〇小天文台・深夜0時。
小天文台の深夜0時。空間の端が視界に残り、中心が少し広い。
置かれた道具が、この場の用事を物語る。
鍵穴が、夜の静けさより小さく鳴った。屋上の一角に載る小さな天文台。丸い屋根のスリットは半分だけ開いて、雲の切れ間を待つように夜空の黒を真っ直ぐに切り取っている。レンズの脇に並ぶのは、白い布でくるんだ小箱、細い麻紐、そして透明の小箱――保健室から“置いたまま”を“持ち出し”にした腕時計の控え。立会人の署名は、すでに江莉奈がしてくれた。第三者確認、完了。
江莉奈「遅れてない?」
江莉奈「時間は、ここに置いてきたから」
圭佑は透明の小箱を指先で示し、笑わない顔で冗談を言う。袖口の“TIMELINE SAFE”は亜麻色のまま、呼吸の速さを映すように静かだ。二拍半。吸って、置いて、吐く。
文乃は、白布の小箱の紐を解いた。掌に収まる白い欠片――ピュアホワイトミッドナイトムーンジェイド。掴めば曇り、離せば光る。その法則は、今日まで何度も確かめた。
文乃「雲、切れる」
言葉と同時に、夜が薄くほどけた。雲の裂け目から白い月が覗き、欠片の上を滑る。曇りは一瞬で退き、乳白の芯だけが残る。
文乃「“守る”と“縛る”の境界線、もう一回、言葉にしよ」
文乃は欠片を持ったまま、透明の小箱の横に“契約書(本契)”を置いた。角を四つ、クリップで留めた紙の上に、短い行が並ぶ。
文乃「“私の速度を変えない”。“三分逆行は、私の同意がある時だけ”。“助ける時は『今ここ』だけに手を入れる”。“暴走しそうな時、私が『止めて』と言ったら、そこで止まる”。“第三者に共有する”。――これで、合意」
文乃「了解」
圭佑は竜頭ではなく、ペンを取った。深く頭は下げない。代わりに、紙の端を人差し指の腹で押さえ、静かに名前を書く。
圭佑「…………で、ここからが本番」
文乃はムーンジェイドと麻紐を持ち替え、圭佑の左手首に視線を落とした。
圭佑「“手放すために、結ぶ”。――“縛る”じゃない、“守る”のほう」
言いながら、麻紐の輪を作る。結び目は“ほどけても結び直せる”巻き結び。豪一郎に習った手順を、速度を上げずに指先でなぞる。
豪一郎「痛くない?」
豪一郎「大丈夫。…………結び直せる結びなら、怖くない」
圭佑は袖口の布の下に残る微かな躊躇い――“巻き戻す”衝動の残り香――に目を落とし、それでも腕を差し出した。
麻紐が結び目を作り、白い欠片が手首の内側で月光を受ける。掴めば曇る、離せば光る。
豪一郎「確認、もう一回」
文乃は欠片にそっと触れて曇らせ、指を離した。白が戻る。
文乃「私が“止めて”と言ったら?」
文乃「止まる」
文乃「“三分、戻したい”って言ったら?」
文乃「同意がなければ、戻さない。同意があっても、“今ここ”のほうを優先する」
文乃「“嫌よ嫌よも好きのうち”は?」
文乃「セリフとしてはかわいい。運用では採用しない」
ふたりは笑わない。けれど、呼吸のリズムは完全に揃った。二拍半が、同じ速度で往復する。
透明の小箱の中で、腕時計のガラスに薄い罅が入っている。秒針は十二で止まったまま、ここ数日ずっと“音だけ”を未来へ置いてきた。
文乃「…………最後に、聞くよ」
文乃が透明の蓋を開けた。
文乃「その腕時計、どうする?」
圭佑は指先で竜頭をつまむ――ことはしない。竜頭から視線を外し、透明小箱ごと掌にのせ、天文台の窓枠の上へゆっくり移した。
圭佑「ここに“置く”。預けない、捨てない。――俺が取りに戻らなくていい夜を、増やすために」
圭佑「了解」
文乃は、箱の位置を“誰でも見える高さ”に整え、紙を一枚添えた。
《“巻き戻し”は求めません。ここに置いていきます。責任:二人》
角を四つ、透明ピンで留めるみたいに、指の腹で軽く押さえる。
ふいに、風が一度だけレンズの脇を撫で、夜がさらに澄んだ。
――カチ。
音が、一つ。
秒針は動かなかった。罅は、伸びない。音は、遠くへ行って、戻ってこない。
