乃「了解」
  稽古が熱を帯びたころ、扉が二度だけ軽く叩かれた。
 文乃「失礼します。放送部です。文化祭当日の“安全運用”について、インタビューを」
  細いマイクとクリップボード。江莉奈が椅子を一脚用意し、秋徳が“録音・許可・要点”の欄を指で示す。
 秋徳「“匿名の恐怖”に頼らない宣伝を」
  文乃が言うと、放送部の二人は顔を見合わせ、真面目に頷いた。
 文乃「じゃあ、質問。『ムーンジェイドは願いを食う』というコピー、どう扱いますか」
 文乃「“扱わない”。その言葉は『無署名の恐怖』を誘発する。私たちは、『返す先』『責任の線』『怖くない光』で注目を集める」
  言い切ると、啓が胸の前でそっと筒を抱きしめる仕草だけをした。音は鳴らさない。今日の“かわいい”は、沈黙の側にある。
  夕方。校舎の外回りに貼られた注意書きの端が一枚、風ではがれかけていた。
  圭佑が、何も言わずにピンを四つ打ち直す。腕時計の竜頭には触れない。触れないかわりに、“今ここ”だけをまっすぐ直す。
 圭佑「ありがとう」
  文乃が横で言う。彼は「たまたま」と短く返し、ポケットの内側を握って、開いた。空っぽの場所の体温で、胸の拍を揃える。
  翌朝。
  印刷室前の掲示に“署名のあるお願い”がさらに二枚増えていた。“掲示の角を留めてください(責任:一年三組相沢)”“放送機材のケーブルに触れないでください(責任:放送部)”。無署名の紙は一枚もない。
 一年生「“名前を書く運動”、効いてる」
  江莉奈が透明ファイルを胸に抱え、鍵束を軽く鳴らす。「返却箱の運用も今日から定常化。回収は毎日十七時。開錠は私。立会いは当番二名」
 江莉奈「当番表、作る」
  秋徳が一歩だけ前へ出て、ボードに“返却箱運用”の欄を増やした。
  その日の昼休み、理科室。小道具の“ムーンジェイド”は、試作品含めて五個に増えた。温度で曇り、離すと光る。照明で“飛ばない”調合は、圭佑の手の中で安定した。
 圭佑「安全確認、再度」
  豪一郎が手元を覗き込み、指の置き所を二ミリだけずらす。「その角は観客に向けない。眩しさが『恐怖』に化ける」
 豪一郎「了解」
  圭佑は“普通の速さ”で位置を直す。
  ふいに、窓の外から甲高い声がした。
 豪一郎「理科室の人ー! 返却箱のランプ、つかなくなってます!」
  啓が跳ねるように立ち上がる。「僕の“かわいい”が!」
 チャーリー啓「焦るな。安全第一」
  豪一郎が制して、四人で廊下へ出る。返却箱の前には一年生が二人、心配そうに立っていた。
 豪一郎「電源は? タイマー?」
 豪一郎「時間内。――たぶん、接触不良」
  秋徳が膝をつき、コードの根元を目線の高さで確認する。ピンの一本が緩んでいる。
 秋徳「圭佑」
 秋徳「うん」
  彼は竜頭に触れない代わりに、小さなプラスドライバーを“普通の速さ”で回した。ランプが一度だけ瞬き、やわらかな灯りが戻る。
 秋徳「直った!」
  一年生が息を吐き、啓が胸を押さえる。「よかった…………“かわいい”は死なない」
 チャーリー啓「死なせない、の間違い」
  文乃が笑う。笑いの角で、場の緊張はほどけた。
  放課後。
  返却箱には封筒が一通。中には“模造紙二枚(掲示物)を返します。端を四つ、ピンで留めました。――一年三組相沢”。
 一年生「“返す先”が作動してる」
  江莉奈が透明な音で鍵を回す。「――そして、もう一通。“観客席の列、三列目にガムテープで番号を。迷子になりやすいから。責任:二年四組”」
 二年生「いい線」
  文乃は紙を読み、息で笑った。犯人捜しで終わらなかった“二年四組”の署名が、今日は場を整える動詞になっている。
  視聴覚室に戻る途中、掲示板の前で足が止まった。
  白い紙が一枚、まっすぐに貼られている。
  ――《上演当日のお願い》
  ――《“巻き戻し”を求めないでください。私たちは“普通の速さ”で失敗して、学びます》
  ――《責任:演劇班》
  言葉はやわらかいのに、芯があった。
 二年生「“求めないでください”って、いいな」
  啓がぽつりと言い、秋徳が「観客への“線引き”として必要」と短く評した。
 秋徳「貼ってくれて、ありがとう」
  文乃が声を向けると、掲示板の端にいた放送部の二人が照れくさそうに会釈した。「匿名のほうが楽だけど、名前を出すと、背筋の位置が決まるね」
  夜。
