実家で写真を見た夜から、
 志穂の胸の奥はずっとざわついていた。

 昔の悠真は、あんなにも優しくて、
 自分だけを見ていたのに。

 今の悠真は――
 “愛してる”と言ってくれない。

 その現実が、どうしようもなく苦しかった。

(……私だけが、空回りしてるみたい)

 そんな思いが胸いっぱいに広がって、
 ふと、大学時代の男友達——武流(たける)に連絡をしてしまった。

『久しぶりに、少し話せない?』

 返事はすぐ来た。

『いいよ。志穂、大丈夫?』

(……優しい)

 ただ、それだけで涙が出そうになった。



 駅前の落ち着いたカフェ。
 木目のテーブルと静かなピアノ曲が流れる店内。

「最近どう? 元気なかったけど」

「……うん、まあ……」

「志穂は昔から無理するタイプだろ。
 俺でよければ、いくらでも聞くよ?」

「……ありがとう」

 些細な優しさが胸にしみて、
 志穂は思わず指先に力を入れた。

(誰かに……優しくされたい。
 “好き”のひと言がほしいだけなのに)

「志穂、泣いてる?」

「泣いてないよ……」

「いいよ。泣いてもいい」

 その言葉に、
 心の奥がわずかに揺れた。



 その時だった。

 カラン——と、ドアベルが鳴る。

 振り返ると、
 入り口に悠真が立っていた。

 スーツ姿で、少し息を切らし、
 視線がまっすぐ志穂に向けられている。

「……悠真、さん……?」

 悠真の瞳が鋭く細められる。

 武流と向かい合って座る志穂。
 テーブルの上にはドリンクが二つ。
 距離は近く、空気は親密に見えた。

 最悪のタイミングだった。

「……誰だ、この男は」

 低く、抑えた声。
 怒りというより、
 傷ついた獣のような声だった。

「……ただの、友達です」

「“友達”と、こんな時間に二人きりで?」

「別にいいじゃないですか。
 私には、関係ないでしょう?」

 自分でも意地を張っているのが分かった。
 でも止められなかった。

(悠真さんは……
 私なんか、どうなったて……)

 悠真の眉がわずかに動く。

「……どういうつもりだ」

「どういうつもりでもありません。
 私だって……誰かに、優しくされたいだけです」

「……なに?」

「あなたが言ってくれない言葉を……
 誰かが言ってくれるかもしれないから」

 そこまで言ってしまった瞬間——
 自分で胸が苦しくなる。

(本当は……嘘。
 そんなの望んでないのに)

 武流が慌てて口を挟む。

「ち、違いますよ西園寺さん!
 俺はただ話を聞いていただけで——」

「黙れ」

 普段見せない冷たい声に、
 武流は言葉を飲み込んだ。

 悠真は志穂だけを見つめ、静かに言う。

「……俺に言いたいことがあるなら、
 他の男を使わずに言え」

 その瞳は怒っているのに、
 どこか、ひどく悲しそうだった。

「……言っても、あなたは答えてくれないでしょ」

「答えようとした」

「……言わなかったじゃないですか」

 沈黙。

 悠真の拳が、テーブルの端で静かに震えた。

「志穂……」

 名前を呼ぶ声は深く、低く、
 痛みを押し込めた響きだった。

「……もう帰る」

 志穂は立ち上がり、
 バッグを掴んで店を出た。

 後ろから足音が追ってくる気配がして、
 志穂は一瞬だけ振り返った。

 ドアの向こうで立ち尽くす悠真の瞳には、
 怒りでも嫉妬でもない、
 深い、深い寂しさが宿っていた。

(……どうして。
 どうしてあなたは……)

 夜の風が頬を打つ。
 志穂は涙をこぼしながら歩き出した。

 お互い言葉が足りなくて、
 ほんの少しの勇気がなくて。

 すれ違いは、さらに深くなっていった。