〇印刷室・朝
印刷室の朝。トナーと紙の匂いが鼻先で混じる。
ローラーの回転が一拍遅れて耳に届く。
朝の教室は、暖房が入る前の白い息の温度だった。窓の桟に昨夜のまま置いた白い欠片は、月の方向へ少し傾いていて、触れなくてもそこにあるとわかる。文乃は机の右上には手を伸ばさず、筆箱のチャックを一度だけ開け閉めした。掴むと曇る、手放すと光る――今日は、手放したままで始める。
SHRが終わるより早く、端のドアが静かに開いて江莉奈が顔を出した。クリアファイルの背が三冊、色違いで腕に抱えられている。
江莉奈「二時間目、印刷室。関係しそうな“紙”と“書体”の確認。安全のため人数は絞る。私、秋徳、啓。…………豪一郎は棚の搬入の立会い。文乃は発声の自主練、圭佑は小道具」
江莉奈「了解」
役割が置かれるだけで、教室の動線が一つ整う。
二時間目のチャイムが鳴るころ、情報棟一階の印刷室。薄いインクの匂いと、紙の湿り気。裁断機の刃を保護する透明カバーが鈍く光り、給紙トレイのラベルに“モノスペース系見本在中”と小さく書かれている。
江莉奈「記録から」
江莉奈は台車の上の紙束を指先で数え、日付のついた棚へ視線を滑らせた。「昨日の放課後、部活印刷の申請は四件。いずれも部名・責任者・印刷枚数は記録済み。“視聴覚室”の札に使われた紙質と同じは――これ」
取り出したのは、ざらつきの少ない白。角を親指でなでると、ほんのわずかに光をはね返す。
江莉奈「裁断は機械。余りの“かけら”が残っているかもしれない」
秋徳がカバーを開け、受け皿に落ちた切れ端をピンセットで拾う。白、白、白――一枚の端にだけ、うすく緑が移っていた。
秋徳「これは」
秋徳「手に付いた“ココアバター”あるいは“ハンドクリーム”。昨日の袋の縫い目の匂いと似ている」
啓が胸の前で銀筒を抱え直し、今日はスイッチに触れないまま頷いた。「検出器はオフ。でも鼻はオン!」
チャーリー啓「うるさくない範囲でね」
江莉奈は苦笑し、切れ端を透明袋へ滑らせる。「書体の見本、照合する。等幅、仮に“いちばん普通のやつ”。カーニングがゼロ、数字の幅がそろう。…………“視聴覚室”の札と同じ癖が出るはず」
印刷室の端、共用PCの前に立つ。ログイン画面に時間が浮かび、キーボードの手前に“共有プリセット”の紙片が貼られている。“等幅”“角丸なし”“トンボあり”。
チャーリー啓「“トンボあり”」
秋徳が小さく繰り返し、プリセットを呼び出した。テスト印刷の紙が一枚、乾いた音で吐き出される。
――納品:視聴覚室
等幅の文字。数字の“0”は真円に近く、コロンの点はきっちり上下が揃う。端の“トンボ”は薄いグレー。
チャーリー啓「同じだ」
啓が目を丸くし、江莉奈は“同一の可能性高”とさらりと書いた。
チャーリー啓「ただ、“誰が”はまだ出ない。ログは“共用”。責任の線は、ここで切れる。…………切れないように、別の線を継ぐ」
そのころ、体育館裏では棚の搬入準備が始まっていた。豪一郎は台車のハンドルを肩で押さえ、滑りやすい角にガムテープで簡易の滑り止めを作る。
豪一郎「段差から上げるとき、号令は俺が。無理に持ち上げるな、滑らせる」
一年生「了解!」
一年の声が一斉に返り、場の背骨が一本通る。
圭佑は小道具の箱を抱え、射光の角度を確かめる。透明樹脂は三つ。掌で曇り、離せば光る――昨日より、曇り過ぎない。
(押さない。押さない)
腕時計の竜頭に向かう癖は、今日も机の縁で止めた。ガラスの細い白線が、日向の粒で見え隠れする。
豪一郎「圭佑、梯子、俺が押さえる」
豪一郎が言うと、彼は短く「頼む」と答えた。二人の間に、安全の線が一本引かれる。
四時間目の終わり、教室の窓際。文乃は口の中で二拍半を作る練習をしながら、喉に薄い水を通した。半拍を増やすたび、胸の上下が落ち着く。
机の右上を触らない代わりに、窓の桟の欠片へ目だけ送る。置く場所が変わると、気持ちの置き場所も変わる――昨夜書き添えた一行が、紙の上からではなく、身体の内側から読める。
昼休み。購買の列は今日も長く、チョコパンは“友チョコ黙認週間”の札で増量。列の後ろで啓が銀筒を抱え、「今日は鳴らさないよ」と先に言った。