  窓の桟の欠片は、月の方向へ少し傾いたまま、触れなくてもそこにある。文乃は机の右上に手を伸ばさず、台本の余白に二行だけ書いた。“怖がらせないで、話したかっただけ”。“話す前に、返したかっただけ”。
  胸の中で二拍半。
  やがてスマホが震える。
 《明日、客席の導線テープ貼り。豪一郎=号令、秋徳=チェック、啓=ランプ持ち。圭佑=小道具最終。文乃=発声維持。》江莉奈
  返事は短く。
 《了解。二拍半=呼吸一回ぶん》
  送信の青が消える。
  同じころ、返却箱の前。
  “怖くない光”が、また一段だけ明るくなった。タイマーではない。
  小さな影が近づき、封筒を手にしばらく立ち止まる。
  ――入れる。
  封筒の中には、写真が二枚。
  一枚は、祭りの屋台で“流れ星チョコ”の看板の前に立つ、幼い子ども。
  もう一枚は、“視聴覚室”の札を手に、印刷室で肩をすくめる、誰かの横顔。
  裏には、癖のない字。
  “見ていてくれたら、それでよかった。でも、怖がらせないで、話したかった。――食べる前に、話せてよかった”
  署名は、二年四組。
  翌朝、封筒は生徒会室の机の上で静かに開かれ、写真は“個人情報・非公開”の袋に収められた。
 秋徳「断罪のためじゃない。線を守るための保管」
  江莉奈が言い、豪一郎が「舞台の導線、貼りにいくぞ」と声をかける。
 豪一郎「はい」
  文乃は立ち上がり、窓の桟へ目をやる。
  掴むと曇る、手放すと光る。
  今日は、離したままで歩く。
 朝の昇降口は、ガムテープの黄色が新しい。床の矢印は三列に分かれ、角はきれいに折られていた。豪一郎が「曲がり角は二重貼り」と号令をかけ、秋徳がチェックリストに小さな丸を増やす。啓は“怖くない光”のランプを両腕に抱え、「かわいいの定義=怖がらせない工夫」と小声で復唱しながら歩いていた。
  返却箱の小窓には、昨夜の封筒がひとつ。江莉奈が鍵を回し、透明な音を鳴らして取り出す。
 江莉奈「――『観客席、三列目に番号テープを。迷うと恥ずかしくて席を探せない人がいるから。責任:二年四組』。いい線。採用」
  文乃はうなずき、喉にぬるい水を通す。二拍半の“間”を胸の奥に折りたたみ、今日の声の高さを確かめた。窓の桟の白い欠片は、昨夜の場所のまま。掴めば曇る、手放せば光る――今日は手放したまま、舞台へ向かう。
  午前の仕込みは順調だった。棚は壁に据え付け直され、延長コードの浮きはケーブルカバーで隠された。小道具のムーンジェイドは五つ。照明が強くても白が飛ばず、掌で曇り、離すと光る。
 江莉奈「角度、三度だけ上げる」
  圭佑が照明スタンドの首をそっと動かし、竜頭へ行きかけた指を机の縁で止める。
 圭佑「“普通の速さ”、いいね」
  文乃の声はやわらかい。彼は顔を上げずに、キャップの溝を丁寧に噛ませた。
  昼休み、放送部のプレインタビュー。
 圭佑「“巻き戻し”って、誰でも欲しくなるものですよね」
 圭佑「欲しくなる。けど、求めないでください」
  文乃は台本の一行を、教卓の上に置くように言った。「私たちは“普通の速さ”で失敗して、学びます。――責任の線は、名札みたいに見える場所に」
 文乃「“名札みたいに”」
  放送部の二人が同時にメモする。江莉奈は“匿名の恐怖→線の可視化”と白板に矢印を引き、秋徳が「放送用要約、ここまで」と締めた。
  午後、通し稽古。
  暗転から明転、入退場、袖の動線。豪一郎の「いち、に」の声に合わせ、出の足が揃う。啓は銀の筒を“オフ”のまま抱え、出ハケのタイミングだけを口の中で数える。
 文乃「――『巻き戻しは、優しさの顔をする。でも、私たちの“失敗する権利”まで食べないで』」
  二拍半の沈黙がスクリーンを深くし、客席に見立てた空間で誰かが息を合わせた。
 文乃「今の“食べないで”、半拍、戻して」
  秋徳の合図に、文乃は「了解」と短く答える。セリフの角は尖らせず、丸めすぎず。届く形で。
  そのときだった。袖の黒布の向こう側で、カタン、と小さな音。誰かの鞄が立てかけてあった脚立に触れ、脚が一段、わずかに浮く。
 文乃「止め」
  豪一郎の声が低く短く走ると同時に、圭佑の身体が“普通の速さ”で動いた。走らない。跳ばない。脚立の浮いた面に手の甲を差し入れ、荷重を自分の足へ移す。
  竜頭には触れない。触れないかわりに、いまある時間に手を入れる。
 文乃「ナイス」
  豪一郎が脚を押さえ、秋徳が“固定用クランプ不足→追加”と書く。
