〇舞台袖・放課後。
舞台袖の放課後。幕の向こうのざわめきが布越しに揺れる。
緑の誘導灯が足元だけを染める。
視聴覚室のドアが、静かな音で閉じた。舞台袖へ続く通路は、赤いガムテープで“行きと帰り”が二重に引かれている。返却ポストの小窓は“怖がらせない光”を夕方の目盛りで灯し、角は四つ、透明ピンで留められたまま動かない。
文乃「今日、取り戻す」
江莉奈が鍵束を胸の前で鳴らし、三行で段取りを置いた。
江莉奈「一、追跡は“発明”で。二、導線は“普通の速さ”。三、犯人探しには使わない。“返す先”を増やす」
江莉奈「了解」
圭佑は袖口の“TIMELINE SAFE”を指で確かめ、竜頭から視線を外す。封印タグは亜麻色で、息をするように静かだ。
机の上に、銀色の筒がひとつ。かつて“チョコ発見器”と呼ばれ、購買から放送室まで騒ぎを撒いた過去の遺物。今日は正面玄関から出直して、名前も役割も着替えている。
江莉奈「名付けて、“香料追跡デバイス”。チョコの主成分だったバニリンのセンサーを、透明パッドの糊の匂いに寄せた。柑橘系のマーカーを極薄で」
圭佑が説明すると、啓が真顔で小さく頷く。
圭佑「“かわいいの定義=怖がらせない説明+落下しない看板”。今日は“落ちない看板+迷わない鼻”」
圭佑「採用」
秋徳はホワイトボードに《導線マップ》を描き、矢印を三本増やした。
――舞台袖→理科準備室→講堂裏→返却ポスト。
圭佑「センサーの反応は俺が読み上げる。速度は“普通”。“回収”は“断罪”じゃない、“線へ戻す”」
豪一郎は腕を組まず、脚立の足元の滑り止めを確認してから、短く言った。「行こう」
デバイスの先端が、うすく鳴る。――ピ。
舞台袖の壁際に貼った“透明パッド”の控えから、微かな柑橘の層が空気にほどける。圭佑は息を吸い、二拍半を置いて、吐く。
(押さない。嗅ぐ。歩くのは“普通の速さ”)
第一反応は、理科準備室の手前で跳ねた。――ピ、ピ。
ガラスケースの縁、右上に、薄い糊の光が一本。昨日、啓が見つけたのと同じ材質だ。
チャーリー啓「“触らない”。――嗅ぐだけ」
秋徳が押さえる。圭佑は先端を一センチだけ近づけ、数値を読む。
圭佑「残香、あり。けど“在庫=空”」
江莉奈が記録に《理科:通過》と書き、角を四つ、クリップで留めた。
通気口を抜ける風が、講堂裏へ押す。――ピ、ピ、ピ。
反応が一段上がる。講堂裏のロッカー列に近づくほど、音が短くなる。
圭佑「“普通の速さ”で」
豪一郎の声が、ロッカーの金属に柔らかく返る。
鍵穴は無傷。けれど、底のほこりに靴跡が一つだけ新しい。癖のない所作、短い爪の、あの影の歩幅と似ている。
圭佑はロッカーの取手に触れず、床のラインテープの端を指で押さえた。「ここで戻したくなる癖、俺にもある。けど、今日は匂い」
――ピ、ピ、ピ。
ロッカーの中ではなく、列の終端、非常口の押し棒へ音が寄っていく。非常口の外は講堂袖、返却ポストまで続く直線。
秋徳が《導線マップ》の矢印を一本、足す。「“返す先”に自動で吸い込まれる道。説明の線が、誘導になる」
秋徳「行こう」
講堂袖。
返却ポストの小窓の前に、影が一つ。癖のない所作。封筒を持つ手元だけが見える。
圭佑は走らない。秋徳も走らない。豪一郎は“速度を奪わず進路だけ変える”半歩で位置をずらし、江莉奈が透明な声で言う。
秋徳「“返す”は“線の上に戻す”です。――“謝罪”は求めません」
影は、顔を上げない。封筒が小窓に吸い込まれ、透明な音が一つ鳴った。
圭佑のデバイスが、短く高く、――ピッ。
江莉奈が鍵を回し、封筒を開ける。
中には、ムーンジェイド。
掌で曇り、離すと光る、小さな白。
そして薄い紙片。
《“緑”で願いを食べさせるつもりだった。――でも、“返す先”が増えたら、怖いのが薄れた。
“結び方”は、昼の講習で覚えた。責任:――》
署名は、ない。かわりに“責任:所属”の空欄に小さく“二年四組”とだけ打たれていた。
二年生「“犯人探し”には使わない。――“運用”に使う」
豪一郎が短く言い、封筒の端を折らずにクリアファイルへ入れる。秋徳は《導線:有効》と一行足し、啓は“怖くない光”を“お礼モード”に切り替えた。「かわいいの定義、今日の追加=“返せた人を怖がらせない”」
豪一郎「採用」
文乃は、ムーンジェイドを両手で受け取った。手袋越しに、掴めば曇り、離せば光る。