チャーリー啓「かわいいの定義は?」
チャーリー啓「文乃が決める(暫定)。」
チャーリー啓「暫定は長生きする、って返したよ」
チャーリー啓「名言…………!」
啓は胸を押さえて大げさにうなずく。秋徳が横からトレーを支え、列の滞りが自然に解けた。
午後、視聴覚室に集合。搬入された棚は無事に壁側に据え付けられ、コードは二重で留められている。
チャーリー啓「取り付け、よし」
豪一郎が梯子を降り、最後のレンチを工具箱に戻した。額に置いた手の甲に、細い汗が一筋。
豪一郎「小道具、試写」
圭佑が照明を仮に立て、樹脂片をスクリーンの前で回す。白が緑へ、緑が白へ。掴むと曇り、手放すと光る。
圭佑「いい。“飛ばない”」
文乃が距離を取り、観客の目線に立って頷く。「この感じ、好き」
文乃「“好き”は自由に言っていい」
文乃「うん」
そこへ、江莉奈・秋徳・啓が印刷室から戻ってきた。
秋徳「紙質と書体、状況証拠はそろった。共用プリセット、トンボ、等幅。…………ただ、犯人捜しはしない。台本に入れる台詞をもう一本増やす。“無署名の恐怖は読者を疲れさせる。札を貼るなら、責任の線も貼って”」
秋徳「言葉、強い」
豪一郎は椅子を二脚寄せ、みんなが輪になるように場を整えた。「で、どう進める」
豪一郎「“札”に“名前を書く運動”を、文化祭の掲示運用ルールにする。生徒会として。…………舞台の中でも、同じ線を引く」
江莉奈はさらりと言い、ファイルにクリップを戻す。その透明な音だけで“決まったこと”が場に浸透していく。
読み合わせ。二拍半の“間”に、外の風の音が混じる。文乃の台詞に豪一郎が受け、啓が小道具の出す手を確認し、秋徳が“呼吸”とメモに書く。
文乃「――『巻き戻しは、優しさの顔をする。でも、私たちの“失敗する権利”まで食べないで』」
返ってくる静けさの手触りが、昨日より柔らかい。
文乃「今の“食べないで”、よかった」
文乃「ありがとう」
休憩に入る直前、スクリーン脇の影が一つ動いた。
――チリ、と薄い音。
誰かの袖が、仮設コードに触れた。倒れるほどではない。けれど、足の甲に絡めば転ぶ。
圭佑の指が、一瞬だけ竜頭へ――行かない。
代わりに、もう片方の手が先に動いた。コードの“浮き”に手の甲を差し込み、足がかかる前に、そっと押さえる。
文乃「ナイス」
豪一郎が短く言い、彼は「たまたま」と肩をすくめた。
たまたま、でいい。今日の彼の“努力”は、外から見れば、いつもより少しだけ遅いだけだ。
配布物の束を江莉奈がまとめ、休憩に入る。紙コップが配られ、椅子が少しだけ引かれる。
江莉奈「ねえ」
文乃は視線を落としたまま言う。「もし、“願いを食う石”が本当にあるとして。――君は、誰の願いなら守れる?」
問いは、劇の台詞であり、現実の真ん中だった。
圭佑は答えを探すふりをしなかった。時間を巻き戻してでも探さなかった。
圭佑「“誰でもない”って言えるようにする」
圭佑「難しい言い方」
圭佑「“君だけ”って言いたい衝動があるから。“誰でもない”まで後退する練習をする」
文乃は、小さく笑って頷いた。理解と承認の間にある、あの短い距離で。
文乃「じゃあ、私もする。進みたい衝動を半歩だけほどく練習」
文乃「…………了解」
休憩が終わるころ、視聴覚室の扉の隙間から風が入って、掲示板の紙を一枚だけめくった。
白い封筒が、ピンの陰に隠れている。
手書き。癖のない、まっすぐな字。
“返します。食べる前に。
――願いは、食べさせないで”
昨日の二行と同じ。けれど、封の中に今度は薄い名刺サイズの紙が一枚入っていた。
――ピュアホワイト・ミッドナイト/試作工房・商店街端
営業時間、手書きの地図、そして小さく“学校関係は要予約”とある。
文乃「自首…………ではない。けど、扉が半分開いた」
江莉奈は封筒をクリアファイルに入れ、名刺サイズの紙だけを場に見せた。「対話の線、引ける」
夕方、稽古を切り上げたあと、四人が商店街の端へ向かった。文乃は行かない。声を温存する約束を守る。
文乃「代わりに、質問をメモして渡すね」
彼女はペンで四行を書いた。
①“視聴覚室”の札は誰が持ち込んだ?
