理科室の窓は低く、机の並びが夕焼けを四角に切り取っている。薬品棚のラベルが橙に染まり、黒板のチョークの粉が光を拾って柔らかく舞った。放課後の空気は、人の声の端でふわふわと揺れる。
チャーリー啓が銀色の筒を抱えて、実験台にそっと置いた。胸ポケットから覗くビタミン剤が、ちいさくからんと鳴る。
チャーリー啓「今日は“安全版”のデモ。揮発性、有機溶剤、チョコ…………反応は切り替え式」
文乃「その三つ、並べないで」
文乃は笑って、机上のビーカーを三角フラスコの陰から直した。
チャーリー啓「了解。健康第一!」
啓が親指を立てる。
秋徳は後ろの席でメモを取りながら、実験台の脚のガタつきをそっと紙でかさ上げした。誰も頼んでいないのに、流れが滞らない角度をいつも探している。
秋徳「机の四隅、二ミリ差。座標メモします」
文乃「ありがとう」
文乃は自然に礼を言い、手際よくゴミ袋の口を開く。理科室の片づけボランティアは、人の手の温度で早く終わる。
そのとき――ビーカーの足元を、折れたマドラーがころりと転がった。斜面を得たように、容器がかすかに傾く。
ぱしゃ。
色の薄い水が、机の上に扇形を描いて広がり、教科書の端をふちどる。啓が「やば」と言いかけた瞬間、誰かの手が斜めから入り込んだ。
圭佑だ。濡れたページをさっと持ち上げ、紙の山を倒さずに風の通り道をつくる。机の端に置いてあったガーゼを、迷いなく当てる。
チャーリー啓「反射神経、いいね」
啓が目を丸くする。
圭佑「たまたま」
圭佑は肩をすくめ、ガーゼの角で水の縁を押し返す。
――三分、前。
窓の外の雲の筋が同じ形で流れ、廊下の足音が同じ数だけ通り過ぎる。隣の実験台で、誰かが鼻歌のひと節を同じところで噛む。
ぱしゃ。
今度は水が広がるより早く、圭佑の手がふわりと動いた。ビーカーが傾く前に指の先で支え、マドラーを床に落とさずに受け止める。その動きは、初めから正解を知っている人の滑らかさだった。
圭佑「…………ねえ」
文乃は、濡れなかった教科書のページを見つめたまま言う。
圭佑「今の、どうしてわかったの?」
圭佑は答えず、腕時計の竜頭に触れかけて、触れない。文字盤の縁、白い糸のような傷がひとすじ。目を凝らさなければ見えない。
圭佑「偶然」
圭佑「偶然なら、二回目はない」
圭佑「二回目は、準備ができる」
啓が気まずさをごまかすように銀筒の蓋を開け、「かわいい」音色に設定された検出音を短く鳴らした。ぴ、ぴ。
チャーリー啓「ほら、和み音! …………ね、秋徳も一回聞く?」
秋徳「必要性が薄い」
秋徳は即答し、でも机の脚の紙はそのまま支えている。
片づけは続く。フラスコの乾き具合を見てタオルを替え、棚にしまう順番を迷わず決める人、迷って立ち尽くす人。文乃は迷っている人の横へ、できるだけ自然に並んで立つ。
文乃「重い方を下に。高い棚は無理しないで、呼んで」
声をかける“タイミング”は、誰よりもうまい。相手の手を奪わず、でも空気の渋滞を解く。そういうふうに、彼女は世界と仲良くしてきた。
その“タイミング”を、圭佑は何度も上書きしていた。
ほつれた軍手がバーナーの火に近づく前の三秒、机の角に腰をぶつける前の一秒、握ったはずの試薬瓶の蓋が滑る前の半秒――。
彼は、知っている。知ってしまっている。三分前の同じ場所で、同じ人が同じ失敗をしたことを。
そして、やり直しを重ねるたび、目の下の影が少しずつ深くなるのを、誰も知らない。本人でさえ、気づこうとしない。
文乃「――圭佑」
文乃の声が、ゆっくりと彼に届く。
文乃「助けてくれるの、嬉しい。ほんとに、ありがとう。でも…………秘密の“巻き戻し”で私の時間を勝手に動かすのは、なし」
言葉は静かで、譲歩と境界が同じ温度で並ぶ。
文乃「私、失敗する権利も持ってる。タイミングを学ぶ権利も。だから、助けたいなら“普通の速さで”そばにいて」
圭佑の指が、竜頭の手前で止まる。空気の粒が一個ぶん、動かない。
理科室の扉が開いて、豪一郎が顔を出した。柔道着の上にパーカー、髪は汗で少しだけ額に貼りついている。