文乃「返ってきた。…………“戻す”って、こういうこと」
二拍半を胸に置き、彼女は舞台袖の棚へと歩く。
圭佑は、竜頭から視線を外したまま、封印タグの結び目を指の腹で撫でた。
(押さない。支える。――俺の“重さ”は下で踏ん張る)
圭佑「固定、俺が見る」
豪一郎がクランプを増し締めする横で、圭佑は照明の“飛び”を二度、三度、目で確認した。白は飛ばず、緑は濁らない。
圭佑「回収、完了。…………“香りタグ”、効いたね」
江莉奈が記録に《本番用:回収/保管:施錠》と書き、角を四つ、クリップで留める。
江莉奈「“返す先”の札、舞台袖にも常設で」
秋徳が掲示の位置を数センチだけ下げ、「名札みたいに見える高さ」に調整した。啓は胸の前で小さく拍手する。「“迷わない鼻”計画、かわいいに分類」
秋徳「…………たまたま」
圭佑は笑わない。けれど、声は湿りすぎない。「二拍半」
撤収のタイミングで、放送部が差し込みの原稿を持ってきた。
《台風接近のため、文化祭の開催可否は本日二一時の気象情報を受けて判断します。“安全最優先”。――“返す先”は継続》
遠い風の匂いが、講堂の高い窓から一筋だけ降りてくる。
秋徳「中止か、短縮か。…………“アンカー”やるよ」
文乃がムーンジェイドの箱の角を撫で、二拍半を胸に作った。「“守る”のほうで」
夜。
視聴覚室の鍵が回り、保管棚の扉が静かに閉まる。『ムーンジェイド(本番用)』のラベルは斜めではない。
保健室の机の上では、腕時計が秒針を十二で止めたまま、音だけを一つ。
――カチ。
罅は伸びない。
窓の外を、海の気配に似た風が撫でた。スマホの通知が短く震える。
《警報の可能性あり。安全最優先。判断は二一時。》江莉奈
《“緑”は抑える。白は飛ばさない》圭佑
《導線マップ更新。“返す先”常設》秋徳
《“かわいいの定義”に“中止の説明=怖がらせない”を追加》啓
《アンカー、続ける》文乃
送信の青が消え、教室の空気が夜の目盛りで静かになった。
明日の空は、まだ決まっていない。
けれど、石は戻った。
巻き戻さずに積み重ねた小さな選択の上で、光は濁らず、文字はくっきりと見える。
舞台袖の放課後。幕の向こうのざわめきが布越しに揺れる。
緑の誘導灯が足元だけを染める。
視聴覚室のドアが、静かな音で閉じた。舞台袖へ続く通路は、赤いガムテープで“行きと帰り”が二重に引かれている。返却ポストの小窓は“怖がらせない光”を夕方の目盛りで灯し、角は四つ、透明ピンで留められたまま動かない。
文乃「今日、取り戻す」
江莉奈が鍵束を胸の前で鳴らし、三行で段取りを置いた。
江莉奈「一、追跡は“発明”で。二、導線は“普通の速さ”。三、犯人探しには使わない。“返す先”を増やす」
江莉奈「了解」
圭佑は袖口の“TIMELINE SAFE”を指で確かめ、竜頭から視線を外す。封印タグは亜麻色で、息をするように静かだ。
机の上に、銀色の筒がひとつ。かつて“チョコ発見器”と呼ばれ、購買から放送室まで騒ぎを撒いた過去の遺物。今日は正面玄関から出直して、名前も役割も着替えている。
江莉奈「名付けて、“香料追跡デバイス”。チョコの主成分だったバニリンのセンサーを、透明パッドの糊の匂いに寄せた。柑橘系のマーカーを極薄で」
圭佑が説明すると、啓が真顔で小さく頷く。
圭佑「“かわいいの定義=怖がらせない説明+落下しない看板”。今日は“落ちない看板+迷わない鼻”」
圭佑「採用」
秋徳はホワイトボードに《導線マップ》を描き、矢印を三本増やした。
――舞台袖→理科準備室→講堂裏→返却ポスト。
圭佑「センサーの反応は俺が読み上げる。速度は“普通”。“回収”は“断罪”じゃない、“線へ戻す”」
豪一郎は腕を組まず、脚立の足元の滑り止めを確認してから、短く言った。「行こう」
デバイスの先端が、うすく鳴る。――ピ。
舞台袖の壁際に貼った“透明パッド”の控えから、微かな柑橘の層が空気にほどける。圭佑は息を吸い、二拍半を置いて、吐く。
(押さない。嗅ぐ。歩くのは“普通の速さ”)
第一反応は、理科準備室の手前で跳ねた。――ピ、ピ。
ガラスケースの縁、右上に、薄い糊の光が一本。昨日、啓が見つけたのと同じ材質だ。
チャーリー啓「“触らない”。――嗅ぐだけ」
秋徳が押さえる。圭佑は先端を一センチだけ近づけ、数値を読む。