②“返す”の対象は何? “欠片”? “願い”?
③“食べる前に”は、誰に向けた警告?
④“願いは食べさせないで”――それは、あなた自身の願い?
自分の疑問を“線の言葉”にして、江莉奈に渡す。
江莉奈「了解。聞けるところまで聞く。…………無理はしない」
彼らを見送った昇降口で、圭佑が一瞬だけ足を止めた。
圭佑「送ろうか」
圭佑「いらない。偶然で会えるなら、それで」
圭佑「了解」
彼は、笑わなかった。けれど、竜頭から遠い方の手でポケットの内側を握って、開いた。空っぽの場所にある体温だけで、拍を揃える。
家に帰り、窓の桟の欠片を掌にのせる。掴めば曇り、離せば光る。
圭佑「…………私は、食べさせない」
声に出すと、台本の台詞と自分の言葉が少しだけ重なった。二拍半の“間”を、胸の中で一度置き直す。
机の右上には置かない。今夜も、窓の桟。月の来る方向へ。
商店街の端、試作工房。
扉の鐘が鳴る音の直前、誰かがノズル付きの絞り袋を置いた。箱の角を指でなで、等幅の薄い札を見つめる。
――返します。食べる前に。
窓の外を、四つの影が通り過ぎる。
扉が開く音は、夜風に混じって小さく溶けた。
商店街の端の工房は、表札の代わりに小さなランプがぶらさがっていた。ランプシェードの縁に薄い緑の粉がついていて、夕方の光にうっすらと浮く。扉の鐘が鳴ると、奥から白衣にエプロンの人が出てきた。年齢のわりに指の動きが若い、癖のない所作。
圭佑「学校の方?」
江莉奈が軽く会釈する。「視聴覚室への“箱”の件で。少しだけ、お時間を」
江莉奈「どうぞ」
工房の人は、カウンターの内側で手を拭いた。「“ピュアホワイト・ミッドナイト”のご予約はたしかにありました。札は、お客さま持ち込み。紙は薄くて、角に“トンボ”。等幅の活字です」
江莉奈「持ち込まれた方の特徴は?」
江莉奈「マスクと帽子。背は高くも低くも。手は細く、爪は短い。お代は現金。『食べる前に返します』と、置き札の添付も希望されました」
秋徳「『返します』の対象は?」
秋徳が淡々と聞く。
秋徳「そこまでは。…………ただ、“学校の皆さんが怖がらないように”と。よく通る、若い声でした」
啓が自分で自分に口チャックの動作をしてから、小さな声で「かわいいの定義は、保留」と付け足す。場の角が、ほんの少し丸くなった。
チャーリー啓「この“札”と同じ紙、もう一枚、いただけますか。証拠ではなく、運用のために」
江莉奈がそう言うと、工房の人は引き出しから見本を取り出し、片隅に小さく“工房控え”と鉛筆で書き、渡した。
江莉奈「学校関係は要予約です。…………よければ、“責任の線”がわかる運用を、学校の中で。こちらも助かりますから」
江莉奈「もちろん」
江莉奈は深く頷き、名刺大の紙の端をクリップで留め直した。
店を出ると、道の真ん中で豪一郎が歩幅をほんの少し広げた。誰かが後ろから来てもぶつからないように、自然と道が広がる。
豪一郎「対話の扉は半分開いた。犯人捜しじゃない。線を引ける場所まで、案内してもらった」
豪一郎「うん」
秋徳が短く応じ、啓が銀の筒を抱え直す。「今日の僕の役目は、音を鳴らさないこと!」
秋徳「それがいちばん“かわいい”」
秋徳「名言!」
たわいない応酬に、緊張が一段だけ下がった。
そのころ学校では、文乃が一人で視聴覚室に残っていた。二拍半の“間”を胸の中で折りたたみ、声を出さずに台詞を並べる。扉の向こうで一年の女子が貼り紙を手にうろうろしているのに気づく。
文乃「どうしたの?」
文乃「無署名で“注意喚起”の紙を貼ろうか迷ってて…………。名前を書くと角が立つ気がして」
文乃「名前がある方が、角が丸くなることもある」
文乃は微笑み、紙とペンを受け取った。「“お願い”。“理由”。“責任の人”。三つ並べると、読む人の呼吸が揃うよ」
女子は迷って、書く。「掲示の角をピンで留めなおしてください。はがれて落ちると危ないから。責任:一年三組 相沢」
一年生「ありがとう。いい線」
名前を書いた紙は、驚くほどすんなり掲示板に受け入れられた。無署名の恐怖より、署名の勇気のほうが、場の空気を軽くする。
