君に届く春

文化祭の準備で、放課後の校舎はどの教室もにぎやかだった。
色紙の音、笑い声、テープを貼る音。
そんな喧騒の中で、羽春の心だけが少し、静かに沈んでいた。
委員会の教室。
壁には進行表が貼られ、机の上には資料の山。
羽春はマーカーを持ったまま、ぼんやりとその山を見つめていた。
「……羽春、これ追加分。確認してもらっていい?」
孝太の声で我に返る。
「は、はい! すみません」
手を伸ばして資料を受け取ると、
彼の指先がまた、ほんの一瞬触れた。
その瞬間、心臓が跳ねる。
でも、その後ろには楓がいた。
落ち着いた声で進行表を読み上げ、
的確に指示を出している。
「佐倉先輩、三年の展示ブース、もう配置決まりました」
「お、さすが。仕事早いな」
そのやり取りを聞きながら、羽春は小さく息を飲んだ。
委員会での二人は、まるで自然に噛み合っている。
まじめで冷静な楓。
そして、みんなに頼られる孝太。
——いいコンビだな、って。
 そう思ってしまう自分が、少し嫌だった。
「羽春、こっちの資料も手伝ってくれ」
名前を呼ばれて、心が少しだけ跳ねる。
だけどそれは、誰にも知られたくない音だった。
「はい」
隣に座って、一緒に書類をめくる。
孝太のペンの動きが静かで、規則正しい。
その音に合わせて呼吸している自分に気づく。
気づいた瞬間、胸が苦しくなった。
***
夕方になり、教室の蛍光灯が灯る。
オレンジの光が、窓の外の夕暮れと混じり合って、
どこか懐かしい匂いを漂わせていた。
「……これ、どうする?」
楓が指先で資料を指しながら言う。
「ステージの照明、リハーサルの前に一回確認しといた方がいいと思います」
「そうだな。楓、お願いできるか?」
「任せてください」
羽春は黙って聞いていた。
二人の間に流れる会話は、いつも通りで、穏やかだった。
でも、
——その穏やかさの中に、自分はいない。
そう気づいた瞬間、
机の下で手が小さく握られた。
***
準備が終わったのは、もう日が暮れた頃だった。
教室の灯りが、三人の影を長く床に落とす。
「よし、今日はこのへんで切り上げよう」
孝太が腕時計を見ながら言った。
「お疲れ様でした」
楓が笑顔で頭を下げ、
羽春も小さくうなずいた。
帰り支度のとき、楓が何か思い出したように顔を上げた。
「あ、先輩。明日、午前中リハですよね?
 私、早めに来て照明の動作確認します」
「助かる。ありがとう」
「羽春さんも、もし早めに来れるなら、一緒にどう?」
「え、あ……はい」
答えた声が少し震えた。
優しい誘いなのに、胸が痛い。
その痛みがどこからくるのか、もう分かっていた。
***
帰り道。
校舎の廊下に差し込む外灯の光が、窓ガラスに反射している。
外はすっかり暗く、夏の終わりを告げる虫の声が響いていた。
三人で歩く帰り道。
少し前を歩く孝太と楓。
少し後ろを歩く羽春。
たった数歩の距離なのに、
その間に見えない壁があるように感じる。
「楓、明日の分、ありがとうな」
「いえ、全然。……佐倉先輩も、寝不足にならないでくださいね」
その優しい声に、
羽春は一歩、足を止めた。
廊下のガラスに映る自分の顔。
笑っているようで、笑えていない。
“後輩”と“仲間”の間で、
どちらにもなりきれない自分が映っていた。
孝太が気づいて振り返る。
「羽春?」
「えっ、あ……はい!」
「大丈夫か? 疲れてる?」
「ちょっとぼーっとしてただけです」
「無理すんなよ」
優しい声。
それだけで涙が出そうになった。
でも、泣くわけにはいかない。
羽春は笑ってうなずいた。
「大丈夫です」
その瞬間、
楓がほんの少しだけ、寂しそうに目を伏せた。
誰にも気づかれない小さな仕草。
三人の影が、夜の光に溶けていく。
それぞれが誰かを想いながら、
それぞれが違う方向を見ていた。
***
家に帰って、羽春は机に座った。
文化祭のパンフレットを開き、ページの隅に指を置く。
「灯の中で」
今年の文化祭のテーマ。
笑顔で明るく、前を向く──そんな意味が込められているらしい。
だけど、羽春にとってそれは、
「灯の中で見えた、届かない光」みたいだった。
灯りがあればあるほど、影は濃くなる。
誰かの笑顔を照らすその光の中で、
自分だけが暗い場所に立っているような気がした。
——でも、
それでも好きなんだ。
そう思って、胸の奥に手を当てた。
その鼓動が、まるで“まだ終わらない”と告げているようで、
羽春はそっと目を閉じた。
窓の外では、街灯が静かに揺れていた。
その灯りの中で、
誰かの笑顔と、自分の涙が、
ゆっくりと滲んでいった。