志穂が実家に呼ばれたのは、久しぶりだった。

 一条家の大理石のホールには、ガラスのシャンデリアが光を零し、
 玄関の扉が閉まるたびに微かな風が白いカーテンを揺らす。

「志穂、こっちよ」

 軽やかな声がして顔を上げると、
 階段の上から、真理がゆったりと微笑みながら降りてきた。

 少し伸びた栗色の髪、落ち着いた水色のワンピース。
 姿勢は美しく、歩くたびに裾が柔らかく揺れる。

 ――完璧。
 どこにいても目を引く、圧倒的な“華”。

「お姉ちゃん、おかえりなさい……!」

 志穂が駆け寄ると、真理は温かな腕で抱きしめてくれた。

「ただいま。ヨーロッパの仕事が長引いちゃって、ごめんね。
 結婚式も出られなかったし……本当におめでとう、志穂」

「ありがとう、お姉ちゃん」

 その瞬間、
 奥のホールで父と話していた悠真が、こちらへ歩いてきた。

 黒いスーツ姿。背は高く、歩調は静かで落ち着いている。

 そして――
 真理の姿を見た途端、わずかに目を見開いた。

「……真理さん。ご無沙汰しています」

「悠真くん。相変わらず仕事が忙しいみたいね」

 真理は優雅に微笑みながら言う。
 悠真は静かに会釈し、その視線は真理の横顔へ向いていた。

(……やっぱり)

 心臓が、少し沈む。

 美しくて、人に慕われて、昔から誰より完璧な姉。
 志穂はずっと、誰かと比べられるたびに小さくなる自分を感じてきた。

 そして――悠真までも。

「志穂、座りましょう。母さんも呼ぶわね」

 真理に手を引かれ、三人で応接室へ向かう。
 その途中、志穂は横歩きする悠真の表情をちらりと見た。

 ――どこか懐かしむような、柔らかい表情。

 胸の奥がきゅっと痛んだ。



 応接室に入ると、
 母が持ってきた焼き菓子の香りが部屋に広がっていた。

「志穂、少し痩せたんじゃない?」

「最近ちょっと忙しくて……」

「無理ばかりしないのよ。悠真くん、ちゃんと見てあげてね?」

「……はい」

 一瞬だけ、悠真の返事が遅れた。
 その視線は、なぜか真理の方へ向いている。

(どうして……?)

 家族全員が集まり、他愛ない会話が続く。
 けれど、志穂の耳には何ひとつ入ってこない。

 真理が笑うたび、
 悠真が話しかけられて答えるたび、

 胸に刺さるようなざわめきが広がっていく。

「ところで悠真くん、昔のこと覚えてる?」

 真理が紅茶を置きながら言った。

「昔の……?」

「志穂が小さい頃、庭でよく転んで泣いてたでしょ?
 そのたびに悠真くん、あの子に絆創膏貼ってあげてたのよ」

「……はい。覚えてます」

 淡々とした声。
 けれど、その目がほんの少し柔らいだ。

(お姉ちゃんと話すとき、表情が違う……)

 志穂はカップを持つ手が震えるのを、自分で止められなかった。

 母が笑いながら続ける。

「真理のこと、昔から悠真くんはよく見るのよね。
 ほら、真理は志穂の二倍はしっかりしてるから」

「お母さん……」

 軽い冗談なのに、
 その言葉が胸に重く落ちた。

(悠真さんがずっと見てきたのは……私じゃなくて、お姉ちゃん)

 息が少しだけ詰まる。



 帰り際。
 玄関でコートの襟を直していると、真理がふと志穂の腕に触れた。

「志穂。……ねえ、ちゃんと幸せに暮らしてる?」

「え……?」

「あなた、なんでも気にするタイプだから。
 もし不安があるなら、ちゃんと悠真くんと話しなさいね」

「……大丈夫。うまくやってるよ」

 本当はうまくやれていない。
 “夫婦らしい会話”も、“愛情”と呼べるものも、まだ何もない。

 けれど、姉には言えない。

 真理が微笑んで言う。

「志穂は可愛いんだから、自信を持ちなさい」

「……ありがとう、お姉ちゃん」

 その後ろで、悠真が会釈をして車へ向かう。
 真理はその背に向かってひとつ手を振る。

「明日からまた頑張るのよ、悠真くん」

「はい。……真理さんも」

 志穂の胸がまた、小さく痛んだ。

 車に乗り込んだあと、
 窓越しに見える姉の姿が、光の中に滲んで見えた。

(どうして……こんなに苦しいのかな)

 たった一言、
 “愛してる”と聞けるだけで――
 こんなにも救われるのに。

 車がゆっくりと走り出す。
 志穂は、その指先で婚約指輪をそっと撫でた。