午後、四人が戻るころには、棚の取り付けも終わっていた。視聴覚室の壁は、新しい木のにおいで薄く満ちている。
一年生「店側の記録は正規。札は持ち込み。声は若い。――“対話”は可能」
江莉奈が報告を置き、名刺大の紙を机の真ん中へ滑らせた。「それから、生徒会として“返却箱”を作る。場所は生徒会室前。ルールは三つ。①署名(連絡先の学年組だけ可)②“返す物”の記述③取り扱いは会計が管理」
江莉奈「鍵は私が」
江莉奈の鍵束が、透明な音で応える。
江莉奈「返却箱の掲示文、任せて」
文乃はさらさらと書いた。“返す先はこちら。掴むと曇り、手放すと光る――手の跡が残るのは、いい触れ方のときだけ”。
文乃「…………うん、好きだ」
圭佑の声は小さく、どこにもぶつけない。竜頭へ行きかけた指は、今日も触れない。
読み合わせを再開する前に、啓がそっと手を挙げた。
チャーリー啓「返却箱、音は鳴らさないけど…………“かわいいランプ”はどう?」
チャーリー啓「定義は」
チャーリー啓「“怖くない光”。温かい色。消し忘れ防止のタイマー付き!」
チャーリー啓「安全要件を満たすなら採用」
秋徳の即答に、啓は飛び跳ねそうになって堪えた。
稽古。二拍半の“間”は、観客の呼吸一回ぶん。文乃が置けば、豪一郎が受ける。受けるときの肩の角度が、舞台の進路を自然に作る。
文乃「――『巻き戻しは、優しさの顔をする。でも、私たちの“失敗する権利”まで食べないで』」
返ってくる静けさは、昨日より柔らかい。
文乃「今の、いい」
文乃「ありがとう」
休憩明け、掲示板の前に人だかり。
白い封筒が一つ、返却箱の手前に置かれていた。封は糊付けされていない。
“返します。食べる前に。――願いは、食べさせないで”
中には、小さな銀紙が二枚、丁寧に畳まれて入っている。古い祭りの屋台の透かし。隕石のかけら味――子どもの字。
圭佑の視線が、ほんの一拍だけ止まった。
圭佑「保管」
江莉奈の声で空気が静まる。「“返す先はこちら”の運用、今日から始める。扉が、もう少しだけ開いた」
夕方の空気が視聴覚室の窓で薄く揺れた。撤収。コードは二重に留め、レンチは箱に戻し、台本に折り目はつけない。
圭佑「鍵、閉めます」
透明な音。
廊下を出たところで、曲がり角の足音がまた速かった。
圭佑「すみませーん!」
豪一郎の手が先に出て、背中を優しく押して進路を変える。
豪一郎「廊下は試合会場じゃない」
豪一郎「は、はい!」
ぶつからない。怒鳴らない。けれど、伝わる。
圭佑は一歩だけ後ろへ引いて、足場を作った。竜頭には触れない。触れない代わりに、“普通の速さ”で間に合うように。
昇降口の影で、二人分の足音がほんの二秒、重なった。
豪一郎「送ろうか」
豪一郎「いらない。偶然で会えるなら、それで」
豪一郎「了解」
文乃が歩き出したあと、圭佑は言葉を足さなかった。足さない努力は、誰にも見えないぶんだけ体力を使う。けれど、彼の呼吸は今日、昨日よりわずかに揃っている。
圭佑「…………俺の願いは、食べさせない」
誰にも聞こえない声で、彼は一度だけ言ってみた。言葉は頼りなく、それでも、竜頭から遠い方の手がポケットの内側で握って、開く。
家へ戻ると、文乃は窓の桟の欠片を掌に載せた。掴めば曇り、離せば光る。
文乃「返却箱、うまくいきますように」
願いは、食べさせない。胸の内側で二拍半を置き、そっと桟へ戻す。
机の右上には、今日も置かない。置かないことで、胸の音が落ち着く。
その夜。
生徒会室の前、返却箱の小窓の内側で、啓が組んだタイマーランプが柔らかく点いた。温かい色、怖くない光。
廊下の向こうから、細い影が一つ近づいてきて、立ち止まる。封筒を持つ指は細く、爪は短い。
――入れる前に、しばらく、立ったまま。
やがて封筒は入らなかった。代わりに、箱の上の掲示に指がそっと触れた。“手の跡が残るのは、いい触れ方のときだけ”。
指は、触れたその場所の温度だけを置いて、去っていく。
翌朝、返却箱の小窓には、封筒ではなくメモが一枚。
“対話の線、ひいて。――食べる前に、話したい”
署名欄には、学年と組だけが丁寧に記されていた。
扉が、今度ははっきりと、開く音を立てた。
