君に届く春

放課後の体育館。
誰もいないコートに、ボールがひとつ、静かに転がっていた。
楓はそのボールを拾い上げて、そっと指先で撫でた。
革のざらつきと、夏の残り香。
それだけで胸の奥が少し苦しくなる。
——先輩、また来てるかな。
そう思って、無意識にバレーコートの方を見つめる。
夕焼けの光が差し込むその場所には、
やっぱり彼がいた。
佐倉孝太。
もう部活を引退したはずの先輩。
それでも、毎日のように体育館に顔を出して、後輩の練習を見ている。
バレーが好きなんだ、というのはみんなが知っていること。
でも楓だけは、
彼のその“好き”の中に、
ほんの少しの“未練”が混じっていることを感じていた。
だから、何も言えなかった。
「無理しないでください」なんて言葉は、
きっと届かない。
楓は小さく息を吐いて、タオルを手に歩き出す。
「先輩、汗、拭いてください」
孝太が顔を上げて笑う。
「悪いな、楓。助かる」
その笑顔が、好きだった。
ほんの少し、他の人には見せない優しさを含んだ笑顔。
でも、その瞬間、体育館のドアが開いた。
「お疲れ様です!」
元気な声。
バスケ部の練習を終えた羽春が入ってきた。
彼女の頬は汗に濡れていて、
光に照らされて、まるで夏の中の光みたいに眩しかった。
「……今日も頑張ってたな」
孝太が自然に言葉をこぼす。
その声があまりにも優しくて、
楓の手の中のタオルが少しだけ震えた。
「先輩、やっぱり羽春さんのこと、気になります?」
冗談っぽく言ったつもりだった。
でも、自分の声が思ったよりも掠れているのに気づいて、
焦って笑った。
孝太は少し驚いたように目を瞬かせ、
「……いや、そんなことは」
と言いながら、どこか遠くを見るように視線を外した。
その“否定”の仕方が、
何よりも答えだった。
***
委員会の準備のために、楓は廊下を歩いていた。
遠くで羽春の笑い声が聞こえる。
明るくて、素直で、まっすぐな笑い方。
——あの子、嫌いになれないんだよな。
嫉妬してる自分が、
どうしようもなく小さく感じる。
でも、それでも。
自分だって、先輩が好きだった。
優しい言葉をくれる時のあの表情も、
時々見せる寂しげな横顔も、
全部。
「楓、来てたんだ」
振り向くと、孝太が書類を手に立っていた。
「これ、明日の委員会で使うやつ。持ってきた」
「ありがとうございます。……ほんと、律儀ですよね」
「昔からこういうの放っとけなくてな」
「知ってます。
 だから……そういうとこ、好きなんですよ」
思わず出た言葉に、
空気が少し止まった。
孝太は小さく瞬きをして、
ほんの一瞬だけ笑った。
「……ありがとう」
その一言が、あまりにも優しくて、
でもあまりにも遠かった。
楓は笑顔を作った。
「はい。冗談ですけどね」
そう言って笑いながら、
心の中で何度も「冗談じゃない」と呟いた。
***
帰り道。
夕暮れが校舎を染めている。
窓から見えるグラウンドでは、
羽春がボールを追っていた。
その姿を見つめながら、楓は小さく呟く。
「羽春さん、きっとまっすぐに届くんだろうな」
その声は風に溶けて、
どこにも届かない。
楓は空を見上げた。
少しずつ夜の色が混じり始めた空。
——人を好きになるって、
 いつからこんなに苦しくなるんだろう。
そう思いながら、
彼女は歩き出した。
背中に残るのは、
夕焼けの残光と、
まだ消えない“好き”の痛み。