保健室のブラインドは半分だけ下りて、夕方の橙がベッドの白い縁に斜めの帯を作っていた。消毒綿の匂い。体温計の電子音が、一回分だけ遅れて鳴る。
  江莉奈が鍵束を胸の前で鳴らし、簡潔に線を引いた。
 江莉奈「ここは“話す場所”。“断罪”はしない。“説明”だけ」
  啓は入口のドアノブに《作業中=静かに》の小札を斜めにかけ直し、「かわいいの定義=怖がらせない説明」を口の中で復唱してから静かに外に出た。
  ベッドの端で、圭佑は腕時計を外して掌にのせた。秒針は十二で止まったまま、封印タグ“TIMELINE SAFE”の亜麻色が袖口で呼吸する。
 圭佑「…………返す。ここに置いて、鍵、かけて」
  言い切る前に、胸の奥で古い映像が瞬いた。夏の夜、停電の庭。祖母の横顔。
  ――“怖いの中にきれいが混ざるのは、人の正常”
  ――“消えたものを数えるより、残ったものを集める練習”
  指が、時計のガラスの端で止まる。触れれば曇る。離せば光る。
  ――離せ。
  脳が命じるのに、掌の皮膚が“記憶”の温度で張りついた。
  ベッドの向こう側から、文乃が椅子を引いた。金属脚が床を擦る音は小さい。
 文乃「過去は巻き戻せないよ」
  声はやわらかいけれど、芯はまっすぐだった。
 文乃「でも、選び直せる。――“今日、どう持つか”を」
  彼女は手のひらを表にして、圭佑の手の上へそっと重ねる。握らない。押さない。体温だけで“支える”。
 圭佑「“守る”のほう、選んで」
  圭佑は、竜頭に行きかけた視線を文乃の指へ下ろした。二拍半。吸って、置いて、吐く。
 圭佑「…………了解」
  封印タグの結び目を指の腹で確かめ、時計を掌から机へ移す。机の角に白い跡が残るほど強くは置かない。音がしない置き方で。
  江莉奈が透明な声で続ける。
 江莉奈「“同期”は申告、“犯人探し”に使わない。――だけど、無くなった小道具は“返す先”を灯して待つ。いまは、それでいい」
  秋徳が記録用紙に《保健室・夕暮れ/“時計=本人管理”継続/“ムーンジェイド本番用”不明のまま》と書き、角を四つ、クリップで留める。
  ふいに、薄い“カチ”が鳴った。
  腕時計の針は動かない。音だけが一つ、保健室の白い空気に沈む。
 江莉奈「残響」
  圭佑が言う前に、文乃が頷いた。
 文乃「うん。説明、できてるね。怖がらせない言い換え」
  彼女はもう片方の手で自分の胸をとん、と小さく叩いた。
 文乃「アンカー、ここにある」
  戸が二度、控えめに叩かれた。
 文乃「失礼します。包帯、取りに」
 文乃「どうぞ」
  養護教諭が白いカートを押し、棚から包帯を二巻だけ取ってまた静かに出て行く。扉が閉まる直前、廊下のほうで聞き覚えのある足音が止まりかけて、また動いた。
  豪一郎だ。
  窓の外、体育館との間の渡り廊下に、細い影が一つ走る。白い布の端。透明ピンの反射。
  (返却箱?)
