〇星陵高校・校門前/放課後。
GPS未満の。空間の端が視界に残り、中心が少し広い。
置かれた道具が、この場の用事を物語る。
放課後のチャイムが、校舎の壁を薄く震わせる。星陵高校の西門から、夕陽が校庭へ斜めに差しこみ、砂の粒を金色にして流していった。
文乃は靴紐を結び直し、肩にかけたトートバッグの口を閉じる。今日の帰り道は、寄り道一つ、パンを一つ、そして天文台に一分。自分の一日の流れを心の中で並べるのは、彼女のささやかな整とんだった。
門をくぐる直前、サッカー部のボールがフェンスを越えて、彼女の足もとへ転がり出る。
どん、と乾いた音。次の瞬間、ボールは彼女の靴先の手前で止まり、逆方向へ弾む。制服の袖を肘までまくった男子が、足の甲で柔らかく押し返していた。
男子生徒「悪い、強く蹴りすぎた!」
フェンスの向こうで誰かが叫び、男子は軽く手を上げるだけで応えた。振り返りもしない、癖のある立ち方。
文乃は息を整え、男子の横顔を確認する。乱れた前髪、細い手首、そして少し大きめの腕時計。
男子生徒「…………圭佑?」
男子生徒「通行の安全確保」
彼は淡々と言い、フェンス越しにボールをワンタッチで返す。頬に夕陽の筋が一本走り、金の粉が舞った。
男子生徒「たまたま、ね」
男子生徒「統計的には誰かが止める確率は十分にある」
男子生徒「“誰か”が三回連続で“君”だと、話は別だよ」
昨日の昇降口、今朝の階段、そして今。偶然が三つ並ぶと、人は理由を探す。――まるで、誰かが彼女の時間をそっと押し直して、同じ場所に並べているみたいだ。文乃は自分の鼓動が少しだけ速くなるのを、呼吸の深さでならす。彼の時計のガラスには、ほんの微かな線が入っているのが見えた。ヒビ、と呼ぶほどでもない、白い傷。
圭佑「偶然は、気にしないことにしてる」
圭佑は肩をすくめる。
圭佑「他人も、目も」
文乃「私は、気にするよ。自分の気持ちも、周りの空気も」
言葉を交わす角度のまま、二人は校門を出た。購買へ向かう生徒の列が伸び、風に焼きそばパンの匂いが混ざる。文乃は列の最後尾へ目をやり、圭佑に会釈だけ残して離れた。
購買前の掲示、見慣れた黒マジックの文字。「本日限定・塩バターパン(お一人様一本まで)」。彼女の胃袋が小さく笑う。こういう小さな楽しみを自分に許すのも、彼女の整とんの一部だった。
列が進み、トレーの上にパンが残り一本。そこで、横から伸びた手がすっとそれを取った。
文乃「…………あ」
顔を上げると、圭佑がレジ前で一歩だけ振り返っていた。目が合うと彼は無言でレジを済ませ、袋の口を軽く結ぶ。
圭佑「取られた、って思った?」
圭佑「思った。三〇%くらい」
圭佑「じゃあ、残り七〇%は?」
圭佑「渡してくれる、って」
圭佑は袋を差し出す。文乃は一拍置いて受け取る。その一拍で、自分の期待が相手の善意に甘えていないかを確かめるのが、彼女の約束だ。
文乃「ありがとう。…………でも、どうして私がこれを買うって知ってたの?」
文乃「知ってたわけじゃない」
彼は首を傾げる。
文乃「同時にここに来れば、何かが重なる確率は上がる」
文乃「ふうん。“重なる”のは嫌いじゃないけど、“重ねられる”のは困る」
文乃は穏やかに言い、袋の口を開けて一口サイズにちぎった。「半分こ」
圭佑「俺はいい」
文乃「…………私の中では、これは“受けとってくれた人”のパンになるんだよ」
圭佑は少しだけ迷って、指先で一片をつまんだ。焼きたての温度が、指から腕へ、そして腕時計の金属へ移った。文字盤の縁で、光が刃のように走る。
そのとき、売店の脇から顔を出したのは、理科部のチャーリー啓だった。ゴーグルを頭に乗せ、胸ポケットに謎の基板が覗く。
チャーリー啓「ちょうど良い被験者!」
啓は息せき切って近づき、小さな筒を持ち上げる。
チャーリー啓「チョコ発見器、試作二号。カカオ気化分子を電気鼻孔で吸い上げてだね――」
文乃「啓、購買の前でそれはやめよう」
文乃が笑いを含めて制止する。
チャーリー啓「いや、今日は感度を控えめに…………スイッチオン!」
ぴ、ぴぴ、ぴぴぴ――。筒の先端のLEDが三色に明滅し、購買のチョココロネ棚方向へ矢印のように傾いた。次の瞬間、職員室の方角でも同じ音が鳴る。
売店のおばちゃん「届いちゃってる届いちゃってる!」
