結婚して半年。
 一条家のペントハウスは、今日もホテルのように静かだった。

 朝の光がダイニングのガラス越しに差し込み、白いテーブルクロスを柔らかく照らす。
 その中央に置かれた温かい紅茶の湯気だけが、かすかに揺れている。

「……おはようございます、悠真さん」

 キッチンからそっと現れた志穂が挨拶をすると、
 新聞を広げていた悠真は、少しだけ顔を上げた。

「おはよう」

 それだけ。
 たった4文字の朝。

 新婚夫婦の会話としては、あまりに味気ない。
 けれど、それが志穂と悠真の“いつもの朝”だった。

 志穂は湯気の立つお皿を二人分、静かにテーブルへ運ぶ。
 スクランブルエッグとサラダ、そして焼きたてのパン。

「……今日は、砂糖は入れませんでした。最近、ブラックがお好きかなと思って」

 自信なさげに言うと、悠真は軽く瞬きをし、

「ありがとう。助かる」

 そう呟いて、カップを持ち上げた。

 志穂の胸が、ほんの少しだけ温かくなる。
 けれど、その温度は長く続かなかった。

「今日の予定は?」

 新聞から目を離さないまま、悠真が問う。

「午前中は父と会議で、午後は……叔父の会社に挨拶回りです」

「そうか。無理はするな」

「はい」

 また、会話が途切れる。
 静かなクロックの秒針だけが、部屋の中で時間を刻む。

(どうしてだろう……)

 同じテーブルに座っているのに、
 触れられる距離にいるのに、
 心だけが遠くにある気がした。

 志穂はカップを両手で包み込み、うつむいたまま言う。

「……ねえ、悠真さん。結婚して、もう半年ですね」

「ああ」

「……あっという間でしたね」

「そうだな」

 淡々と返ってくる声に、胸がきゅっと詰まる。

 “夫婦の会話”は、どうすればできるんだろう。
 “好きな人との朝”は、本当はもっと甘いもののはずなのに。

「結婚して……よかったって、思いますか?」

 勇気を振り絞って聞くと、悠真の手が一瞬だけ止まった。
 新聞がかすかに揺れる。

 志穂は怯えるように、彼の表情をうかがった。

「……責任を果たせるように努めるよ」

 その答えは、やっぱり“愛”ではなかった。
 胸の奥がひどく痛む。

(責任じゃなくて……私がほしいのは、“あなたの気持ち”なのに)

 言えない言葉を飲み込んだ瞬間、
 悠真がふと志穂の皿に視線を落とした。

「志穂、……食べてないな」

「あ、えっと……」

「朝はちゃんと食べろ。すぐに体調を崩すんだから」

 いつかの庭での「転ぶなよ」と同じ響き。
 不器用だけど、優しい声。

 胸がじんわりと温かくなりかけて――
 すぐに寂しさが押し寄せる。

(優しさだけじゃ、足りないよ……)

 志穂は俯いたまま、パンをちぎった。

 二人の間には、まだ言葉にできない“何か”が横たわっている。
 甘くも、苦くもない――どこにも行けない距離。

 食事を終えると、悠真が時計に目を落とした。

「そろそろ出る。車は手配してあるから」

「……はい。ありがとうございます」

 立ち上がろうとした時、
 志穂の袖を、悠真がほんの一瞬だけ指でつまんだ。

「志穂」

「……はい?」

「今日、雨が降るかもしれない。傘を忘れるな」

「え?」

「……それだけだ」

 すぐに手を離し、玄関へ向かってしまう。

 志穂はぽつんと取り残され、
 そっと胸元に触れた。

(ねえ、悠真さん……“行ってきます”の前に、
 たった一言だけでいいのに)

 玄関の扉が閉まる音が響く。

 今日もまた、
 甘くない新婚の朝が終わっていく。