〇視聴覚室・放課後。
劇脚本始動の。空間の端が視界に残り、中心が少し広い。
置かれた道具が、この場の用事を物語る。
視聴覚室の暗幕は半分だけ下ろされ、夕陽がスクリーンの端を薄く染めていた。机の上にはホッチキス、付箋、ガムテープ、そして透明樹脂の試料。白い粉末の小瓶に「光学パール・緑相」とペンで書かれている。
豪一郎「段取り、確認します」
秋徳がボードの前に立つ。声は平板で、テンポは正確だ。
秋徳「一、配役仮決定。二、舞台装置の安全確認。三、小道具“ムーンジェイド”の仕様決め。四、稽古スケジュールの共有。以上を四十五分で終える」
秋徳「はい、四十五分。健康的!」
チャーリー啓が銀色の筒を抱え直し、今日は自制心を見せてスイッチに触れない。胸ポケットのビタミン剤だけが、いつも通りにぎやかだ。
豪一郎は椅子を一脚だけ後ろに引き、全員の顔が視界に入る位置へ移動した。体の置き方が自然に“場”を丸くする。
豪一郎「立ち稽古は来週から。今日は読み合わせ重視。安全確認は俺が見る。段差とコード、全部テープで押さえる」
江莉奈「鍵と施錠は私が」
江莉奈は胸の前で鍵束を軽く振り、番号順に揃えながら言う。「開場・閉場時の立会いも私がやるから、忘れ物厳禁で」
文乃は配布用の台本を机の左右から同時に流し、詰まりそうな場所へは先に手を伸ばす。
文乃「一旦ここで止めます。――ありがとう」
詰まる前に礼を言うと、列はひとりでに流れ直る。彼女の“場を整える”手つきは、今日もよく効く。
圭佑は、透明樹脂の小さな塊を掌で転がした。照明の角度を変えるたび、白が緑に、また白へ戻る。
圭佑「温度で曇る加工、試したい」
圭佑「やけどしない温度域で」
豪一郎が即座に返す。
圭佑「もちろん。手の温度でうっすら曇って、離すと戻る。――“掴むと曇る、手放すと光る”」
言いながら、圭佑は竜頭に触れそうになった指を、机の縁で止めた。触れない。触れないかわりに、樹脂の端をヤスリでなでる。
圭佑「仕様、追記します」
秋徳がボードに細字で書き込む。“ムーンジェイド:①白→緑の遷移、②掌温で曇化、③舞台照明強でも反射で飛ばない”。
秋徳「あと、重量。ポケットに入る重さで」
秋徳「了解」
読み合わせが始まる。文乃の一行で、空気の高さが半歩上がる。豪一郎の台詞は芯がまっすぐで、相手を受ける時の呼吸が大きい。
文乃「――『三分戻せるなら、何から守る? 何を失う?』」
彼の声に、誰かの息が小さく呑まれた。
圭佑は読む側に回らず、小道具のスケッチを続ける。鉛筆の先は危ういほど尖り、紙の上で石の断面を何度も描き直す。
(押さない。押さない。普通の速さで)
自分に言い聞かせるたび、腕時計のガラスに細い白筋が、光の角度で現れたり消えたりする。新しい罅ではない――そう思い込みたいだけだと、どこかで知っている。
文乃「ここ、“二拍空けて”みて」
文乃「了解」
文乃は二拍、空白を置いた。ただの沈黙ではない。意味の入った、手のひら大の静けさ。
豪一郎「いい。今の間、観客の呼吸が揃う」
豪一郎が頷く。
休憩を挟んで、啓がついに銀筒のスイッチへ指を伸ばす。
チャーリー啓「発表します。“チョコ発見器”は文化祭でも展示予定。でも今は音、鳴らさない。安全第一、かわいい第二!」
チャーリー啓「第二の言語化が雑」
江莉奈がメモに“かわいい(未定義)”と書き、秋徳が隣に小さく“定義の必要性:低”と追記する。
作業再開――その矢先、スクリーン脇のスピーカーの上に、白い封筒がひとつ。誰かがふと見つけたのではなく、“視界に入るように”置かれていた。
江莉奈「差出人なし。開けます」
江莉奈は迷いのない手つきで封を切る。
出てきたのは薄い紙片。活字を切り貼りしたような、等幅の冷たい文字が一行だけ。
――ムーンジェイドは、願いを食う。
文乃の横で、豪一郎の背筋がわずかに伸びる。秋徳は顔の高さで紙を受け取り、角度を変えて光を当てる。
文乃「紙質、普通。裏、無印。指紋は…………素手では触ってない方がよかったですね」
江莉奈「ごめん」
江莉奈が苦笑し、すぐにファイルへ収める。