売店のおばちゃんが手を振る。
売店のおばちゃん「先生の机のチョコまで狙わないで!」
圭佑「啓」
圭佑が顎で合図する。
圭佑「止めろ」
チャーリー啓「はい停止! …………ほら、コロネは今、右から二番目の棚だ」
啓は胸を張る。
文乃「見る目のある機械だね」
文乃は肩をすくめ、笑う。
文乃「でも匂いを追いかけるのは、犬の仕事」
チャーリー啓「機械犬、的なね」
啓は真顔で頷いた。
そのやりとりに、すれ違う生徒たちの笑いが混じった。空気は軽く、くだらない発明の温度は不思議と人をほぐす。啓は満足そうに去っていき、圭佑は腕時計に触れてから何でもない表情で手を下ろした。
教室へ戻ると、黒板には「天文台清掃ボランティア募集」の貼り紙。窓際の三列目、文乃の席。彼女はトートの中から、紐の付いた小さな白い石を取り出した。爪の先ほどの欠片。光が当たると、白の中にうっすらと緑が沈む。
秋徳「それ、また持ってきたんだ」
隣の席の秋徳が、表情をほとんど変えずに言う。
文乃「天文台で拾った“ムーンジェイド”。本物かどうかはわからないけど、今日も頑張った印に机に置くの」
秋徳「ルーティンの可視化ですね」
秋徳はメモ帳に細い字で書き足す。
秋徳「整とん行動はストレス耐性と相関が…………」
文乃「はいはい、データの人」
文乃は笑って、石を机の右上に置いた。
授業のチャイムが鳴り、ホームルームのざわめきが薄まる。生徒会会計の江莉奈が配布物を回し、真ん中の列で紙が詰まると、彼女は自然に手を伸ばして流れを整えた。小さな渋滞がほどけ、教室の呼吸が揃う。
最後の連絡が終わり、担任が退室。教室の空気がまた軽くなる――その瞬間だった。
文乃「あれ?」
文乃の指先が、机の右上で空をつかむ。置いたはずの白い石が、そこにない。トートの中、筆箱、ポケット、スカートのポケット。どこにもない。
秋徳「探そうか」
秋徳が立たずに言う。
文乃「ううん、大丈夫。さっきまで、ここに――」
視線が、自然に教室の後ろへ滑る。窓と壁の間に立つ圭佑は、何もしていない風で外を見ている。ポケットに片手、もう片手は腕時計の上。
圭佑「圭佑」
圭佑「ん?」
圭佑「さっき、私の机の方に来てた?」
圭佑「来てない」
返事は短く、表情は薄い。けれど、彼のポケットの布地が、ほんの少しだけ不自然にふくらんで見えた。夕陽の角度で、布の縫い目がくっきりと出ている。そこに硬いものが一つ。
胸の内で何かがチリ、と鳴る。疑うためじゃない。確かめるためだ。彼の善意と、彼の暴走を、同じ箱に入れたくない。
文乃「…………後で、天文台に行くつもりだったの」
文乃は、窓の外へ視線を逃がしながら言う。
文乃「掃除のボランティア見て、少しだけ」
文乃「行けばいい」
文乃「そうする。でも、その前に」
彼女は席を立たずに体だけ振り向き、真正面から圭佑を見た。メトロノームのように一定の声で、しかし意味を一つずつ置くように。
圭佑「君は、どうしていつも“先に”そこにいるの?」
教室のざわめきが、ふっと薄まる。秋徳のシャープペンの音が止まり、江莉奈が配布袋をまとめる手を静める。啓は扉の外で「チョコ検出感度、低すぎ問題」を一人で嘆いている。
圭佑は窓の外を一度だけ見た。中庭の桜の葉が、風で裏側を見せる。彼は腕時計から指を離し、ポケットのふくらみをわざとらしくない速さで確かめ、それから一歩、近づいた。――この時間、この教室、この席順。何度も“巻き戻して”覚え直した配置だと、彼だけが知っている。
圭佑「偶然が寄ってくるだけ」
圭佑「偶然に、手をかけたことは?」
圭佑「ない」
文乃「じゃあ、質問を変えるね」
文乃は息を吸い、心の整とんを言葉に替える。
文乃「私の行き先、どこで知るの?」
教室の光が、窓の帯で二人を切り分ける。圭佑の横顔に、夕陽の刃がもう一度走った。腕時計のガラスの、細い白傷が光る。彼は答えず、沈黙が一歩だけ伸びた。答えは持っている。“君の帰り道を、何度もやり直して覚えた”なんて、口に出せないだけだ。
教室の空調が止まり、しん、と音が引っ込んだ。窓辺で立つ圭佑の睫毛が、細い影を落とす。答えは、出てこない。出せないのか、出さないのか。
沈黙の縁を、ノックが叩いた。扉の向こうから顔を出したのは、生徒会会計の江莉奈だ。クリアファイルを胸に抱え、視線だけで教室の空気を測る。