  思考が先に走る。圭佑の膝が立ちかけて、文乃の指が軽く袖を引いた。
 文乃「走らない。――“今ここ”だけ整える」
  文乃「了解」
  次の瞬間、廊下から短い息の音。
  ガン、と何かが金属に当たる音。
 文乃「…………危ない!」
  豪一郎の声が低く短く走り、保健室の窓の外を白い影が横切る。
  江莉奈が最短の手順で鍵束を取る。「啓、保健室前――」
  言いかけたところで、ドアが開いた。豪一郎の額に細い血がにじんでいる。左肩を庇い、呼吸は乱れていないのに、手の甲の皮膚が薄く擦れて赤い。
 豪一郎「廊下、角の掲示、剥がされかけ――止めた。走らない速度で」
  言いながら、彼は一歩も中に入らない。「加害じゃない。俺は“導線”を直しただけ」
  養護教諭がすぐに消毒を持ち、豪一郎の額にそっと当てる。「わ、私はやりますから、あなたは座って」
  豪一郎は、ほんの少しだけ重心を下げた。「了解」
  圭佑は椅子から立ちかけ、踏みとどまった。
 (押せば、三分戻る。戻して、角を…………)
  封印タグが袖の内側でやわらかく触れる。
 (触らない。俺が“押す”のは、いまここ)
  彼は保健室の隅に回り、三角コーンとロープを一つ借りて戻ると、入口に“臨時通路”の帯を作った。
 豪一郎「行きと帰り、狭くする。――押し合い避け」
  江莉奈が「採用」と即答し、秋徳は《保健室前・臨時導線》とメモに加える。
  消毒の匂いに、少しだけ金属の匂いが混じる。
 豪一郎「誰だった」
  圭佑が問うと、豪一郎は肩を回してから、静かに首を振った。
 豪一郎「見たのは“影”。癖のない所作。短い爪。…………“二年四組”に似た手元。けど、断定しない」
  豪一郎「“犯人探し”に使わない。――でも、返す先は灯す」
  江莉奈は返却箱の鍵を回し、透明な音を鳴らす。
  文乃が用紙を受け取り、太いペンで清書した。
  《ムーンジェイド(本番用)を返してください。
  “同期”は求めません。返却は生徒会室前返却箱へ。
  責任:演劇班/生徒会》
  角を四つ、透明ピンで留める。
  (名札みたいに、見える場所へ)
  保健室の時計は十七時を少し回った。
  啓が小走りで戻ってきて、豪一郎の肩を見て目を丸くし、すぐに口を結ぶ。「“かわいい”の定義に“落下しない看板+怪我を大きく言わない”を追加…………」
  豪一郎が笑わないまま「採用」と言い、椅子から立ち上がる。「大丈夫。明日の看板、もう一度、俺が見る」
  圭佑は一歩、前に出た。
 圭佑「俺も――いや、“俺がやる”じゃない。“一緒にやる”。俺の“重さ”は、下で踏ん張るために使う」
  文乃は二拍半。頷きだけを、置いた。
  保健室を出る前、圭佑は机の上の腕時計に視線を落とした。
  掌は、もう汗ばまない。
 圭佑「…………ここに置く。“預けない”じゃなく、“置く”。俺が取りに戻れる距離に」
  圭佑「了解。“預けない”を選ぶ練習の延長」
  江莉奈が鍵を回す。金属音は小さく、透明だ。
  夕暮れの廊下。
  掲示板の端に、白い紙が一枚増えていた。
  《保健室前は静かに。責任:保健室》
  角は四つ、透明ピン。
  その下で、誰かの影が一度だけ立ち止まり、すぐに消えた。
  夜。
  返却箱の“怖がらせない光”が、薄く呼吸する。
  封筒が一枚、差し込まれた。
  中には、成形フォーム――ではなく、細い麻紐だけが一本。
  “結ぶのが怖いときは、先に置いて。責任:――”
  署名は、なかった。
  (無署名は、線の外)
  江莉奈は封筒を“保管:非公開”の袋に入れ、明日の“返す先”の紙を一枚、予備で作った。