印刷室の朝。トナーと紙の匂いが鼻先で混じる。
ローラーの回転が一拍遅れて耳に届く。
朝の教室は、暖房が入る前の白い息の温度だった。窓の桟に昨夜のまま置いた白い欠片は、月の方向へ少し傾いていて、触れなくてもそこにあるとわかる。文乃は机の右上には手を伸ばさず、筆箱のチャックを一度だけ開け閉めした。掴むと曇る、手放すと光る――今日は、手放したままで始める。
SHRが終わるより早く、端のドアが静かに開いて江莉奈が顔を出した。クリアファイルの背が三冊、色違いで腕に抱えられている。
江莉奈「二時間目、印刷室。関係しそうな“紙”と“書体”の確認。安全のため人数は絞る。私、秋徳、啓。…………豪一郎は棚の搬入の立会い。文乃は発声の自主練、圭佑は小道具」
江莉奈「了解」
役割が置かれるだけで、教室の動線が一つ整う。
二時間目のチャイムが鳴るころ、情報棟一階の印刷室。薄いインクの匂いと、紙の湿り気。裁断機の刃を保護する透明カバーが鈍く光り、給紙トレイのラベルに“モノスペース系見本在中”と小さく書かれている。
江莉奈「記録から」
江莉奈は台車の上の紙束を指先で数え、日付のついた棚へ視線を滑らせた。「昨日の放課後、部活印刷の申請は四件。いずれも部名・責任者・印刷枚数は記録済み。“視聴覚室”の札に使われた紙質と同じは――これ」
取り出したのは、ざらつきの少ない白。角を親指でなでると、ほんのわずかに光をはね返す。
江莉奈「裁断は機械。余りの“かけら”が残っているかもしれない」
秋徳がカバーを開け、受け皿に落ちた切れ端をピンセットで拾う。白、白、白――一枚の端にだけ、うすく緑が移っていた。
秋徳「これは」
秋徳「手に付いた“ココアバター”あるいは“ハンドクリーム”。昨日の袋の縫い目の匂いと似ている」
啓が胸の前で銀筒を抱え直し、今日はスイッチに触れないまま頷いた。「検出器はオフ。でも鼻はオン!」
チャーリー啓「うるさくない範囲でね」
江莉奈は苦笑し、切れ端を透明袋へ滑らせる。「書体の見本、照合する。等幅、仮に“いちばん普通のやつ”。カーニングがゼロ、数字の幅がそろう。…………“視聴覚室”の札と同じ癖が出るはず」
印刷室の端、共用PCの前に立つ。ログイン画面に時間が浮かび、キーボードの手前に“共有プリセット”の紙片が貼られている。“等幅”“角丸なし”“トンボあり”。
チャーリー啓「“トンボあり”」
秋徳が小さく繰り返し、プリセットを呼び出した。テスト印刷の紙が一枚、乾いた音で吐き出される。
――納品:視聴覚室
等幅の文字。数字の“0”は真円に近く、コロンの点はきっちり上下が揃う。端の“トンボ”は薄いグレー。
チャーリー啓「同じだ」
啓が目を丸くし、江莉奈は“同一の可能性高”とさらりと書いた。
チャーリー啓「ただ、“誰が”はまだ出ない。ログは“共用”。責任の線は、ここで切れる。…………切れないように、別の線を継ぐ」
そのころ、体育館裏では棚の搬入準備が始まっていた。豪一郎は台車のハンドルを肩で押さえ、滑りやすい角にガムテープで簡易の滑り止めを作る。
豪一郎「段差から上げるとき、号令は俺が。無理に持ち上げるな、滑らせる」
一年生「了解!」
一年の声が一斉に返り、場の背骨が一本通る。
圭佑は小道具の箱を抱え、射光の角度を確かめる。透明樹脂は三つ。掌で曇り、離せば光る――昨日より、曇り過ぎない。
(押さない。押さない)
腕時計の竜頭に向かう癖は、今日も机の縁で止めた。ガラスの細い白線が、日向の粒で見え隠れする。
豪一郎「圭佑、梯子、俺が押さえる」
豪一郎が言うと、彼は短く「頼む」と答えた。二人の間に、安全の線が一本引かれる。
四時間目の終わり、教室の窓際。文乃は口の中で二拍半を作る練習をしながら、喉に薄い水を通した。半拍を増やすたび、胸の上下が落ち着く。
机の右上を触らない代わりに、窓の桟の欠片へ目だけ送る。置く場所が変わると、気持ちの置き場所も変わる――昨夜書き添えた一行が、紙の上からではなく、身体の内側から読める。
昼休み。購買の列は今日も長く、チョコパンは“友チョコ黙認週間”の札で増量。列の後ろで啓が銀筒を抱え、「今日は鳴らさないよ」と先に言った。