江莉奈「天文台清掃の件で回覧。希望者、ここに印を。鍵は私のところ」
江莉奈が一歩入ると、ざわめきは自然に細かく散り、列をつくる習慣の良い子たちが用紙のそばに小さな列をつくった。文乃は席に座ったまま、視線を紙と圭佑の間で行き来させる。
秋徳「…………天文台、行くの?」
隣の秋徳が、いつもの平板な声で尋ねる。
文乃「行く。今日じゃなくても、きっと」
文乃「なら、印を」
秋徳は勝手に立たない。けれど文乃が立ち上がる気配をつくれば、すっと紙の流れが詰まらないように肩をずらす。そういう人だ。文乃は用紙の前まで歩き、ペン先を一度だけ宙で止め、それから静かに名前を書いた。
戻る途中、通路のすみに落ちた小さな白い紙屑が視界の隅で光る。拾い上げると、それは誰かのメモだった。「天文台 19:00 鍵→江莉奈」。書き癖のない、きれいな字。校内のあちこちに、同じ予定が同じ時刻で重なる瞬間なんて、いくらでもある。けれど、今日この教室での重なりは、胸の奥で別の色を帯びた。
席へ戻ると、圭佑がようやく目をこちらに向けた。
圭佑「――偶然だよ」
その四音は、どこにも触れない温度だった。文乃はうなずき、机の角を親指で撫でる。そこに“ムーンジェイド”の小石を置いた窪みが、指の腹に確かに残っている。そこにないものほど、触感は鮮明になる。
文乃「偶然、ならいい」
文乃「なら、いいのか」
文乃「うん。偶然なら、ね」
そこまで言って、文乃は会釈し、トートを肩にかけた。終礼後の教室は、誰かが笑い、誰かがあくびをし、誰かが走り書きのプリントを失くして騒ぐ。いつもの音の層の中で、彼女の靴音だけが、妙に真っ直ぐ廊下へ伸びていく。
階段を降りきる手前で、柔道部の掛け声がグラウンド側から聞こえてきた。声の芯が太い。覗くと、土の匂いのする夕暮れの空気の中、豪一郎が一番後ろの一年に声をかけているのが見えた。背中を叩く力は大きいのに、叩かれた一年の足取りが軽くなっていくのが遠目にもわかる。彼は人を押し出す、いい力の使い方を知っている。
そのまま自販機前を通り過ぎようとしたとき、脇からぬっと現れた影が一つ。チャーリー啓だ。胸ポケットからビタミン剤をのぞかせ、手にはいつもの銀色の筒。
チャーリー啓「文乃、坂道を下る前に水分ね。あとこれ、チョコ発見器の安全版! 今日は検出音を“かわいい”に寄せた」
チャーリー啓「“かわいい”って何ヘルツ?」
チャーリー啓「気持ちの問題!」
啓は胸を張った。
チャーリー啓「それより、さっきのメモ。天文台行くの?」
チャーリー啓「行くかも。でも今日は寄り道して帰る」
チャーリー啓「了解。じゃ、近道の情報をひとつ。中庭を斜めに切ると風が気持ちいい」
啓は何か言いたげに圭佑の方を見、それから言葉を飲み込んだ。圭佑は階段の踊り場に体を預け、二人を通すために半歩だけ退く。その仕草は、見事に“あたりまえ”を装っていた。
中庭は、風がちょうど良く吹いていた。桜の葉が裏を見せ、陽は赤く、影は長い。文乃はベンチに腰を下ろし、塩バターパンの袋をもう一度開けた。真ん中で割ると、昨夜の月を想わせるほど白い断面が現れる。
半分を口へ運ぶ前に、足もとで何かが転がった。ビー玉ほどの、白いもの。拾い上げれば、それは彼女の“ムーンジェイド”の欠片に驚くほどよく似ている。白の内側に、緑の影。光を受ける角度で、色がかすかに深くなる。
どこから。視線を滑らせると、ベンチの背もたれ越し、植え込みの向こう側に白いハンカチが敷かれていて、その端に同じ欠片がもう一つ、丁寧に並べられている。まるで、実験台。まるで、誰かが“確かめている”途中。
チャーリー啓「…………圭佑」
呼ぶと、返事のかわりに風が先に来た。葉がざわりと鳴り、ベンチの影が揺れる。少し遅れて、ベンチの背から覗くように、彼の横顔。
チャーリー啓「それ、どこで?」
チャーリー啓「落ちてた」
チャーリー啓「そう。落ちてたの、ね」
落ちていたものを拾い、並べる。拾うことは善意になりうる。並べることは――何になる? 文乃は掌の中で欠片を転がし、指の腹で角を確かめる。自分の欠片は、もっと角が丸かった気がする。なら、これは別の欠片。どこから? 天文台? 誰の手から?