  保健室の机の上では、秒針が十二で止まったまま、音だけが一つだけ遅れて、未来のほうへ落ちた。
  ――カチ。
  代償は、まだ終わっていない。けれど、赦しの練習は、もう始まっている。
 夜の校舎は、蛍光灯の白を最小限に落としていた。生徒会室前の返却箱は“怖がらせない光”を薄く灯し、掲示板の《返す先はこちら》の紙は角を四つ、透明ピンでまっすぐだった。江莉奈が鍵束を胸の前で鳴らし、啓は携帯版の小さなランプを“足元だけ”に向けて持つ。
  江莉奈「カメラ、要望は出てるけど…………」
  江莉奈「“見張る”より“返す先”。――今日はそれで行く」
  江莉奈が短く線を引くと、啓は「“かわいいの定義=怖がらせない説明”」と口の中で復唱した。
  同じころ、保健室。机の上に置かれた腕時計は、秒針が十二で止まったまま、封印タグ“TIMELINE SAFE”の亜麻色を薄く映している。圭佑は椅子の背に手をかけ、竜頭から視線を外した。
  (押さない。――置いておく)
  胸の奥で二拍半を数え、吸って、置いて、吐く。
  翌朝。放送部の朝放送は、少しだけ低い声で始まった。
  《“同期”は、怖がらせない言い換えです。起きたことを短く説明し、犯人探しには使いません――》
  言い切りの位置がやわらかく、でも、にごらない。廊下の足音が半歩だけ静かになり、掲示の前で誰かの肩が自然に引く。
  視聴覚室。秋徳はホワイトボードの左半分に《差分ログ》を、右半分に《導線マップ》を描いた。
  ――“ムーンジェイド本番用”不明。棚の脚の下に新しい擦過痕。
  ――返却箱:二十一時二分、封筒一通(中身=空の成形フォーム)
  ――理科準備室:ケースの鍵、昨夜と今朝の微細な埃の差異
  江莉奈「埃の“切れ目”がある。理科準備室のガラスケース、昨夜、誰かが近い距離で息をかけた痕。――“曇り→乾燥”の輪」
  秋徳の指先が、白の上で楕円を描いた。
  秋徳「天文台の“コンドライト”じゃなく、理科準備室の“展示ケース”。行きと帰りの線を引くなら、ここ」
  秋徳「行こう。速度は“普通”で」
  豪一郎が号令し、啓が“作業中”の札を胸に抱える。
  理科準備室の空気は乾いていて、ガラスは朝の白を薄く返す。棚の奥、古い薬品瓶の横に、ケースがひとつ。鍵穴は無傷。けれど、縁の右上に透明な指紋の弧が残っていた。
  秋徳「鍵は理科係。開錠履歴は――」
  江莉奈が名簿に目を走らせる前に、ドアが二度、控えめに叩かれた。
  江莉奈「失礼します。情報委員です。…………“印字プリセット”、返却箱に入れました」
  癖のない所作。短い爪。
  江莉奈「昨日、ワイヤーの件、助かった」
  豪一郎が言い、秋徳は「ひとつ確認。昨夜、このケース、触った?」
  豪一郎「触ってない。…………けど、ここに“白い石”が移動してたら、見える。昨日は“空”。今朝は“空”のまま」
  豪一郎「了解。協力、記録に残す」
  江莉奈は透明な音でメモを留めた。
  ケースの縁に、薄い糊の光がひと筋。啓がしゃがみ込む。
  チャーリー啓「看板角の“透明パッド”と同じ糊。――触った誰かが、さっきまで看板を作業してた」
  豪一郎が「舞台進行、照合」と短く言い、メッセージを飛ばす。
  返ってきた返答は“全員、朝から体育館/離席なし”。
  チャーリー啓「じゃあ、“舞台進行じゃない誰か”」
  秋徳の声は平らだ。「犯人探しには使わない。――“返す先”をもう一段、手前に」
  そのとき、返却箱の小窓が一度だけ明るくなった。啓が駆け、鍵を受け取る。封筒が一通。中には、写真が二枚。