圭佑「残香、あり。けど“在庫=空”」
江莉奈が記録に《理科:通過》と書き、角を四つ、クリップで留めた。
通気口を抜ける風が、講堂裏へ押す。――ピ、ピ、ピ。
反応が一段上がる。講堂裏のロッカー列に近づくほど、音が短くなる。
圭佑「“普通の速さ”で」
豪一郎の声が、ロッカーの金属に柔らかく返る。
鍵穴は無傷。けれど、底のほこりに靴跡が一つだけ新しい。癖のない所作、短い爪の、あの影の歩幅と似ている。
圭佑はロッカーの取手に触れず、床のラインテープの端を指で押さえた。「ここで戻したくなる癖、俺にもある。けど、今日は匂い」
――ピ、ピ、ピ。
ロッカーの中ではなく、列の終端、非常口の押し棒へ音が寄っていく。非常口の外は講堂袖、返却ポストまで続く直線。
秋徳が《導線マップ》の矢印を一本、足す。「“返す先”に自動で吸い込まれる道。説明の線が、誘導になる」
秋徳「行こう」
講堂袖。
返却ポストの小窓の前に、影が一つ。癖のない所作。封筒を持つ手元だけが見える。
圭佑は走らない。秋徳も走らない。豪一郎は“速度を奪わず進路だけ変える”半歩で位置をずらし、江莉奈が透明な声で言う。
秋徳「“返す”は“線の上に戻す”です。――“謝罪”は求めません」
影は、顔を上げない。封筒が小窓に吸い込まれ、透明な音が一つ鳴った。
圭佑のデバイスが、短く高く、――ピッ。
江莉奈が鍵を回し、封筒を開ける。
中には、ムーンジェイド。
掌で曇り、離すと光る、小さな白。
そして薄い紙片。
《“緑”で願いを食べさせるつもりだった。――でも、“返す先”が増えたら、怖いのが薄れた。
“結び方”は、昼の講習で覚えた。責任:――》
署名は、ない。かわりに“責任:所属”の空欄に小さく“二年四組”とだけ打たれていた。
二年生「“犯人探し”には使わない。――“運用”に使う」
豪一郎が短く言い、封筒の端を折らずにクリアファイルへ入れる。秋徳は《導線:有効》と一行足し、啓は“怖くない光”を“お礼モード”に切り替えた。「かわいいの定義、今日の追加=“返せた人を怖がらせない”」
豪一郎「採用」
文乃は、ムーンジェイドを両手で受け取った。手袋越しに、掴めば曇り、離せば光る。
文乃「返ってきた。…………“戻す”って、こういうこと」
二拍半を胸に置き、彼女は舞台袖の棚へと歩く。
圭佑は、竜頭から視線を外したまま、封印タグの結び目を指の腹で撫でた。
(押さない。支える。――俺の“重さ”は下で踏ん張る)
圭佑「固定、俺が見る」
豪一郎がクランプを増し締めする横で、圭佑は照明の“飛び”を二度、三度、目で確認した。白は飛ばず、緑は濁らない。
圭佑「回収、完了。…………“香りタグ”、効いたね」
江莉奈が記録に《本番用:回収/保管:施錠》と書き、角を四つ、クリップで留める。
江莉奈「“返す先”の札、舞台袖にも常設で」
秋徳が掲示の位置を数センチだけ下げ、「名札みたいに見える高さ」に調整した。啓は胸の前で小さく拍手する。「“迷わない鼻”計画、かわいいに分類」
秋徳「…………たまたま」
圭佑は笑わない。けれど、声は湿りすぎない。「二拍半」
撤収のタイミングで、放送部が差し込みの原稿を持ってきた。
《台風接近のため、文化祭の開催可否は本日二一時の気象情報を受けて判断します。“安全最優先”。――“返す先”は継続》
遠い風の匂いが、講堂の高い窓から一筋だけ降りてくる。
秋徳「中止か、短縮か。…………“アンカー”やるよ」
文乃がムーンジェイドの箱の角を撫で、二拍半を胸に作った。「“守る”のほうで」
夜。
視聴覚室の鍵が回り、保管棚の扉が静かに閉まる。『ムーンジェイド(本番用)』のラベルは斜めではない。
保健室の机の上では、腕時計が秒針を十二で止めたまま、音だけを一つ。
――カチ。
罅は伸びない。
窓の外を、海の気配に似た風が撫でた。スマホの通知が短く震える。
《警報の可能性あり。安全最優先。判断は二一時。》江莉奈
《“緑”は抑える。白は飛ばさない》圭佑
《導線マップ更新。“返す先”常設》秋徳
《“かわいいの定義”に“中止の説明=怖がらせない”を追加》啓
《アンカー、続ける》文乃
送信の青が消え、教室の空気が夜の目盛りで静かになった。
明日の空は、まだ決まっていない。
けれど、石は戻った。
巻き戻さずに積み重ねた小さな選択の上で、光は濁らず、文字はくっきりと見える。