ベンチの背越しに、圭佑の腕時計がのぞく。ガラスに、糸ほどの白い傷。光の向きが変わるたび、傷は消えたり現れたりする。彼がその上に置いた指は、癖のように竜頭のあたりを探っては、触れないところで止まる。
文乃「君、」
文乃は言葉を選ぶ。
文乃「わたしの石、見なかった?」
圭佑「見てない」
圭佑「じゃあ、知らない?」
圭佑「知らない」
語尾に嘘の重さはない。だからといって、真実の軽さも感じない。秤を持っているのは自分だ、と文乃は思う。自分の手で針を見て、自分の声で“重い”と言うか“軽い”と言うかを決める。
文乃「…………わかった」
そこへ、柔道部がランニングで中庭を横切った。豪一郎が先頭で、腕を振る音が空気を割く。「すみませーん!」と一年が列を崩してベンチに突っ込みかけた瞬間、豪一郎の大きな手が前に伸び、肩をすくい上げて進路を変える。転びそうになった一年が笑って、謝る。豪一郎は軽く手を挙げ、列に戻した。誰の顔も傷つかない、いい止め方だった。
文乃は、その止め方を見つめた。
文乃「圭佑」
文乃「何」
文乃「――もし、私が曲がり角でぶつかりそうでも、私の肩に触れるのは“私が許したとき”だけにして」
言ってしまえば、空気が澄む。自分の気持ちを他者と共有する。それは、彼女が自分に課している小さな誓いでもある。圭佑は短くまばたきし、ベンチの背から半歩離れた。距離が、数センチ分だけ増える。
圭佑「…………了解」
その一語は、彼にしては素直だった。
校内放送の試験音が鳴った。スピーカーの前で誰かがマイクを叩いたのだろう、ぼふぼふという音が数回続き、やがて止む。中庭の向こうで、江莉奈が掲示板の紙の端を留め直している。風でめくれた角を、ピンでとめるだけで、掲示は読めるものになる。小さなこと。けれど効果は大きい。
日が落ちかけて、影が長く伸びた。文乃はパンの袋を畳み、ゴミ箱に捨てる。手を合わせるみたいに両手を重ね、息の深さで胸の音を静める。
文乃「帰る」
文乃「送ろうか」
文乃「いらない。…………“偶然”で会えるなら、それで」
ベンチを離れ、ゆっくりと昇降口へ向かう。背中に、足音は重ならない。振り返らないまま、ガラス扉に映る影の数を数える。自分の影が一つ。ドアの向こうで、誰かが先に開けて待っている――そんなことは、今日はなかった。
昇降口の外に出ると、風が少し冷たい。正門へ向かう道で、中庭の方角をもう一度だけ振り返る。ベンチの背には、白いハンカチと、あの二つの白い欠片。圭佑はそれを片付けず、ただそこに立っていた。竜頭に触れない指が、宙に止まったまま。
その姿を、見ないようにして歩く。見ないことも、選び直すことの一つだ。
校門を出る手前、道路の向こうでパトライトの色だけが消えていく。近所の交差点で小さな接触事故があったのだろう、人だかりの気配が寒色に揺れる。文乃は足を止め、胸の奥で誰かの安全を祈り、歩みを再開した。自分ができることと、できないことを分けるだけで、心はほんの少し軽くなる。
家に着いたのは十八時半。玄関で靴を揃え、台所の母にただいまと言う。湯気に包まれた食卓に座り、今日あったことを話す。話すことで、点だった出来事が線に変わる。
母「天文台の掃除、募集の紙が出てたの。行こうかな」
母「夜は冷えるから、上着を持っていきなさい」
母は味噌汁をよそいながら言う。
母「それと、帰りが遅くなるなら連絡」
母「うん」
食後、机に向かう。ペン立てのところにいつも置く白い欠片は、やはりない。代わりに、机の端に小さなメモを貼った。「探すのは、明日。今日は手放す練習」。字が揺れる。自分で書いたはずの言葉が、少しだけ胸に刺さって、少しだけあたたかい。
窓の外で、時報が鳴る。十九時。遠く、校舎の方角で、同じ時報が少し遅れて重なった気がした。ほんの三分――いや、気のせい。
スマホの画面に、通知が一つ。生徒会からの全体連絡。「天文台清掃、明日は17:30集合。鍵は会計・江莉奈」。その文面を読み、文乃は明日の服装を頭の中で並べる。手袋、上着、ヘアゴム、ライト。できる準備を一つずつ。
ベッドに横になり、天井の四角い影の位置で時間の流れを測る。目を閉じる直前、机に貼った自分のメモが思い浮かぶ。手放す練習。手放すことは、相手に任せることじゃない。自分の手を、自分で開くこと。
目を閉じたまま、今日の最後の問いを自分に返す。
――君は、どうしていつも“先に”そこにいるの。
答えは、まだいらない。問いだけを胸に置いて、眠りへ沈む。
