〇豪一郎の家の道場・午後。
 道場編の。空間の端が視界に残り、中心が少し広い。
 置かれた道具が、この場の用事を物語る。
 豪一郎の家の道場は、畳の匂いと木の梁の影がよく似合う。午後の光がすりガラスを四角に割り、柱の節目に薄い金色を置いていく。物置の戸を引くと、乾いた埃がふわりと上がった。
  段ボールの山、古い大会のポスター、練習用のミット。その一番手前に、白い包みがひとつ。小さなタグに、等幅の冷たい文字でただ一行――「お持ち帰りください」。包みは軽く、振ると箱の中でなにかがやわらかくぶつかる。
 豪一郎「差出人不明。開封前に記録します」
  江莉奈がスマホで全方向から写真を撮り、クリアファイルにメモを差し込んだ。「無署名物は、文化祭準備でも“一旦保管”。食べ物は特に」
 江莉奈「了解」
  豪一郎は段ボールを積み直し、通路を広くする。大きな手の置き方が自然で、畳がきしむ音まで穏やかに聞こえた。
 豪一郎「じゃ、検査いきます!」
  チャーリー啓が銀色の筒――“チョコ発見器・安全版”――を胸の前で抱えてスイッチに親指を置く。「今日は“かわいい”設定だから近所迷惑なし!」
 チャーリー啓「“かわいい”の定義は」
 チャーリー啓「気持ちの問題!」
  ぴ。
  高くて短い一音が、すりガラスに当たって弾む。筒先のLEDが一度だけ瞬き、白い包みへ小さく傾いた。
 チャーリー啓「反応あり。たぶんチョコ」
 チャーリー啓「たぶん、で口に入るものではない」
  秋徳が手帳に“検査=陽性/開封=保留”と書き、包みをビニールに移すためのトングを差し出した。誰かが頼む前に、最短距離で必要なものを差し出すのは、彼女の良い癖だ。
  圭佑は、包みに目をやりながら黙って手袋をはめた。腕時計のガラスに細い白線が、光の角度で現れては消える。竜頭の位置を確かめる癖は、今日も出かけてやめる。
 圭佑「…………開けるなら、ここじゃなくて縁側で」
 圭佑「賛成。換気」
  豪一郎が雨戸を少し開け、風の通り道を作った。
  縁側に腰を下ろし、ビニールの上で包みをほどく。白い紙の内側から出てきたのは、黒い小箱。蓋に銀の箔押しで「ピュアホワイト・ミッドナイト」とある。
 圭佑「名前の勝ち」
  文乃が息で笑い、箱を傾ける。啓の筒が“かわいい”音で二度鳴った。
  中には、白い石のかたちをしたチョコレートが六つ。うっすら緑がさす粉がまぶされ、光の角度で色が深くなる。掌に載せれば、きっと少しだけ曇ってから、また光るのだろう。
 圭佑「…………形、完全に“ムーンジェイド”だ」
  圭佑の声は低く、どこにもぶつけない温度だった。
 圭佑「食べるのは保留」
  江莉奈が即決する。「“無署名の恐怖”は読者を疲れさせる――台本の台詞にもするけど、まずは私たちのルール。記録、保管。摂食は“差出人確認後”」
 江莉奈「語彙が硬いのに、理解しやすい」
  秋徳がうなずき、メモに線を引く。
  そのとき、啓の筒が小刻みに鳴った。ぴ、ぴ、ぴ――。先端がチョコの列から少し外れて、箱の右下、黒い緩衝材の切れ目へ傾く。
 チャーリー啓「まだ反応…………あ、そこ、なにか挟まってる」
  緩衝材をピンセットで持ち上げると、底の角に白い硬質がひとつ。チョコではない。空気を食むような冷たい白。
  指でつまめば、角が少しだけ丸い。
  文乃は息を止めて、手のひらに受けた。
 文乃「…………これ」
  机の右上に置くはずだった、あの白い欠片と、ほとんど同じ。いや、爪の先で触ると、角の丸みが指の記憶と重なる。
 文乃「私の、だ」
  声に出した瞬間、喉の奥でなにかがほどけた。怒りでも、安堵でもない。ただ、線を引ける種類の感情。
 チャーリー啓「返ってきた、ってこと?」
 啓が半歩前に出る。