豪一郎「おー、ここにいた。悪い、今日の外周終わってからで」
豪一郎はずかずかと中に入り、実験台に手をついてぺこりと頭を下げる。目線の高さが自然にやわらかく、背の高い体が威圧にならない置き方を知っている。
豪一郎「文化祭の演目、決まった。“辺境開拓団×時間逆行”。演出の先生が“時間もの”やるなら身体が利く子が欲しいって。――文乃、主演でお願いできないか」
文乃「え、私?」
豪一郎「台詞の入りがきれいだし、人の間を詰めるのが上手い。舞台は、そういう人が芯になると形が崩れない」
部屋の光が少しざわつく。啓が「時間逆行って字面が燃える」とひとりで盛り上がり、秋徳がメモに“演目決定・主演(仮)文乃”と書き込む。
圭佑は、笑わなかった。窓の外の夕焼けで、時計のガラスがひと瞬き光る。
圭佑「…………俺は?」
圭佑「スタッフも募集中。安全管理、装置、音――発明の腕、貸してくれ」
豪一郎はまっすぐ目を見る。
圭佑「頼む」
圭佑の喉が、ほとんど聞こえない音で鳴る。言葉はすぐには出てこず、代わりに彼は視線を落として竜頭の位置を確かめた。押さない。押さない、と決めて指を離した。
圭佑「考えとく」
短い返事に、豪一郎は深く頷く。押し引きの距離を、彼は対人の体幹で測れる男だ。
豪一郎「じゃ、台本読みは明後日。文乃、稽古前に一回合わせよう。場所は視聴覚室」
豪一郎「うん」
豪一郎が去ると、理科室の空気が一段落ち着いた。やりとりの角が、机の角みたいに四十五度で丸くなる。
啓が筒を持ち上げ、天井に向けてスイッチを入れた。ぴ。
チャーリー啓「文化祭、俺も健康展示やるからさ。睡眠の大切さとブラックサンダーの食べ過ぎ厳禁!」
文乃「最後の主語が小学生」
文乃が吹き出し、秋徳のペン先が止まらないままわずかに上向いた。
後片づけが終わる。理科室の鍵は江莉奈が預かり、配布物の束と一緒に胸に抱えている。
江莉奈「施錠、私が見ます。忘れ物、ないように」
江莉奈「はい」
みんながそれぞれのカバンを肩に掛ける。教室のスイッチが落ち、窓の外だけがまだ明るい。
廊下に出る前、文乃はもう一度だけ振り返った。机の上に置き忘れた白い紙片――ではない。誰かが紙に重石として乗せた、小さな白い欠片。
ムーンジェイドの類似片。
文乃は、手を伸ばさなかった。拾えば、胸が波立つ。置けば、胸が波立たないわけでもない。でも今日は、置いていくと決めた。
江莉奈「鍵、閉めるね」
江莉奈の声がやわらかく響く。
廊下の角で、人の流れが重なった。曲がり角の向こうから、誰かが走ってくる――危ない。
圭佑の足が、一歩だけ前へ出た。けれど、肩に触れる前に止まる。豪一郎が先に手を広げ、走ってきた一年の背を優しく押して方向を変えさせる。
圭佑「ゆっくりな。廊下は試合会場じゃない」
危なげない止め方。叱らないのに、伝わる。
圭佑は手を下ろし、文乃は小さく息を吐いた。
圭佑「…………ね?」
彼は視線だけで頷き、竜頭から遠い手で、ポケットの中の何もない場所を握った。
校舎を出ると、風が温度を変えていた。夕闇の境目、グラウンドの土の匂いが夜へ溶ける。
圭佑「主演、おめでとう」
圭佑がぽつりと言う。
圭佑「仮、だよ。合わなかったら降りる」
圭佑「合う」
即答だった。
圭佑「どうして言い切れるの?」
圭佑「そう思ったから」
ぶっきらぼうなのに、不思議と押しつけがましくない。彼の言葉は、余白を残して置かれる。
昇降口のガラスに、三人分の影が重なる。文乃、啓、圭佑。
圭佑「帰るか」
圭佑「うん。…………圭佑」
圭佑「何」
圭佑「さっき言ったこと、覚えてて。“巻き戻し”は、しないで」
彼は、ほんの一瞬だけ迷うように視線を落とし、それから短く頷いた。
圭佑「努力する」
圭佑「約束、じゃなくて努力、なんだ」
圭佑「約束は、破ったときが重い」
圭佑「…………なるほど」
そのとき、窓の外で時報が鳴った。理科室でいつもずれる三分の誤差は、今日は生まれなかった。
腕時計のガラスに、細い罅が新しく一本、走る。誰にもわからない角度で。
