月曜日。
  朝礼の校庭はまだ空気が冷たく、白い息が少しだけ均一に並んだ。江莉奈が鍵束を胸の前で鳴らし、透明な声で線を引く。
  江莉奈「今週、“腕時計に触れない”。小さい失敗は“今ここ”で受ける。申告は続行。『犯人探し』には使わない。――以上」
  江莉奈「了解」
  圭佑は袖口の“TIMELINE SAFE”の亜麻色を指で確かめ、竜頭から視線を外した。
  昼休み、購買の列で彼のトレイが傾き、味噌汁が縁から一筋こぼれた。反射的に竜頭に浮いた指が、封印タグの布で止まる。
  江莉奈「すみません、拭きます」
  走らない。跳ばない。紙ナプキンを二枚重ねで取り、彼は溢れた点だけを拭った。
  江莉奈「“戻さない”の、似合ってきた」
  背後から文乃。二拍半の呼吸を胸に置いて、笑わずに言う。
  文乃「了解」
  火曜日。
  放送室。チャーリー啓が台本の語尾を“怖がらせない”に差し替える指で、誤字を一つ残した。原稿の「同期(どうき)」が「銅器」に。
  ――放送直前。
  文乃「“二拍半”で直す?」
  文乃が小声で問い、秋徳が頷く。「『原稿の誤植は“今ここ”で訂正』。読んでから、言い直す」
  《本日の“同期”…………あ、金属の“銅器”じゃありません。『起きたことを短く説明する怖がらせない言い換え』のほうです》
  スピーカーの向こうで、笑いが一つだけ起き、それきり静まった。啓が肩を落としかけ、圭佑が背中を人差し指で“とん”と押す。
  チャーリー啓「ナイス“今ここ修正”。――かわいいに分類」
  チャーリー啓「…………採用」
  啓は自分に言い聞かせるみたいに頷いた。
  水曜日。
  体育館の渡り廊下で、一年が角の掲示に肩をぶつけてピンが一つ落ちた。「すみません!」
  豪一郎の手が先に出て、速度を奪わず進路だけ変える。
  豪一郎「廊下は試合会場じゃない」
  圭佑は落ちた透明ピンを拾い、角を四つ、押し直す。指の腹で押さえると、紙はまっすぐになる。竜頭は鳴らない。
  圭佑「『行きと帰りの道を空けてください。責任:演劇班』」
  彼は“責任”の四文字に視線を置き、紙コップの水を一口飲むみたいに息を整えた。
  木曜日。
  理科準備室。ガラスケースの縁に、薄い曇りの輪。秋徳が指を近づけ、息を軽く吹きかけて消す。
  秋徳「昨夜、近距離呼気。…………触ってはいない」
  江莉奈が記録用紙に《ケース:異常なし/呼気痕あり》と書き、角を四つ、クリップで留める。
  江莉奈「『返す先』の紙、理科側にも」
  文乃の提案で、小さな札が増えた。
  《“返す先はこちら”。理科準備室前返却ポスト/角四点留め。責任:理科》
  癖のない字が一つだけ札の端に触れ、すぐ離れた。
  金曜日。
  視聴覚室での通し稽古。吊った看板はワイヤーとセーフティコードで“落ちない”角度。
  江莉奈「――『巻き戻しは、優しさの顔をする。でも、私たちの“失敗する権利”まで食べないで』」
  文乃の“食べないで”が半拍だけ戻され、空気が二回、揃う。
  ――カチ。
  保健室の机の上、腕時計は秒針が十二で止まったまま、音だけを一つ吐いた。罅は伸びない。曇りが薄く晴れる。
  袖口の封印タグを指で撫で、圭佑は照明の“飛び”を二度、三度、目で確認する。押さない。支える。
  圭佑「光、うまい」
  豪一郎の短い評価に、圭佑は「たまたま」と返す。湿りすぎない声で。
  土曜日。
  台風接近の遠いニュースが、校内の空気を半拍だけ重くした。放送部は“中止/短縮”の二案を想定した原稿を用意し、江莉奈は「安全最優先」を白板の一番上に置く。
  江莉奈「『リセット禁止週間』継続。導線テープ、二重。返却ポストは舞台袖にも」
  秋徳が《導線マップ》の矢印を一本増やし、啓は携帯版の“怖がらせない光”を二つにした。「非常灯の代わりはしない。足元だけ」
  文乃は二拍半を胸に置き、掲示をもう一枚足した。
  《舞台袖・返却ポスト。『返す』は『謝罪』ではなく『線の上に戻す』です。責任:演劇班》
  透明ピンが光を一つだけ跳ね返す。
  日曜日(前日準備)。
  早朝の学校は、いつもより人の声が柔らかい。看板の角に透明パッドが貼られ、ロープの結び直し講習の札が小さく残っている。
  そのときだ。返却箱の小窓が、早い時間に一度だけ明るくなった。
  封筒が一通。中には、印字された短い文と、薄いチラシの切れ端。
  《“舞台の光の下で、願いは食べられる”。――本番、明るい中で返す。》
  《※照明“緑寄り”で。白すぎると“翡翠”が眠る》
  啓が息をのむ。「…………照明指定?」
  圭佑は指を封印タグに落とし、結び目をそっと押さえた。
  圭佑「“犯人探し”に使わない。――でも、『狙う場所と時間』は、絞れた」
  秋徳が黒板に三本の線を引く。
  《動機=“願い”/場所=“本番の舞台”/条件=“緑寄りの光”》
  江莉奈は段取りを積み直す。「本番、緑は“抑え”。安全優先で設計し直し。返却ポストは舞台袖に追加、係は二名。客席アナウンス、『求めないでください』は先に言う」
  圭佑「看板、増し締めは俺が。落ちない=観客の安心」
  豪一郎は工具箱を肩にかけ、腕を組まないまま足を進めた。
  そして、その夜。
  保健室の机の上の腕時計は、秒針が十二で止まったまま、音だけを一つ。
  ――カチ。
  圭佑は、封印タグを指で撫で、窓の外の暗さを“今ここ”に戻す。
  (俺は押さない。――明日、下で踏ん張る)
  スマホが短く震えた。
  《明日、短縮開催。『怖がらせない説明』先出し。返却ポスト、舞台袖にも。》江莉奈
  《緑、抑える。白は飛ばさない》圭佑
  《“かわいいの定義=怖がらせない説明+落下しない看板+怪我を大きく言わない”》啓
 《導線マップ更新。二拍半、継続》秋徳
  《私、アンカーやる。――“守る”のほう》文乃
  送信の青が消え、部屋が夜の目盛りに落ち着く。
  昇降口の影で、二人分の影が二秒だけ重なった。
  圭佑「送ろうか」
  圭佑「いらない。偶然で会えるなら、それで」
  圭佑「了解」
  それだけで離れかけた文乃が、振り返る。
  文乃「明日、“縛りそうになったら、私が言う”。――“守る”でいて」
  文乃「了解。二拍半」
  笑いは小さく、湿りすぎない。封印タグの結び目はほどけず、手首で静かに呼吸している。
  “リセット禁止週間”は、こうして終わる。
  巻き戻さないで積み重ねた小さな失敗の上に、明日の舞台が立つ。
  そして、匿名の言葉は告げた――“舞台の光の下で、願いは食べられる”。
  狙いは、ここ。時刻も、ここ。
  “重たい愛”は、押し上げるのではなく、下で踏ん張る力へ。
  ふたりは、それを確かめて、同じ方向に歩いた。