  一枚目――理科準備室のケースの前、白い影がしゃがみ込む“手元だけ”。
  二枚目――視聴覚室の棚、“ムーンジェイド”の窪みの“空”。
  裏には短い字。
  《“結ぶのが怖い”。“返す先”が見えるまで、持っている。》
  署名は、ない。
  チャーリー啓「無署名は線の外――でも、『返す先が見えれば返せる』って、書いてる」
  文乃は二拍半を胸に置き、ゆっくり頷いた。「“見える”のほう、増やそう」
  放送部が昼の放送を差し込みで入れた。
  《“返す先”の掲示を増やします。『返す』は『謝罪』ではありません。『線の上に戻す』です――》
  校内の空気が半歩だけ整い、掲示板の前に小さな列ができる。
  《客席導線のテープ、はがれていたら押さえてください。責任:演劇班》
  《返却箱の鍵は生徒会。回収は十七時。責任:生徒会》
  《“同期”は怖がらせない言い換え。責任:放送部》
  名札みたいな紙が、角を四つ、増えていく。
  午後。視聴覚室の暗がりで、読み合わせ。
  文乃「――『巻き戻しは、優しさの顔をする。でも、私たちの“失敗する権利”まで食べないで』」
  文乃の“食べないで”は半拍だけ戻され、空気が二回、揃う。
  ――カチ。
  圭佑のいない机の上、保健室の時計が遠くで音だけを吐く。
  圭佑は舞台袖に立ちながら、その“遅れた未来”の音を胸のどこかで聞いた気がして、封印タグの結び目を指の腹で確かめた。
  (触らない。――“今ここ”に手を入れる)
  照明の角度を三度だけ上げ、白を飛ばさず、緑を濁らせずに“文字”を見やすくする。
  休憩。紙コップの水。掲示の前で、二年四組の生徒が一人、立ち止まっていた。短い爪。癖のない所作。
  二年生「…………返す先、増えたね」
  文乃が声をかけると、生徒は少しだけ肩をすくめた。「“戻す”が怖い。『返したあと』に、誰かが私の名前を見て、何か言うのが」
  文乃「“返す”は、あなたを戻す作業じゃないよ。――“物を線の上に戻す”作業」
  文乃は、返却箱の小窓を指さず、かわりに箱の足元の滑り止めシートを軽く押した。「ここ、私が四角い範囲を“整える”。あなたは、封筒を“置く”。それで、いまは十分」
  生徒は、しばらく黙ってから、小さく頷いた。「…………今夜」
  夕方。返却箱の前。
  啓は“怖がらせない光”を“夕暮れモード”に切り替え、江莉奈は「十七時回収」を指差し確認する。豪一郎は「看板、最終の増し締め」と言い、秋徳は「保健室の時計、“置き場確認”」とメモを増やす。
  豪一郎「――来る」
  文乃が二拍半を置いて言った。階段の影から、癖のない所作の影が一つ。封筒を胸に抱える手が震えている。
  文乃「“署名”、怖い」
  文乃「じゃあ、“責任:二年四組”。――それで、いい?」
  文乃は“名前”ではなく“責任”を差し出した。生徒は、顔を上げた。
  文乃「…………いい」
  封筒が小窓に吸い込まれ、透明な音が一つ鳴る。
  江莉奈が鍵を回し、封筒を開ける。
  中には、ムーンジェイド――掌で曇って、離すと光る、小さな白。
  そして、細い麻紐が一本。
  《結べなかった。――“結び方”だけ、教えてください。責任:二年四組》
  二年生「“犯人探し”に使わない。――“結び方”に使う」
  豪一郎が短く笑って、袖の内側の封印タグを指差す。「“ほどけても、結び直せる”結び。教える」
  秋徳は横で「運用:結び直し講習(昼休み)」と淡々と書いた。
  理科準備室に戻り、ムーンジェイドを“本番用”の箱へ。文乃は手袋をはめ、掌で曇らせ、すぐに離す。白が戻る。
