その夜。
 実家の客間から漏れるあたたかな灯りに、
 志穂はそっと足を止めた。

 姉・真理から、「明日の出張前に話したい」とメッセージが届いていたのだ。
 断りきれず、気持ちを整えないまま実家へ向かった。

(……お姉ちゃんには、気づかれたくないのに)

 心臓が不安のたびに小さく痛む。

 ノックをしてドアを開けると、
 真理がソファで紅茶を飲みながら待っていた。

「志穂。来てくれたのね」

「……うん」

 微笑む真理。
 その微笑みが昔から変わらなくて、
 志穂の中の“劣等感”をそっと刺激する。

 真理は席を詰め、志穂の手を取った。

「顔色、少し悪いわ。ちゃんと食べてる?」

「……食べてる、よ。ちゃんと」

「本当?」

 真理の問いは優しい。
 優しいのに、志穂の胸にそっと重い石を置く。

(……昨日のことなんて、言えない)

 だって、真理は何も悪くないのに。
 むしろ、誰より優しくて、綺麗で、完璧で――
 こんな噂に巻き込みたくなかった。



「ねえ志穂。結婚生活は……どう?」

 真理は、まっすぐに志穂を見つめた。

「え……?」

「うまく行ってる? ちゃんと幸せ?」

「……幸せだよ。大丈夫」

 笑ってみせる。
 けれど真理には、嘘が簡単に伝わる。

「嘘ね。昔から、あなたは不安があると笑うもの」

「……っ」

 志穂は視線を落とした。
 胸がひどく痛い。

 真理は席を立ち、そっと紅茶を淹れ直す。
 その背中は細くて、しなやかで――美しい。

「志穂。もし、何か悩んでいることがあるなら……言ってほしい」

「べつに……悩んでなんて」

「悠真くんのこと?」

「――っ!」

 胸の奥が激しく揺れた。

「昨日、電話で少し話した時……何か、様子が変だったの。
 “志穂が泣いていた”って言ってた」

「……嘘。そんな……」

 志穂は瞬きを繰り返す。

(な、なんで……?
 あの時、泣いているのを見たの……?)

 真理は紅茶を置き、そっと志穂の隣に座った。
 そして、志穂の髪を撫でた。

「ねえ。泣くほど苦しいなら……無理しないで」

「……無理、なんて……」

「志穂」

 真理の声は、いつも通り優しくて、
 それが逆に志穂を追い詰めた。

(お姉ちゃんは、こんなに優しいのに……
 なのに私は、お姉ちゃんの名前を見るだけで傷ついてしまう……)

 胸がぎゅっと締めつけられる。

「……お姉ちゃんは」
 震えた声が漏れた。
「悠真さんと……話したりしないよね?」

 この一言を言った瞬間、
 胸が裂けるように痛くなった。

 真理は少し驚いたように目を瞬き、
 やがて柔らかく笑った。

「もちろん。志穂の夫なんだから。
 私があの子とそういう話をするわけないでしょ?」

「……そっか……」

 その言葉に、少し胸がほどける。
 けれど――

(じゃあ……昨日の女性は誰?)

 疑問だけが、鋭い棘のまま胸に残った。



 真理は志穂の手を包み込み、
 優しい声で言った。

「志穂。あなたって……誰かのために、すぐ身を引こうとする癖があるの」

「え……?」

「大好きなものほど、触れたら壊しちゃうって思い込んで……
 自分から距離を置いちゃう」

「そんな……」

「昔からよ。
 私が少し褒められると、“じゃあ私はいいや”って引いてたでしょう?」

 胸が刺さるように痛む。

(……たしかに、そうだった)

 真理は志穂の両肩に手を置いた。

「でもね。
 悠真くんはあなたの旦那さま。
 私より、誰よりも先に、志穂が大切にしていいの」

 その優しさが――逆に、苦しかった。

(だって……悠真さんが見ているのは、お姉ちゃんに見えたんだよ……)

 言えない。
 言ったら、小さな自分がまた惨めになる。

 視界が滲みそうになるのをごまかすように、
 志穂は立ち上がった。

「……ありがとう、お姉ちゃん。
 私、もう大丈夫だから」

「志穂」

「ほんとに、大丈夫」

 笑ってみせる。
 本当は大丈夫じゃないのに。

 部屋を出る直前。
 真理がぽつりと呟いた。

「……ねえ。
 あなたはちゃんと、愛されているわよ」

 その言葉は、やさしく響いたのに――
 志穂には、痛すぎるほど刺さった。

(もし……愛されているなら……
 どうして“あの女性”を守るって言ったの……?)

 志穂は胸を押さえたまま、
 静かな廊下をひとり歩いていった。