圭佑は袖口でそっと拭い、気づかなかったふりで言った。
圭佑「大丈夫。まだ平気」
帰り道の風は、生ぬるい昼から夜へ舵を切っていた。信号の音が歩幅を刻み、街路樹の葉がこすれるたび、文乃は胸の内の粒を数え直す。
“巻き戻しは、しないで”。言い切った声の余韻は、まだ喉の奥で淡く響いている。
横断歩道の向こうで、小学生がランドセルを揺らして走った。青が点滅に変わる。文乃は歩みをゆるめ、彼らが渡り切るのを待つ。肩の力を抜くというより、力の置き場所を変えるだけ。そうすると、景色は少しだけ観やすくなる。
角を曲がった先、マンションの前で自転車がぐらりと傾いだ。荷台の紙袋が枝に引っかかったらしい。足を止めるより早く、誰かが駆け寄って袋を支え、前かごの紐をほどいた。
圭佑だった。
圭佑「…………偶然」
圭佑「偶然」
短い言葉の往復で、二人ともそれ以上を増やさない。彼は袋の口を整え、礼を言われても視線を落としたまま、竜頭に触れそうな指を止めた。
圭佑「さっき、ガラスに新しく“罅”が入ったみたいに見えたけど」
圭佑「見間違いだろ」
圭佑「光の“縫い目”に見えただけ?」
圭佑「そんな感じ」
嘘ではないのだろう。ヒビとキズと、反射の筋。その境目を見分けるのは難しい。けれど彼が袖口でそっと拭ったときの仕草が、あまりにも用心深かったことも、事実だ。
圭佑「じゃあ、また明日」
圭佑「ああ」
別れ際、彼は何も言い足さない。言い足さない努力がどれほど彼の体力を使っているのか、たぶん本人が一番知らない。文乃は手を振らず、背中で軽く会釈した。
家に帰ると、台所の湯気が窓を白くしていた。母の鍋から立つ匂いは、今日の失敗の角を丸くする。
母「文化祭、主演かもしれないって?」
母「“かも”。合わなかったら降りる」
母「合うと思うけどねえ。喉を冷やさないスープにしといたよ」
母は味噌汁をよそいながら、特別な顔をしない。普段と同じ話し方が、いちばんの応援になることを知っている。
食後、机に向かう。携帯を伏せたまま、今日のノートを開く。ページの右上に、小さく円を描く。そこに“手放す練習”と書いた付箋を重ねる。
通知の震えが一度。画面には、秋徳からのメッセージ。
《稽古前打合せ:明後日視聴覚室。配役案・舞台プラン・安全対策》
続けて、江莉奈から。
《天文台清掃、明日は17:30集合。鍵は私が管理。軍手ある人は持参》
そして、啓。
《かわいい検出音、さらに“かわいく”。聴覚実験協力求む!》
文乃はふっと笑い、返信を打つ。
《了解。かわいいの定義は明日検討》
《軍手、持っていきます》
《視聴覚室、五分前入りする》
ベッドサイドに置いたはずの白い欠片は、やはり見つからない。かわりに、窓際のコップに差したガーベラの花弁が、夜の気温で少し閉じていく。閉じることもまた、守るための形なのだ、と自分に言い聞かせる。
灯りを落とし、眠りへ降りていく途中で、ふと考える。“もし、ほんとうに三分戻れるなら、私は何をやり直すだろう”。
答えは、今はいらない。問いだけを胸に置き、目を閉じる。
翌日。天文台の外は風がやや強く、校舎の影が草の上でくっきりとしていた。集合時間より少し早く着くと、既に二人が来ている。
江莉奈が鍵束を指で逆さにして、番号順に揃える。「施錠と開錠、私が責任持ちます。掃除は三班、五人ずつ」
豪一郎はバケツを二つぶら下げ、「転ばないようにゆっくり行こう」と一年の肩に歩幅を合わせる。歩くテンポ一つで、不安は半分になる。そういうふうに人と並べるのが、彼はうまい。
啓は銀色の筒を抱えつつ、今日は空気を読んでスイッチを入れない。胸ポケットのビタミン剤は、相変わらず主張が強い。
チャーリー啓「文乃、こっち拭きお願い」
チャーリー啓「任せて」
階段にたまった砂や落ち葉を掃き、手すりを濡れ布巾で拭く。秋徳はチェックリストを片手に、無言でゴミ袋の口を押さえ続ける。持ち場から勝手に動かず、必要なときだけ一歩寄る。その一歩が、誰よりも効く。