江莉奈「内容は、いたずらの可能性が高い。けれど“場をざわつかせる”力はある。――今は、演目の進行を優先。封筒は私が保管する」
文乃「“願いを食う”って、詩としては強いけどね」
啓が口の中で転がすみたいに言い、すぐに「いや、今は詩じゃない」と自分にツッコミを入れて黙った。
その後の四十五分は、驚くほど何事もなく進んだ。段差はテープで押さえられ、延長コードは足元の外側に逃がされた。舞台袖の動線は二本に分け、交差をなくす。
豪一郎「安全、よし」
豪一郎が最後に両手を打つ。
豪一郎「撤収する」
片づけの最中、文乃は小道具テーブルの端に置かれた樹脂片へとそっと手を伸ばした。掌で温度を移すと、石はうっすらと曇り、離すとまた光を増す。
文乃「掴むと曇る、手放すと光る」
圭佑の独り言が、机の上に落ちる。
圭佑「…………それ、好きだよ」
文乃は言ってから、指を離した。
文乃「“好き”は自由に言っていい」
文乃「わかってる」
撤収完了。椅子が机に収まり、スクリーンの白が壁の白に戻る。
江莉奈「鍵、閉めるね」
江莉奈が合図し、全員で最終確認。
扉へ向かう列の最後尾で、圭佑は一瞬だけ振り返った。スピーカーの上は、もう空だ。封筒は消え、残るのは言葉の痕だけ。
(願いを食う、か)
胸の中で言い直すたび、その言葉は食べられずに残った。
廊下へ出ると、空気は夜の手前。曲がり角を過ぎるタイミングで一年が走ってきて、豪一郎が自然に腕を広げて速度を落とさせる。叱らず、止める。止めるけれど、進路は奪わない。
豪一郎「廊下は試合会場じゃない」
豪一郎「すみません!」
やり取りの一部始終が、舞台の“間”みたいに気持ちよく収まる。
豪一郎「明日、読み合わせの続き。小道具の試作品は三つで足りる?」
圭佑「足りる」
圭佑が答える。
圭佑「ひとつは予備」
江莉奈「了解。私は十分前入りで開錠」
江莉奈が鍵束を握り直す。
啓は銀筒を抱えて大げさにうなずき、秋徳はメモを閉じる動作ひとつで会議を終わらせた。
視聴覚室の扉が閉まり、鍵が回る音が廊下に小さく響く。文乃はその音を背中で聞きながら、手のひらに残った“冷えた光”の感触を思い出す。
掴むと曇り、手放すと光る。――願いは、どうだろう。
胸の中で答えのない問いを丸め、ポケットにしまうみたいに歩き出した。
階段の下で、掲示板が風に少しめくれている。江莉奈がさっとピンを打ち直し、紙の四隅が揃った。揃う、それだけで、読む人の足は止まりにくくなる。
江莉奈「ありがとう」
江莉奈「どういたしまして」
昇降口のガラスに夕焼けが薄く残り、三人分、四人分の影が重なる。文乃、圭佑、啓、そして追いついてきた豪一郎。
圭佑「じゃあ、解散。各自、安全に」
豪一郎が一度だけ手を挙げる。圭佑は頷き、竜頭から遠い手でポケットの内側をそっと押さえた。そこには、何も入っていない。空っぽのポケットに、まだ少し熱があった。
外へ出ると、風が温度を変えていた。夜になる前の境目。
門までの道の途中、掲示板の影にもう一つの白い紙。さっきの封筒とは違う、ただのコピー用紙――そこにも、同じ活字が一行だけ。
――ムーンジェイドは、願いを食う。
誰が、何のために。問いだけが静かに増える。
掲示板の影の白い一枚を、江莉奈が無言でクリアファイルに滑らせた。風が紙の端を持ち上げ、次の一枚が潜んでいないかを確かめるように、校舎の廊下を一度撫でていく。
“ムーンジェイドは、願いを食う。”
同じ活字が、同じ無表情のまま、同じ重さで胸に落ちる。ふざけ半分の軽さではない。けれど、誰かを断罪するほどの重さでもない。どちらにも寄らない質量は、場の呼吸を少しだけ浅くする。
江莉奈「投書管理、臨時で私が一本化するね」
江莉奈はいつもの調子で、鍵束の一本をクリップで留め直した。「掲示物の差し替えは私の許可制。貼るなら署名つき。無署名は、確認までは保管」
江莉奈「了解」
豪一郎が短く応え、廊下の人波が詰まりそうな位置から、自然に半歩だけ壁側へ寄った。通り道が広がると、誰の足も止まらない。
豪一郎「…………活字の切り貼り、指紋は拾えない可能性が高い」