 チャーリー啓「誰が? どうやって?」
 チャーリー啓「…………“食べる前に”戻す、っていう皮肉」
  江莉奈は封筒と同じ等幅文字の紙切れ――「ムーンジェイドは、願いを食う」――をチョコの下から取り出し、クリアファイルに収めた。「内容は反復。送り手は、場をざわつかせたい。けれど責任の線からは逃げてる」
 江莉奈「嫌い」
  秋徳の口から、珍しく主観が落ちた。すぐに「議事には不要」と付け足して、手帳を閉じる。
  箱を保管袋に入れ、作業を棚探しに戻す。重い木棚を動かすときは、掛け声を合わせる。
 江莉奈「いち、に――」
  豪一郎が腰を落とし、文乃が支え、啓がキャスターを差し込む。
  圭佑は反対側で角を持ち上げようとしたが、指の腹が節に引っかかって皮がめくれた。
 圭佑「痛っ」
  血は出ていない。けれど痛点の鋭さに、反射で手が離れる。竜頭に行きかけた指が、宙で止まる。
 圭佑「待って」
  文乃がポーチから絆創膏を出し、無駄のない動きで彼の指を包んだ。
 文乃「三分戻して“角にぶつけない自分”にすり替えるより、次に手を置く位置を覚えて」
  言いながら、彼の指先を棚のなめらかな面へ導く。触れるか触れないかの距離。
 文乃「――普通の速さで、大丈夫」
  圭佑は、息を一つ吐いた。絆創膏の端が彼の体温で馴染み、腕時計の白い傷が光でも影でもない色に見えた。
 圭佑「…………努力する」
 圭佑「知ってる」
  棚の奥から出てきた小さなブリキ箱は、古いお祝い品の入れ物だった。茶色いリボンの跡、角のつぶれ。蓋を開けると、昔のチョコの銀紙が二枚、丁寧に畳まれて入っている。
 圭佑「祖父の物置は、時間の標本箱だな」
  豪一郎が笑い、畳に腰を下ろす。
 豪一郎「この銀紙、見覚えがある」
  圭佑は指先で角を撫で、視線を落とした。銀紙の折り目が、不意に遠い夕方を呼び寄せたように見えた。
  啓が「写真、あるかも」と言ってブリキ箱の底を探る。ポラロイドが一枚。祭りの屋台の前で、幼い圭佑が女の人の手を握っている。木札の“流れ星チョコ”。段ボールの看板に、幼い字で“隕石のかけら味”。
  彼は、押さなかった。写真を裏返して、静かに元に戻した。
 豪一郎「…………関係ない」
  声は短く、感情の形は見せない。けれど、文乃は見ないふりをしなかった。
 文乃「関係は、ある。いま聞かないだけ」
  言い切ってから、彼の袖をほんの少しだけ引いた。触れないための距離を守ったまま。
  作業は淡々と進み、必要な板と金具を分け終わるころには、外の光が少しだけ傾いていた。
 文乃「よし、積み込み。落下防止のひも、二重」
  豪一郎が指差しで確認し、秋徳がチェックリストに印をつける。
 秋徳「チョコ箱は、私が保管。ムーンジェイドの欠片は――」
 文乃「私が持つ」
 文乃は欠片を指先ではなく、布の袋に入れてトートの内ポケットへ収めた。
 文乃「机の右上には、今日は戻さない。明日もわからない。…………“手放す練習”は、場所を変えて続ける」
 豪一郎「了解」
  江莉奈は“個人保管(本人意思)”と書き加え、ファイルを閉じた。
  帰りしな、啓の筒がふいに鳴った。ぴ。
 チャーリー啓「ん? チョコは袋の中…………」
  ぴ、ぴ。
  筒先が、文乃のトートの外側――内ポケットの位置に向かう。
 文乃「ちょ、ちょっと待って。チョコは入れてないよ」
 文乃「検出は“カカオ気化分子”。誤反応の可能性…………低い」
  秋徳が淡々と言い、啓が目を丸くする。「まさか、欠片にチョコを擦りつけたとか?」
 秋徳「そんなこと、する?」
  文乃は内ポケットから布袋を取り出し、紐をゆっくり解いた。白い欠片が、やわらかな布の上で光る。石自体は匂いを持たない。けれど布袋の内側、目に見えないところに、甘い匂いの薄い輪。
