〇体育館・本番/強風注意報下。
 体育館の本番/強風注意報下。天井は高く、声は半歩遅れて戻る。
 床板が踏むたびに低く鳴る。
  開場五分前。客席の白がまだ揺れている。天井の梁に吊られた看板《辺境開拓団×時間逆行》は、ワイヤーとセーフティコードで“落ちない”角度に固定済み。角の透明パッドは四点留めで、指の腹で押すとわずかに弾む。舞台袖の《返却ポスト》は“怖がらせない光”を“昼公演モード”に落としている。
  江莉奈は鍵束を“音の出ない位置”に置き、透明な声で段取りを引いた。
  江莉奈「短縮構成、一本勝負。緑は“抑え”、白は飛ばさない。返却ポストの回収は幕間×一回。――『犯人探し』には使わない」
  江莉奈「了解」
  圭佑は袖口の“TIMELINE SAFE”を親指で確かめ、竜頭から視線を外した。腕時計は保健室の透明小箱の上。秒針は十二で止まったまま、音だけをひとつ吐く準備をしている気配。
  幕の裏、文乃はムーンジェイドの箱の角をそっと撫で、手袋越しに“掴めば曇り、離せば光る”を確かめた。二拍半。吸って、置いて、吐く。
  文乃「アンカー、やるね」
  文乃「任された」
  豪一郎は脚立の足元を一度踏み、クランプを増し締め。「看板、今日も落ちない」
  チャーリー啓は放送原稿を胸の前で整え、「“かわいいの定義=怖がらせない説明+落下しない看板+誤字はその場で訂正”」と小声で復唱した。「――行ってくる」
  開演。
  明転。白が広がり、緑は眠らず、暴れない。舞台の中央、辺境開拓団の旗が“普通の速さ”で揺れる。
  文乃「――『辺境の砂は、昨日を包む。けれど、明日へは“今ここ”の靴で行く』」
  文乃の声に、客席の呼吸が一度だけ揃う。
  ――カチ。
  遠くの保健室で、音だけが一つ。秒針は動かない。罅は伸びない。
  (聞こえる。…………でも、押さない)
  圭佑は照明卓でフェーダーを半目盛落とし、文字の縁を太らせる。“戻さない”で“支える”。
  一景が終わるころ、体育館の高窓を風が叩いた。ぱらぱらと雨粒。袖の暗がりで秋徳がホワイトボードの《導線マップ》に赤ペンで一本矢印を足す。
  秋徳「客席後方→講堂裏、屋外は閉鎖。退避導線は体育館内で完結」
  江莉奈は頷き、放送部にメモを渡す。「『怖がらせない説明』、すぐ」
  《強風のため、屋外通路は閉鎖します。退避は体育館内の導線に従ってください――》
  啓の声は少し低く、にごらない。客席は半歩で落ち着く。
  その時だ。一列目の端で、小さな靴が立ち上がり、紐がほどけた。前へ、半歩。
  秋徳「危――」
  係の手が伸びるより、わずかに早く、圭佑の腹の底で衝動が跳ねた。
  (押せば、三分、戻る。戻して、結べば――)
  袖口の亜麻色が、手首に触れる。
  (触らない。触らないで、今ここ)
  秋徳「啓、“かわいい”アナウンス」
  圭佑はマイクを指差し、フェーダーを客席の“手元だけ”に落とす。
  《劇団よりお知らせ。冒険者の“靴紐”は、固い結びより、ほどけても結び直せる“巻き結び”がオススメです》
  笑いが一つ、起きて、やむ。豪一郎が“速度を奪わず進路だけ変える”半歩で前に出て、しゃがむ。「ほどけても、結び直せる」
  指は速すぎない。観客の視線が“結び直す所作”に吸い込まれ、舞台の物語に自然と戻る。
  文乃が呼吸を合わせ、台詞を“半拍前”に置き換える。
  文乃「――『縛るより、守る。行きと帰りの道は、空けておく』」
  客席が二回、揃った。
  幕間。
  返却ポストの小窓が一度、明滅。封筒が一通。
  《“返せた”。――“名前”は、まだ怖い。『責任:二年四組』》
  署名はない。けれど“所属”は“名札みたいに”書かれている。
 文乃「“犯人探し”に使わない。――『結び直し講習』、終演後ミニ版」
  江莉奈が即答し、秋徳は《運用:講習(短縮)》と書き足す。啓は「“かわいいの定義=返せた人を怖がらせない”」と胸の前で小さく言う。
  二景。
  舞台上――辺境開拓団は“時間逆行の泉”の前に立つ。脚本では、主人公が『三分だけ巻き戻せる腕輪』を手にし、仲間に問われる場面。
  文乃は二拍半を胸に置き、圭佑を見るわけではなく、客席の“今ここ”を見て言う。
  文乃「『わたしの速度を変えないで。危ないところにだけ柵を置いて。縛るなら、いらない』」
  圭佑の指が、知らず袖口の結び目を撫でた。台本どおりに道具へ手を伸ばし――そこで止まる。
  圭佑「『…………了解。俺は押さない。下で踏ん張る』」
  台詞の重心が、舞台だけでなく袖にも届く。
  ――カチ。
  保健室で、音だけが一つ。秒針は動かない。罅は伸びない。ガラスの曇りが、ごく薄く晴れる。
  終盤、風がひときわ強く、天井の梁がわずかに唸った。
  圭佑「固定、よし」
  豪一郎がクランプをもう一段締めて戻る間、圭佑は光を“飛ばさない/濁らせない”の間へ置き直す。
  (戻さない。…………いま、置き直す)
  文乃の“食べないで”が半拍だけ戻され、空気が二回、揃う。観客の視線が、焦らずに、集中だけを増す。
  カーテンコール。
  拍手。
  江莉奈が鍵束を“音の出ない位置”に戻し、「撤収」の声を短く置く。
  その直後、啓が客席へ向けて一礼し、マイクを受け取った。
  《本日の“かわいいの定義”に、新しい項目を追加します。『失敗を“今ここ”で結び直せた人はかわいい』。以上です》
  笑いが柔らかく走り、拍手がもう一度、揃う。
  撤収後。
  保健室。透明小箱は、朝と同じ位置。秒針は、まだ十二で止まっている。
  圭佑「…………どうする?」
  養護教諭の問いに、圭佑は小箱の前で立ち止まり、二拍半。吸って、置いて、吐く。
  圭佑「今日は、置いて帰る」
  圭佑「了解。“預けない”の“置く”。――契約、効いてる」
  文乃は透明小箱の角を、指の腹でそっと押さえた。「続きは、明日。…………私、アンカーやる」
  外は雨へと決め、風は少しだけおとなしい。“返却ポスト”の灯りは、夜の目盛りで静かに呼吸していた。
  《“戻す先が見えた”。――ありがとう》
  掲示板の一角に小さく貼られた紙は、角を四つ、透明ピンでまっすぐだった。
  ――カチ。
  保健室で、音だけが一つ。
  罅は、伸びない。
  “巻き戻さないで結び直す”一日が、きちんと終わった合図のように。