秋徳はクリアファイルの上から紙の繊維を眺め、必要以上に追わないと判断するとすぐ目を離した。
秋徳「啓」
秋徳「は、はい!」
秋徳「君の“かわいい検出音”は、投書に反応しないことを確認済み?」
秋徳「紙はノーリアクション! ていうか“かわいい”は定義から詰めたい!」
秋徳「定義は後日で構わない」
秋徳はメモを閉じて、淡々と結論を置く。
秋徳「今日は、帰る」
昇降口までの道すがら、文乃は自分の両手を見つめた。掌を合わせ、離し、指を曲げ、伸ばす。掴むと曇る、手放すと光る――あの樹脂片の手触りが、指先にまだ残っている。
隣で歩く圭佑の袖口が、ふと風でめくれた。腕時計のガラスについた白い線は、光が当たらなければわからないほど細い。
圭佑「…………そのキズ、気にしてる?」
圭佑「気にしないことにしてる」
圭佑「誰かに“気にしてるでしょ”って言われる前に、自分で言っておくのは、賢い方法」
圭佑「賢いか」
圭佑「私は、そう思う」
会話は、そこでいったん途切れた。途切れたままでも、困らない。困らせない。
翌日の昼休み、教室の空気が砂糖で少し重くなる。バレンタイン前週だ。友チョコの交換は“黙認”。先生の机にまで届くのは“自粛”。購買のチョコパンだけは堂々と“増量”。
先生「甘い匂い、検出しちゃうよねえ」
チャーリー啓が銀色の筒を抱えつつ、今日はスイッチを切ったままで胸に当てる。
チャーリー啓「理科室で“安全版”の最終調整する。授業が終わったら、来る?」
チャーリー啓「行く」
文乃は即答し、机の右上を指で一度なでた。そこにあったはずの白い欠片は、もう探さない。探すのは明日、と決めた日の次の日を、まだ繰り返している気がしても――それでも、決め直す。
放課後の理科室は、昨日の議事メモが裏返しで机に残っているくらいで、きれいだった。啓は銀筒の蓋を開け、「揮発系/有機溶剤/チョコ」のスイッチを一つずつ撫でて、チョコだけを“オン”にした。
チャーリー啓「安全版、最終テスト。――ぴっ!」
可愛げのある高音が、ひとつ。
チャーリー啓「今の“かわいい”?」
チャーリー啓「かわいい! …………はず!」
チャーリー啓「“はず”の不確実さが、いちばんかわいいかもしれない」
文乃が笑うと、秋徳が「同意」と一言だけメモに残す。メモの内容は“かわいい(定義未確定)”。議事としては意味が薄い。けれど、場の温度としてはよく効く。
ドアが開いて、豪一郎が顔を出した。柔道着の上にジャージ。手に持ったスポーツドリンクのボトルを、癖のない角度で机に置く。
豪一郎「外周、終わり。人、足りてるか?」
豪一郎「足りてる。ありがとう」
文乃が礼を言うのとほぼ同時に、理科室の隅でシャーレがカタリと鳴った。窓からの風が、ペーパータオルの端を持ち上げ、シャーレの縁を押したのだ。
圭佑の指が、ほんのわずか、竜頭の方へ。
――押さない。
彼は指先を机の端へ移し、紙の端を押さえた。シャーレは落ちない。何事も、起きない。
豪一郎「ナイス」
豪一郎が自然に言い、彼の“普通の速さ”に誰も引っかからない。
圭佑は、短く息を吐いた。誰にも聞こえない音で。自分の中の拍だけが、少しだけ揃う。
圭佑「そうだ、昼間の投書の件」
江莉奈が理科準備室の棚から新しいファイルを出し、インデックスに“投書・臨時”と書き込んだ。
江莉奈「文化祭の“怪談ノリ”で煽るのは自由。でも“無署名の恐怖”は、読者が疲れる。…………って、台本の中でも言ってほしい」
江莉奈「セリフにする?」
江莉奈「する。責任の線は、作り物の中でも引ける」
その言葉は、劇の中の正義論であり、ここでの暮らしの方法でもあった。文乃は頷き、台本の余白に“無署名の恐怖は読者を疲れさせる”と書いた。声にしたとき、観客がどれくらい頷くか。二拍、間を置けば、きっと届く。
作業は順調だった。透明樹脂の粒を光に当て、緑相への遷移具合を確かめる。粉末の配合が少しでも多いと、光が“飛ぶ”。照明で色が消えてしまうのは困る。
江莉奈「ギリギリがいいね」
江莉奈「ギリギリは、事故と隣り合う」