  江莉奈が袋の縫い目を指でこすり、嗅いで、頷いた。「…………バター。たぶん“ココアバター”。誰かが、置く前に手で触った。ハンドクリームの可能性もあるけど、匂いの向きは――」
 江莉奈「“入れた手”の話、だね」
  文乃は布袋を閉じ、筒の音が止まるのを待った。
 文乃「犯人探しは、今はしない。明日、劇の読み合わせ。そっちを優先。チョコ箱は保管。欠片は、私が見張る」
  そう言う彼女の声は、誰かを断罪しなかった。けれど、線は引いていた。
  圭佑が、竜頭から遠い方の手でポケットを握った。そこにはなにも入っていない。空っぽの場所に、熱だけがある。
 圭佑「…………送ろうか」
 圭佑「いらない」
  文乃は笑って首を振った。「“偶然”で会えるなら、それで」
  門までの道の途中、啓が足を止めた。
 チャーリー啓「ねえ、これ、展示のコピーに使わない? “掴むと曇り、手放すと光る”――に、“匂いの輪”を足すの。見えないものを“可視化する”展示」
 チャーリー啓「“可視化”の目的は?」
  秋徳の問いに、啓は胸を張った。
 チャーリー啓「境界線。触れていいときと、触れないとき。手の跡が残るのは、いい触れ方のときだけ」
 チャーリー啓「コンセプトは良。実装は後日検討」
  江莉奈が笑い、豪一郎が「いいね」と一言で温度を上げる。
  夕暮れの色が、畳の目にゆっくり沈んでいく。
  ピュアホワイト・ミッドナイト――白い光は、掴むと曇り、手放すと光る。
  願いは、どうだろう。
  チョコ箱の中の紙片は言う。ムーンジェイドは、願いを食う。
  食われる前に、誰が、どこまで、守れるのか。
  答えのない問いを、みんなで少しずつ持ち帰った。
 縁側の空気は、乾いた畳の匂いと、箱から立ちのぼる甘さで満ちていた。白い包みは保管袋へ、等幅の紙片はクリアファイルへ。作業の手は止めず、視線だけがしばらく箱の名残を追う。
  “ピュアホワイト・ミッドナイト”。
  呼べば、舌の上に薄いミルクの響きが残る。文乃は、布袋にしまった白い欠片をトートの内ポケットに収め、紐をしっかりと結んだ。掴めば曇る、手放せば光る。――今日は、掴まない。光らせない。胸の内側でそう決め直す。
 文乃「棚、奥の二段は分解して持ち出す。ビスは数が怪しいから、なくすなよ」
  豪一郎が段取りを置き、畳の上で工具を広げた。ドライバーの先が光を拾い、手袋の繊維がかすかに鳴る。
 豪一郎「了解」
  圭佑は工具箱から六角レンチを選び、一本だけ短い方を上にして握り直した。竜頭へ行きかけた指は、今日は一度も触れない。ただ、時計のガラスに刻まれた細い白線が、時々光に浮かぶ。
  作業は、体の“間”で進む。重い側に大きい人、細かい手には器用な人。秋徳はビスの頭をトレーに並べ、向きを同じに揃える。誰も頼んでいないのに、流れが滞らない角度をいつも探す。
 秋徳「向かって右の棚は木地が弱い。持ち上げず、滑らせる」
  淡々とした助言に、豪一郎が「任せた」と短く返す。言葉は少ないのに、筋の通り道は広い。
 豪一郎「検出器、作業中はオフにするからね」
  チャーリー啓は銀の筒を胸に抱え、スイッチから指を離したまま宣言した。「安全第一、かわいい第二!」
 チャーリー啓「第二の定義は依然として未確定」
  秋徳が手帳に一行だけ書き、トレーを軽く寄せる。啓は肩をすくめ、照れくさそうに笑った。
  ビスが一本、畳の縁で逃げた。ころ、と小さな音。文乃の指が滑らかに追い、逃げ道をふさぐみたいに掌を落として止める。
 文乃「ありがとう」
 文乃「どういたしまして」
  言葉のやり取りは小さい。けれど、場の呼吸は揃っていく。
  白い包みを撮影し終えた江莉奈は、写真をフォルダ分けし、ファイル名の先頭に「日付・場所」を入れた。
