夕方。
 真理が帰った後のリビングは、
 冷えきった空気と泣き跡だけが残っていた。

 志穂はキッチンの椅子に座ったまま、
 ゆっくり息を整えていた。

(……今日はもう、何も考えたくない)

 そう思っても、胸の奥の痛みは消えない。

 “好き”と言ってほしいだけなのに。
 でもそれが、どうしても言ってもらえない。

 その理由すら教えてもらえない。



 そのとき、足音が聞こえた。

 悠真が、静かにリビングへ入ってくる。

「……志穂」

 声は低く、震えているのが分かった。

 真理の前で流した涙を見られたこと。
 それを悠真がどう思ったか。

(嫌われた……?
 重いって思われた……?)

 不安が胸を締め付ける。

「さっきは……すまなかった」

 謝罪。

 それが逆に、志穂の心を深く刺した。

「謝るくらいなら……
 本当のことを言ってくれたらいいのに……」

「本当の……こと?」

「“好きじゃない”なら……
 はっきり言ってほしい」

 悠真の息が止まった。

「違う。志穂、それは違う」

「じゃあなんなの?
 どうして言ってくれないの?」

「俺は……」

 言いかけて、口を閉ざす。
 その沈黙に、志穂の心がひび割れた。

「言えないのは……
 本当に、私じゃだめだからでしょ?」

「違う」

「姉のほうがよかったから?」

 その問いに、
 悠真の瞳が大きく揺れた。

「……真理さんの話は、関係ない」

「じゃあどうして私には言えないの……!?
 姉には言えたことが、どうして私には言えないの……?」

 志穂の声が震える。
 目の奥が熱い。

「真理さんの前では……
 いつも笑っていたよね。
 優しくて……頼りがいがあって……
 あんなに自然に話してたのに」

「志穂、やめろ」

「私は?
 私はどうなの?
 あなたから見たら……ずっと“二番目”なの?」

 その言葉に、悠真は顔を歪めた。

「違う!!
 志穂、そんなふうに自分を言うな……!」

「じゃあ言ってよ……
 私はあなたにとって……
 なんなの……?」

「……」

 また沈黙。

 志穂の心は限界に達していた。

「どうして……
 どうして、私だけがこんなに怖いの……?」

「怖い?」

 志穂は泣きながら笑ってしまった。

「私のほうが怖いよ……
 好きって言ってくれないから……
 いつ終わるかわからなくて……
 あなたがどこを見てるかもわからなくて……
 私だけが必死みたいで……
 ずっと……ずっと怖かった……!」

 悠真は一歩近づいたが、
 躊躇したように止まった。

「……志穂。
 おまえを、失いたくないんだ」

「だったら言ってよ……
 “好き”って……
 “愛してる”って……
 それだけで私は救われるのに……」

 悠真の喉が震えた。

「……俺は……
 おまえに言えば……
 もう後戻りできなくなるんだ……」

「後戻りしたいの?」

「違う!!」

「じゃあどうして……?」

「俺は……
 俺なんかが……
 おまえを愛すると言い切って……
 もし守れなくなったら……
 志穂を壊す……」

 志穂は涙をふき、
 静かに首を横に振った。

「私ね……
 もう壊れかけてるよ」

 悠真の目が痛みで揺れる。

「志穂……」

「このままじゃ無理だよ……
 言葉がほしいわけじゃない。
 安心がほしいの。
 “選ばれている”って実感がほしいの……」

 志穂は小さく息を吸った。

 そして、震える声で言った。

「……もう少しだけ、
 実家に帰ろうと思う」

 悠真の手が、空中で止まった。

「……帰る?
 志穂……俺のそばから……離れるのか?」

「少しだけ……距離を置きたいの」

 悠真の顔から血の気が引いた。

「待ってくれ」

「もう待ってるよ……ずっと……
 あなたが私を見るのを待ってるよ……
 でも、あなたは私じゃなくて……
 誰も見てないみたいで……」

 ゆっくり、志穂は背を向けた。

「……今日はもう、話せない」

「志穂……!」

 引き止める声が震えていた。

 でも志穂は振り返らなかった。

(このままじゃ、もっと壊れてしまう)

 そう思いながら、
 自室のドアを静かに閉めた。

 ドア越しに、悠真がかすかに囁く。

「……頼むから……行かないでくれ……」

 しかしその声は、
 志穂の耳まで届かないほど弱かった。

 誤解は、深く深く絡まり合い、
 その夜、ふたりの心をさらに遠ざけた。