天文台の中は、思ったより埃っぽくなかった。レンズカバーの上に薄く積もった粉を払うと、鏡面に自分の顔がぼんやり映る。
チャーリー啓「ここ、昔から好き」
小声でつぶやくと、斜め後ろから「知ってる」という声がした。
チャーリー啓「…………知ってるんだ」
チャーリー啓「偶然」
チャーリー啓「偶然が、よく知ってる」
文乃は笑って、拭き取りを再開する。彼を責めたいわけじゃない。責めなくていい境界線を、きちんと描きたいだけだ。
清掃が終わるころ、視聴覚室からの連絡が入った。
《台本会議、今日このまま実施可。参加希望は“今”挙手》
すぐに啓の手が上がる。「小道具、俺と圭佑とで!」
秋徳「安全管理の観点から賛成」
秋徳が言い、江莉奈が頷く。
秋徳「じゃあ、今日の流れをまとめます」
視聴覚室。暗幕を半分閉じ、白いスクリーンの前に折り畳み机が並ぶ。
秋徳「演目は『辺境開拓団×時間逆行』。粗筋の骨はこれ」
秋徳がホワイトボードに、辺境開拓団が過酷な開拓地で三分だけ時間を巻き戻せる装置を使う、という線を引く。
文乃「巻き戻しの代償は?」
と文乃。
チャーリー啓「“誰かの願いがひとつ、食われる”」
啓が勢いで言い、
チャーリー啓「いや待って語感が重め?」
と自分で自分にツッコミを入れる。
秋徳「重い。ただ、舞台の核としてはあり」
秋徳がマーカーを置く。
秋徳「観客に届く言葉かは、文乃の口で確かめたい」
秋徳「やってみる」
読み合わせが始まる。文乃が一行目を読むと、空気の高さがすっと変わった。言葉の端が布の目のようにそろう。豪一郎が相手役を受けると、台詞の出入りが自然に広がる。身体の使い方が、もう舞台の速度になっている。
圭佑は最前列の端に座り、台詞は読まないで小道具のスケッチを描いていた。透明樹脂で“ムーンジェイド”を複製する案。光が当たる角度で白から緑へ遷移する粉末を混ぜ、手の体温で少し曇る加工。危なくない、けれど“本物に見える”線を、彼は真剣に探る。
竜頭には触れない。触れない代わりに、鉛筆の先が折れそうなほど細く尖っていく。
秋徳「文乃、ここ“二拍空けて”お願いできる?」
秋徳「了解」
指示を受けると、彼女は一度だけ息を整えて、二拍をきっちり置いた。間の置き方に意味を入れるのが上手い。
読み合わせが進むほど、圭佑の眉がゆっくりとほどけていく。彼女が“普通の速さ”で積み上げているのを、目で確かめられるから。
チャーリー啓「小道具班、材料の見積もり出すね!」
啓が立ち上がる。
チャーリー啓「安全第一、かわいい第二!」
江莉奈「優先順位の“第二”が雑」
江莉奈が笑い、議事メモにチェックを入れる。
休憩を挟んだとき、豪一郎がペットボトルのキャップをかるく弾いて、文乃に手渡した。
文乃「飲め。声、よく出てる」
文乃「ありがとう」
礼を言って受け取るその一拍。圭佑は視線を上げ、また下げる。嫉妬というほど鋭くない。ただ、胸の中の何かが、いつもより早いテンポで拍を刻む。
竜頭に向かったはずの手は、机の下で固く握られ、やがて開かれた。
会議が終わる。配布物を綴る音、椅子を戻す音。誰かが忘れたペンを啓が拾い、「これ、誰の」と高く掲げる。
そのときだった。
スクリーンの端、スピーカーの上に、白い封筒が一つ。誰も気づかなかったはずの場所に、いつからか鎮座している。江莉奈が手に取り、差出人のない封を迷いなく開ける。
中から出てきたのは、薄い紙切れ一枚。活字を切り貼りしたような、等幅の冷たい文字で、ただ一行。
――ムーンジェイドは、願いを食う。
視聴覚室の空気が、温度ではなく比重を変えた。
文乃は息を吸い、その紙から目を離さない。
圭佑は一歩、前に出かけて、止まった。竜頭に触れない指が、空をつかむ。
豪一郎は全員の顔を一人ずつ確かめ、落ち着いた声で言う。
豪一郎「…………続きは、次回。確認は俺が取る」
秋徳が静かに頷き、啓が銀筒を抱え直す。江莉奈は封筒をクリアファイルへ入れ、鍵束と一緒に胸に抱えた。
夜の校舎へ出る前、文乃はスクリーンの白に、手の影をそっと重ねた。光は食われない。願いだけが、もし食われるのだとしたら――。