 江莉奈「“無署名の恐怖は読者を疲れさせる”――台本の台詞は、そのまま私たちの運用にもする。差出人がわかるまでは食べない、使わない、拡散しない。…………これで、文化祭前の“ざわつき”に飲まれなくて済む」
 江莉奈「賛成」
  文乃は頷き、内ポケットに触れずに、腹の奥で小さく息を整える。
  棚の分解が半分ほど進んだころ、啓が「水分補給」と言ってペットボトルを配った。
 チャーリー啓「文乃、はい」
 チャーリー啓「ありがとう」
 チャーリー啓「圭佑も。…………あ、絆創膏どう? さっきの」
 チャーリー啓「平気」
  圭佑は短く答え、ペットボトルのキャップを“普通の速さ”で開けた。竜頭に触れない代わりに、キャップのミゾをきちんと噛ませる――そんな、どうでもいい場所の几帳面さで落ち着きを作る。
 圭佑「ところで」
  豪一郎が工具を置き、円の中心を見るみたいに視線を回した。
 豪一郎「この“ピュアホワイト・ミッドナイト”、近所の店で見た気がする。商店街の端、手作り菓子の小さな店。箱の角の処理が同じだ」
 豪一郎「ブランドの特定、やってみる」
  江莉奈がメモを取り、スマホでは検索をしない。「今日は現物優先。明日、商店街に確認。学校名での差し入れなら記録があるかもしれない」
 江莉奈「“記録がある前提”で動かないの、好き」
  文乃の言葉に、江莉奈は目だけで微笑んだ。
  外から、小さく風鈴が鳴った。縁側のすりガラスがきらりと震え、畳の目に光の格子が一瞬だけ置かれる。
 江莉奈「よし、二段目いく」
  豪一郎の声で、みんなの体がもう一度“作業の形”に戻る。手は止まらず、会話も途切れない。
 豪一郎「…………ねえ」
  文乃は、レンチを受け渡すタイミングでふと口を開いた。
 文乃「もし“願いを食う石”が本当にあったら、君は何を差し出す?」
  問いは、劇の台詞と現実の真ん中に落ちた。
  圭佑は、即答しない。腕時計の白い線が、光の向きで消えては現れる。
 圭佑「――俺の願いは、あげない」
 圭佑「意外」
 圭佑「俺のは、俺のだ。…………もし“何かを払う”なら、“時間の使い方”を変える」
  文乃は、口の中でその返事を転がす。意外で、正直で、扱いにくくはない。
 文乃「“嫌よ嫌よも好きのうち”っていう言い方、私あまり好きじゃないんだ」
 文乃「うん」
 文乃「“嫌”って言ったら“嫌”。“好き”と言ったら“好き”。遊びがないように見えるけど、その方が、心は楽」
  圭佑は、頷く代わりにビスの袋をそっと開いた。返事を短くする“努力”を、今日も続ける。
  作業は、夕方の色に追い抜かれるように進んだ。二段の棚は無事に分解され、金具はなくならず、紐は二重になり、持ち出しは安全に終わる。
 文乃「運搬、校内の搬入口に申請出しとく」
  江莉奈がスマホのカレンダーを開き、時間帯を仮押さえする。「生徒会処理は私がやるから、みんなは明日の読み合わせを優先」
 江莉奈「助かる」
  豪一郎が深く頭を下げ、畳に片膝をついて金具の数を数え直す。大きな体が、畳の上では不思議と場所を取らない。
  撤収の直前、啓の筒が、オフのはずなのに一度だけ“ぴ”と鳴った。
 チャーリー啓「え、待って。オフオフ…………あ、ごめん、指が当たった」
  LEDがひときわ小さく瞬き、先端は縁側の外――道場の庭の隅に立つ古い灯籠の方角を指した。
 チャーリー啓「外にも、甘い匂い?」
 チャーリー啓「風下だし、誤反応の可能性はある」
  秋徳は言い切りながら、玄関のサンダルを揃えた。「でも、確認はする」
 秋徳「行く」
  豪一郎が先に立ち、灯籠の根元へ向かう。砂利が小さく鳴り、竹ぼうきの影が細く揺れる。
  灯籠の台座に、白い封筒が一つ。雨に濡れていない。置いたのは、ついさっき。