圭佑「…………ね、圭佑」
圭佑「うん」
圭佑「今日、ちょっとだけ、報酬ほしい」
文乃は二拍半を胸に置き、すぐに答えをひっくり返すみたいに目線を上げた。
文乃「キス。――未遂でいいから」
文乃「それは、採用」
圭佑が半歩だけ近づき、顔の角度を慎重に合わせる。頬に落ちる前の“未遂”の距離で一度止まり、彼女が微かに笑って、頬のほうを差し出す。
圭佑「“縛る”に近づきそうだったら、ここで止める」
圭佑「うん。…………止めた」
温度だけが頬に触れた。距離は保たれ、境界線はふたりの間にきれいに残った。
圭佑「帰り、送ろうか」
圭佑「いらない。偶然で会えるなら、それで」
いつものやりとり。けれど、今日は少し違う。文乃は、結び目を指で撫でてから付け足した。
文乃「明日の朝、この結び、私がもう一回、見てあげる。――“守る”のほう」
文乃「了解」
天文台の明かりを落とす前、江莉奈からメッセージが届いた。
《契約書(本契)受理。第三者保管は生徒会。必要時のみ閲覧》
《“かわいいの定義=怖がらせない説明+落下しない看板+誤字はその場で訂正+失敗を今ここで結び直す”で暫定更新》啓
《巻き戻し禁止ウィーク、終了。以後“必要時申告制”》秋徳
秋徳「…………全部、線の上だ」
圭佑は短く呟き、手首の白い欠片を月光に傾ける。掴めば曇り、離せば光る。今夜は、離したままで平気だ。
階段を降りる前、透明の小箱の前で立ち止まる。
秋徳「最後に、記念撮影」
文乃がスマホを構え、掲示用の小さな札をもう一枚足した。
《嫌よ嫌よも好きのうち――だけど、境界線はふたりで描く》
白い字が夜の中でやわらかく浮き、麻紐の輪がその下で小さく揺れた。
扉が閉じる。夜風は、南から北へ。
天文台の窓枠には、手放した腕時計。
階段を下りるふたりの手首には、結び直したムーンジェイド。
“重たい愛”は、押し上げる力ではなく、下で踏ん張る力に変わった――二拍半の、正確なリズムで。
小天文台の深夜0時。空間の端が視界に残り、中心が少し広い。
置かれた道具が、この場の用事を物語る。
鍵穴が、夜の静けさより小さく鳴った。屋上の一角に載る小さな天文台。丸い屋根のスリットは半分だけ開いて、雲の切れ間を待つように夜空の黒を真っ直ぐに切り取っている。レンズの脇に並ぶのは、白い布でくるんだ小箱、細い麻紐、そして透明の小箱――保健室から“置いたまま”を“持ち出し”にした腕時計の控え。立会人の署名は、すでに江莉奈がしてくれた。第三者確認、完了。
江莉奈「遅れてない?」
江莉奈「時間は、ここに置いてきたから」
圭佑は透明の小箱を指先で示し、笑わない顔で冗談を言う。袖口の“TIMELINE SAFE”は亜麻色のまま、呼吸の速さを映すように静かだ。二拍半。吸って、置いて、吐く。
文乃は、白布の小箱の紐を解いた。掌に収まる白い欠片――ピュアホワイトミッドナイトムーンジェイド。掴めば曇り、離せば光る。その法則は、今日まで何度も確かめた。
文乃「雲、切れる」
言葉と同時に、夜が薄くほどけた。雲の裂け目から白い月が覗き、欠片の上を滑る。曇りは一瞬で退き、乳白の芯だけが残る。
文乃「“守る”と“縛る”の境界線、もう一回、言葉にしよ」
文乃は欠片を持ったまま、透明の小箱の横に“契約書(本契)”を置いた。角を四つ、クリップで留めた紙の上に、短い行が並ぶ。
文乃「“私の速度を変えない”。“三分逆行は、私の同意がある時だけ”。“助ける時は『今ここ』だけに手を入れる”。“暴走しそうな時、私が『止めて』と言ったら、そこで止まる”。“第三者に共有する”。――これで、合意」
文乃「了解」
圭佑は竜頭ではなく、ペンを取った。深く頭は下げない。代わりに、紙の端を人差し指の腹で押さえ、静かに名前を書く。
圭佑「…………で、ここからが本番」
文乃はムーンジェイドと麻紐を持ち替え、圭佑の左手首に視線を落とした。