  文乃は胸の内で二拍半を置いてから、圭佑の横顔に言葉を向けた。
 文乃「ありがとう。――私の“失敗する権利”まで、食べないでくれて」
  彼は視線を上げ、短く、乾いた笑いもしない声で言う。
 文乃「君の“やり直さない権利”を、守る練習をしてる」
  休憩。紙コップの水音、椅子のこすれる音。返却箱のランプは、廊下で静かに呼吸をしている。
 文乃「ポスター、追加で作った」
  二年四組の生徒が、生徒会室に顔を出した。短い爪、癖のない所作。謝罪文のとなりに貼るポスターには、こうあった。
  ――《返す先はこちら》
  ――《怖がらせないで、話したかっただけ》
  ――《責任:二年四組》
 二年生「ありがとう」
  江莉奈が角を四つ留め直し、啓が「かわいい」と口の中で言ってから「定義に合致」と付け加えた。
 江莉奈「“かわいい”は、今日のほうが合ってる」
  文乃が笑うと、彼は胸の筒をぎゅっと抱いて、音を鳴らさなかった。
  夕方、最終の通し。
  ムーンジェイドの小道具は、袖の低い台に置かれる。圭佑が掌で曇らせ、離して光らせ、照明の“飛び”を二度確認する。
 (押さない。押さない。普通の速さで)
  自分に言い聞かせるたび、腕時計の白い線が光にも影にも見えない色に変わる。
 江莉奈「本番、行ける」
  豪一郎が言い、秋徳が“初日:開場十五分前に誘導開始”と書く。
  その横で、放送部がマイクを向けた。
 江莉奈「最後に一言、当日の見どころを」
 江莉奈「“名前のあるお願い”です」
  文乃は即答した。「匿名の恐怖じゃなくて、“線の見えるお願い”。――それが、いちばん優しい」
  啓が堪えきれずに「名言!」と声を上げ、江莉奈が「録音、ここで切り」と笑う。
  撤収の時間。
  コードをまとめ、レンチを戻し、台本の端を揃える。視聴覚室の鍵が回る直前、掲示板に白い紙が一枚、増えた。
  ――《上演当日のお願い》
  ――《“巻き戻し”を求めないでください。私たちは“普通の速さ”で失敗して、学びます》
  ――《責任:演劇班》
 江莉奈「“求めないでください”って、やっぱり好き」
  啓のつぶやきに、秋徳が「観客との対話として有効」と一筆加える。
  昇降口へ向かう廊下で、いつもの足音が早い。
 江莉奈「すみませーん!」
  曲がり角を切れない一年に、豪一郎の手が先に出て、速度を奪わず、進路だけを変える。
 豪一郎「廊下は試合会場じゃない」
 豪一郎「は、はい!」
  ぶつからない。怒鳴らない。けれど、伝わる。
  圭佑は半歩だけ位置をずらし、道を空ける。竜頭には触れない。触れないかわりに、いまの時間をそのまま使う。
  校門の影で足が二秒、重なる。
 豪一郎「送ろうか」
 豪一郎「いらない。偶然で会えるなら、それで」
 豪一郎「了解」
  返事は短く、湿りすぎない。けれど彼は、言葉を一つだけ足した。
 豪一郎「…………本番、君の“二拍半”、俺が守る」
 豪一郎「守らないで、支えて」
 豪一郎「了解」
  彼は笑わなかった。けれど、目の奥に“やり直さない練習”の火が小さく灯る。重たい愛は、形を変えて、支える力に置き換わる。
  夜。
  部屋の灯りを落とす前に、文乃は窓の桟の白い欠片を掌に載せた。掴めば、うっすら曇る。離せば、光る。
 文乃「――明日も、手放したまま」
  声に出してから、桟へ戻す。机の右上ではなく、窓の向こうの白へ向けて少し傾けて。
  スマホが震える。
 《開場導線完了。二年四組の“番号テープ”実装。》江莉奈
 《棚の増し締め、完。脚立固定クランプも追加。》豪一郎
 《ランプ、21時自動消灯→当日モードへ。》啓
 《“無署名の恐怖”台詞、観客の呼吸二回ぶん“間”で確定。》秋徳
  文乃は、短く送る。
 《了解。二回=行きと帰り》
  送信の青が消え、窓の桟で小さく光る欠片が、夜の布の目にそっと馴染んだ。
  同じころ、商店街の端の工房。
  閉店札を裏返す音のあと、若い声が低く落ちる。
 文乃「怖がらせないで、話したかっただけだよ」
  カウンターの上で、白い箱の角が指でやさしくなでられた。等幅の札は、もう使われない。かわりに、小さな手書き。
  ――《学校関係、要予約。受け渡しは生徒会室前“返却箱”にて》
  癖のない字。責任の線は、見えるところへ。
  窓の外の白は、掴まれないから曇らない。
  手放された光は、遠くても届く。
  “願いを食べさせない”という二行目は、今日、確かに誰かの胸で呼吸していた。