  等幅の冷たい文字――ではなかった。今度は、手書き。癖のない、まっすぐな字。
  “返します。食べる前に。
  ――願いは、食べさせないで”
  短い二行。封は糊付けされておらず、中には何もない。
 秋徳「…………“返す”?」
  文乃は小さく繰り返し、トートの内ポケットに手を伸ばさずに、もう一度息を整えた。
 文乃「封筒は保管。筆跡は、明日」
  江莉奈がクリアファイルに挟み、ペンで“庭・灯籠下・手書き”と記す。
 江莉奈「手書きになったの、なんでだろ」
 江莉奈「“責任の線”が、やっと可視化されたのかもしれない」
  秋徳は感情を挟まずに言い、啓は胸の前で筒を抱え直す。
 秋徳「かわいい音、今日は鳴らさないほうがいい?」
 秋徳「鳴らさなくていい」
  文乃が笑って、肩の力を少し抜く。「でも、展示では鳴らして。かわいいの定義は、私が決める」
 文乃「えっ、定義が与えられる世界…………!」
  啓が大袈裟に震え、豪一郎が「落ち着け」と笑った。
  日が落ちる。みんなで戸締まりを確認し、鍵を回す音が一度だけ道場に響く。
 文乃「送ろうか」
  門を出るところで、圭佑が言った。
 圭佑「いらない。――“偶然”で会えるなら、それで」
 圭佑「…………了解」
  今日二度目の“努力する”は、言葉にならなかった。ただ頷き、竜頭から遠い手をポケットの内側で握って、開いた。
  商店街へ向かう角で、啓が立ち止まった。
 チャーリー啓「ねえ、明日、店の確認いくときさ。三人以上で行こう。江莉奈と俺と秋徳と、時間が合えば豪一郎。…………で、圭佑は、別ルートで“箱の出どころ”を探して。仕入れの紙、包材のロット番号。理科準備室で照合できるかも」
 チャーリー啓「できる」
  圭佑は短く答え、視線を文乃へ向けるのは一瞬だけに留めた。
 文乃「私は?」
 文乃「主演は、声を温存」
  豪一郎が言い、彼女にスポーツドリンクを一本渡した。「明日の読み合わせ、二拍の“間”は今日より半拍長く。観客の呼吸が揃う」
 豪一郎「了解」
  文乃は受け取り、笑う。笑う角度で、内ポケットの布袋がトートの内側で小さく擦れた。匂いは、もう鳴らない。
  夜、部屋。
  机の上、右上の定位置に、白い欠片は置かない。窓辺のコップの水面に、街灯の白が細く揺れる。
  台本の余白に、今日の一行を足す。“嫌よ嫌よ、じゃない。嫌なら嫌。好きなら好き”。
  ペン先を止める前に、スマホが震えた。秋徳からの連絡。
 《明日、商店街調査チーム(江莉奈・啓・秋徳・豪一郎)。圭佑=包材ルート。文乃=読み合わせ優先。》
  続けて、江莉奈。
 《灯籠封筒、保管完了。手書きは“筆跡サンプル”と照合予定(校内公開資料のみ)。》
  そして、啓。
 《かわいいの定義:文乃が決める(暫定)。》
  文乃は吹き出し、返信を短く送る。
 《暫定は長生きする。覚悟》
  送信の青が消えたあと、机の右上にそっと手を置いた。何も置いていない場所に、温度だけが残る。
  掴むと曇る、手放すと光る。願いは――食べさせない。
  そう書かれた封筒の二行目が、脈のように胸で反芻される。
  そのころ。
  商店街の端、小さな菓子店の奥で、誰かがノズル付きの絞り袋を置いた。白いチョコに緑の粉を薄く散らし、箱の角を丁寧に折る。
  レジ脇には、予約帳。ページの端に、等幅の印字で小さく“納品:視聴覚室”。
  ページをめくる指は細く、爪は短い。癖のない字を書く人の手だ。
  閉店の札を裏返す音は、外へは漏れない。けれど明日、その音の余韻が、誰かの足をそっと商店街へ向ける。
 翌日の昼下がり、視聴覚室の暗幕は三分の一だけ降ろされ、白い幕に午後の光がやわらかい梯子を描いていた。配られた台本の角がそろい、机の上にはガムテープ、ホチキス、そして小道具用の透明樹脂片が三つ並ぶ。