江莉奈「だから、線を引く」
豪一郎の言葉に、圭佑が小さく頷く。線は引ける。引けるはずだ。――“巻き戻し”の指に、力を入れさえしなければ。
帰り支度に入る直前、スマホが一斉に震えた。生徒会の全体連絡だ。
《来週、友チョコの校内持ち込みは“量の節度”を条件に黙認。職員室への献上は禁止。理科室での糖類持込は安全のため禁止》
江莉奈「糖類禁止…………!」
啓が胸を押さえ、銀筒をぎゅっと抱きしめる。
チャーリー啓「展示どうするの」
チャーリー啓「模型でにおいの“ふり”をする。健康的、そして合法的!」
チャーリー啓「合法的、いい響き」
笑いが一度、広がって、落ち着く。落ち着いたところへ、廊下から走る足音が近づいた。
チャーリー啓「すみませーん!」
一年の男子がカーブを曲がり切れず、理科室の入り口で足を止め損ねる。
豪一郎が腕を広げ、速度を奪わずに方向だけ変える。
豪一郎「廊下は試合会場じゃない」
豪一郎「は、はい!」
ぶつからない。怒鳴らない。けれど、伝わる。
豪一郎「今日はここまで。鍵、閉めます」
江莉奈が施錠にかかり、最後に電気が落ちる。暗い扉の前で一瞬だけ、誰かの影が伸びた。
文乃の隣に立つ影は、圭佑だ。彼は竜頭から遠い方の手で、ポケットの中の“何もない場所”を握る癖を、またやった。
文乃「…………明日、休み時間に道場寄る」
豪一郎が何気なく言う。「文化祭の大道具、借りられるかもしれない棚を見に」
豪一郎「道場って、豪一郎の家の?」
豪一郎「うち。祖父が師範で、いろいろ物置きが多い」
豪一郎「ついでに、“糖類”は持ち込まないように」
豪一郎「了解、会計どの」
軽口の角は、柔らかい。柔らかいのに、効く。
昇降口の外、風はひと晩で少し冷えを増していた。空を見上げると、雲の切れ間から白い光が細く落ちてくる。星か、街灯か。
文乃「明日、道場、私も行っていい?」
文乃が問うと、豪一郎は即答する。
文乃「もちろん。人手が多いと助かる」
圭佑の喉が、ほとんど音にならない音で鳴った。嫉妬というには鋭すぎる、焦りというには鈍すぎる。名付けられない拍が、胸の内側でトンと跳ねる。
圭佑「…………俺も行く。大工仕事、得意」
豪一郎「助かる」
豪一郎は笑った。
豪一郎「棚は重い」
その夜。
机の上で、文乃は台本の余白を眺めた。“無署名の恐怖は読者を疲れさせる”。声にする練習を、口の中だけで二度。二拍、間を置いて、もう一度。
窓辺のコップのガーベラは、夜の温度で花弁を少し閉じる。守るために閉じる。閉じたまま、朝にはまた開く。
スマホに秋徳からメッセージ。
《明日、道場での作業は十五時集合。安全靴推奨》
続けて啓。
《チョコ検出器、展示用の“匂いふり模型”を開発中! かわいいの定義は…………保留!》
そして江莉奈。
《今日の投書、追加なし。封筒は私が保管》
安心、かどうかは、まだ保留。けれど“保管”という言葉は、胸のどこかで確かな重みになる。
ベッドに入る前、文乃は窓の外をもう一度見た。白い光が、夜の布の目の間を縫うように細く流れる。ピュアホワイト・ミッドナイト。
掴むと曇り、手放すと光る――願いは、どうだろう。
答えはまだ、要らない。明日、答えに近い何かが見つかるとしたら、たぶんそれは、誰かの棚の奥。誰かの道場の、埃をかぶった箱の中。
翌日、豪一郎の道場。
畳の匂いと木の梁。晴れた午後の光が、すりガラス越しに長方形を落とす。
豪一郎「棚は奥だ」
豪一郎が先に立ち、文乃がその後ろにつく。圭佑が最後尾で、手袋のサイズを確かめる。
物置の戸を引くと、乾いた埃の匂いがふわりと上がった。段ボールの山、古い大会のポスター、練習用のミット。
その一番手前に、白い包みがひとつ。
紙の上に、無造作に乗せられた小さなタグ――等幅の冷たい文字で、ただ一行。
“お持ち帰りください”。
包みの形は、長方形。軽い。振れば、箱の中で何かがやわらかくぶつかる音。
開けるまでもなく、全員が同じものを思い描いた。
チョコレート。
そして、添えられているもう一枚の白紙には、やはり同じ活字が並んでいた。
――ムーンジェイドは、願いを食う。