チャーリー啓「かわいいの定義は?」
チャーリー啓「文乃が決める(暫定)。」
チャーリー啓「暫定は長生きする、って返したよ」
チャーリー啓「名言…………!」
啓は胸を押さえて大げさにうなずく。秋徳が横からトレーを支え、列の滞りが自然に解けた。
午後、視聴覚室に集合。搬入された棚は無事に壁側に据え付けられ、コードは二重で留められている。
チャーリー啓「取り付け、よし」
豪一郎が梯子を降り、最後のレンチを工具箱に戻した。額に置いた手の甲に、細い汗が一筋。
豪一郎「小道具、試写」
圭佑が照明を仮に立て、樹脂片をスクリーンの前で回す。白が緑へ、緑が白へ。掴むと曇り、手放すと光る。
圭佑「いい。“飛ばない”」
文乃が距離を取り、観客の目線に立って頷く。「この感じ、好き」
文乃「“好き”は自由に言っていい」
文乃「うん」
そこへ、江莉奈・秋徳・啓が印刷室から戻ってきた。
秋徳「紙質と書体、状況証拠はそろった。共用プリセット、トンボ、等幅。…………ただ、犯人捜しはしない。台本に入れる台詞をもう一本増やす。“無署名の恐怖は読者を疲れさせる。札を貼るなら、責任の線も貼って”」
秋徳「言葉、強い」
豪一郎は椅子を二脚寄せ、みんなが輪になるように場を整えた。「で、どう進める」
豪一郎「“札”に“名前を書く運動”を、文化祭の掲示運用ルールにする。生徒会として。…………舞台の中でも、同じ線を引く」
江莉奈はさらりと言い、ファイルにクリップを戻す。その透明な音だけで“決まったこと”が場に浸透していく。
読み合わせ。二拍半の“間”に、外の風の音が混じる。文乃の台詞に豪一郎が受け、啓が小道具の出す手を確認し、秋徳が“呼吸”とメモに書く。
文乃「――『巻き戻しは、優しさの顔をする。でも、私たちの“失敗する権利”まで食べないで』」
返ってくる静けさの手触りが、昨日より柔らかい。
文乃「今の“食べないで”、よかった」
文乃「ありがとう」
休憩に入る直前、スクリーン脇の影が一つ動いた。
――チリ、と薄い音。
誰かの袖が、仮設コードに触れた。倒れるほどではない。けれど、足の甲に絡めば転ぶ。
圭佑の指が、一瞬だけ竜頭へ――行かない。
代わりに、もう片方の手が先に動いた。コードの“浮き”に手の甲を差し込み、足がかかる前に、そっと押さえる。
文乃「ナイス」
豪一郎が短く言い、彼は「たまたま」と肩をすくめた。
たまたま、でいい。今日の彼の“努力”は、外から見れば、いつもより少しだけ遅いだけだ。
配布物の束を江莉奈がまとめ、休憩に入る。紙コップが配られ、椅子が少しだけ引かれる。
江莉奈「ねえ」
文乃は視線を落としたまま言う。「もし、“願いを食う石”が本当にあるとして。――君は、誰の願いなら守れる?」
問いは、劇の台詞であり、現実の真ん中だった。
圭佑は答えを探すふりをしなかった。時間を巻き戻してでも探さなかった。
圭佑「“誰でもない”って言えるようにする」
圭佑「難しい言い方」
圭佑「“君だけ”って言いたい衝動があるから。“誰でもない”まで後退する練習をする」
文乃は、小さく笑って頷いた。理解と承認の間にある、あの短い距離で。
文乃「じゃあ、私もする。進みたい衝動を半歩だけほどく練習」
文乃「…………了解」
休憩が終わるころ、視聴覚室の扉の隙間から風が入って、掲示板の紙を一枚だけめくった。
白い封筒が、ピンの陰に隠れている。
手書き。癖のない、まっすぐな字。
“返します。食べる前に。
――願いは、食べさせないで”
昨日の二行と同じ。けれど、封の中に今度は薄い名刺サイズの紙が一枚入っていた。
――ピュアホワイト・ミッドナイト/試作工房・商店街端
営業時間、手書きの地図、そして小さく“学校関係は要予約”とある。
文乃「自首…………ではない。けど、扉が半分開いた」
江莉奈は封筒をクリアファイルに入れ、名刺サイズの紙だけを場に見せた。「対話の線、引ける」
夕方、稽古を切り上げたあと、四人が商店街の端へ向かった。文乃は行かない。声を温存する約束を守る。
文乃「代わりに、質問をメモして渡すね」
彼女はペンで四行を書いた。
①“視聴覚室”の札は誰が持ち込んだ?