  読み合わせの最初の一行で、文乃は二拍、間を置いた。空気がその二拍ぶんだけ深く沈み、豪一郎が受ける台詞の入口が自然に開く。
 豪一郎「今の間、ちょうどいい」
  豪一郎の声は低く、強すぎない。
 豪一郎「了解」
  文乃は短くうなずき、ページをめくる指を一度だけ止めた。机の右上に、白い欠片は置かない。置かない選択を、今日は稽古の前にもう決めている。
  端の席では、圭佑が小道具の樹脂片を掌で転がし、照明の角度を確かめていた。掌に乗せればうっすら曇り、離せばまた光る。竜頭へ行きかけた指は、机の縁で止める。
 圭佑「掴むと曇る、手放すと光る」
  彼の独り言に、文乃は声を出さず笑う。笑いの角度で、場の緊張が一段だけほどけた。
  後方の扉が静かに開いて、江莉奈・秋徳・啓が戻ってきた。商店街調査組の帰還だ。胸の前のクリアファイルには、いつもより多い付箋が色を差している。
 江莉奈「ただいま。報告、短く」
  江莉奈は、要点だけを置く調子で話し始めた。
  ――商店街のはずれの小さな菓子工房。「ピュアホワイト・ミッドナイト」は実在。受注は“予約帳”に記録。問題の箱のページには、等幅フォントで“納品:視聴覚室”と印字された小片が貼られていた。店側の説明では「お客さんが持参した“納品札”を、箱に添付してほしいと頼まれた」とのこと。差し出したのは若い声の人。名乗りなし、現金払い。
 豪一郎「ロット番号は?」
 と豪一郎。
 豪一郎「蓋の内側に小さく“PWM-17K”。店の出庫記録とも一致」
  秋徳は淡々と答え、卓上に印刷した写真を置いた。角が潰れないよう、台紙の真ん中に透明テープで留めてある。
 秋徳「“視聴覚室”の札、等幅フォントは学校の共用PCに入っている書体と似ていました。細部は後日、情報室で照合」
 秋徳「店の人の“手書き”は?」
 秋徳「癖のない、まっすぐな字。昨日、道場の灯籠にあった封筒の字と近い可能性。ただし断定はしない」
  啓は銀の筒を胸に抱えたまま、小声で補足した。
 チャーリー啓「検出器は“安全運用”。店の外では鳴らしてません。かわいいの定義は…………保留!」
 チャーリー啓「保留、了解」
  江莉奈がさらりと笑い、報告を締める。「“無署名の恐怖は読者を疲れさせる”。台本に入れる台詞、やはり有効だと思う。言葉にして線を引くのは、見る人の呼吸を整える」
  読み合わせは、報告を挟んで再開した。文乃が息を整えるたび、圭佑の視線がほんの一瞬だけ上がり、また作業へ落ちていく。
 文乃「――『巻き戻しは、優しさの顔をする。でも、私たちの“失敗する権利”まで食べないで』」
  台詞が幕に当たり、ゆっくりと返ってくる。
 文乃「よし。今の“食べないで”、半拍長く」
 文乃「了解」
  次のテイクでは、半拍ぶんの静けさに、教室の外の風の音が薄く混じった。
  休憩の合図で、紙コップの水が配られる。豪一郎は、重い椅子を片手で軽く寄せ、通り道を空けた。
 豪一郎「圭佑、指は平気か」
 豪一郎「平気」
 豪一郎「なら、棚の金具、明日取り付け。俺が梯子を押さえる」
 豪一郎「頼む」
  短い言葉の往復で、仕事の輪郭が固まる。圭佑は竜頭から遠い方の手で、ポケットの内側を握って、開いた。空っぽの場所にある体温だけで、拍を揃える。
  十分後、読み合わせの山を越えたところで、視聴覚室のひとつ奥――掲示板の前に小さな人だかりができた。
 豪一郎「また出た?」
  誰かの声に、江莉奈がすっと前に出る。
  白い紙が一枚。昨日までと同じ等幅ではなく、手書きだった。癖のない、まっすぐな字。
  “返します。食べる前に。――願いは、食べさせないで”
  文面は、道場の灯籠で見た二行と一致。
