夜のマンションに戻ると、
玄関の灯りが柔らかく照らし出した。
コートを脱ぐ悠真の背中を、
志穂はそっと見つめていた。
(あんなふうに守ってもらえるなんて……
思ってなかった……)
胸の奥がまだ温かい。
涙の痕も残っているけれど、
今は不安より“安心”が勝っていた。
――その時だった。
ピンポーン……
玄関の呼び鈴が、
不気味なほど澄んだ音で鳴った。
「……こんな時間に?」
志穂が不安そうに眉を寄せる。
悠真はすぐに表情を固め、
玄関へと歩く。
ドアスコープを覗いた瞬間、
わずかに目を細めた。
「……新堂家の使者だ」
「っ……!」
志穂の喉が鳴る。
悠真は深く息を吸い、
ドアを開けた。
「夜分に失礼いたします、一条様」
深々と頭を下げたのは、
新堂家の執事・神崎。
年配で、無表情で、
声まで冷たく整っている。
彼は黒い封筒を両手で差し出した。
「新堂家当主より、
一条家ご夫妻へ正式なご通知です」
悠真は封筒を受け取りながら訊ねる。
「用件は?」
「三者会談を正式に開催するとの通達です」
志穂の肩がびくりと揺れた。
「日時は二日後。
場所は新堂家本邸・離れの応接室。
議題は――」
執事は淡々と続ける。
「“志穂様に関する今後の進退”について。」
空気が、一瞬で凍りついた。
(……進退?
わたしの……?)
志穂の心臓が苦しげに跳ねる。
「勝手な話だな」
悠真の声は低い。
抑えられた怒りが滲んでいた。
「志穂は“一条家の妻”だ。
新堂家にとやかく言われる筋合いはない」
「しかし――」
執事は微動だにせず言う。
「真理様との破談以降、
新堂家では“一条家との関係整理”が検討されております」
「関係整理……?」
(関係……整理……?
わたしが……いらないってこと……?)
志穂の指先がかすかに震えた。
「もちろん、
一条志穂様を責める意図はございません」
執事は表情の欠片も変えず、
続ける。
「ただ……
妹様には“真理様の代わりに婚姻を担っていただく責務”が
ある、という意見が強いのです。」
志穂の胸がぎゅっと詰まった。
(代わり……?
わたし……また、誰かの……代わり……?)
息が辛くなる。
しかし――
「その話を、志穂に向けるな」
悠真が一歩前に出た。
低い声は怒りを殺しているのに、
空気が震えた。
「志穂は“誰かの代わり”ではない。
俺の妻だ」
執事の眉が僅かに動いた。
「……それを証明していただくための、
三者会談でもあります。」
「証明だと?」
「はい。
当主は“あなたの覚悟”を確認したいのでしょう」
(覚悟……?
悠真くんの……?)
(どうして……そこまで……)
志穂の心が揺れる。
執事は丁寧に頭を下げた。
「二日後、午後二時。
一条ご夫妻そろってお越しください」
そして冷たく締めくくる。
「これは“出席必須”でございます。
――新堂家と一条家の未来のために。」
その言葉を残し、
執事は静かに立ち去った。
廊下の灯りが、
彼の背を長く伸ばす。
扉が閉まると、
静寂が戻った。
「……志穂」
悠真が、ゆっくりと妻の方へ振り返った。
志穂は青ざめ、
目にかすかな涙が浮かんでいた。
「わたし……
迷惑……かけてる……?」
その弱々しい声。
「わたしが……
お姉ちゃんの代わりに見られて……
一条家にも……あなたにも……
迷惑、だよね……?」
震える声に、
悠真は一歩で近づいてきた。
「志穂」
「……」
「迷惑なわけないだろ」
近くで見る悠真の瞳は、
本当に怒っていた。
「俺は……
おまえの“代わり”を探したことなんて、一度もない」
「でも……」
「おまえが必要なんだよ、志穂」
その言葉が胸に刺さり、
涙があふれた。
「だから……
三者会談なんてくだらない場で、
おまえを傷つけさせない」
「悠真……くん……」
「俺が守る。
必ず。」
静かな誓いだった。
けれどその静けさが、
いちばん力強かった。