②“返す”の対象は何? “欠片”? “願い”?
③“食べる前に”は、誰に向けた警告?
④“願いは食べさせないで”――それは、あなた自身の願い?
自分の疑問を“線の言葉”にして、江莉奈に渡す。
江莉奈「了解。聞けるところまで聞く。…………無理はしない」
彼らを見送った昇降口で、圭佑が一瞬だけ足を止めた。
圭佑「送ろうか」
圭佑「いらない。偶然で会えるなら、それで」
圭佑「了解」
彼は、笑わなかった。けれど、竜頭から遠い方の手でポケットの内側を握って、開いた。空っぽの場所にある体温だけで、拍を揃える。
家に帰り、窓の桟の欠片を掌にのせる。掴めば曇り、離せば光る。
圭佑「…………私は、食べさせない」
声に出すと、台本の台詞と自分の言葉が少しだけ重なった。二拍半の“間”を、胸の中で一度置き直す。
机の右上には置かない。今夜も、窓の桟。月の来る方向へ。
商店街の端、試作工房。
扉の鐘が鳴る音の直前、誰かがノズル付きの絞り袋を置いた。箱の角を指でなで、等幅の薄い札を見つめる。
――返します。食べる前に。
窓の外を、四つの影が通り過ぎる。
扉が開く音は、夜風に混じって小さく溶けた。
商店街の端の工房は、表札の代わりに小さなランプがぶらさがっていた。ランプシェードの縁に薄い緑の粉がついていて、夕方の光にうっすらと浮く。扉の鐘が鳴ると、奥から白衣にエプロンの人が出てきた。年齢のわりに指の動きが若い、癖のない所作。
圭佑「学校の方?」
江莉奈が軽く会釈する。「視聴覚室への“箱”の件で。少しだけ、お時間を」
江莉奈「どうぞ」
工房の人は、カウンターの内側で手を拭いた。「“ピュアホワイト・ミッドナイト”のご予約はたしかにありました。札は、お客さま持ち込み。紙は薄くて、角に“トンボ”。等幅の活字です」
江莉奈「持ち込まれた方の特徴は?」
江莉奈「マスクと帽子。背は高くも低くも。手は細く、爪は短い。お代は現金。『食べる前に返します』と、置き札の添付も希望されました」
秋徳「『返します』の対象は?」
秋徳が淡々と聞く。
秋徳「そこまでは。…………ただ、“学校の皆さんが怖がらないように”と。よく通る、若い声でした」
啓が自分で自分に口チャックの動作をしてから、小さな声で「かわいいの定義は、保留」と付け足す。場の角が、ほんの少し丸くなった。
チャーリー啓「この“札”と同じ紙、もう一枚、いただけますか。証拠ではなく、運用のために」
江莉奈がそう言うと、工房の人は引き出しから見本を取り出し、片隅に小さく“工房控え”と鉛筆で書き、渡した。
江莉奈「学校関係は要予約です。…………よければ、“責任の線”がわかる運用を、学校の中で。こちらも助かりますから」
江莉奈「もちろん」
江莉奈は深く頷き、名刺大の紙の端をクリップで留め直した。
店を出ると、道の真ん中で豪一郎が歩幅をほんの少し広げた。誰かが後ろから来てもぶつからないように、自然と道が広がる。
豪一郎「対話の扉は半分開いた。犯人捜しじゃない。線を引ける場所まで、案内してもらった」
豪一郎「うん」
秋徳が短く応じ、啓が銀の筒を抱え直す。「今日の僕の役目は、音を鳴らさないこと!」
秋徳「それがいちばん“かわいい”」
秋徳「名言!」
たわいない応酬に、緊張が一段だけ下がった。
そのころ学校では、文乃が一人で視聴覚室に残っていた。二拍半の“間”を胸の中で折りたたみ、声を出さずに台詞を並べる。扉の向こうで一年の女子が貼り紙を手にうろうろしているのに気づく。
文乃「どうしたの?」
文乃「無署名で“注意喚起”の紙を貼ろうか迷ってて…………。名前を書くと角が立つ気がして」
文乃「名前がある方が、角が丸くなることもある」
文乃は微笑み、紙とペンを受け取った。「“お願い”。“理由”。“責任の人”。三つ並べると、読む人の呼吸が揃うよ」
女子は迷って、書く。「掲示の角をピンで留めなおしてください。はがれて落ちると危ないから。責任:一年三組 相沢」
一年生「ありがとう。いい線」
名前を書いた紙は、驚くほどすんなり掲示板に受け入れられた。無署名の恐怖より、署名の勇気のほうが、場の空気を軽くする。
