君に届く春

卒業式の前日。
校舎は静かで、放課後の廊下に自分の足音だけが響く。
羽春は重たい鞄を肩にかけながら、ゆっくり歩いた。
教室に入ると、孝太はもう資料をまとめていた。
窓から差し込む夕陽が、彼の横顔を柔らかく照らす。
背中を見ただけで、心が締め付けられた。
「羽春、手伝ってくれるか?」
孝太の声は、いつもと変わらず優しい。
でも今日は、どこか遠くを見ているようで、
その距離感に胸が痛くなる。
「はい」
机の上の資料を整理しながら、羽春は心の中で何度も呟いた。
——今日、伝えなきゃ。
——明日、言わなきゃ、もう遅いかもしれない。
でも、言葉にする勇気は出ない。
***
廊下の隅で、ふと足を止める。
窓の外には、夕陽に染まる校庭。
バレーボール部のボールが一つ転がっていた。
孝太と美咲の声がまだどこかで聞こえる。
——笑ってるんだ、二人で。
胸が痛くて、思わず視線をそらす。
目の奥が熱くなって、涙を堪えるのがやっとだった。
「羽春」
振り向くと、孝太が資料を手に立っていた。
「……最後に、これ確認してほしい」
その手のひらの資料に触れた瞬間、
指先に電流が走るような感覚があった。
「わかりました」
言葉だけは落ち着いていた。
でも心は、ざわついて、乱れていた。
***
放課後、体育館の隅で二人きりになる。
孝太は少し戸惑ったように、羽春を見つめる。
その視線に、羽春は目を逸らせなかった。
「羽春……」
声のトーンに、何か決意めいたものが混ざっていた。
胸が高鳴る。
——この瞬間、伝えなきゃ、全部。
でも、言葉が出ない。
喉の奥で詰まって、声にならない。
「……先輩」
「ん?」
「……ありがとう、今日まで」
精一杯の笑顔で言ったその言葉が、
孝太の目にどう映ったかは分からない。
でも、胸の奥にあったものは少しだけ解けた気がした。
孝太も微笑んだ。
「……羽春、俺もだ。ありがとう」
その笑顔に、羽春は涙をこらえる。
言葉にしなくても、
きっとお互いの気持ちは伝わった。
***
夜、帰り道。
空には満天の星。
風が少し冷たくて、でもどこか心地よかった。
羽春は胸の奥に手を当て、静かに歩いた。
——明日で終わるけど、
——でも、この気持ちは消えない。
校門を出ると、遠くで孝太が誰かと話している声が聞こえた。
美咲の声も混ざっていた。
——もう、届かないかもしれない。
——でも、好きだって思う気持ちは、確かにここにある。
羽春は小さく笑った。
涙も少しだけこぼれたけれど、
それでも前を向けた気がした。
風に揺れる髪の先、街灯の下、
夜の静寂に、自分の鼓動だけが響いた。
「おやすみ、孝太さん」
その声は、届くはずもないけれど、
心の奥に灯を残した気がした。