あの日から、もう何年も経った。
高校を卒業して、大学や仕事、時間の流れの中で、由埜華の毎日は少しずつ変わっていった。
けれど――変わらないものがひとつだけあった。
それは、胸の奥の小さな場所に居座り続ける青郎の存在だった。
日々が慌ただしく過ぎていく中で、ふとした瞬間に思い出す。
体育館の木の床の匂い。
机の下で触れた指先の温度。
「暇だからいいよ」と言って始まった恋が、いつの間にか、自分の人生の中心になっていたこと。
あの七月七日の夜、別れを選んだときも――心のどこかでは、いつかまた出会えると信じていた。
成人式の朝。
冷たい冬の空気に頬を刺されながら、由埜華は鏡の前に立っていた。
髪をまとめ、振袖の帯を結びながら、胸の鼓動が少しずつ早くなるのを感じる。
「……今日、会えるのかな」
そう呟いた自分の声が、鏡の中の表情を少しだけ柔らかくした。
式典の会場には、懐かしい顔がいくつも並んでいた。
中学のときの友達、部活仲間、笑い合った日々。
みんな大人になって、それぞれの道を歩んでいる。
けれど、由埜華の目は無意識にたったひとりを探していた。
人の波の向こう。
懐かしい背中が見えた。
背が少し伸びて、雰囲気も大人びたけれど――
振り返ったその瞬間、あの頃とまったく同じ笑顔があった。
「……由埜華?」
「……青郎」
言葉にならない時間が流れる。
何年分もの想いが、ただ視線の間に積み重なっていく。
互いに、少し照れくさそうに笑って、ゆっくりと近づいた。
「久しぶり。元気だった?」
「うん。青郎は?」
「まあね。大学、サッカー漬けだけど……楽しいよ」
「そっか」
会話は短い。
でも、その一つ一つが懐かしくて、あたたかくて。
心の奥に、あの頃の鼓動が蘇ってくる。
会場を出て、二人は自然と並んで歩き出した。
冷たい風が吹き、雪の気配を運んでくる。
「懐かしいね、中学のとき」
「うん。……あの時、隠してたの、懐かしいね」
「まさか、あんなにバレないように頑張ると思わなかったけど」
二人の笑い声が、冬の空に溶けていく。
やがて、少しだけ沈黙が訪れた。
由埜華が足を止め、青郎を見上げる。
その目は、もう中学の頃の少女のものではなかった。
少し強く、少し優しく、でもどこかあの頃と同じまっすぐな光を宿していた。
「ねぇ、覚えてる?」
「なにを?」
「高校一年の夏。別れるときに言ってたこと」
青郎は少しだけ目を伏せ、そして小さく笑った。
「……成人式で、もしまだお互い好きだったら、結婚前提で付き合おう、ってやつ?」
「うん、それ」
風が少し強く吹いた。
由埜華の髪が揺れ、青郎のコートの裾を掠める。
「俺さ、あれから何人かと付き合ってみたけど……だめだった」
「うん、知ってた」
「由埜華は?」
「ううん。誰もいない。青郎以外、好きになれなかった」
一瞬、時間が止まったようだった。
目を逸らすことも、笑って誤魔化すこともできない。
互いの気持ちが、真っすぐにぶつかる。
「じゃあ……今度こそ、もう隠さなくていいかな」
「うん」
青郎が一歩近づき、由埜華の手を取った。
その温度は、あの頃のまま。
でも、もう中学生じゃない。
幼い秘密の恋ではなく、今度はちゃんと「未来」を見据えた恋だった。
「今度は、隠さなくていいよ。堂々と、由埜華と一緒にいたい」
「……うん」
頬が赤く染まり、指先が震える。
でも、その震えは寒さではなかった。
胸の奥で、あの日と同じ温かいものが灯っていた。
「ずっと好きだったよ」
「私も」
空を見上げると、雪が静かに舞い始めていた。
七月の夜に終わった恋が、今、冬の空の下で再び動き出す。
過ぎた時間も、痛みも、全部が二人をここに導いていた。
手を繋いで歩き出す二人の姿を、白い雪が静かに包み込む。
「今度こそ、ちゃんと始めよう」
「うん。最初から最後まで、一緒に」
そしてその空の下、再び重なった二人の影は、もう誰にも隠さなくていいものになっていた。