〇生徒会室・二一時/翌朝・体育館。
 生徒会室の二一時/翌朝。空間の端が視界に残り、中心が少し広い。
 置かれた道具が、この場の用事を物語る。
  窓ガラスの外で、風がまだ迷っている。生徒会室の蛍光灯は最小限。江莉奈が鍵束を机の上の“音の出ない位置”に置き、透明な声で線を引いた。
  江莉奈「文化祭は“短縮開催”。一本勝負、午前十時開演。安全最優先で段取りを組み直す。――返却ポストは継続、掲示は“名札みたいに”」
  江莉奈「了解」
  秋徳はホワイトボードの《導線マップ》を書き換え、矢印を一本減らして太くした。啓は携帯版の“怖がらせない光”を二つ並べ、「非常灯の代わりはしない。足元だけ」と自分に聞こえる音量で言う。
  圭佑は、袖口の“TIMELINE SAFE”を親指で確かめてから、机の木目へ視線を落とした。腕時計は保健室の机に置いたまま、秒針を十二で止めている。
  (押さない。――明日、下で踏ん張る)
  窓の隅で雨が一粒、試しに降りて、帰った。風は決めかねている。部屋の空気は、決まった。
  江莉奈「…………その前に、もうひとつ」
  文乃が、クリアファイルを一枚、机の中央へ滑らせた。角は四つ、クリップで留められている。表紙には細い字。
  《執着契約書(仮)――“守る”と“縛る”の境界線》
  啓が「タイトルかわいい」と小声で言い、江莉奈が「第三者確認=私」と付箋を足す。
  文乃は二拍半を胸に置いてから、読み上げはしなかった。代わりに、指で行をなぞり、必要なところだけを口にする。
  文乃「“私の速度を変えない”。“3分逆行は、私の同意がある時だけ”。“助ける時は『今ここ』だけに手を入れる”。“暴走しそうなとき、私が『止めて』と言ったら、そこで止まる”。“第三者に共有する”」
  行を読み切ると、彼女は一度だけ圭佑を見る。責める目つきではなく、“ここまでなら一緒に歩けるよ”と示すような視線だ。
  圭佑は、竜頭に行きかけた視線をファイルへ下ろし、ひとつ、息を吸った。
  (“守る”。…………“縛る”じゃない)
  文乃「…………同意。サイン、する」
  彼はペンを取った。深く頭は下げない。深く下げると衝動が戻るからだ。代わりに、指の腹で紙の端を押さえ、静かに名前を書く。
  江莉奈が第三者欄に署名し、角を四つ、もう一度押さえた。
  江莉奈「効力は“今”から。――明日はこれに基づいて動く。『犯人探し』には使わない。“返す先”は灯す」
  保健室。
  机の上の腕時計は、秒針が十二で止まったまま、音だけをひとつ吐いた。
  ――カチ。
  罅は伸びない。文乃がそっと透明な小箱を置き、その上から“TIMELINE SAFE”のタグの端を軽く挟む。
  文乃「“預けない”を“置く”にする。――あなたが自分で取りに戻れる距離に」
  養護教諭が頷き、箱の位置を“誰でも見える高さ”に整えた。「朝になったら、また見にいらっしゃい」
  翌朝。
  体育館の天井は高く、風の気配は音より色で伝わってくる。吊られた看板はワイヤーとセーフティコードで“落ちない”角度。角には透明パッド。舞台袖には《返却ポスト》の札。角を四つ、透明ピン。
  文乃「“緑”は抑える。白は飛ばさない」
  圭佑は照明卓で角度を三度、確認した。袖口の亜麻色は呼吸の速さと一緒に静かだ。
  圭佑「ナイス“今ここ調整”」
  豪一郎が短く言い、脚立の足元を踏み、クランプを増し締めする。「看板、今日も落ちない」
  啓は胸の前でランプを点け、「“かわいいの定義=怖がらせない説明+落下しない看板+誤字はその場で訂正”」と早口で復唱した。
  チャーリー啓「誤字は…………今日は出さない」