 江莉奈「掲示板の投書は“私の許可制”。これは一旦、預かる」
  江莉奈は躊躇せず掲示から外し、クリアファイルへ滑り込ませた。
 江莉奈「“返します”なら、返す先がある。次は、そこまで書いてもらおう」
  ざわめきを視界の隅に置いたまま、稽古に戻る。声を重ねる作業は、雑音よりも強い。秋徳は端の机で、淡々と議事メモを取り続けた。
 《本日の決定:投書は手書き化/札の印字は“持込”/ロット番号PWM-17K/台詞『無署名の恐怖は――』採用》
  文字が一行ずつ増えるたび、場の動線が目に見えないところで整う。
  終業のチャイムが遠く鳴り、教室を片づける音がいくつも重なった。視聴覚室も、最後の一息に入る。
 江莉奈「鍵、閉めます」
  江莉奈が合図し、豪一郎が延長コードを巻く。啓は銀筒をケースにしまい、秋徳は紙の束を角でそろえる。
  文乃は台本をファイルに収め、深呼吸をひとつ。机の右上へは手を伸ばさない。伸ばさないことで、胸の音が静まる。
  昇降口へ向かう廊下で、曲がり角の先から一年生の走る足音。
 一年生「すみませーん!」
  勢いのまま曲がり切れず、人の列に食い込もうとした瞬間、豪一郎の手がすっと出て、背中を軽く押して進路を変える。
 豪一郎「廊下は試合会場じゃない」
 豪一郎「はい!」
  ぶつからない。怒鳴らない。けれど、伝わる。
  圭佑は、その場面で指を上げかけて――下ろした。竜頭には触れない。触れないかわりに、足を半歩ずらして道を作る。
 圭佑「…………ね?」
  文乃が横目で言うと、彼は視線だけで頷いた。
  校門の外、風は夜の匂いに変わりかけていた。商店街の方角に、提灯の赤がひとつ灯る。
 圭佑「明日、店にもう一度行く。納品札の紙質、学校の印刷室の在庫と比べる」
  江莉奈の段取りに、秋徳が「照合作業、手伝う」と短く重ねる。
 圭佑「俺は棚の取り付け」
 秋徳「私は発声調整。半拍、長めで」
 圭佑「俺は――」
  圭佑は言いかけて、言葉を飲み込んだ。誰かの予定に自分をねじ込まないのも、努力の一部だ。
 圭佑「…………小道具、もう一本作る。予備の予備」
 圭佑「助かる」
  豪一郎が笑い、手の甲で額の汗をぬぐう。「今日は解散。各自、安全に」
  散っていく足音の中、文乃と圭佑だけが校門の影で二秒ほど並んだ。
 圭佑「送ろうか」
 圭佑「いらない。偶然で会えるなら、それで」
 圭佑「了解」
  彼は、短く言った。
 圭佑「…………“努力する”じゃなくて、“了解”なんだ」
 圭佑「努力は俺の中でやる。君に言うのは、“了解”でいい」
  言葉は乾いていないのに、過剰な湿り気がない。文乃は、喉の奥で小さく笑った。
 文乃「じゃあ、“了解”。また明日」
  帰宅後、机に台本を置き、窓辺のコップに差したガーベラの花弁をひとつだけ撫でる。夜の温度で花は少し閉じ、朝にはまた開く。
  布袋の紐をほどき、白い欠片を掌に載せた。掴めば、うっすら曇る。離せば、光る。
 文乃「…………今日は、ここ」
  机の右上ではなく、窓の桟の上。月の来る方向へ、少しだけ斜めに。
  置く場所を変えるだけで、胸の置き場所も変わる。そう思いながら灯りを落とし、ベッドに身体を沈めた。
  目を閉じる直前、スマホが一度震える。
 《納品札、学校フォントと類似。明日、印刷室。》江莉奈
 《棚、朝いちで搬入可。》豪一郎
 《かわいいの定義、明日こそ確定(暫定)。》啓
 《“無署名の恐怖”の台詞、二拍→二拍半で。》秋徳
  文乃は短く返信した。
 《了解。二拍半=呼吸一回ぶん》
  送信の青が消え、部屋の暗がりに目が慣れていく。窓の桟の小さな光点――掴むと曇り、手放すと光る。
  願いは、食べさせない。
  胸の奥で、その二行目だけをもう一度読み、眠りへ降りていった。