劇脚本始動の。空間の端が視界に残り、中心が少し広い。
置かれた道具が、この場の用事を物語る。
視聴覚室の暗幕は半分だけ下ろされ、夕陽がスクリーンの端を薄く染めていた。机の上にはホッチキス、付箋、ガムテープ、そして透明樹脂の試料。白い粉末の小瓶に「光学パール・緑相」とペンで書かれている。
豪一郎「段取り、確認します」
秋徳がボードの前に立つ。声は平板で、テンポは正確だ。
秋徳「一、配役仮決定。二、舞台装置の安全確認。三、小道具“ムーンジェイド”の仕様決め。四、稽古スケジュールの共有。以上を四十五分で終える」
秋徳「はい、四十五分。健康的!」
チャーリー啓が銀色の筒を抱え直し、今日は自制心を見せてスイッチに触れない。胸ポケットのビタミン剤だけが、いつも通りにぎやかだ。
豪一郎は椅子を一脚だけ後ろに引き、全員の顔が視界に入る位置へ移動した。体の置き方が自然に“場”を丸くする。
豪一郎「立ち稽古は来週から。今日は読み合わせ重視。安全確認は俺が見る。段差とコード、全部テープで押さえる」
江莉奈「鍵と施錠は私が」
江莉奈は胸の前で鍵束を軽く振り、番号順に揃えながら言う。「開場・閉場時の立会いも私がやるから、忘れ物厳禁で」
文乃は配布用の台本を机の左右から同時に流し、詰まりそうな場所へは先に手を伸ばす。
文乃「一旦ここで止めます。――ありがとう」
詰まる前に礼を言うと、列はひとりでに流れ直る。彼女の“場を整える”手つきは、今日もよく効く。
圭佑は、透明樹脂の小さな塊を掌で転がした。照明の角度を変えるたび、白が緑に、また白へ戻る。
圭佑「温度で曇る加工、試したい」
圭佑「やけどしない温度域で」
豪一郎が即座に返す。
圭佑「もちろん。手の温度でうっすら曇って、離すと戻る。――“掴むと曇る、手放すと光る”」
言いながら、圭佑は竜頭に触れそうになった指を、机の縁で止めた。触れない。触れないかわりに、樹脂の端をヤスリでなでる。
圭佑「仕様、追記します」
秋徳がボードに細字で書き込む。“ムーンジェイド:①白→緑の遷移、②掌温で曇化、③舞台照明強でも反射で飛ばない”。
秋徳「あと、重量。ポケットに入る重さで」
秋徳「了解」
読み合わせが始まる。文乃の一行で、空気の高さが半歩上がる。豪一郎の台詞は芯がまっすぐで、相手を受ける時の呼吸が大きい。
文乃「――『三分戻せるなら、何から守る? 何を失う?』」
彼の声に、誰かの息が小さく呑まれた。
圭佑は読む側に回らず、小道具のスケッチを続ける。鉛筆の先は危ういほど尖り、紙の上で石の断面を何度も描き直す。
(押さない。押さない。普通の速さで)
自分に言い聞かせるたび、腕時計のガラスに細い白筋が、光の角度で現れたり消えたりする。新しい罅ではない――そう思い込みたいだけだと、どこかで知っている。
文乃「ここ、“二拍空けて”みて」
文乃「了解」
文乃は二拍、空白を置いた。ただの沈黙ではない。意味の入った、手のひら大の静けさ。
豪一郎「いい。今の間、観客の呼吸が揃う」
豪一郎が頷く。
休憩を挟んで、啓がついに銀筒のスイッチへ指を伸ばす。
チャーリー啓「発表します。“チョコ発見器”は文化祭でも展示予定。でも今は音、鳴らさない。安全第一、かわいい第二!」
チャーリー啓「第二の言語化が雑」
江莉奈がメモに“かわいい(未定義)”と書き、秋徳が隣に小さく“定義の必要性:低”と追記する。
作業再開――その矢先、スクリーン脇のスピーカーの上に、白い封筒がひとつ。誰かがふと見つけたのではなく、“視界に入るように”置かれていた。
江莉奈「差出人なし。開けます」
江莉奈は迷いのない手つきで封を切る。
出てきたのは薄い紙片。活字を切り貼りしたような、等幅の冷たい文字が一行だけ。
――ムーンジェイドは、願いを食う。
文乃の横で、豪一郎の背筋がわずかに伸びる。秋徳は顔の高さで紙を受け取り、角度を変えて光を当てる。
文乃「紙質、普通。裏、無印。指紋は…………素手では触ってない方がよかったですね」
江莉奈「ごめん」
江莉奈が苦笑し、すぐにファイルへ収める。