そのころ、校内の小天文台。暗い内部で、誰かの息の音が一度だけ揺れた。古い望遠鏡に寄りかかる影が、手首の時計に触れかけて、やめる。竜頭は押されない。押されなかったから、世界は、そのまま十九時を過ぎる。天井のわずかな隙間から、白いものが一瞬流れた。雲か、星か。ピュアホワイト・ミッドナイト。触れれば欠ける、手放せば光る。
明日、同じ場所でまた風が吹く。鍵は江莉奈が持つ。掃除のバケツは三つ。軍手は十双。欠片は、いくつ。誰の手の中に、いくつ。
問いは、明日のために残された。
GPS未満の。空間の端が視界に残り、中心が少し広い。
置かれた道具が、この場の用事を物語る。
放課後のチャイムが、校舎の壁を薄く震わせる。星陵高校の西門から、夕陽が校庭へ斜めに差しこみ、砂の粒を金色にして流していった。
文乃は靴紐を結び直し、肩にかけたトートバッグの口を閉じる。今日の帰り道は、寄り道一つ、パンを一つ、そして天文台に一分。自分の一日の流れを心の中で並べるのは、彼女のささやかな整とんだった。
門をくぐる直前、サッカー部のボールがフェンスを越えて、彼女の足もとへ転がり出る。
どん、と乾いた音。次の瞬間、ボールは彼女の靴先の手前で止まり、逆方向へ弾む。制服の袖を肘までまくった男子が、足の甲で柔らかく押し返していた。
男子生徒「悪い、強く蹴りすぎた!」
フェンスの向こうで誰かが叫び、男子は軽く手を上げるだけで応えた。振り返りもしない、癖のある立ち方。
文乃は息を整え、男子の横顔を確認する。乱れた前髪、細い手首、そして少し大きめの腕時計。
男子生徒「…………圭佑?」
男子生徒「通行の安全確保」
彼は淡々と言い、フェンス越しにボールをワンタッチで返す。頬に夕陽の筋が一本走り、金の粉が舞った。
男子生徒「たまたま、ね」
男子生徒「統計的には誰かが止める確率は十分にある」
男子生徒「“誰か”が三回連続で“君”だと、話は別だよ」
昨日の昇降口、今朝の階段、そして今。偶然が三つ並ぶと、人は理由を探す。――まるで、誰かが彼女の時間をそっと押し直して、同じ場所に並べているみたいだ。文乃は自分の鼓動が少しだけ速くなるのを、呼吸の深さでならす。彼の時計のガラスには、ほんの微かな線が入っているのが見えた。ヒビ、と呼ぶほどでもない、白い傷。
圭佑「偶然は、気にしないことにしてる」
圭佑は肩をすくめる。
圭佑「他人も、目も」
文乃「私は、気にするよ。自分の気持ちも、周りの空気も」
言葉を交わす角度のまま、二人は校門を出た。購買へ向かう生徒の列が伸び、風に焼きそばパンの匂いが混ざる。文乃は列の最後尾へ目をやり、圭佑に会釈だけ残して離れた。
購買前の掲示、見慣れた黒マジックの文字。「本日限定・塩バターパン(お一人様一本まで)」。彼女の胃袋が小さく笑う。こういう小さな楽しみを自分に許すのも、彼女の整とんの一部だった。
列が進み、トレーの上にパンが残り一本。そこで、横から伸びた手がすっとそれを取った。
文乃「…………あ」
顔を上げると、圭佑がレジ前で一歩だけ振り返っていた。目が合うと彼は無言でレジを済ませ、袋の口を軽く結ぶ。
圭佑「取られた、って思った?」
圭佑「思った。三〇%くらい」
圭佑「じゃあ、残り七〇%は?」
圭佑「渡してくれる、って」
圭佑は袋を差し出す。文乃は一拍置いて受け取る。その一拍で、自分の期待が相手の善意に甘えていないかを確かめるのが、彼女の約束だ。
文乃「ありがとう。…………でも、どうして私がこれを買うって知ってたの?」
文乃「知ってたわけじゃない」
彼は首を傾げる。
文乃「同時にここに来れば、何かが重なる確率は上がる」
文乃「ふうん。“重なる”のは嫌いじゃないけど、“重ねられる”のは困る」
文乃は穏やかに言い、袋の口を開けて一口サイズにちぎった。「半分こ」
圭佑「俺はいい」
文乃「…………私の中では、これは“受けとってくれた人”のパンになるんだよ」
圭佑は少しだけ迷って、指先で一片をつまんだ。焼きたての温度が、指から腕へ、そして腕時計の金属へ移った。文字盤の縁で、光が刃のように走る。
そのとき、売店の脇から顔を出したのは、理科部のチャーリー啓だった。ゴーグルを頭に乗せ、胸ポケットに謎の基板が覗く。
チャーリー啓「ちょうど良い被験者!」
啓は息せき切って近づき、小さな筒を持ち上げる。
チャーリー啓「チョコ発見器、試作二号。カカオ気化分子を電気鼻孔で吸い上げてだね――」