答えのない重さを、彼女は自分の両手で受け止めた。
チャーリー啓が銀色の筒を抱えて、実験台にそっと置いた。胸ポケットから覗くビタミン剤が、ちいさくからんと鳴る。
チャーリー啓「今日は“安全版”のデモ。揮発性、有機溶剤、チョコ…………反応は切り替え式」
文乃「その三つ、並べないで」
文乃は笑って、机上のビーカーを三角フラスコの陰から直した。
チャーリー啓「了解。健康第一!」
啓が親指を立てる。
秋徳は後ろの席でメモを取りながら、実験台の脚のガタつきをそっと紙でかさ上げした。誰も頼んでいないのに、流れが滞らない角度をいつも探している。
秋徳「机の四隅、二ミリ差。座標メモします」
文乃「ありがとう」
文乃は自然に礼を言い、手際よくゴミ袋の口を開く。理科室の片づけボランティアは、人の手の温度で早く終わる。
そのとき――ビーカーの足元を、折れたマドラーがころりと転がった。斜面を得たように、容器がかすかに傾く。
ぱしゃ。
色の薄い水が、机の上に扇形を描いて広がり、教科書の端をふちどる。啓が「やば」と言いかけた瞬間、誰かの手が斜めから入り込んだ。
圭佑だ。濡れたページをさっと持ち上げ、紙の山を倒さずに風の通り道をつくる。机の端に置いてあったガーゼを、迷いなく当てる。
チャーリー啓「反射神経、いいね」
啓が目を丸くする。
圭佑「たまたま」
圭佑は肩をすくめ、ガーゼの角で水の縁を押し返す。
――三分、前。
窓の外の雲の筋が同じ形で流れ、廊下の足音が同じ数だけ通り過ぎる。隣の実験台で、誰かが鼻歌のひと節を同じところで噛む。
ぱしゃ。
今度は水が広がるより早く、圭佑の手がふわりと動いた。ビーカーが傾く前に指の先で支え、マドラーを床に落とさずに受け止める。その動きは、初めから正解を知っている人の滑らかさだった。
圭佑「…………ねえ」
文乃は、濡れなかった教科書のページを見つめたまま言う。
圭佑「今の、どうしてわかったの?」
圭佑は答えず、腕時計の竜頭に触れかけて、触れない。文字盤の縁、白い糸のような傷がひとすじ。目を凝らさなければ見えない。
圭佑「偶然」
圭佑「偶然なら、二回目はない」
圭佑「二回目は、準備ができる」
啓が気まずさをごまかすように銀筒の蓋を開け、「かわいい」音色に設定された検出音を短く鳴らした。ぴ、ぴ。
チャーリー啓「ほら、和み音! …………ね、秋徳も一回聞く?」
秋徳「必要性が薄い」
秋徳は即答し、でも机の脚の紙はそのまま支えている。
片づけは続く。フラスコの乾き具合を見てタオルを替え、棚にしまう順番を迷わず決める人、迷って立ち尽くす人。文乃は迷っている人の横へ、できるだけ自然に並んで立つ。
文乃「重い方を下に。高い棚は無理しないで、呼んで」
声をかける“タイミング”は、誰よりもうまい。相手の手を奪わず、でも空気の渋滞を解く。そういうふうに、彼女は世界と仲良くしてきた。
その“タイミング”を、圭佑は何度も上書きしていた。
ほつれた軍手がバーナーの火に近づく前の三秒、机の角に腰をぶつける前の一秒、握ったはずの試薬瓶の蓋が滑る前の半秒――。
彼は、知っている。知ってしまっている。三分前の同じ場所で、同じ人が同じ失敗をしたことを。
そして、やり直しを重ねるたび、目の下の影が少しずつ深くなるのを、誰も知らない。本人でさえ、気づこうとしない。
文乃「――圭佑」
文乃の声が、ゆっくりと彼に届く。
文乃「助けてくれるの、嬉しい。ほんとに、ありがとう。でも…………秘密の“巻き戻し”で私の時間を勝手に動かすのは、なし」
言葉は静かで、譲歩と境界が同じ温度で並ぶ。
文乃「私、失敗する権利も持ってる。タイミングを学ぶ権利も。だから、助けたいなら“普通の速さで”そばにいて」
圭佑の指が、竜頭の手前で止まる。空気の粒が一個ぶん、動かない。
理科室の扉が開いて、豪一郎が顔を出した。柔道着の上にパーカー、髪は汗で少しだけ額に貼りついている。
豪一郎「おー、ここにいた。悪い、今日の外周終わってからで」