江莉奈「内容は、いたずらの可能性が高い。けれど“場をざわつかせる”力はある。――今は、演目の進行を優先。封筒は私が保管する」
文乃「“願いを食う”って、詩としては強いけどね」
啓が口の中で転がすみたいに言い、すぐに「いや、今は詩じゃない」と自分にツッコミを入れて黙った。
その後の四十五分は、驚くほど何事もなく進んだ。段差はテープで押さえられ、延長コードは足元の外側に逃がされた。舞台袖の動線は二本に分け、交差をなくす。
豪一郎「安全、よし」
豪一郎が最後に両手を打つ。
豪一郎「撤収する」
片づけの最中、文乃は小道具テーブルの端に置かれた樹脂片へとそっと手を伸ばした。掌で温度を移すと、石はうっすらと曇り、離すとまた光を増す。
文乃「掴むと曇る、手放すと光る」
圭佑の独り言が、机の上に落ちる。
圭佑「…………それ、好きだよ」
文乃は言ってから、指を離した。
文乃「“好き”は自由に言っていい」
文乃「わかってる」
撤収完了。椅子が机に収まり、スクリーンの白が壁の白に戻る。
江莉奈「鍵、閉めるね」
江莉奈が合図し、全員で最終確認。
扉へ向かう列の最後尾で、圭佑は一瞬だけ振り返った。スピーカーの上は、もう空だ。封筒は消え、残るのは言葉の痕だけ。
(願いを食う、か)
胸の中で言い直すたび、その言葉は食べられずに残った。
廊下へ出ると、空気は夜の手前。曲がり角を過ぎるタイミングで一年が走ってきて、豪一郎が自然に腕を広げて速度を落とさせる。叱らず、止める。止めるけれど、進路は奪わない。
豪一郎「廊下は試合会場じゃない」
豪一郎「すみません!」
やり取りの一部始終が、舞台の“間”みたいに気持ちよく収まる。
豪一郎「明日、読み合わせの続き。小道具の試作品は三つで足りる?」
圭佑「足りる」
圭佑が答える。
圭佑「ひとつは予備」
江莉奈「了解。私は十分前入りで開錠」
江莉奈が鍵束を握り直す。
啓は銀筒を抱えて大げさにうなずき、秋徳はメモを閉じる動作ひとつで会議を終わらせた。
視聴覚室の扉が閉まり、鍵が回る音が廊下に小さく響く。文乃はその音を背中で聞きながら、手のひらに残った“冷えた光”の感触を思い出す。
掴むと曇り、手放すと光る。――願いは、どうだろう。
胸の中で答えのない問いを丸め、ポケットにしまうみたいに歩き出した。
階段の下で、掲示板が風に少しめくれている。江莉奈がさっとピンを打ち直し、紙の四隅が揃った。揃う、それだけで、読む人の足は止まりにくくなる。
江莉奈「ありがとう」
江莉奈「どういたしまして」
昇降口のガラスに夕焼けが薄く残り、三人分、四人分の影が重なる。文乃、圭佑、啓、そして追いついてきた豪一郎。
圭佑「じゃあ、解散。各自、安全に」
豪一郎が一度だけ手を挙げる。圭佑は頷き、竜頭から遠い手でポケットの内側をそっと押さえた。そこには、何も入っていない。空っぽのポケットに、まだ少し熱があった。
外へ出ると、風が温度を変えていた。夜になる前の境目。
門までの道の途中、掲示板の影にもう一つの白い紙。さっきの封筒とは違う、ただのコピー用紙――そこにも、同じ活字が一行だけ。
――ムーンジェイドは、願いを食う。
誰が、何のために。問いだけが静かに増える。
掲示板の影の白い一枚を、江莉奈が無言でクリアファイルに滑らせた。風が紙の端を持ち上げ、次の一枚が潜んでいないかを確かめるように、校舎の廊下を一度撫でていく。
“ムーンジェイドは、願いを食う。”
同じ活字が、同じ無表情のまま、同じ重さで胸に落ちる。ふざけ半分の軽さではない。けれど、誰かを断罪するほどの重さでもない。どちらにも寄らない質量は、場の呼吸を少しだけ浅くする。
江莉奈「投書管理、臨時で私が一本化するね」
江莉奈はいつもの調子で、鍵束の一本をクリップで留め直した。「掲示物の差し替えは私の許可制。貼るなら署名つき。無署名は、確認までは保管」
江莉奈「了解」
豪一郎が短く応え、廊下の人波が詰まりそうな位置から、自然に半歩だけ壁側へ寄った。通り道が広がると、誰の足も止まらない。
豪一郎「…………活字の切り貼り、指紋は拾えない可能性が高い」