午後、四人が戻るころには、棚の取り付けも終わっていた。視聴覚室の壁は、新しい木のにおいで薄く満ちている。
一年生「店側の記録は正規。札は持ち込み。声は若い。――“対話”は可能」
江莉奈が報告を置き、名刺大の紙を机の真ん中へ滑らせた。「それから、生徒会として“返却箱”を作る。場所は生徒会室前。ルールは三つ。①署名(連絡先の学年組だけ可)②“返す物”の記述③取り扱いは会計が管理」
江莉奈「鍵は私が」
江莉奈の鍵束が、透明な音で応える。
江莉奈「返却箱の掲示文、任せて」
文乃はさらさらと書いた。“返す先はこちら。掴むと曇り、手放すと光る――手の跡が残るのは、いい触れ方のときだけ”。
文乃「…………うん、好きだ」
圭佑の声は小さく、どこにもぶつけない。竜頭へ行きかけた指は、今日も触れない。
読み合わせを再開する前に、啓がそっと手を挙げた。
チャーリー啓「返却箱、音は鳴らさないけど…………“かわいいランプ”はどう?」
チャーリー啓「定義は」
チャーリー啓「“怖くない光”。温かい色。消し忘れ防止のタイマー付き!」
チャーリー啓「安全要件を満たすなら採用」
秋徳の即答に、啓は飛び跳ねそうになって堪えた。
稽古。二拍半の“間”は、観客の呼吸一回ぶん。文乃が置けば、豪一郎が受ける。受けるときの肩の角度が、舞台の進路を自然に作る。
文乃「――『巻き戻しは、優しさの顔をする。でも、私たちの“失敗する権利”まで食べないで』」
返ってくる静けさは、昨日より柔らかい。
文乃「今の、いい」
文乃「ありがとう」
休憩明け、掲示板の前に人だかり。
白い封筒が一つ、返却箱の手前に置かれていた。封は糊付けされていない。
“返します。食べる前に。――願いは、食べさせないで”
中には、小さな銀紙が二枚、丁寧に畳まれて入っている。古い祭りの屋台の透かし。隕石のかけら味――子どもの字。
圭佑の視線が、ほんの一拍だけ止まった。
圭佑「保管」
江莉奈の声で空気が静まる。「“返す先はこちら”の運用、今日から始める。扉が、もう少しだけ開いた」
夕方の空気が視聴覚室の窓で薄く揺れた。撤収。コードは二重に留め、レンチは箱に戻し、台本に折り目はつけない。
圭佑「鍵、閉めます」
透明な音。
廊下を出たところで、曲がり角の足音がまた速かった。
圭佑「すみませーん!」
豪一郎の手が先に出て、背中を優しく押して進路を変える。
豪一郎「廊下は試合会場じゃない」
豪一郎「は、はい!」
ぶつからない。怒鳴らない。けれど、伝わる。
圭佑は一歩だけ後ろへ引いて、足場を作った。竜頭には触れない。触れない代わりに、“普通の速さ”で間に合うように。
昇降口の影で、二人分の足音がほんの二秒、重なった。
豪一郎「送ろうか」
豪一郎「いらない。偶然で会えるなら、それで」
豪一郎「了解」
文乃が歩き出したあと、圭佑は言葉を足さなかった。足さない努力は、誰にも見えないぶんだけ体力を使う。けれど、彼の呼吸は今日、昨日よりわずかに揃っている。
圭佑「…………俺の願いは、食べさせない」
誰にも聞こえない声で、彼は一度だけ言ってみた。言葉は頼りなく、それでも、竜頭から遠い方の手がポケットの内側で握って、開く。
家へ戻ると、文乃は窓の桟の欠片を掌に載せた。掴めば曇り、離せば光る。
文乃「返却箱、うまくいきますように」
願いは、食べさせない。胸の内側で二拍半を置き、そっと桟へ戻す。
机の右上には、今日も置かない。置かないことで、胸の音が落ち着く。
その夜。
生徒会室の前、返却箱の小窓の内側で、啓が組んだタイマーランプが柔らかく点いた。温かい色、怖くない光。
廊下の向こうから、細い影が一つ近づいてきて、立ち止まる。封筒を持つ指は細く、爪は短い。
――入れる前に、しばらく、立ったまま。
やがて封筒は入らなかった。代わりに、箱の上の掲示に指がそっと触れた。“手の跡が残るのは、いい触れ方のときだけ”。
指は、触れたその場所の温度だけを置いて、去っていく。
翌朝、返却箱の小窓には、封筒ではなくメモが一枚。
“対話の線、ひいて。――食べる前に、話したい”
署名欄には、学年と組だけが丁寧に記されていた。
扉が、今度ははっきりと、開く音を立てた。