文乃「啓、購買の前でそれはやめよう」
文乃が笑いを含めて制止する。
チャーリー啓「いや、今日は感度を控えめに…………スイッチオン!」
ぴ、ぴぴ、ぴぴぴ――。筒の先端のLEDが三色に明滅し、購買のチョココロネ棚方向へ矢印のように傾いた。次の瞬間、職員室の方角でも同じ音が鳴る。
売店のおばちゃん「届いちゃってる届いちゃってる!」
売店のおばちゃんが手を振る。
売店のおばちゃん「先生の机のチョコまで狙わないで!」
圭佑「啓」
圭佑が顎で合図する。
圭佑「止めろ」
チャーリー啓「はい停止! …………ほら、コロネは今、右から二番目の棚だ」
啓は胸を張る。
文乃「見る目のある機械だね」
文乃は肩をすくめ、笑う。
文乃「でも匂いを追いかけるのは、犬の仕事」
チャーリー啓「機械犬、的なね」
啓は真顔で頷いた。
そのやりとりに、すれ違う生徒たちの笑いが混じった。空気は軽く、くだらない発明の温度は不思議と人をほぐす。啓は満足そうに去っていき、圭佑は腕時計に触れてから何でもない表情で手を下ろした。
教室へ戻ると、黒板には「天文台清掃ボランティア募集」の貼り紙。窓際の三列目、文乃の席。彼女はトートの中から、紐の付いた小さな白い石を取り出した。爪の先ほどの欠片。光が当たると、白の中にうっすらと緑が沈む。
秋徳「それ、また持ってきたんだ」
隣の席の秋徳が、表情をほとんど変えずに言う。
文乃「天文台で拾った“ムーンジェイド”。本物かどうかはわからないけど、今日も頑張った印に机に置くの」
秋徳「ルーティンの可視化ですね」
秋徳はメモ帳に細い字で書き足す。
秋徳「整とん行動はストレス耐性と相関が…………」
文乃「はいはい、データの人」
文乃は笑って、石を机の右上に置いた。
授業のチャイムが鳴り、ホームルームのざわめきが薄まる。生徒会会計の江莉奈が配布物を回し、真ん中の列で紙が詰まると、彼女は自然に手を伸ばして流れを整えた。小さな渋滞がほどけ、教室の呼吸が揃う。
最後の連絡が終わり、担任が退室。教室の空気がまた軽くなる――その瞬間だった。
文乃「あれ?」
文乃の指先が、机の右上で空をつかむ。置いたはずの白い石が、そこにない。トートの中、筆箱、ポケット、スカートのポケット。どこにもない。
秋徳「探そうか」
秋徳が立たずに言う。
文乃「ううん、大丈夫。さっきまで、ここに――」
視線が、自然に教室の後ろへ滑る。窓と壁の間に立つ圭佑は、何もしていない風で外を見ている。ポケットに片手、もう片手は腕時計の上。
圭佑「圭佑」
圭佑「ん?」
圭佑「さっき、私の机の方に来てた?」
圭佑「来てない」
返事は短く、表情は薄い。けれど、彼のポケットの布地が、ほんの少しだけ不自然にふくらんで見えた。夕陽の角度で、布の縫い目がくっきりと出ている。そこに硬いものが一つ。
胸の内で何かがチリ、と鳴る。疑うためじゃない。確かめるためだ。彼の善意と、彼の暴走を、同じ箱に入れたくない。
文乃「…………後で、天文台に行くつもりだったの」
文乃は、窓の外へ視線を逃がしながら言う。
文乃「掃除のボランティア見て、少しだけ」
文乃「行けばいい」
文乃「そうする。でも、その前に」
彼女は席を立たずに体だけ振り向き、真正面から圭佑を見た。メトロノームのように一定の声で、しかし意味を一つずつ置くように。
圭佑「君は、どうしていつも“先に”そこにいるの?」
教室のざわめきが、ふっと薄まる。秋徳のシャープペンの音が止まり、江莉奈が配布袋をまとめる手を静める。啓は扉の外で「チョコ検出感度、低すぎ問題」を一人で嘆いている。
圭佑は窓の外を一度だけ見た。中庭の桜の葉が、風で裏側を見せる。彼は腕時計から指を離し、ポケットのふくらみをわざとらしくない速さで確かめ、それから一歩、近づいた。――この時間、この教室、この席順。何度も“巻き戻して”覚え直した配置だと、彼だけが知っている。
圭佑「偶然が寄ってくるだけ」
圭佑「偶然に、手をかけたことは?」
圭佑「ない」
文乃「じゃあ、質問を変えるね」
文乃は息を吸い、心の整とんを言葉に替える。
文乃「私の行き先、どこで知るの?」
教室の光が、窓の帯で二人を切り分ける。圭佑の横顔に、夕陽の刃がもう一度走った。腕時計のガラスの、細い白傷が光る。彼は答えず、沈黙が一歩だけ伸びた。答えは持っている。“君の帰り道を、何度もやり直して覚えた”なんて、口に出せないだけだ。