  それでも彼はペンをしまい、読みの語尾だけをやわらかく整える。
  開場前。
  放送部の声は少し低く、にごらない。
  《“同期”は怖がらせない言い換えです。今日は“巻き戻し”を求めないでください。“返す先”はこちら――》
  客席に見立てた空気が半歩整い、掲示の前で数人の肩が自然に引いた。
  文乃は舞台袖で、ムーンジェイドの箱の角をひと撫でし、手袋越しに“掴めば曇り、離せば光る”の確かめを一度だけする。
  文乃「アンカー、やる」
  口にださず、二拍半を胸で数える。
  そのときだ。
  返却ポストの小窓が、小さく明滅した。
  封筒が一通。
  《“本番で返せるようにして”。――照明“緑寄り”で》
  昨日の切れ端と同じ癖のない字。
  江莉奈は封を切らず、「運用に使う」とだけ言ってクリアファイルへ入れる。
  秋徳が白板に一本線を足す。
  《条件=“緑寄り”→抑制。返却ポスト=袖/客席後方に増設》
  文乃「“返す先”は、今、増やせば届く」
  豪一郎が言い、啓がすでに“袖ポスト2”の札を作っている。「角、四つ、透明ピン!」
  開演十分前。
  文乃は、舞台袖の暗がりで圭佑の前に立った。
  文乃「契約、今日も効いてる?」
  ペンのインクの匂いが、少し残っている。圭佑はうなずき、袖口の結び目を指の腹で撫でた。
  圭佑「“守る”でいる。縛りそうになったら、言って」
  圭佑「言う。二拍半で」
  ふたりは笑わない。けれど、目の温度はそろっていた。
  圭佑「位置に」
  江莉奈の透明な声で全員が持ち場につく。
  明転。
  舞台の白が広がり、“緑”は眠らず、暴れない。看板は落ちない。
  圭佑「――『辺境開拓団は、昨日を愛している。でも、明日へ歩くには“今ここ”の砂を踏むしかない』」
  文乃の台詞に、客席の空気が一度沈み、戻る。
  ――カチ。
  遠くで音だけが一つ。保健室の机の上、秒針は十二で止まったまま、罅は伸びない。
  (聞こえる。…………でも、押さない)
  圭佑は照明のフェーダーを“普通の速さ”で落とし、袖へ下がる。封印タグは鳴らない。鳴らない代わりに、胸の内側で呼吸がひとつ増えた。
  幕間。
  返却ポストの小窓が、一度だけ明るくなった。
  中に、紙片が一枚。
  《“戻す先が見えた”。――『責任:二年四組』》
  署名は、ない。けれど、所属が“名札みたいに”書かれている。
  圭佑「“犯人探し”に使わない。――『結び直し講習』、昼にもう一回」
  豪一郎の提案に、江莉奈が「採用」と即答し、秋徳が運用表に一行足す。啓は「かわいいの定義=“返せた人を怖がらせない”」と胸の前で小さく言う。
  終演直前。
  文乃の“食べないで”が半拍だけ戻され、空気が二回、揃う。
  舞台袖で圭佑は、視線を“透明小箱のほう”には向けないまま、封印タグの結び目を親指で押さえた。
  (契約は、紙じゃなく、手のほうで続ける)
  幕が下りる。拍手。
  江莉奈が鍵束を“音の出ない位置”に戻し、「撤収」と短く言った。
  江莉奈「“リセット禁止週間”、延長、検討」
  秋徳がメモし、啓が「延長かわいい」と笑いを喉で止める。豪一郎は脚立の足元を最後に踏み、道具箱を閉じた。
  終演後の保健室。
  透明小箱は、朝と同じ位置。
  秒針は、まだ十二で止まっている。
  ――カチ。
  圭佑は、箱に手を伸ばして――触れなかった。
  圭佑「今日は、ここに置いて帰る」
  文乃は二拍半。
  文乃「了解。“預けない”の“置く”。――契約、効いてる」
  窓の外の風が、決めたように南から北へ流れた。