秋徳はクリアファイルの上から紙の繊維を眺め、必要以上に追わないと判断するとすぐ目を離した。
秋徳「啓」
秋徳「は、はい!」
秋徳「君の“かわいい検出音”は、投書に反応しないことを確認済み?」
秋徳「紙はノーリアクション! ていうか“かわいい”は定義から詰めたい!」
秋徳「定義は後日で構わない」
秋徳はメモを閉じて、淡々と結論を置く。
秋徳「今日は、帰る」
昇降口までの道すがら、文乃は自分の両手を見つめた。掌を合わせ、離し、指を曲げ、伸ばす。掴むと曇る、手放すと光る――あの樹脂片の手触りが、指先にまだ残っている。
隣で歩く圭佑の袖口が、ふと風でめくれた。腕時計のガラスについた白い線は、光が当たらなければわからないほど細い。
圭佑「…………そのキズ、気にしてる?」
圭佑「気にしないことにしてる」
圭佑「誰かに“気にしてるでしょ”って言われる前に、自分で言っておくのは、賢い方法」
圭佑「賢いか」
圭佑「私は、そう思う」
会話は、そこでいったん途切れた。途切れたままでも、困らない。困らせない。
翌日の昼休み、教室の空気が砂糖で少し重くなる。バレンタイン前週だ。友チョコの交換は“黙認”。先生の机にまで届くのは“自粛”。購買のチョコパンだけは堂々と“増量”。
先生「甘い匂い、検出しちゃうよねえ」
チャーリー啓が銀色の筒を抱えつつ、今日はスイッチを切ったままで胸に当てる。
チャーリー啓「理科室で“安全版”の最終調整する。授業が終わったら、来る?」
チャーリー啓「行く」
文乃は即答し、机の右上を指で一度なでた。そこにあったはずの白い欠片は、もう探さない。探すのは明日、と決めた日の次の日を、まだ繰り返している気がしても――それでも、決め直す。
放課後の理科室は、昨日の議事メモが裏返しで机に残っているくらいで、きれいだった。啓は銀筒の蓋を開け、「揮発系/有機溶剤/チョコ」のスイッチを一つずつ撫でて、チョコだけを“オン”にした。
チャーリー啓「安全版、最終テスト。――ぴっ!」
可愛げのある高音が、ひとつ。
チャーリー啓「今の“かわいい”?」
チャーリー啓「かわいい! …………はず!」
チャーリー啓「“はず”の不確実さが、いちばんかわいいかもしれない」
文乃が笑うと、秋徳が「同意」と一言だけメモに残す。メモの内容は“かわいい(定義未確定)”。議事としては意味が薄い。けれど、場の温度としてはよく効く。
ドアが開いて、豪一郎が顔を出した。柔道着の上にジャージ。手に持ったスポーツドリンクのボトルを、癖のない角度で机に置く。
豪一郎「外周、終わり。人、足りてるか?」
豪一郎「足りてる。ありがとう」
文乃が礼を言うのとほぼ同時に、理科室の隅でシャーレがカタリと鳴った。窓からの風が、ペーパータオルの端を持ち上げ、シャーレの縁を押したのだ。
圭佑の指が、ほんのわずか、竜頭の方へ。
――押さない。
彼は指先を机の端へ移し、紙の端を押さえた。シャーレは落ちない。何事も、起きない。
豪一郎「ナイス」
豪一郎が自然に言い、彼の“普通の速さ”に誰も引っかからない。
圭佑は、短く息を吐いた。誰にも聞こえない音で。自分の中の拍だけが、少しだけ揃う。
圭佑「そうだ、昼間の投書の件」
江莉奈が理科準備室の棚から新しいファイルを出し、インデックスに“投書・臨時”と書き込んだ。
江莉奈「文化祭の“怪談ノリ”で煽るのは自由。でも“無署名の恐怖”は、読者が疲れる。…………って、台本の中でも言ってほしい」
江莉奈「セリフにする?」
江莉奈「する。責任の線は、作り物の中でも引ける」
その言葉は、劇の中の正義論であり、ここでの暮らしの方法でもあった。文乃は頷き、台本の余白に“無署名の恐怖は読者を疲れさせる”と書いた。声にしたとき、観客がどれくらい頷くか。二拍、間を置けば、きっと届く。
作業は順調だった。透明樹脂の粒を光に当て、緑相への遷移具合を確かめる。粉末の配合が少しでも多いと、光が“飛ぶ”。照明で色が消えてしまうのは困る。
江莉奈「ギリギリがいいね」
江莉奈「ギリギリは、事故と隣り合う」
江莉奈「だから、線を引く」
