廊下で向き合った瞬間、
 志穂の胸に、昨夜の声がよみがえった。

『……行かないでくれ……』

 震えた悠真の声。
 あれは嘘じゃなかった。
 確かに“止めて”くれた。

(なのに……どうして私は、
 まだこんなに苦しいんだろう)



 志穂は深く息を吸い、
 震えそうな声を抑えながら言った。

「昨日……止めてくれましたよね」

 悠真の肩が、ぴくりと揺れた。

「……ああ。
 あれは……」

(本気なら……なんで何も言ってくれないの)

 そんな思いが胸で渦を巻く。

「でも……
 少しだけ……実家に帰ります」

 悠真の喉がひくりと動いた。

 
 昨日は必死に止めた。
 そして今日は——

 その変化が、いちばん苦しい。

 志穂は、最後の望みを込めて言った。

「……昨日みたいに、
 “行かないでくれ”って……
 今日は言ってくれないんですね?」

 

 悠真は、苦しそうに目を伏せた。

「……言ったところで……
 おまえを苦しめるだけだ」

 その言葉は優しさなのに、
 志穂の胸を深く刺す。

(やっぱり……
 私を引き止めるほどの気持ちは……
 ないんだ……)

「……そうですか」

 志穂は小さく微笑んだ。
 泣かないように必死で。

「じゃあ……行ってきますね。
 少しだけ……」

 悠真は言いたくて、でも言えない。
 喉が震えている。

 昨夜は叫べたのに。
 今日は声にならない。

 その違いが、
 ふたりの距離をさらに遠ざけていった。