豪一郎はずかずかと中に入り、実験台に手をついてぺこりと頭を下げる。目線の高さが自然にやわらかく、背の高い体が威圧にならない置き方を知っている。
豪一郎「文化祭の演目、決まった。“辺境開拓団×時間逆行”。演出の先生が“時間もの”やるなら身体が利く子が欲しいって。――文乃、主演でお願いできないか」
文乃「え、私?」
豪一郎「台詞の入りがきれいだし、人の間を詰めるのが上手い。舞台は、そういう人が芯になると形が崩れない」
部屋の光が少しざわつく。啓が「時間逆行って字面が燃える」とひとりで盛り上がり、秋徳がメモに“演目決定・主演(仮)文乃”と書き込む。
圭佑は、笑わなかった。窓の外の夕焼けで、時計のガラスがひと瞬き光る。
圭佑「…………俺は?」
圭佑「スタッフも募集中。安全管理、装置、音――発明の腕、貸してくれ」
豪一郎はまっすぐ目を見る。
圭佑「頼む」
圭佑の喉が、ほとんど聞こえない音で鳴る。言葉はすぐには出てこず、代わりに彼は視線を落として竜頭の位置を確かめた。押さない。押さない、と決めて指を離した。
圭佑「考えとく」
短い返事に、豪一郎は深く頷く。押し引きの距離を、彼は対人の体幹で測れる男だ。
豪一郎「じゃ、台本読みは明後日。文乃、稽古前に一回合わせよう。場所は視聴覚室」
豪一郎「うん」
豪一郎が去ると、理科室の空気が一段落ち着いた。やりとりの角が、机の角みたいに四十五度で丸くなる。
啓が筒を持ち上げ、天井に向けてスイッチを入れた。ぴ。
チャーリー啓「文化祭、俺も健康展示やるからさ。睡眠の大切さとブラックサンダーの食べ過ぎ厳禁!」
文乃「最後の主語が小学生」
文乃が吹き出し、秋徳のペン先が止まらないままわずかに上向いた。
後片づけが終わる。理科室の鍵は江莉奈が預かり、配布物の束と一緒に胸に抱えている。
江莉奈「施錠、私が見ます。忘れ物、ないように」
江莉奈「はい」
みんながそれぞれのカバンを肩に掛ける。教室のスイッチが落ち、窓の外だけがまだ明るい。
廊下に出る前、文乃はもう一度だけ振り返った。机の上に置き忘れた白い紙片――ではない。誰かが紙に重石として乗せた、小さな白い欠片。
ムーンジェイドの類似片。
文乃は、手を伸ばさなかった。拾えば、胸が波立つ。置けば、胸が波立たないわけでもない。でも今日は、置いていくと決めた。
江莉奈「鍵、閉めるね」
江莉奈の声がやわらかく響く。
廊下の角で、人の流れが重なった。曲がり角の向こうから、誰かが走ってくる――危ない。
圭佑の足が、一歩だけ前へ出た。けれど、肩に触れる前に止まる。豪一郎が先に手を広げ、走ってきた一年の背を優しく押して方向を変えさせる。
圭佑「ゆっくりな。廊下は試合会場じゃない」
危なげない止め方。叱らないのに、伝わる。
圭佑は手を下ろし、文乃は小さく息を吐いた。
圭佑「…………ね?」
彼は視線だけで頷き、竜頭から遠い手で、ポケットの中の何もない場所を握った。
校舎を出ると、風が温度を変えていた。夕闇の境目、グラウンドの土の匂いが夜へ溶ける。
圭佑「主演、おめでとう」
圭佑がぽつりと言う。
圭佑「仮、だよ。合わなかったら降りる」
圭佑「合う」
即答だった。
圭佑「どうして言い切れるの?」
圭佑「そう思ったから」
ぶっきらぼうなのに、不思議と押しつけがましくない。彼の言葉は、余白を残して置かれる。
昇降口のガラスに、三人分の影が重なる。文乃、啓、圭佑。
圭佑「帰るか」
圭佑「うん。…………圭佑」
圭佑「何」
圭佑「さっき言ったこと、覚えてて。“巻き戻し”は、しないで」
彼は、ほんの一瞬だけ迷うように視線を落とし、それから短く頷いた。
圭佑「努力する」
圭佑「約束、じゃなくて努力、なんだ」
圭佑「約束は、破ったときが重い」
圭佑「…………なるほど」
そのとき、窓の外で時報が鳴った。理科室でいつもずれる三分の誤差は、今日は生まれなかった。
腕時計のガラスに、細い罅が新しく一本、走る。誰にもわからない角度で。
圭佑は袖口でそっと拭い、気づかなかったふりで言った。
圭佑「大丈夫。まだ平気」