  文乃「返ってきた。――“返す先”に、光」
  圭佑は、竜頭に行きかけた視線を封印タグに落とし、結び目を指で撫でた。
  圭佑「俺は、押さない。下で踏ん張る。…………了解」
  言葉は短く、湿りすぎない。
  夜。
  保健室の机の上、腕時計の横に、麻紐が一本だけ置かれた。
  《“結び直す練習”に使ってください。責任:二年四組》
  養護教諭がそっと窓を閉めると、秒針は十二で止まったまま、音だけが一つ。
  ――カチ。
  罅は、伸びない。
  伸びない代わりに、曇りがひと筋、薄く晴れた。
  帰り道。
  昇降口の影で、二人分の影が二秒だけ重なる。
  圭佑「送ろうか」
  圭佑「いらない。偶然で会えるなら、それで」
  圭佑「了解」
  それだけで離れかけた文乃が、ふと振り返った。
  文乃「“守る”でいてね。明日、舞台の上でも。――“縛る”になりそうなら、私が言う」
  文乃「了解。…………二拍半」
  圭佑は笑わない。けれど、封印タグの結び目を、ひと目で確かめる癖を持ち直した。
  商店街の端の工房では、閉店札の裏の付箋が一枚増えた。
  《学校関係は“恐怖ではなく説明”。角を丸く》
  癖のない字。箱の角が指でやさしく撫でられ、灯りが落ちる。
  返却箱の“怖がらせない光”は、夜の目盛りで少しだけ明るくなった。
  “返す先”が見えたとき、人は“戻る”。
  戻ったものの重さは、誰かの“守る”のほうへ配られていく。
 翌朝の廊下は、ガラス越しの白がまだ冷たく、掲示板の角だけが小さく光った。生徒会室前の返却箱は“怖がらせない光”を薄く灯し、昨夜の封筒の気配をもう残していない。江莉奈が鍵束を胸の前で鳴らし、段取りを三行で置いた。
  江莉奈「一、“返す先”は継続運用。二、理科準備室のケースも巡回。三、昼休み“結び直し講習”を実施」
  チャーリー啓「“かわいいの定義=怖がらせない説明+怪我を大きく言わない”…………今日の僕の全力」
  チャーリー啓が胸の前で小さく拳を握り、携帯版の“怖くない光”をポケットへしまう。
  昼休み、「結び直し講習」は視聴覚室の隅で始まった。豪一郎がロープの端を持ち、速度を上げずに手順だけ置いていく。
  豪一郎「ほどけても、すぐ結び直せる“巻き結び”。“縛る”じゃなく“支える”」
  癖のない所作の二年四組が頷き、指先に覚束ない不安を乗せたまま、二度、三度と結び換える。
  二年生「うまい」
  豪一郎は言葉を押し出さずに評価した。
  豪一郎「“責任:二年四組”の札、角を四つ留めるの、手伝って」
  文乃が声を添えると、生徒の肩の高さが半拍だけ軽くなった。
  文乃「…………はい。――ありがとうございます」
  講習の最後、啓がそっと手を挙げる。
  チャーリー啓「看板角の“透明パッド”も、角を丸く、ね。落下しない=“かわいい”に分類」
  チャーリー啓「採用」
  秋徳が淡々と書き、江莉奈が運用表に一行増やす。
  午後、理科準備室。秋徳は小型の秤と温湿度計を持ち込んだ。ケース前の空気をひと呼吸分だけ採って、数値を白板に移す。
  秋徳「“ムーンジェイド(本番用)”――昨夜、返却された個体は、重量が“展示用(理科)”と一致。劇用と一致せず」
  圭佑が、封印タグの結び目を指でなぞる。
  圭佑「つまり、返ってきたのは“理科の白石”。本番用は、まだ“線の外”」
  圭佑「了解。“犯人探し”に使わない。…………“返す先”を、舞台側にも増やす」
  江莉奈は頷き、透明ピンを四つ、指の腹で押さえ直す。