教室の空調が止まり、しん、と音が引っ込んだ。窓辺で立つ圭佑の睫毛が、細い影を落とす。答えは、出てこない。出せないのか、出さないのか。
沈黙の縁を、ノックが叩いた。扉の向こうから顔を出したのは、生徒会会計の江莉奈だ。クリアファイルを胸に抱え、視線だけで教室の空気を測る。
江莉奈「天文台清掃の件で回覧。希望者、ここに印を。鍵は私のところ」
江莉奈が一歩入ると、ざわめきは自然に細かく散り、列をつくる習慣の良い子たちが用紙のそばに小さな列をつくった。文乃は席に座ったまま、視線を紙と圭佑の間で行き来させる。
秋徳「…………天文台、行くの?」
隣の秋徳が、いつもの平板な声で尋ねる。
文乃「行く。今日じゃなくても、きっと」
文乃「なら、印を」
秋徳は勝手に立たない。けれど文乃が立ち上がる気配をつくれば、すっと紙の流れが詰まらないように肩をずらす。そういう人だ。文乃は用紙の前まで歩き、ペン先を一度だけ宙で止め、それから静かに名前を書いた。
戻る途中、通路のすみに落ちた小さな白い紙屑が視界の隅で光る。拾い上げると、それは誰かのメモだった。「天文台 19:00 鍵→江莉奈」。書き癖のない、きれいな字。校内のあちこちに、同じ予定が同じ時刻で重なる瞬間なんて、いくらでもある。けれど、今日この教室での重なりは、胸の奥で別の色を帯びた。
席へ戻ると、圭佑がようやく目をこちらに向けた。
圭佑「――偶然だよ」
その四音は、どこにも触れない温度だった。文乃はうなずき、机の角を親指で撫でる。そこに“ムーンジェイド”の小石を置いた窪みが、指の腹に確かに残っている。そこにないものほど、触感は鮮明になる。
文乃「偶然、ならいい」
文乃「なら、いいのか」
文乃「うん。偶然なら、ね」
そこまで言って、文乃は会釈し、トートを肩にかけた。終礼後の教室は、誰かが笑い、誰かがあくびをし、誰かが走り書きのプリントを失くして騒ぐ。いつもの音の層の中で、彼女の靴音だけが、妙に真っ直ぐ廊下へ伸びていく。
階段を降りきる手前で、柔道部の掛け声がグラウンド側から聞こえてきた。声の芯が太い。覗くと、土の匂いのする夕暮れの空気の中、豪一郎が一番後ろの一年に声をかけているのが見えた。背中を叩く力は大きいのに、叩かれた一年の足取りが軽くなっていくのが遠目にもわかる。彼は人を押し出す、いい力の使い方を知っている。
そのまま自販機前を通り過ぎようとしたとき、脇からぬっと現れた影が一つ。チャーリー啓だ。胸ポケットからビタミン剤をのぞかせ、手にはいつもの銀色の筒。
チャーリー啓「文乃、坂道を下る前に水分ね。あとこれ、チョコ発見器の安全版! 今日は検出音を“かわいい”に寄せた」
チャーリー啓「“かわいい”って何ヘルツ?」
チャーリー啓「気持ちの問題!」
啓は胸を張った。
チャーリー啓「それより、さっきのメモ。天文台行くの?」
チャーリー啓「行くかも。でも今日は寄り道して帰る」
チャーリー啓「了解。じゃ、近道の情報をひとつ。中庭を斜めに切ると風が気持ちいい」
啓は何か言いたげに圭佑の方を見、それから言葉を飲み込んだ。圭佑は階段の踊り場に体を預け、二人を通すために半歩だけ退く。その仕草は、見事に“あたりまえ”を装っていた。
中庭は、風がちょうど良く吹いていた。桜の葉が裏を見せ、陽は赤く、影は長い。文乃はベンチに腰を下ろし、塩バターパンの袋をもう一度開けた。真ん中で割ると、昨夜の月を想わせるほど白い断面が現れる。
半分を口へ運ぶ前に、足もとで何かが転がった。ビー玉ほどの、白いもの。拾い上げれば、それは彼女の“ムーンジェイド”の欠片に驚くほどよく似ている。白の内側に、緑の影。光を受ける角度で、色がかすかに深くなる。
どこから。視線を滑らせると、ベンチの背もたれ越し、植え込みの向こう側に白いハンカチが敷かれていて、その端に同じ欠片がもう一つ、丁寧に並べられている。まるで、実験台。まるで、誰かが“確かめている”途中。
チャーリー啓「…………圭佑」
呼ぶと、返事のかわりに風が先に来た。葉がざわりと鳴り、ベンチの影が揺れる。少し遅れて、ベンチの背から覗くように、彼の横顔。
チャーリー啓「それ、どこで?」
チャーリー啓「落ちてた」
チャーリー啓「そう。落ちてたの、ね」
落ちていたものを拾い、並べる。拾うことは善意になりうる。並べることは――何になる? 文乃は掌の中で欠片を転がし、指の腹で角を確かめる。自分の欠片は、もっと角が丸かった気がする。なら、これは別の欠片。どこから? 天文台? 誰の手から?
