朝の光が、廊下の窓ガラスを淡く照らしていた。
新しい一日が始まる――はずだった。
教室に入ると、空気がいつもと違っていた。
ひそひそと交わされる声、すれ違うたびに感じる視線。
「ねぇ聞いた? 一条くんと来栖さん、付き合ってるらしいよ」
「えっ、本当? お似合いじゃない?」
「昨日、資材庫で一緒にいたって」
プリントを抱えた瑠奈の足が、止まった。
耳にした瞬間、胸の奥が小さく軋む。
――資材庫。
あの日の光景が、脳裏によみがえる。
重なった手、笑う声。
(あれは……偶然だった。きっとそう……)
そう思おうとするのに、指先が震えてプリントを落とした。
「大丈夫?」
しゃがみこんだのは悠真だった。
穏やかな声、いつもの笑顔。
「……ありがとう」
拾われたプリントを受け取る手が、少し冷たい。
彼の優しさが、今は痛い。
「どうかした? 顔色悪いけど」
「ううん、なんでもない」
そう言って笑うしかなかった。
“なんでもない”――それが嘘だと、彼は知らない。
昼休み。
校庭のベンチで、麗華が友人たちに囲まれていた。
「え~? そんな噂、誰が言い出したのかしら」
唇に微笑を浮かべながら、否定も肯定もしない。
「でも、一条くんってほんと優しいの。
こないだも資料を運んでくれて、手が触れちゃって……」
その言葉に、女子たちが黄色い声を上げる。
「やっぱりお似合いじゃん!」
「麗華ちゃん、告白されたの?」
「ううん、まだ。でも――春の風って、恋を運んでくるでしょ?」
笑い声が弾ける。
その少し離れた木陰で、瑠奈は静かに立ち尽くしていた。
足元の影が、まるで自分の心のように薄く揺れる。
(春の風……私には、冷たいだけ)
その時、後ろから拓也が声をかけた。
「噂、聞いた?」
「……うん」
「信じるのか?」
「……わからない。でも、麗華ちゃん、嘘はつかないと思う」
「そうやって人を信じると、傷つくぞ」
拓也の声は、優しいけれどどこか苦かった。
「……でも、信じてないふりをする方が、もっと痛いから」
「……瑠奈らしいな」
拓也は短く笑い、桜の枝を見上げた。
「俺なら、お前を泣かせたりしないのに」
その一言に、瑠奈は俯いた。
「……そんなこと、言わないで」
「どうして?」
「優しさで言われたら、もっと苦しくなる」
風が吹き抜け、桜の花びらが二人の間を流れていく。
それは、近づけない距離を示すようだった。
放課後。
教室に戻ると、悠真が窓際にいた。
沈む夕陽が彼の横顔を染めている。
「桐山」
「……なに?」
「噂、聞いたかもしれないけど……」
「うん」
「俺、そんなつもりないから。あれ、ただの手伝いだよ」
その真剣な眼差しに、少しだけ救われる。
でも同時に、瑠奈は気づいてしまった。
彼の声には“焦り”も“想い”もなく、
ただ“誤解を解きたいだけ”の響きがあることに。
「わかってる。悠真くんがそういう人じゃないって」
「なら、よかった」
悠真は安心したように微笑んだ。
その笑顔を見つめながら、瑠奈は胸の奥で小さくつぶやいた。
(――どうして、そんなに優しいの。
優しいなら、どうして私じゃないの)
彼が去ったあと、窓の外には橙色の空。
風がカーテンを揺らし、机の上の桜の花びらをそっと運んでいった。
瑠奈はその花びらを指先で掬い、静かに呟いた。
「……春は、長くは続かないんだね」
その小さな声は、夕陽に溶けて消えた。
けれど確かに、
“友情”と“恋”の境界線が、静かに崩れ始めていた。