豪一郎の言葉に、圭佑が小さく頷く。線は引ける。引けるはずだ。――“巻き戻し”の指に、力を入れさえしなければ。
帰り支度に入る直前、スマホが一斉に震えた。生徒会の全体連絡だ。
《来週、友チョコの校内持ち込みは“量の節度”を条件に黙認。職員室への献上は禁止。理科室での糖類持込は安全のため禁止》
江莉奈「糖類禁止…………!」
啓が胸を押さえ、銀筒をぎゅっと抱きしめる。
チャーリー啓「展示どうするの」
チャーリー啓「模型でにおいの“ふり”をする。健康的、そして合法的!」
チャーリー啓「合法的、いい響き」
笑いが一度、広がって、落ち着く。落ち着いたところへ、廊下から走る足音が近づいた。
チャーリー啓「すみませーん!」
一年の男子がカーブを曲がり切れず、理科室の入り口で足を止め損ねる。
豪一郎が腕を広げ、速度を奪わずに方向だけ変える。
豪一郎「廊下は試合会場じゃない」
豪一郎「は、はい!」
ぶつからない。怒鳴らない。けれど、伝わる。
豪一郎「今日はここまで。鍵、閉めます」
江莉奈が施錠にかかり、最後に電気が落ちる。暗い扉の前で一瞬だけ、誰かの影が伸びた。
文乃の隣に立つ影は、圭佑だ。彼は竜頭から遠い方の手で、ポケットの中の“何もない場所”を握る癖を、またやった。
文乃「…………明日、休み時間に道場寄る」
豪一郎が何気なく言う。「文化祭の大道具、借りられるかもしれない棚を見に」
豪一郎「道場って、豪一郎の家の?」
豪一郎「うち。祖父が師範で、いろいろ物置きが多い」
豪一郎「ついでに、“糖類”は持ち込まないように」
豪一郎「了解、会計どの」
軽口の角は、柔らかい。柔らかいのに、効く。
昇降口の外、風はひと晩で少し冷えを増していた。空を見上げると、雲の切れ間から白い光が細く落ちてくる。星か、街灯か。
文乃「明日、道場、私も行っていい?」
文乃が問うと、豪一郎は即答する。
文乃「もちろん。人手が多いと助かる」
圭佑の喉が、ほとんど音にならない音で鳴った。嫉妬というには鋭すぎる、焦りというには鈍すぎる。名付けられない拍が、胸の内側でトンと跳ねる。
圭佑「…………俺も行く。大工仕事、得意」
豪一郎「助かる」
豪一郎は笑った。
豪一郎「棚は重い」
その夜。
机の上で、文乃は台本の余白を眺めた。“無署名の恐怖は読者を疲れさせる”。声にする練習を、口の中だけで二度。二拍、間を置いて、もう一度。
窓辺のコップのガーベラは、夜の温度で花弁を少し閉じる。守るために閉じる。閉じたまま、朝にはまた開く。
スマホに秋徳からメッセージ。
《明日、道場での作業は十五時集合。安全靴推奨》
続けて啓。
《チョコ検出器、展示用の“匂いふり模型”を開発中! かわいいの定義は…………保留!》
そして江莉奈。
《今日の投書、追加なし。封筒は私が保管》
安心、かどうかは、まだ保留。けれど“保管”という言葉は、胸のどこかで確かな重みになる。
ベッドに入る前、文乃は窓の外をもう一度見た。白い光が、夜の布の目の間を縫うように細く流れる。ピュアホワイト・ミッドナイト。
掴むと曇り、手放すと光る――願いは、どうだろう。
答えはまだ、要らない。明日、答えに近い何かが見つかるとしたら、たぶんそれは、誰かの棚の奥。誰かの道場の、埃をかぶった箱の中。
翌日、豪一郎の道場。
畳の匂いと木の梁。晴れた午後の光が、すりガラス越しに長方形を落とす。
豪一郎「棚は奥だ」
豪一郎が先に立ち、文乃がその後ろにつく。圭佑が最後尾で、手袋のサイズを確かめる。
物置の戸を引くと、乾いた埃の匂いがふわりと上がった。段ボールの山、古い大会のポスター、練習用のミット。
その一番手前に、白い包みがひとつ。
紙の上に、無造作に乗せられた小さなタグ――等幅の冷たい文字で、ただ一行。
“お持ち帰りください”。
包みの形は、長方形。軽い。振れば、箱の中で何かがやわらかくぶつかる音。
開けるまでもなく、全員が同じものを思い描いた。
チョコレート。
そして、添えられているもう一枚の白紙には、やはり同じ活字が並んでいた。
――ムーンジェイドは、願いを食う。


