その夜――
 ペントハウスのリビングは、いつもより広く感じられた。

 間接照明の淡い光だけが、部屋の隅をぼんやりと照らしている。
 深い沈黙が、空気を重くしていた。

 志穂はコートを脱がず、扉のそばに立っていた。
 外気の冷たさがまだ残っていて、胸の奥のざわめきと混ざり合う。

(……帰りたくなかった。
 でも、帰らなきゃいけない家なんだ)

 スリッパを履こうとしゃがんだ瞬間――

「志穂」

 静かな声が背中に落ちてきた。

 振り向くと、
 ネクタイを外したままの悠真が、キッチンの入口に立っていた。

 手にはマグカップ。
 仕事帰りの疲れが残る表情。

 でも――その目だけは、志穂を真っ直ぐ追っていた。

「……帰るのが、遅かったな」

「……はい」

「連絡ぐらい入れろ。心配した」

「心配……?」

 胸の奥に、チクリと小さな痛みが走る。

「心配してくれるんですか? 私のこと」

「当たり前だ」

「どうして、“当たり前”なんですか?」

「……どういう意味だ」

 志穂は、ゆっくり立ち上がった。

(言いたくない。でも……言わないと、壊れたままになる)

「……私のこと、責任で気にかけてるんじゃないかって思うからです」

 悠真の眉がわずかに寄る。

「責任……?」

「政略結婚だから。
 “妻だから守る”って、そういう意味なんじゃないかって」

「志穂――」

「ねえ、悠真さん」

 志穂の声は震えていた。

「……私のこと、好きですか?」

「……」

 静寂が落ちる。
 時計の針の音だけが、遠くで小さく鳴る。

 志穂は、彼の沈黙に怯えるように続けた。

「もし……好きじゃないなら……
 ちゃんと言ってくれたら、私……」

「違う」

 低い声が遮った。

「君を、好きじゃないなんて……そんなことは、ない」

「……じゃあ、好きなんですか?」

「……」

 また黙る。
 その沈黙こそが、一番つらい。

 志穂の胸がきゅっと縮む。

「どうして答えてくれないんですか?」

「志穂――」

「ねえ、“好き”って……そんなに言いにくい言葉なんですか?」

 自分でも驚くほど声が大きくなった。

 悠真の目がわずかに揺れる。

「違う。……言いにくいんじゃない。
 軽く言いたくないだけだ」

「軽くなんて……望んでません」

「……」

「“好き”と言われたら、勘違いされそうで怖いですか?」

「そんなことは――」

「じゃあ、“愛してる”って言ってください」

 きっぱりと言った瞬間、
 部屋の空気が変わった。

 悠真の手がわずかに震える。

「志穂……おまえは知らないんだ」

「何をですか?」

「“愛してる”を軽く使った結果……壊れた夫婦を、俺は間近で見てきた」

 志穂は目を見開いた。

「言葉は、ときに武器になる。
 ……俺は、それを知ってる」

(悠真さん……)

「だから、言えないんですか?」

「違う。
 言えないんじゃなくて――
 言って、もし君を傷つけることになったら……それが怖い」

「私は……」

 言い返そうとした瞬間、苦しさが胸に広がった。

(どうして……そこまで思ってるのに……
 どうして私には“愛してる”って言ってくれないの?)

 涙が、ぽたりと床に落ちる。

「……ごめんなさい」

「志穂」

「もう……聞きたくありません。
 期待して、勘違いして、また傷つくの、嫌なんです」

 その言葉に、悠真は息を呑む。

 志穂はかぶりを振り、視線をそらした。

「……おやすみなさい」

「待て」

 腕をつかまれる。
 強く、けれど震えた手で。

「志穂。君のことを大事に思っている。
 それだけは、信じてほしい」

「……“大事”じゃ、足りないんです」

 静かに、でもはっきりと言った。

「私がほしいのは、“愛してる”という言葉なんです」

 悠真の手が、そっと離れた。

 一瞬だけ、彼の目が苦しさに染まり、
 けれど何も言えないまま――

 志穂は寝室へ向かう廊下を歩き出した。

 背中越しに感じる沈黙が、
 いつもより遠くて、冷たかった。