圭佑「“手放すために、結ぶ”。――“縛る”じゃない、“守る”のほう」
言いながら、麻紐の輪を作る。結び目は“ほどけても結び直せる”巻き結び。豪一郎に習った手順を、速度を上げずに指先でなぞる。
豪一郎「痛くない?」
豪一郎「大丈夫。…………結び直せる結びなら、怖くない」
圭佑は袖口の布の下に残る微かな躊躇い――“巻き戻す”衝動の残り香――に目を落とし、それでも腕を差し出した。
麻紐が結び目を作り、白い欠片が手首の内側で月光を受ける。掴めば曇る、離せば光る。
豪一郎「確認、もう一回」
文乃は欠片にそっと触れて曇らせ、指を離した。白が戻る。
文乃「私が“止めて”と言ったら?」
文乃「止まる」
文乃「“三分、戻したい”って言ったら?」
文乃「同意がなければ、戻さない。同意があっても、“今ここ”のほうを優先する」
文乃「“嫌よ嫌よも好きのうち”は?」
文乃「セリフとしてはかわいい。運用では採用しない」
ふたりは笑わない。けれど、呼吸のリズムは完全に揃った。二拍半が、同じ速度で往復する。
透明の小箱の中で、腕時計のガラスに薄い罅が入っている。秒針は十二で止まったまま、ここ数日ずっと“音だけ”を未来へ置いてきた。
文乃「…………最後に、聞くよ」
文乃が透明の蓋を開けた。
文乃「その腕時計、どうする?」
圭佑は指先で竜頭をつまむ――ことはしない。竜頭から視線を外し、透明小箱ごと掌にのせ、天文台の窓枠の上へゆっくり移した。
圭佑「ここに“置く”。預けない、捨てない。――俺が取りに戻らなくていい夜を、増やすために」
圭佑「了解」
文乃は、箱の位置を“誰でも見える高さ”に整え、紙を一枚添えた。
《“巻き戻し”は求めません。ここに置いていきます。責任:二人》
角を四つ、透明ピンで留めるみたいに、指の腹で軽く押さえる。
ふいに、風が一度だけレンズの脇を撫で、夜がさらに澄んだ。
――カチ。
音が、一つ。
秒針は動かなかった。罅は、伸びない。音は、遠くへ行って、戻ってこない。
圭佑「…………ね、圭佑」
圭佑「うん」
圭佑「今日、ちょっとだけ、報酬ほしい」
文乃は二拍半を胸に置き、すぐに答えをひっくり返すみたいに目線を上げた。
文乃「キス。――未遂でいいから」
文乃「それは、採用」
圭佑が半歩だけ近づき、顔の角度を慎重に合わせる。頬に落ちる前の“未遂”の距離で一度止まり、彼女が微かに笑って、頬のほうを差し出す。
圭佑「“縛る”に近づきそうだったら、ここで止める」
圭佑「うん。…………止めた」
温度だけが頬に触れた。距離は保たれ、境界線はふたりの間にきれいに残った。
圭佑「帰り、送ろうか」
圭佑「いらない。偶然で会えるなら、それで」
いつものやりとり。けれど、今日は少し違う。文乃は、結び目を指で撫でてから付け足した。
文乃「明日の朝、この結び、私がもう一回、見てあげる。――“守る”のほう」
文乃「了解」
天文台の明かりを落とす前、江莉奈からメッセージが届いた。
《契約書(本契)受理。第三者保管は生徒会。必要時のみ閲覧》
《“かわいいの定義=怖がらせない説明+落下しない看板+誤字はその場で訂正+失敗を今ここで結び直す”で暫定更新》啓
《巻き戻し禁止ウィーク、終了。以後“必要時申告制”》秋徳
秋徳「…………全部、線の上だ」
圭佑は短く呟き、手首の白い欠片を月光に傾ける。掴めば曇り、離せば光る。今夜は、離したままで平気だ。
階段を降りる前、透明の小箱の前で立ち止まる。
秋徳「最後に、記念撮影」
文乃がスマホを構え、掲示用の小さな札をもう一枚足した。
《嫌よ嫌よも好きのうち――だけど、境界線はふたりで描く》
白い字が夜の中でやわらかく浮き、麻紐の輪がその下で小さく揺れた。
扉が閉じる。夜風は、南から北へ。
天文台の窓枠には、手放した腕時計。
階段を下りるふたりの手首には、結び直したムーンジェイド。
“重たい愛”は、押し上げる力ではなく、下で踏ん張る力に変わった――二拍半の、正確なリズムで。