帰り道の風は、生ぬるい昼から夜へ舵を切っていた。信号の音が歩幅を刻み、街路樹の葉がこすれるたび、文乃は胸の内の粒を数え直す。
“巻き戻しは、しないで”。言い切った声の余韻は、まだ喉の奥で淡く響いている。
横断歩道の向こうで、小学生がランドセルを揺らして走った。青が点滅に変わる。文乃は歩みをゆるめ、彼らが渡り切るのを待つ。肩の力を抜くというより、力の置き場所を変えるだけ。そうすると、景色は少しだけ観やすくなる。
角を曲がった先、マンションの前で自転車がぐらりと傾いだ。荷台の紙袋が枝に引っかかったらしい。足を止めるより早く、誰かが駆け寄って袋を支え、前かごの紐をほどいた。
圭佑だった。
圭佑「…………偶然」
圭佑「偶然」
短い言葉の往復で、二人ともそれ以上を増やさない。彼は袋の口を整え、礼を言われても視線を落としたまま、竜頭に触れそうな指を止めた。
圭佑「さっき、ガラスに新しく“罅”が入ったみたいに見えたけど」
圭佑「見間違いだろ」
圭佑「光の“縫い目”に見えただけ?」
圭佑「そんな感じ」
嘘ではないのだろう。ヒビとキズと、反射の筋。その境目を見分けるのは難しい。けれど彼が袖口でそっと拭ったときの仕草が、あまりにも用心深かったことも、事実だ。
圭佑「じゃあ、また明日」
圭佑「ああ」
別れ際、彼は何も言い足さない。言い足さない努力がどれほど彼の体力を使っているのか、たぶん本人が一番知らない。文乃は手を振らず、背中で軽く会釈した。
家に帰ると、台所の湯気が窓を白くしていた。母の鍋から立つ匂いは、今日の失敗の角を丸くする。
母「文化祭、主演かもしれないって?」
母「“かも”。合わなかったら降りる」
母「合うと思うけどねえ。喉を冷やさないスープにしといたよ」
母は味噌汁をよそいながら、特別な顔をしない。普段と同じ話し方が、いちばんの応援になることを知っている。
食後、机に向かう。携帯を伏せたまま、今日のノートを開く。ページの右上に、小さく円を描く。そこに“手放す練習”と書いた付箋を重ねる。
通知の震えが一度。画面には、秋徳からのメッセージ。
《稽古前打合せ:明後日視聴覚室。配役案・舞台プラン・安全対策》
続けて、江莉奈から。
《天文台清掃、明日は17:30集合。鍵は私が管理。軍手ある人は持参》
そして、啓。
《かわいい検出音、さらに“かわいく”。聴覚実験協力求む!》
文乃はふっと笑い、返信を打つ。
《了解。かわいいの定義は明日検討》
《軍手、持っていきます》
《視聴覚室、五分前入りする》
ベッドサイドに置いたはずの白い欠片は、やはり見つからない。かわりに、窓際のコップに差したガーベラの花弁が、夜の気温で少し閉じていく。閉じることもまた、守るための形なのだ、と自分に言い聞かせる。
灯りを落とし、眠りへ降りていく途中で、ふと考える。“もし、ほんとうに三分戻れるなら、私は何をやり直すだろう”。
答えは、今はいらない。問いだけを胸に置き、目を閉じる。
翌日。天文台の外は風がやや強く、校舎の影が草の上でくっきりとしていた。集合時間より少し早く着くと、既に二人が来ている。
江莉奈が鍵束を指で逆さにして、番号順に揃える。「施錠と開錠、私が責任持ちます。掃除は三班、五人ずつ」
豪一郎はバケツを二つぶら下げ、「転ばないようにゆっくり行こう」と一年の肩に歩幅を合わせる。歩くテンポ一つで、不安は半分になる。そういうふうに人と並べるのが、彼はうまい。
啓は銀色の筒を抱えつつ、今日は空気を読んでスイッチを入れない。胸ポケットのビタミン剤は、相変わらず主張が強い。
チャーリー啓「文乃、こっち拭きお願い」
チャーリー啓「任せて」
階段にたまった砂や落ち葉を掃き、手すりを濡れ布巾で拭く。秋徳はチェックリストを片手に、無言でゴミ袋の口を押さえ続ける。持ち場から勝手に動かず、必要なときだけ一歩寄る。その一歩が、誰よりも効く。
天文台の中は、思ったより埃っぽくなかった。レンズカバーの上に薄く積もった粉を払うと、鏡面に自分の顔がぼんやり映る。
