君に届く春

春が少しずつ遠ざかっていく。
教室の窓から差し込む光が強くなり、昼休みのざわめきに混ざって、汗のにおいが少しだけ漂う。
そんな季節の変わり目に、羽春は何度もため息をついていた。
部活も委員会も忙しくなり、孝太と話す時間がどんどん減っていく。
会議の時に一言二言、必要なことを話すだけ。
それ以外は、ただ隣にいても、空気のようにすれ違ってしまう。
「……最近、先輩と話してないな」
小さく呟いた言葉は、自分にしか聞こえなかった。
隣の席では、委員会の同じメンバーである美咲が静かにプリントをまとめていた。
長い髪を後ろでひとつに結び、無駄のない動き。
男子バレーボール部のマネージャーをしている彼女は、いつもどこか大人びていて、落ち着いている。
「羽春ちゃん、これ明日の分?」
「うん。コピーしておこうと思って」
「助かる。……最近、孝太先輩忙しそうだもんね」
その名前を聞いた瞬間、心臓が止まった気がした。
どうしてだろう。
美咲が“孝太先輩”って口にしただけで、胸の奥がざわつく。
「そう……なんですか?」
「うん。練習見に来てるし、顧問に手伝ってって頼まれたみたい。引退したのに、ほんと真面目」
美咲は少し笑った。
その笑顔が、なんでもないようで、少しだけ眩しかった。
——その隣で、孝太が笑っている姿が頭に浮かぶ。
思わず、胸がきゅっと痛くなった。
***
放課後、羽春は体育館の廊下に立っていた。
中から聞こえるバレーボールの音。
何度も床を打つ音と、掛け声と、笑い声。
その中に、聞き慣れた声が混ざっていた。
「ナイス! そのスパイクいいね!」
孝太の声だ。
声のトーン、間の取り方、笑う時の柔らかさ。
全部、好きになってしまった理由のひとつひとつだった。
ガラス越しに中をのぞくと、孝太の隣に美咲がいた。
彼女は笑顔でタオルを差し出し、孝太はそれを受け取りながら、何かを話していた。
その自然な距離感が、たまらなく苦しかった。
——私、何してるんだろ。
胸の奥に重たいものが沈む。
見ていたいのに、見ていられない。
その場に立っていることが、だんだん怖くなってきた。
「羽春」
不意に名前を呼ばれて、息が止まった。
顔を上げると、ちょうど孝太がドアの方を見ていた。
一瞬、目が合った。
それだけで、全身が熱くなる。
「どうしたの?」
その声は優しい。
でも、優しすぎて、今は痛かった。
「い、委員会の資料を渡そうと思って……!」
「そっか、ありがとう。助かる」
それだけ。
たったそれだけの会話なのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。
「羽春」
帰ろうとした背中に、また名前を呼ぶ声が届いた。
振り向くと、孝太が少し困ったような笑顔を浮かべていた。
「最近、忙しい?」
「……ちょっとだけ。でも、大丈夫です」
「無理すんなよ」
その言葉は優しいのに、どこか遠い。
もう、以前みたいに笑い合えない気がした。
「先輩こそ、ちゃんと休んでください」
そう言って、羽春は笑顔を作った。
けれど、それは自分でもわかるくらい、ぎこちなかった。
***
夜、家に帰ってベッドに倒れ込む。
天井を見上げながら、思い出すのは孝太の声。
“羽春”って呼ぶあの響き。
何度も思い出しては、心が揺れる。
——好きになっちゃいけないって思ってたのに。
——なのに、会えないだけで、泣きそうになる。
スマホの画面を見ても、連絡先を開く勇気は出ない。
「先輩、今日も体育館にいましたね」
そんな他愛もない一言でさえ、言葉にできない。
目を閉じると、孝太と美咲の笑顔が浮かぶ。
二人の距離が、ほんの少し縮んでいくような気がして、
胸が締め付けられた。
——どうして、私はこんなに弱いんだろう。
——どうして、もっと強く笑えないんだろう。
布団の中で小さく息を吸い、吐く。
涙がこぼれそうになって、慌てて目を閉じた。
「……おやすみ、孝太さん」
誰にも届かないその声が、夜の静けさに溶けていった。