ベンチの背越しに、圭佑の腕時計がのぞく。ガラスに、糸ほどの白い傷。光の向きが変わるたび、傷は消えたり現れたりする。彼がその上に置いた指は、癖のように竜頭のあたりを探っては、触れないところで止まる。
文乃「君、」
文乃は言葉を選ぶ。
文乃「わたしの石、見なかった?」
圭佑「見てない」
圭佑「じゃあ、知らない?」
圭佑「知らない」
語尾に嘘の重さはない。だからといって、真実の軽さも感じない。秤を持っているのは自分だ、と文乃は思う。自分の手で針を見て、自分の声で“重い”と言うか“軽い”と言うかを決める。
文乃「…………わかった」
そこへ、柔道部がランニングで中庭を横切った。豪一郎が先頭で、腕を振る音が空気を割く。「すみませーん!」と一年が列を崩してベンチに突っ込みかけた瞬間、豪一郎の大きな手が前に伸び、肩をすくい上げて進路を変える。転びそうになった一年が笑って、謝る。豪一郎は軽く手を挙げ、列に戻した。誰の顔も傷つかない、いい止め方だった。
文乃は、その止め方を見つめた。
文乃「圭佑」
文乃「何」
文乃「――もし、私が曲がり角でぶつかりそうでも、私の肩に触れるのは“私が許したとき”だけにして」
言ってしまえば、空気が澄む。自分の気持ちを他者と共有する。それは、彼女が自分に課している小さな誓いでもある。圭佑は短くまばたきし、ベンチの背から半歩離れた。距離が、数センチ分だけ増える。
圭佑「…………了解」
その一語は、彼にしては素直だった。
校内放送の試験音が鳴った。スピーカーの前で誰かがマイクを叩いたのだろう、ぼふぼふという音が数回続き、やがて止む。中庭の向こうで、江莉奈が掲示板の紙の端を留め直している。風でめくれた角を、ピンでとめるだけで、掲示は読めるものになる。小さなこと。けれど効果は大きい。
日が落ちかけて、影が長く伸びた。文乃はパンの袋を畳み、ゴミ箱に捨てる。手を合わせるみたいに両手を重ね、息の深さで胸の音を静める。
文乃「帰る」
文乃「送ろうか」
文乃「いらない。…………“偶然”で会えるなら、それで」
ベンチを離れ、ゆっくりと昇降口へ向かう。背中に、足音は重ならない。振り返らないまま、ガラス扉に映る影の数を数える。自分の影が一つ。ドアの向こうで、誰かが先に開けて待っている――そんなことは、今日はなかった。
昇降口の外に出ると、風が少し冷たい。正門へ向かう道で、中庭の方角をもう一度だけ振り返る。ベンチの背には、白いハンカチと、あの二つの白い欠片。圭佑はそれを片付けず、ただそこに立っていた。竜頭に触れない指が、宙に止まったまま。
その姿を、見ないようにして歩く。見ないことも、選び直すことの一つだ。
校門を出る手前、道路の向こうでパトライトの色だけが消えていく。近所の交差点で小さな接触事故があったのだろう、人だかりの気配が寒色に揺れる。文乃は足を止め、胸の奥で誰かの安全を祈り、歩みを再開した。自分ができることと、できないことを分けるだけで、心はほんの少し軽くなる。
家に着いたのは十八時半。玄関で靴を揃え、台所の母にただいまと言う。湯気に包まれた食卓に座り、今日あったことを話す。話すことで、点だった出来事が線に変わる。
母「天文台の掃除、募集の紙が出てたの。行こうかな」
母「夜は冷えるから、上着を持っていきなさい」
母は味噌汁をよそいながら言う。
母「それと、帰りが遅くなるなら連絡」
母「うん」
食後、机に向かう。ペン立てのところにいつも置く白い欠片は、やはりない。代わりに、机の端に小さなメモを貼った。「探すのは、明日。今日は手放す練習」。字が揺れる。自分で書いたはずの言葉が、少しだけ胸に刺さって、少しだけあたたかい。
窓の外で、時報が鳴る。十九時。遠く、校舎の方角で、同じ時報が少し遅れて重なった気がした。ほんの三分――いや、気のせい。
スマホの画面に、通知が一つ。生徒会からの全体連絡。「天文台清掃、明日は17:30集合。鍵は会計・江莉奈」。その文面を読み、文乃は明日の服装を頭の中で並べる。手袋、上着、ヘアゴム、ライト。できる準備を一つずつ。
ベッドに横になり、天井の四角い影の位置で時間の流れを測る。目を閉じる直前、机に貼った自分のメモが思い浮かぶ。手放す練習。手放すことは、相手に任せることじゃない。自分の手を、自分で開くこと。
目を閉じたまま、今日の最後の問いを自分に返す。
――君は、どうしていつも“先に”そこにいるの。
答えは、まだいらない。問いだけを胸に置いて、眠りへ沈む。
そのころ、校内の小天文台。暗い内部で、誰かの息の音が一度だけ揺れた。古い望遠鏡に寄りかかる影が、手首の時計に触れかけて、やめる。竜頭は押されない。押されなかったから、世界は、そのまま十九時を過ぎる。天井のわずかな隙間から、白いものが一瞬流れた。雲か、星か。ピュアホワイト・ミッドナイト。触れれば欠ける、手放せば光る。
明日、同じ場所でまた風が吹く。鍵は江莉奈が持つ。掃除のバケツは三つ。軍手は十双。欠片は、いくつ。誰の手の中に、いくつ。
問いは、明日のために残された。