チャーリー啓「ここ、昔から好き」
小声でつぶやくと、斜め後ろから「知ってる」という声がした。
チャーリー啓「…………知ってるんだ」
チャーリー啓「偶然」
チャーリー啓「偶然が、よく知ってる」
文乃は笑って、拭き取りを再開する。彼を責めたいわけじゃない。責めなくていい境界線を、きちんと描きたいだけだ。
清掃が終わるころ、視聴覚室からの連絡が入った。
《台本会議、今日このまま実施可。参加希望は“今”挙手》
すぐに啓の手が上がる。「小道具、俺と圭佑とで!」
秋徳「安全管理の観点から賛成」
秋徳が言い、江莉奈が頷く。
秋徳「じゃあ、今日の流れをまとめます」
視聴覚室。暗幕を半分閉じ、白いスクリーンの前に折り畳み机が並ぶ。
秋徳「演目は『辺境開拓団×時間逆行』。粗筋の骨はこれ」
秋徳がホワイトボードに、辺境開拓団が過酷な開拓地で三分だけ時間を巻き戻せる装置を使う、という線を引く。
文乃「巻き戻しの代償は?」
と文乃。
チャーリー啓「“誰かの願いがひとつ、食われる”」
啓が勢いで言い、
チャーリー啓「いや待って語感が重め?」
と自分で自分にツッコミを入れる。
秋徳「重い。ただ、舞台の核としてはあり」
秋徳がマーカーを置く。
秋徳「観客に届く言葉かは、文乃の口で確かめたい」
秋徳「やってみる」
読み合わせが始まる。文乃が一行目を読むと、空気の高さがすっと変わった。言葉の端が布の目のようにそろう。豪一郎が相手役を受けると、台詞の出入りが自然に広がる。身体の使い方が、もう舞台の速度になっている。
圭佑は最前列の端に座り、台詞は読まないで小道具のスケッチを描いていた。透明樹脂で“ムーンジェイド”を複製する案。光が当たる角度で白から緑へ遷移する粉末を混ぜ、手の体温で少し曇る加工。危なくない、けれど“本物に見える”線を、彼は真剣に探る。
竜頭には触れない。触れない代わりに、鉛筆の先が折れそうなほど細く尖っていく。
秋徳「文乃、ここ“二拍空けて”お願いできる?」
秋徳「了解」
指示を受けると、彼女は一度だけ息を整えて、二拍をきっちり置いた。間の置き方に意味を入れるのが上手い。
読み合わせが進むほど、圭佑の眉がゆっくりとほどけていく。彼女が“普通の速さ”で積み上げているのを、目で確かめられるから。
チャーリー啓「小道具班、材料の見積もり出すね!」
啓が立ち上がる。
チャーリー啓「安全第一、かわいい第二!」
江莉奈「優先順位の“第二”が雑」
江莉奈が笑い、議事メモにチェックを入れる。
休憩を挟んだとき、豪一郎がペットボトルのキャップをかるく弾いて、文乃に手渡した。
文乃「飲め。声、よく出てる」
文乃「ありがとう」
礼を言って受け取るその一拍。圭佑は視線を上げ、また下げる。嫉妬というほど鋭くない。ただ、胸の中の何かが、いつもより早いテンポで拍を刻む。
竜頭に向かったはずの手は、机の下で固く握られ、やがて開かれた。
会議が終わる。配布物を綴る音、椅子を戻す音。誰かが忘れたペンを啓が拾い、「これ、誰の」と高く掲げる。
そのときだった。
スクリーンの端、スピーカーの上に、白い封筒が一つ。誰も気づかなかったはずの場所に、いつからか鎮座している。江莉奈が手に取り、差出人のない封を迷いなく開ける。
中から出てきたのは、薄い紙切れ一枚。活字を切り貼りしたような、等幅の冷たい文字で、ただ一行。
――ムーンジェイドは、願いを食う。
視聴覚室の空気が、温度ではなく比重を変えた。
文乃は息を吸い、その紙から目を離さない。
圭佑は一歩、前に出かけて、止まった。竜頭に触れない指が、空をつかむ。
豪一郎は全員の顔を一人ずつ確かめ、落ち着いた声で言う。
豪一郎「…………続きは、次回。確認は俺が取る」
秋徳が静かに頷き、啓が銀筒を抱え直す。江莉奈は封筒をクリアファイルへ入れ、鍵束と一緒に胸に抱えた。
夜の校舎へ出る前、文乃はスクリーンの白に、手の影をそっと重ねた。光は食われない。願いだけが、もし食われるのだとしたら――。
答えのない重さを、彼女は自分の両手で受け止めた。