  舞台袖。吊り込まれた看板は、ワイヤーとセーフティコードで“落ちない”角度に保たれている。光は飛ばず、白は濁らない。
  圭佑「――『巻き戻しは、優しさの顔をする。でも、私たちの“失敗する権利”まで食べないで』」
  読み合わせの“食べないで”が半拍だけ戻され、空気が二回、揃う。
  ――カチ。
  保健室の机の上に置かれた腕時計が、遠くで“音だけ”を吐いた。秒針は十二で止まったまま、封印タグ“TIMELINE SAFE”の亜麻色が薄く呼吸する。
  休憩。紙コップの水。掲示の前に新しい紙が一枚。
  《“返す先”はここにも。舞台袖・返却ポスト/角四点留め。責任:演劇班》
  圭佑「“見える場所”が増えると、人は戻れる」
  文乃は角を四つ押さえ、二拍半を胸に置いてから、圭佑の袖口の布を目で確かめた。
  圭佑「アンカー、続ける。――“守る”でいてね」
  圭佑「了解。俺の“重さ”は、下で踏ん張るのに使う」
  放課後、情報教室。秋徳が《差分ログ》の下に、もう一つの枠を増やす。
  《返す先・増設の効果:噂の沈静化/匿名投稿の減少/“無署名”→“責任:所属”へ移行》
  啓が「“かわいい”の定義、社会性を帯びてきた」と小声で言い、豪一郎は椅子の背で軽く指を鳴らす。
  豪一郎「次は“リセット禁止週間”だ」
  江莉奈が鍵束を机の上で“音の出ない位置”に置き、透明な声で線を引いた。
  江莉奈「一週間、“腕時計に触れない”。――小さい失敗は、全部“今ここ”で受ける」
  江莉奈「了解」
  圭佑は短く返し、竜頭ではなく封印タグの結び目をそっと押さえる。
  そのとき、返却箱の小窓が一度だけ明るくなった。封筒が一通。
  《“舞台の光の下で、願いを食べさせる”。――本番まで預かる》
  署名はない。けれど、字の癖は見覚えがある。角は四つ、雑に折れていた。
  江莉奈「“願い”を食べる、か…………」
  啓が喉の奥で言葉を止め、秋徳が静かに黒板へ線を引く。
  《動機=“願い”。場所=“本番の舞台”。時間=“明るい光の下”》
  江莉奈「“犯人探し”に使わない。――でも、“狙われる”」
  江莉奈は段取りを積み直す。「導線テープ、二重。返却ポスト、舞台袖にも増設。掲示は“名札みたいに”」
  豪一郎「看板、増し締めは俺が。落ちない=観客の安心」
  豪一郎は腕を組まず、工具箱を肩にかける。
  帰り支度。昇降口の影で、二人分の影が二秒だけ重なった。
  豪一郎「送ろうか」
  豪一郎「いらない。偶然で会えるなら、それで」
  豪一郎「了解」
  離れ際、文乃が言葉をひとつ足す。
  文乃「“リセット禁止週間”、私も一緒にやる。――二拍半で」
  文乃「…………了解。二拍半」
  夜。
  保健室の机の上、腕時計は秒針が十二で止まったまま、音だけが一つ。
  ――カチ。
  罅は伸びない。けれど、ガラスの内側の曇りが、わずかに薄くなった。隣に置かれた麻紐は、ほどけても結び直せる形に輪を作って待っている。
  視聴覚室の暗がりでは、“返却ポスト(舞台袖)”の札が角を四つ、透明ピンで留められた。
  《“巻き戻し”は求めません。返す先はこちら。責任:演劇班/生徒会》
  “返す先”の灯りが、もう一段、増える。
  そして匿名の便りは、最後に小さな脅しを足していなかった。
  ――“本番で奪う”ではなく、“本番で返せるようにして”。
  赦しの練習は、加害と被害の線を引いたまま、少しずつ広がる。
  重たい愛は、結び直すたびに、支える力に変わっていく。
  “リセット禁止週間”の一日目は、そうして静かに終わった。